行事風景

神はどこに?

もう、紫陽花の季節になりました。

わたしたちの新しい生活が進むにつれ、季節も神様が与えられたその時を知っていて、前に進んでいるのですね。

 

「神はどこにいるのか」という問いは、人類がこれまで繰り返し問うてきたように思います。

特に、困難な時代、戦争、大規模な自然災害の際には、神はどこに?とつい思うのが人間でしょう。

神がそれらの困難を引き起こしているのではない、我々人間の仕業、傲慢な生活の末に我々自身が引き起こしているのだ、ということについては以前ここに書きました。

今日は、違う視点から考えてみます。

 

モーセは荒野の山の麓で、燃える柴の中から神の声を聞きます。

「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」出エジプト3・10)

「わたしは必ずお前とともにいる」3・12)

「わたしは『ある』ものである」 3・14)

「これは永遠にわたしの名、これは代々にわたってわたしの呼び名である。」3・15)

 

古代の神々には、名前があるのが普通でした。

黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、などです。

ですからモーセは、あなたの名前を教えてください、と言ったのでしょう。

その答えが「わたしは『ある』もの」とは、なんと面白い答えでしょう。

(ちなみに、共同訳聖書では「私はいる、という者である。」)

英語の聖書では、 "I am who I am." となっています。

 

今回読んだ本で初めて知ったのですが、原典の古代ヘブライ語には過去形、現在形、未来形という考え方は存在しないのだそうです。

著者によると、「ある」の部分は「あるだろう」となるのだというのです。

「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」

と訳するのが妥当なのだと。

「ある」というなら、(さらに言えば、共同訳の「私はいる」ならば)神はすでに「存在している」ことになります。

ですが、「あるであろう」となると、「将来あるだろう」「いつか姿を現すだろう」、つまり「今はまだいない者」となるのです。

 

「わたしは今はいない。

 だが、いつか出てくるだろう。
 わたしがあろうと望んだ時に。

 あるであろう者、それがわたしの名」

 

わたしたちは神様を「存在」としてとらえようとするとき、「神はどこに?」と考えているのです。

神様は「時間」のなかに姿を現されるのだ、というのがこの著者の考え方です。

神様は自分の好きな時に、好きなところで、好きなようにわたしたちに触れてこられるのです。

人間が、好きな時に自分の都合で神様を引っ張り出してきて「どこに?」というから、「求める時にいない」などと思ってしまうのでしょう。

神様は「体験」する対象なのだ、と目からうろこでした。

 

ところで、 水を入れた容器の中心に強力な磁石を入れると水が左右へと分かれる現象が生じることを、『出エジプト記』のモーセにちなみモーゼ効果 (英語で Moses Effects) とよばれていると、ご存じでしたか!?

 

「神様がわたしの肩に触れてくださった」ような気がした、ガリラヤ湖畔を歩いた日を思い出しています。

 

 

去年は、夏にイスラエルに巡礼に行くことが出来、秋にはパパ様のごミサに与ることができ、神様の愛を全身に浴び続けた日々を過ごしていました。

今年は、教会に行くことができず、仲間たちと集まって教会の行事の準備をすることすら出来ない日々が続いています。

 

だからと言って、今はなかなか「神様を感じられない」なんてことはありません。

神様は、今日、今という時間にもわたしたちに触れてくださっているのを感じるようになりました。

教会に行けないから、ミサに与れないから、感覚が鋭くなっているのかも?!

 

「愛」にまつわる言葉

「愛」「愛する」という言葉は、口にすると少し気恥しい気がしますが、最近いくつかの「愛」にまつわる言葉を目にしたので、書いてみたいと思います。

5/17「世界広報の日」にあたっての教皇様のメッセージの一文です。

わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。

主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。

 

パパ様のメッセージはいつも愛に満ちていて、読んでいて涙が溢れそうになります。

 

1コリント13章は、パウロの愛の賛歌とでも言えるもので、とても好きな箇所です。

たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
(13・1~3)

「その時」引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
(13・13)

