行事風景

信仰を旅する。

わたしには受けなければならない洗礼がある。

それが成し遂げられるまでは、
わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。

ルカ12.50

とても心を打たれる箇所です。

 

 

「エルサレムはイエスにとって受難と死が与えられる壁です。
しかし神の栄光のためにイエスはその壁を引き受けます。
それは弟子たちに復活を示し、愛の知らせを延べ伝えるためです。」

8/18のごミサの聖書と典礼の最終ページに寄稿されていた、
松村神父様の文章の一部です。

働く(生きていく)上で様々な壁が与えられるけれど、
それを喜ん引き受けて行かねばならない、というようなお話でした。

 

わたしが初めて聖書を読んだ思春期の頃、強烈に印象に残り、
最初に聖書にマーカーを引いた箇所があります。

「狭い門から入りなさい。
 滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、
 そこから入る人は多い。
 しかし、命に至る門は何と狭く、その道は細いことか。
 そして、それを見出す人は少ない。」

 マタイ7.13~14

アンドレ・ジイドの「 狭き門」を買い求め、
この聖書の箇所を理解したいと思い、何度も読み返したりもしました。

 

 

当時のエルサレムの神殿には城壁が張り巡らされ、
いくつもの門がありました。

大きくて立派な門は、祭司や裕福なものだけが出入りに利用でき、
貧しい人や体の不自由な人は、小さな目立たない門から入ることを強いられていました。

現在の修復された城壁にも、いくつかの門があります。

 

今日も明日も、その次の日も、わたしは旅を続けなければならない。

預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ないからである。

ルカ13.33

狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

ルカ13.23

久留米教会の仲間たちとイスラエル巡礼の旅に来ています。

ここに来て強く感じています。信仰とは、人生の旅のような気がしてなりません。