行事風景

時代を見分ける選択

梅雨明けし、いよいよ本格的な夏がやってきました。

 

春先、コロナウィルスの市中感染が始まったころ、「夏になって気温が上がればウィルスは終息に向かうだろう」と報道で聞いたことがあります。
現実には、現在、第2波とも第3派とも言われる感染状況です。

わたしたちは、自分に問い続けなければなりません。

「このことに、いったいどんな意味があるのだろうか。
神様はどのようなことをわたしたちに語りかけようとしていらっしゃるのか。
この現実の中、神様はどのように生きるようにとわたしたちを招かれているのだろうか。」

 

イエスはまた群衆にも仰せになった、
「あなた方は雲が西に出るのを見ると、すかさず『雨になる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
また南風が吹くと、『暑くなる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
偽善者たち、あなた方は大地や空の模様を見分けることを知っていながら、どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」。(ルカ11・54~56)

この部分は「時代を見分ける」というタイトルがついています。
いまのわたしたちにもスッと当てはまる教えかと思います。

 

コロナウィルスの感染拡大防止の対策について、評価が様々行われ(報道され)ています。
対策そのものであったり、リーダーの格付けであったり、合格点を出している(と報道されている)、または完全に成功している(と報道されている)国があるでしょうか。
見聞きする多くは、裁き、非難するものであると感じています。

つまり、わたしたちが現在情報として得ているのは、報道機関の取捨選択による「人の評価」によるところが大きいと言っても過言ではないのです。

メディアリテラシーの重要性は言うまでもなく、人の評価ではなく、自分で考えて選択することが大切です。

 

今日は、この時代を見分ける、今を見極めるために有益と思われるいくつかの本、文書をご紹介します。

まずは、つい先日出版された、カトリック中央協議会の『パンデミック後の選択』という本です。
教皇様がこのコロナ禍において語られたいくつかの説教、書簡をまとめたものとなっています。

 

 

感染者、医療従事者へ思いを寄せられているのはもちろんですが、わたしが目に留めたのは次の一文でした。

「普段の生活を取り戻したときには、だれもが人間らしい品位ある生活を送れるよう、必要な方法や手段を提供し、国民の共通善のために精力的に働く責任を負う政治家の皆さんを、力づけたいと思います。」

このような思いやりの言葉を見聞きしたことはありませんでした。
政治家、各国のリーダーへの思いやり。

5月のロザリオの月にあたり「すべての信者に送る手紙」として出された書簡に添えられたマリアへの祈りにも、次の一文があります。

「各国の指導者を支えてください。
知恵と配慮を惜しみない心をもって、
生活に必要な物にも事欠く人々を助け、
将来への展望と連帯の責任をもって、
社会的、経済的な対策を講じることができますように。」

 

このウィルスは消えてなくなることはないでしょう。
わたしたちがどのように生きていくのかを「自ら選択すること」 が必要です。
そして、この現状のために「自分に何ができるのか」についても選択することについて考えてみましょう。

「こうした努力では世界は変えられないだろう、と考えてはなりません。
そうした努力は気づかれないこともしばしばですが、目には見えずとも必ず広がるであろう善を呼び出すがゆえに、社会にとっては益となります」(ラウダート・シより)

以下、あとがきの最後の一文です。

「パンデミック後の社会が、ただ単にパンデミック前に戻ることではなく、弱い人、貧しい人にいっそう寄り添う新たな世界の構築を選択できるよう、教皇の発するメッセージが、カトリック教会にとどまらず、一人でも多くの人に届けられることを願ってやみません。」

https://www.cbcj.catholic.jp/publish/pandemic/

 

次にご紹介するのは、最近わたしがハマって読んでいる故ヘンリ・ナウエン神父様の「いま、ここに生きる」からの一説です。

神が問われることは、「あなたはいまの時代のしるしを、あなたが悔い改め、回心するように求めるしるしとして見分けていますか」ということです。
何よりも大切なことは、兄弟姉妹の味わっている非常な苦しみにあずかって、私たちがあらゆる思い上がり、また、あらゆる裁く態度や非難する態度から解放されて、イエスの心のような柔和で謙遜な心が与えられるよう心の底から求めているか、ということです。