フランシスコ会訳聖書の解説にはこうあります。

「愛」はあらゆる「特別な恵み」(カリスマ)に本質的に伴うものであり、「愛」がなければ、賜物はそれを与えられて行使する人にとって無意味なものになる。
「愛」は「信仰」「希望」とともに人を神と直接に結び付けるが、この2者にさえも勝るものである。

 

昨日の聖書朗読はヨハネの福音書でした。

「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。」
(ヨハネ14・21)

さらに15章には、

父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
わたしの愛のうちに留まりなさい。
(15・9)

 

ドン・ボスコの言葉です。

「若者たちを愛するだけでは十分ではない。
若者たちに『愛されている』とわからせることが必要だ」

信頼関係を築き、若者の生きづらさを取り除くには「愛する」だけでは不十分で、それを分かってもらえる努力をしなければならない、ということだそうです。

 

竹下節子さんの本にはこうありました。

「愛する」とは愛する「相手をリスペクトすること」と、「相手のためにだけとってある時間や場所があること」とが組み合わさったものである。
誰かを愛するというのは、自分の生きる努力の中に、スケジュール帳の中に、心の中に、愛する人のためにだけ取り出せる「空き」があるということだ。
だから、「自分は愛されている」と子どもたちにわかってもらうには、言葉だけでは十分ではない。
子どもたちに必要とされるときに、いつも応える用意があることを伝えること、全身全霊を投入して世話したり本気でともに遊んだりすることが必要だ。

 

もう一人、竹下さんと同様にわたしが尊敬する若松英輔さんの言葉です。

神が私に愛を注いでくれるということは、
この世界全体の根源である神が、私自身を肯定してくれていることに他ならない。
そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、
自己を自分自身によって肯定することができる。
これが自己愛の出発点になる。

(これは、わたしの手帳に書き留めてあります。)

 

一方で、信仰についての心打たれる表現を見つけました。

1998年のヨハネ・パウロ2世の教書の中の言葉です。

「信仰と理性は、人間の精神が真理の黙想へと飛翔するための二つの翼である」

 

わたしの今日の結論は、パウロの言葉に行きつきます。

最後に残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。

 

最後にもう一文、世界広報の日のパパ様メッセージより。

聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。
その中心にはイエスがおられます。

イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。

是非、全文を読んでみてください。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/30/20698/

命のパン

ロザリオを手に、マリア様への祈りの毎日です。

ベツレヘムで買ったロザリオとマリア像です。

これがあるので、無敵の気分です。


そして、昨日の母の日の久留米教会の様子です。

 

ガリラヤ湖畔の小さな集落、タブハというところに、その名も『パンと魚の奇跡の教会』があります。

4つ全ての福音書に書かれている、5つのパンと2匹の魚で5000人の男性(女性と子どもはカウントされていないので、膨大な数の人々、という意味)の飢えを癒した奇跡を記念した教会です。

英語名は、Church of Multiplication of the Loaves and the Fishes

昨年の巡礼で訪れた際の写真です。(ピンボケですみません。。。) 

 

 

よく見ると、魚にはなく、パンにだけ十字架のしるしがあるのがご覧いただけると思います。

わたしが命のパンである。
わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は、もはや決して乾くことがない。
(ヨハネ6・35)

わたしは天から降ってきた、生けるパンである。
コのパンを食べる人は永遠に生きる。
(ヨハネ6・51)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。
(ヨハネ6・54)

生きておられる父がわたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
(ヨハネ6・57)

 

イエス様の教えがどんどん発展していくのが分かります。

イエス様の行ったパンと魚の奇跡については、「パンだけがイエス様との関係がある」というように昔の人々が受け取っていたことが、この床のモザイクに表されているのです。

 

 

命のパン

イエス様のことであり、御聖体を指していることは言うまでもありませんが、御聖体拝領ができる日は近いうちに来るでしょうか。

今日は、現実の御聖体拝領ができなくとも命のパンをいただき続けることが出来ること、そのご経験から得た祈りの仕方、今を生きるということ、について書かれた本をご紹介します。

