行事風景
船津亮太神学生朗読奉仕者選任式
四旬節に入った3月5日、宮原司教の司式のもと、二人の助祭、神学生も奉仕者として駆けつけ、ペトロ船津亮太神学生の朗読奉仕者選任式が行われました。
式の中で名前を呼ばれた船津神学生は、前に進み出て、司教の訓話を受け、さらに聖書を手渡され、正式に朗読奉仕者として選任されました。司教は説教の中で、「神さまは、その民の中から、民のためによろこんで奉仕する人を求めておられる。日々聖書を読み、よきみ言葉の奉仕者となってください」と励まされました。また、船津神学生は、式後の挨拶の中で、「久留米に帰ってくる度に、この教会に守られていると感じる。3年間ここまでやってこられたのは、皆さんのお祈りに尽きる」と述べました。さらに選任にあたり以下ようにその思いが寄せられました。「朗読奉仕者として新たな一歩を始めるにあたり、これまでわたしとともに歩んできた一人ひとりのお顔が思い浮かんでいる。頼るべき親や家族と別れ、ひとり孤独の悲しみにうちひしがれる方。自分にはどうしようもない現実を前にただ泣き叫ぶしかない子。病の苦しみの中にあって生きる希望が見出せない人。子の命の危機にあってただ一心に祈りをささげる親。選任式でわたしは名前を呼ばれ『はい』と返事する。それはラテン語で“adsum”。『わたしはここにいます』。そのとき神はわたしを民の中から呼ばれ、みことばをゆだねられる。ここにいるわたしたちが神のことばによって生きる力を得るために、わたしはみことばを黙想し、それを生きる朗読奉仕者として一歩を踏み出す」と。式後は、信徒会館に場所を移して、なごやかに茶話会が催されました。
今村信徒発見150周年ミサ
この日に今村でカトリック信徒が発見されて150 年を迎える。記念ミサ(祝賀行事)に参列することが出来、感謝の気持ちで心高ぶるものがありました。記念ミサ司式は駐日教皇大使チェノットゥ大司教、宮原司教様、竹森主任司祭ら6名ほどの共同ミサで盛大に催されました。ミサ前に地元の大刀洗混声合唱団による宗教音楽で花を添えて下さいました。
長崎の大浦天主堂の信徒発見から2年後に、4名の浦上地区の信徒が商売人になりすまして会話する中で、宗教の話題に触れた時に同じ信仰に通じる点を発見されるお恵みをお互いに見出しました。
今村カトリック教会は長崎県内の国指定の教会群の設計者である鉄川与助氏の設計で最大級の建立物であります。私達も近郊の久留米市に在住していますが今村カトリック教会を全国に誇れる教会と自負しています。
ペトロ 浦
命の尊厳についての講演会
9時の主日ミサ後に生命山シュバイツアー寺(玉名市)の僧侶、古川龍樹氏による講演が行われた。古川龍樹氏は1947 年の福岡事件のような冤罪を訴える死刑囚の再審請求運動を、父であり僧侶である古川泰龍氏から引き継いで活動しておられる。講演では半世紀の歴史を熱情込めて話されていた。死刑となった人の名誉を回復するために粘り強く行動されている。寺の名は感銘を受けた方よりシュバイツアーの遺髪を贈られたことによる。
ベトナム語によるミサ
12時よりベトナム語によるミサが捧げられ、久留米地区及び福岡県内から約100名の青年が参加して交流を深めた。
司式は、茶山教会主任のドミニコ会司祭のピーター師によるものであった。福岡地区は浄水通教会にて月一回ベトナム語ミサがあげられており、今回はそのコミュニティが久留米地区のベトナム人にインターネットのフェイスブックなどを通じて呼びかけ、実現したものである。
ベトナム人の青年は20代前半の若者ばかりであり、就労研修として来日している人や、日本の大学に留学するために日本語学校に通っている方などがいた。3~5年のビザ期間中に就学や就労で学び、帰国後のキャリアに生かすようだ。
縁あって来日中の彼らに何かできることはないだろうか?ととりあえず笑顔で挨拶しようと思う。
幼児洗礼式
2月5日のミサの中で、2名の幼児洗礼式が行われました。
森山師の霊名のお祝い
1月15 日(日)のミサにて森山師の霊名スルピスのお祝いが行われた。森山師は今年叙階29 周年を迎える。今後の師の健康と司祭職の完遂を願い、霊的花束が贈られた。森山師からは若い人達への「司祭職への呼びかけ」があり、終始和やかなセレモニーとなった。
韓国より巡礼団ミサ
司祭を含め13名の信徒が来られ、韓国語によるミサが捧げられた。回心の祈りで胸を3度打つ伝統的なしぐさを見ることができた。日本人の方も数名参加し、国は違えども、ともに同じ信仰を共有し、ミサを祝う貴重な機会となった。
神の母マリア 成人のお祝い
6名の新成人が祝福された。新成人の中には学生として勉強している方や、社会人として働いている方がおられた。主任司祭から「現在興味のあることは何か」と質問されると、それぞれに大学で勉強していることや、将来のことについて語られていた。看護師など医療系の職を選んでいる方が数人おられ、それぞれに自分の道を堅実に歩んでおられる印象を受け、たのもしく心強い思いがした。ミサの中で新成人のこれからの歩みに神様の豊かな祝福があることをお祈りした。
ミサ後は信徒会館で茶話会を開き、おのおの懐かしい面々と顔を合わせ、昔の教会学校のときの思い出話や、近況などについて会話がはずみ、皆で新成人との交わりのひと時を楽しんだ。