 

3つ目は、教皇庁生命アカデミーから発表された、 『パンデミック時代における人間のコミュニティ:生命の復活についての季節外れの省察』という文書です。

少し難解な文章だったのですが、わたしなりに大事だと思った点をいくつか記してみます。

◆人間家族が現実に直面している本当の問題は、道徳的な、単に戦略的ではない、連帯の意味である。それを必要としている他者への責任も含んでいる。

◆Covid-19の現象は、単なる自然の出来事ではない。
 我々は自然環境への関係を再考するように要求されている。
 我々は支配者や君主としてではなく、地球に執事として居住する必要がある。

◆生命の脆弱性の悲惨な証明は、それが賜であるという我々の自覚も新たにする。

◆誰もが自らの役割を果たすよう要求されている。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/07/27/21006/


最後は、バチカン出版局から発表された、新型コロナウイルス危機をめぐるキリスト教的考察をテーマにした本『交わりと希望』です。

教皇様が序文で「パンデミック危機は、わたしたちの生活の中の幸福やキリスト教信仰の宝について考えさせ、この嵐の中で自分たちを支えるための根をどこに深く張るべきかを考察させた」と書いてあるそうです。

日本語訳が中央協議会から出るのが楽しみです。
(森山神父様、よろしくお願いいたします!)

 

祝「初ミサ」of 初ミサ

新司祭がその教会で初めて執り行うごミサを「初ミサ」と呼びますが、本当に初めてのごミサを久留米教会で上げてくださいました!

 

最初のごあいさつです。

「司祭に叙階されて4日目のわたしがミサをちゃんと捧げることができるのか?と不安に思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
神様がわたしを通してミサを行ってくださるのです。」

(船津司祭らしい、誠実なお話しぶりです!)

「叙階にあたり、多くの方からお手紙をいただきました。そのなかにはお会いしたことのない方からのものもありました。
全く知らない方からの本当の祈り、願いが込められたお手紙をいただきました。
『この手紙の目的は、あなた様に叙階のお祝いを申し上げるためです。
今日から司祭のための祈りを始めます』と書いてありました。この手紙はわたしにとって、宝です。」

 

 

 

 

 

宮﨑神父様が昨年イタリアで買ってきてくださったカリスを、久留米教会の信徒からの贈り物としてお渡ししました。

 

新司祭からの祝福は、全免償が与えられるとされています。

 

 

最後のごあいさつでは、こうおっしゃいました。

「神様の呼びかけに耳を澄まし、それに応えて生きていく。
わたしの司祭としての道もそう、皆さんひとりひとりもそうです。

あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。

10数年前にこの久留米教会から寺濱神父様が誕生したとき、『わたしの願いは、次の10年で新しい司祭がこの教会から生まれることです』とおっしゃっていました。
わたしも同じことを祈りたいと思います。」

 

イエスがご自身の貧しさで豊かにしてくださらなければ、司祭はもっとも貧しい者です。
イエスが友と呼んでくださらなければ、司祭はもっとも役に立たないしもべです。
ペトロにしたようにイエスが忍耐強く説いてくださらなければ、司祭はもっとも無知な者です。
よい羊飼いが羊の群れで強くしてくださらなければ、司祭はもっとも脆弱なキリスト者です。
私が聖職者でいるのは、神が私の小さに「目を留めてくださったからです」(ルカ1・48)
その小ささのなかに、私たちは喜びを見出します。
私たちの小ささのなかにある喜びを!
(教皇フランシスコの説教より)

 

幸せな喜びとお恵みに満ちた、この活気ある久留米教会をこれからもともに前に進め、新司祭のご活躍を祈りたいと思います。

 

船津亮太 司祭 叙階式

23日、久留米教会において、叙階式が執り行われ、船津司祭が誕生しました。

司祭叙階式は、一人の男性が「地に落ちて一粒の麦となる」緊迫した雰囲気であってほしいと思う、と来住神父さまがカトリック生活8月号の連載記事に書かれていました。

もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。

(ヨハネ12・24)