その名も、 『5つのパンと2ひきの魚』

2002年にお亡くなりになった、ベトナム出身のトゥァン枢機卿

1975年に当時のベトナム共産党政権に不当に逮捕され、13年もの間、拘留、監禁、独房生活を送られました。

ですが、その間も決して希望を失わず、イエス様という命のパンを噛みしめながら耐え抜かれました。

その記録です。

揺るがないことば

通常(去年まで)のGWは、多くの方がお仕事、学校がお休みとなり、家族が帰省して賑やかだったことでしょう。

今年は、静かに新しい連休の過ごし方を楽しんでいるところです。

その一つが、最近よくご紹介しているインスタグラムの楽しみ方です。
世界中の美術館が、おしみなく素晴らしい作品をどんどん紹介してくれています。
バチカン美術館は、日々の聖書朗読の箇所に関連した作品をあげてくれています。
パパ様のアカウントでは毎日、その優しいお顔やお声に触れることが出来ます!

 

 

ヨハネ・パウロ2世の、1997年のワールドユースデイでのメッセージです。

「わたしたちは、激変する世界の中で生きています。
絶対と思われたイデオロギーも、終わりを迎えようとしています。
地球上の多くの国の国境線を引き直さなければなりません。
全世界の人々は、うろたえ、怯え、不安を感じています。
(マタイ9・36)
しかし、主のみ言葉は消え去ることはありません。
歴史を読み返すとき、各時代は絶えず栄枯盛衰を繰り返してきましたが、主のみ言葉は、揺らぐことなく輝いています。
(マタイ24・35)
教会の信仰は、唯一の救い主、主イエス・キリストの上に、昨日も、今日も、そしてこれからも永遠に築かれていくのです。」

 

1997年は、香港が中国に返還された年です。

また、イギリスのダイアナ妃、マザー・テレサがお亡くなりになった年でした。

 

群衆が牧者のいない羊のように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。
(マタイ9・36)

天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。
(マタイ24・35)

 

23年も前のお言葉ですが、たまたまこの箇所が紹介された本を読んでいて、とても驚きました。

まるで、昨日、教皇が世界中の信徒に向けて発せられたメッセージのようです。

その時代を反映した、その時々の場所と相手を想定して語られる歴代のパパ様のお言葉は、いつの時代も古びることなく、わたしたちの心を深く揺らします。

 

決して消えない、揺るがずに輝き続ける祈りの言葉、みなさんも自分の気に入ったものをいくつか心にお持ちだと思います。 

キリストによって、
キリストとともに、
キリストのうちに、
聖霊の交わりの中で、
全能の神、
父であるあなたに、

すべての誉れと栄光は、
世々にいたるまで。
アーメン

(書きながら思わず歌ってしまいました。)

 

どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
(ヨハネ17・21)

 

聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

わたしたちは、あなたにより頼みます。
あなたはわたしたちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。
いつくしみ深き、慈悲あふれる、優しきおとめマリアよ。

アーメン。
(パパ様のロザリオの月にあたっての書簡より)

 

祈りの言葉は、こうした揺るぎない聖書のことばを唱えるだけでいいのです。

祈る人ほど強い人はいない、と思うのです。
主はすべてを与えると約束してくださいました。
わたしたちが心を一つにして祈るとき、主はわたしたちのあいだにおられます。
(マタイ18・19~20)

心にエネルギーが湧いてくるような、元気な気分になる新しいお気に入りの祈りのことばを、聖なる読書や聖書のなかから見つけてみませんか。

 

我が家でも甥たちが帰省できないGWですが、ご近所に元気をお裾分けする意味で鯉のぼりを上げました。

 

 

マラナ・タ

教会は閉鎖されていますが、以前と同じように、事務の森さんと有志の方が聖堂を整えてくれています。

 

 

久留米教会の行事風景を、聖書の言葉と神父様、先輩方に教わったことを交えながら書いてきました。

ご紹介すべき行事がありません。
神父様や先輩方とお会いしてお話することもありません。

ですが、素敵な写真をこうして撮影して送ってくれる友だちがいます。
今週の記事についての感想を聞かせてくださる先輩方がいらっしゃいます。

 

外出自粛の生活の中で、読書の時間がたっぷりとあることは、お恵みのひとつでしょう。
そして、信仰に関する本を読んでいると聖書を開いて確認したくなります。
聖書を開き、以前、神父様に教わったことを書きこんでいる箇所に出会ったときの喜び!

