行事風景

『神の国』はいつ、どこに。

先週の納涼祭の記事を書いていて、『神の国』についてまた考えさせられました。

イエス様は30歳になるまで、ヨゼフ様のお仕事を手伝いながら暮らしておられました。
お生まれになった時には、「神の子、メシアだ」と有名だったはずなのに、です。

30歳になったころ、大衆を魅了した洗礼者ヨハネが現れました。
500年以上の空白ののちに現れた預言者でした。

彼は、民に罪の赦しを得るための回心を勧め、
「天の国は到来した」と述べ広めたのです。

多くの人が彼から洗礼を受け、その一人がイエス様でした。
その後、ヨハネは彼が起こした大衆運動の結果として逮捕されてしまいます。

イエス様にとって、ヨハネの逮捕は神の国が到来したしるしでした。

マルコの福音書には
「ヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤへ行き、神の福音を延べ伝えて、
『時は満ち、神の国は到来した。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
とあります。

イエス様はヨハネの宣教を継続したのです。

18日のごミサのルカの朗読にもありました。
「イエスのメッセージは人々に神の国を受け入れるか否かの決断を迫るので、必然的に分裂が起こる」

 

『神の国』とはなんなのでしょうか。

その当時の人々は神の国の到来を待っていました。
しかし、それぞれが違った考えでそれを待っていました。

神の国の到来とは、彼ら自身の努力によるものと考えられていました。

イエス様は全く反対に、
あなたがたの努力とは関係なく、神の国はもうそこにある、と言われました。

「神の国は目に見える形で来るのではない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」

ルカ17・20~21

フランシスコ会訳の聖書の解説には

神の国はイエスと弟子たちの働きによって、
すでに「あなた方の間」に現実に存在する、解釈できる。

と書かれています。

皆が待っていたものは、すでに民の間にあったけれど、
彼らはそれを知ることも、気づくこともなかったが、
イエス様はそれを感知していました。

そして、人々の間にあった神の国の隠された現存をこそ、
彼は自分の故郷のガリラヤの貧しく、除外された人々に述べ伝え、
啓示しようとしたのです。

 

『神の国』

わたしたち、現代のカトリック信者は、なにを待っているのでしょうか。


あなたにとっての神の国は実現していますか?

何を信じ、何を頼みに祈りますか?

わたしたちの間にも『神の国』は現存しているはずです。

この本を神父様から頂いて読んで、納涼祭での皆さんの平和な様子を見て、
そのことをずっと考えています。

 

 

記事中の青い文字は、この本からの引用です。 

 改めて、イエス様の声に耳を澄ませてみたいと思います。