3月に予定されていた叙階式が延期となりました。

しかし、5月にはアベイヤ司教が着座され、お心遣いで久留米教会での開催となったという経緯は、わたしたち久留米教会の信徒にとっては大変光栄なことでした。

残念ながら招待者のみの参列ではありましたが、福岡教区のご尽力で初めて生中継され、まさに、厳粛でありながら、喜びに満ち溢れた叙階式でした。

今週末、25日(土)19時、26日(日)9時、11時、3回の主日のミサで船津司祭の初ミサが執り行われます。

 

 

 

最高の笑顔です。

亮太司祭の今後の歩みが愛と恵みに満たされるよう、祈りましょう。

 

 

「父になる」召命

19日のごミサは、6人の子どもたちの待ちに待った初聖体のお祝いでした。

 

 

 

 

6人中5人が男の子という、なんとも期待に胸が膨らむ(笑)初聖体の晴れの日のお祝いでした。

みんなでお揃いの、十字架の刺繍の入ったマスクを作ってもらったようで、晴れ晴れとした子どもたちの姿に、教会中が幸せと喜びに満ち溢れた、久しぶりに活気の戻った久留米教会でした。

 

ルカに書かれている放蕩息子のたとえ話は、福音書の中でも一般的によく知られたストーリーでしょう。

この物語は、次男坊に甘い父(よくある)、兄が弟より愛されておらず、弟よりも価値を認められていない、どうしようもない弟と妬む兄(あるある)、そういうことを言っているたとえ話ではありません。

父は2人の息子を比較していません。

父が2人の息子を愛していることは明らかで、それぞれの置かれた立場に合わせて愛を表しています。

弟を迎えた父は祝宴を催し、畑から戻った兄を迎えた父は弟の帰還をともに喜んでほしいと願います。

 

ヨハネの14章のタイトルは『父への道であるイエス』

わたしの父の家には、住むところがたくさんある。

わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、
戻ってきて、あなた方をわたしのもとへ迎えよう。
わたしのいる所に、
あなた方もいるようになるためである。
(ヨハネ14・2~3)

神の子とされたわたしたちには、ひとりひとりに特別な場所が与えられています。
比較、嫉妬、ライバル心、競争心を捨て、父の愛にゆだねることを暗示しているのが、この放蕩息子のたとえ話です。

真に憐れみ深い父性が生き生きと描かれているのです。

このたとえ話の前には、見失った羊となくした銀貨の話があり、この3つを合わせた15章のタイトルは『憐れみの三つの喩えの序』です。

嘆き
赦し
惜しみなく

この3つのキーワードが秘められています。

祈りの多くは嘆きであり、それを受け止めてくださる父

心からの絶えざる赦しを与えてくださる父

父は自分のために何も取っておかず、子どもたちのために自分自身を注ぎ出します。
何のためらいもなく自分を与え尽くします。

その善良さ、愛、赦し、ケア、喜び、憐れみに何の限界も設けない神の存在が暗示されています。

わたしたちもキリスト者として、この父性に倣うべきところが大きいと思います。

大変難しいことですが、イエス様をとおして表された父の憐れみ深さを、いつも心に刻んでおかなければなりません。

あなた方の父が憐れみ深いように、
あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)

これは、神の子となるための根本条件なのです。

 

いよいよです。

神様がわたしたちに新しいお父さんをお与えくださる日が近づいてきました。

およそ父と名づけられるすべての父性の源である天の父(エフェソ3・14~15)の代理人の一人として、わたしたちの船津新司祭の誕生を祝う日が迫ってきました!

召命とは、よく耕された相互愛という畑で熟す果実です。
忘れないでください、召命はひとりでに生まれるものではありませんし、ひとりでに育つものでもありません。
召命は神のみこころを起源とし、信仰心の土壌で、兄弟愛を体験するなかで芽吹きます。
(教皇フランシスコ 世界召命祈願の日メッセージより)

叙階式の模様は、YouTubeでライブ配信される予定です。(23日午後2時より)

準備に余念のない宮﨑神父様と久留米の信徒たちです!