「聖書に直接どんどん書きなさい。
 聖書が汚れるくらい書いていいのです。」

と、よくおっしゃっていました。

(故人ではありません!お元気です。
 東京で頑張っていらっしゃるようです!)

 

十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては愚かしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」と聖書に書き記されています。

事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。

ユダヤ人は徴を要求し、ギリシャ人は知恵を追求していますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。
つまり、わたしたちが宣べ伝えているのは、ユダヤ人には人をつまづかせること、異邦人には愚かなことですが、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵であるキリストなのです。
神の愚かさは人間より賢く、神の弱さは人間より強いからです。

(1コリント1・18~19、21~25)

 

この箇所には、 

ギリシャ人(=異邦人)は知性を求めているが、本当の知恵とは「十字架につけられたキリスト」である。

十字架につけられたイエスは、今もなおわたしたちとともに苦しんでくださっている。

と手書きしていました。

「十字架につけられたキリスト」の事件は、その意味に共鳴しない者にとっては、単なる愚かな出来事にすぎないのです。

一方で、この事件の悲劇的な出来事が勝利であると目を開かされた者にとっては「神の力」となり、それが生み出すのが「神の知恵」というわけです。

 

 

バチカン美術館のインスタグラムからの画像です。
(天使がおじさんっぽいのがちょっと怖いですが。。。)

この絵の説明にはこうあります。

「キリストだけが、沈まない光の夜明けを引き起こすことができるのです。
 なぜなら、彼は正義の太陽だからです。(Mal3・20)」

マラキ書の3章を開いてみました。

しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
(マラキ3・20)

正義の太陽( sun of justice )のところに、「メシア」と鉛筆で記入していました。

 

いま、切に願います。

マラナ・タ

神のもとにいらっしゃる「生けるキリスト」の再来を乞い願う言葉です。
いわゆる「再臨」信仰で、今の世の終わりと新しい世の到来を期待する、当時の黙示思想的信仰の表れだそうです。

黙示録に描かれているような状況が来るかは別として、「今の世」(=人間のおごりが招いた混沌)の終わりが近づき、「新しい世」(=世界が協調してより良い社会を築く時代)の到来が期待される現在は、ある意味では黙示思想の時代なのかもしれません。

今もなおわたしたちとともにいてくださる方、苦しんでくださっている方、わたしたちのすぐ近くに来てください。

迷い、苦しみ、正しくない方向へと進んでしまう弱いわたしたちのすぐ近くにいてください。

 

将来ための、今の時。

桜と菜の花の季節から、久留米はつつじが咲き誇る時がやってきました。

コヘレトのことばが頭をよぎります。

天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれてくるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
(コヘレト3・1~4)

 

今回は、2つの記事をご紹介したいと思います。

一つ目は、カトリック新聞に掲載されていた、京都の柳本神父様の記事の一部です。

以前の状態に戻ることが正しいことでしょうか。
確かに、感染症に対する恐れは今ほどありませんでした。
けれども、貧困や格差、紛争や圧政によっていのちの危険にさらされていた人も多くいます。
国境が封鎖される前から、追い返される難民の人たちがいます。
わたしたちがパンデミック(世界的大流行)の恐ろしさを感じる前から、彼らは恐怖と不安を押し付けられていたのです。

新型コロナウイルスの恐怖から一刻も早く解放されることを願うのは当然ですが、そのときに「元の平穏な生活」に戻るのではなく、「排除のない神の国」へと少しでも進めていかねばなりません。

http://www.cwjpn.com/cwjpn/article/index.htm

 

2つ目は、竹下節子さんのブログからの一部です。

ローマ・カトリックというのは、何しろ強大なローマ帝国の国教になったのだから、ありとあらゆる「変異」を遂げてきた。
もとは何しろ「神の子」が刑死するというスキャンダルから発して、信徒も迫害を受けそれこそ隠れて生き延びた。
ありとあらゆる逸脱があった。
それなのに、消滅しないで、奇跡的に時々、「キリストに倣う」という人々が出てきて、苦しい自浄を重ねて生き延びだ。
言ってみれば、何度も瀕死になりながら生還して、過ちへの抗体を獲得したわけだ。