夜半のミサ
クリスマスの夜半ミサが12 月24 日19 時より行われた。聖母幼稚園の園児達は聖歌を大きな声で歌い、教会学校の聖歌隊も幼子イエス像の前でお祝いの聖歌を捧げるなど、子ども達とともに主の降誕をお祝いする御ミサとなった。祭壇前に置かれた飼い葉桶のなかに、すやすやと眠るその幼子は、私たち一人ひとりに「幼子のようになる」ことがどんなことかを今一度思い起こさせるようであった。クリスマス以降も降誕節中は御子像が祭壇前に置かれており、御子様に向かって静かに黙想のひと時を過ごす信徒の姿もたびたび見られた。
タグレ枢機卿をお迎えして
11 月30 日、国際カリタス会長並びにマニラ大司教のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿が、久留米教会英語ミサ参加者の聖書分かち合いグループ(KPEMP-BSG)の創立15 周年をお祝いするため久留米教会を訪問された。12 時半頃に久留米教会に到着され、まるでスターの到着のような熱狂的な歓迎を受け、祭壇の前に跪いて会衆と一緒に祈られる姿は印象的だった。そして、13 時から講演会が始まって、その後英語で10 名ほどの司祭とともに主日ミサを司式された。
タグレ枢機卿の講演会は2 つの大きな部分に分けられている。第一部は、「あらゆる場でキリストの福音を告げ知らせる」というわたしたちの共通の使命で、第二部は、「神のいつくしみの良い知らせ(福音)をもたらす」ことであった。
第一部では、枢機卿は「洗礼を受けたすべてのキリスト者はみんな宣教師だ」と語り、イタリアで働くフィリピン人の出稼ぎ労働者たちのお話をされた。海外で働くフィリピン人たちにとって、家族のために働くことはもちろんのことだが、実はもう一つの使命が一人ひとりに与えられている。その使命は「自分の信仰を周りの人(特に現地の人々)に伝える」ことである。信仰を伝えるために絶対不可欠なこと、それはキリストを知り、キリストに出会い、キリストを体験していなければならない。福音では、イエスとサマリアの女の出会いがそのモデルとなっている。イエスと出会った後、イエスとのかかわりを深めるために、祈りの生活を育む必要がある。
また、キリスト者であることをキリストをまだ知らない人々に伝える必要がある。しかし、キリスト者って何?病院で働くある韓国人の女性が、いつも明るく、あふれる笑顔で昼食をとるフィリピン人の医師と看護師たちの姿を見て、興味を持った。彼らがキリスト者だと分かって、韓国人の女性は「キリスト者であることがこんなに幸せなら、わたしも信者になりたい」と言い、勉強をして、洗礼を受けた。現在、この女性は自分の所属教区の神学的相談役(lay theological consultant)として活躍している。
タグレ枢機卿はネーパル地震の後、国際カリタスの会長として、現地に赴き救急活動に参加された。食べ物がないかと待っていたとき、現地のネーパル人たちは自分で作曲した歌を歌っていた。「地震が起きたばかりで、食料が全くなくて、キリスト者の皆さんに歌しかあげられない」と現地の人々は言った。キリスト者が一人もいない現地の人たちにとって、キリスト者とは、「他人を愛してくれる人で、たとえ、キリスト者でない人も愛してくれる人」だと認識されていると、枢機卿は涙を流しながら、皆に分かち合ってくださった。
第二部では、神のいつくしみについてお話をなさった。「優しさがなければ、人間は人間らしさを失ってしまう」と述べ、国際カリタスで扱った人身売買の事例の一つについて語られた。「お金のために、他人を商品のように売ることができる人たちは、もはや人間ではない」と、厳しく指摘された。
家庭でも、夫婦間あるいは、親と子どもたちの間で、優しさが欠けていないかどうか、確かめる必要がある。家族の一人ひとりを課題として見るより、みんなが賜物だと認識すれば、家庭に優しさ、いつくしみなどを取り戻すことができる。
「他人に責められないために、人間は自分の強さを見せる」という考え方が多くの人々に普通だと思われるが、これは神の道ではない。実は、神のやさしさは十字架にある。旧約聖書では、神のいつくしみは「はらわたがちぎれるほど」の思いを表す言葉であり(MV 6)、子どもに対する母の本能的な愛情に例えられる。例えば、海外でベビーシッターの仕事をしているフィリピン人の母は、雇い主の子どもたちのお弁当を作りながら、フィリピンにいる自分の子どもたちのお弁当を誰が作っているだろうと考えている。だから、自分の子どもに対する愛をもって、雇い主の子どものお弁当を一所懸命このお母さんは作るだろう。彼女が自分の子どものことを忘れたとしても、神様はわたしたちのことを決して忘れることはない。神様のやさしさは、わたしたちの頑な心を和らげることができるでしょう。
最後に、「どうやって人のために宣教師になるだろう?」と枢機卿は問いかけた。同情だけでは十分ではない。「わたしは助けている貧しい人々の一人ひとりに、イエスの顔が見える」と言うマザー・テレサのように、全世界に特に、病気をしている、あるいはけがをしている人たちに、行いを通して、イエスの優しさといつくしみを示す必要がある。
(エリック神学生翻訳)