 

 

詩編で祈る

12日の第一朗読と答唱詩編にハッとさせられました。

まことに、天から雨や雪が降れば、地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに、天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・10~11)

あなたは地を訪れて、潤わせ、それを大いに豊かにされました。
天の水路には水が満ちています。
あなたは彼らに麦を用意されました。
あなたはこのように大地を整えられました。
畝間を豊かに潤し、土塊をならし、夕立で大地を柔らかにし、
芽生えたものを祝福されました。
(詩編65・10~11)

恵みの雨を降らせてくださる神に感謝する祈りの詩編です。

今この時だからこそ、この詩編を祈りとして唱えることが必要だ、と感じました。

 

 

黙想会に参加すると、(安易な表現ですが)心も身体もデトックスされたような気持ちになります。

「さあ、静かなところへ行ってしばらく休みなさい。」
マルコ6.31

黙想の家を、英語ではRetreat House(リトリートハウス)といいます。
Retreatには「退く」と言う意味があります。

日常生活からひとまず退き、離れ、独りになって静かに祈りの時を持つ。
そして、こころに語りかける神のことばに耳を澄まします。
(カトリック福岡黙想の家 ホームページより抜粋)

 

「詩編で祈る」 というテーマでの黙想勉強会に参加しました。

詩編についてこれほど深く考えたのは初めての経験でしたし、詩編が「使える」ことに目からウロコでした!

聖書は神から人への語り掛けですが、唯一詩編だけは、人間が神に語りかけている言葉、詩です。

 

自分のなかに渦巻く様々な思い、怒り、嘆き、痛悔、あるいは信頼、感謝、賛美といった思いを、神様に向かって、詩編にのせて「注ぎ出す」ことで、神様との関係が循環し、生き生きと生きることが出来るのです。

人間のあらゆる思い、それらを偏らずに祈ることによって、自分の心という畑をまんべんなく深く耕し、肥沃なものにしていくことができるのです。


神様には何を言っても大丈夫なのです。

怒りに任せて、祈りかどうかもわからず、不安や不満をぶちまけることさえも受け止めていただけます。

 

詩編には「嘆きの詩編」「怒りの詩編」などと呼ばれている詩があります。

たとえば、あなたが今苦難を抱えていて嘆き悲しんでいるとしたら、その詩編(ex.102)に乗せて嘆き抜いてみるとよいでしょう。

嘆きの詩編102は、こう神に語りかけます。

 

不幸なものが心挫け、その憂いを主の前に訴える時の祈り。
主よ、わたしの祈りを聞き入れ、
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日に、あなたの顔を隠さず、
わたしに耳を傾け、わたしが叫び求める日に速やかに答えてください。
(1~3)

父が子を憐れむように、主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを想われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、その場所さえ知る由もない。
しかし、主の慈しみは主を畏れる者の上に、とこしえからとこしえに。
(13~17)

 

このポケットに入るサイズの祈りの本は、数年前の御復活祭の時にプレゼントでいただいたものです。

 

バッグに入れて持ち歩き、ふとした瞬間に開くだけでお祈りが出来るという優れものです!

 

嘆いて嘆いて、嘆きの底までたどり着いて、その底に足がついたら蹴り上げて上昇するのだ。
底までいかずに途中で上昇しようとすると、中途半端な気持ちのままに嘆きがくすぶり続ける。
嘆きたいときは、神に嘆き尽くすほうがよい。

黙想を指導してくださった神父様がおっしゃっていました。

詩編65の恵みの雨に感謝する詩は、この水害の時だからこそ、唱えなければならないと思うのです。
雨は本来、神からの大地への、わたしたちへの恵みなのです。
そのことを、災害時には忘れてしまいます。
雨を、恵みとして降らせてください。
被災された方々に一日も早く心の平安をお与えください。

そう祈りたいと思います。

 

祈りに求めるものは何でしょうか。

「安らぎ」が得られる祈りができることは、喜びでしょう。

ご自分のもとに来る者を「休ませて」くださると、イエスは言います。
キリストが疲れた者、重荷を負う者に与える「安らぎ」は、単なる心理的な慰めでも、施しでもありません。
それは、福音を知り、新しい人類の構築者となった、貧しい人たちの喜びです。
イエスご自身があたえる喜び、それが安らぎです。

(7/5 教皇フランシスコのお説教より)