フランシスコ教皇。
彼が一貫して警鐘を鳴らしている環境破壊と、エコロジー的回心の必要は、このコロナ危機と四旬節をまさに先取りしたものだ。

コロナ危機の「後」の世界はない。

コロナ危機は、まさに、私たちの逸脱と過ちの「後」の出来事だからだ。

これまでの私たちの驕りと全能感が「前」にあり、今の「危機」はその帰結なのだ。
新型コロナウィルスとの「戦い」に「勝利」したら「戦後」のより輝かしい復興があるのではない。
私たちには「今」を変える以外には未来はない。

https://spinou.exblog.jp/31001045/

 

ニューヨークに住む妹が、日本に緊急事態宣言が発令される前に言った言葉が心にささっています。

「この危機が収束した後、世界の様子は激変してると思う。」

世界の風景が大きく変わりました。
日本の街の様子も、変わりました。

ですが、変わらなければならないのは、わたしたち人間なのですね。


 

昨日の主日には、ヨハネの福音書が読まれました。

トマスが指を入れて見なければ信じない、と言った後、

「わたしの主、わたしの神よ」

と言った有名な箇所が第2朗読でした。
詩編からの引用です。

主よ、あなたは見ておられました。
黙っていないでください。
主よ、わたしから離れて遠くにいないでください。
わたしの神よ、わたしの主よ、奮い立ってください。
わたしの裁き、わたしの争いのために、目を覚ましてください。
(詩編35・22~23)

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ペテロたち使徒は、イエス様の死後、漁師や徴税人の仕事に戻ってはいません。

一度大きく変革した事態は、決して元に戻ることはないのです。

コロナ後に「元の平穏な日々が戻る」と信じるのではなく、近い将来にわたしたちが生きることになる「新しい世界」のために、「今わたしたちが変わる必要がある、自分たちの行動と意思で現状を変えることができる」と信じて、今を生きる時なのだと思います。 

同じ、ひとつの言葉を話す世界

聖書の中に、「様々な言葉で話す人々」「いくつもの言語」に触れて書かれた箇所があります。

今の世界の状況と重なって読めないでしょうか。

同じひとつのウィルスと闘っているはずなのに、バラバラの言語で話し、資源・物資を囲い込み、他国・他者を非難する。

エリザベス女王のスピーチに感動しました。
NY州のクオモ知事のリーダーシップに感心しています。
マスクを日本に送ってくれた中国の都市がありました。
コロナウィルス感染症の治療薬として期待されている日本製の薬であるアビガンを、希望する世界の国々にも利用してもらえるように増産が始まっています。

わたしたちは、バラバラの言語で話している場合でしょうか。

 

創世記10章には、世界には様々な民族、言語があることが述べられています。
バベルの塔の話しは、その言葉や民族の違いを超えて世界はもともと一つで、皆が通じ合い、コミュニティをつくっていた、というところから始まります。

同じ言語を話す人々が自分たちの名声を高めるとともに、人々が他の地に散逸するのを妨げるためにバベルの塔の建築を始めたと記されています。

『町を造り、頂が天に達する塔を建てよう。われわれの名を高め、われわれが全地に散らばらないようにしよう』。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。
そして主は仰せになった、
見よ、彼らはみな同じ言葉をもつ一つの民である。これは彼らの業の初めにすぎない。

これからも彼らが行おうと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。
さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
(創世記11・4~7)

 

今こそ、全地の面に散って生活しているわたしたちが、そして世界が、「同じ言語を話す人々」であるべきではないかと感じます。

聖霊降臨の場面を思い出します。

この場面は、「自分の尺度で神をつくらず、神の言葉に忠実に従い、聖霊で満たされれば、意思の疎通が実現し民族や個人の一致が可能であることを教えている」と書かれた故 小平神父様の本(聖書散歩)を読みました。

「話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、どうしてわたしたちは、めいめい生まれ故郷の言葉を耳にしているのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア人、メディア人、エラム人もいれば、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリギアとパンフィリア、エジプトとキレネに近いリビア地方などに住む者もいるし、また、滞在中のローマ人や、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。
それにクレタ人やアラビア人もいるのだが、わたしたちはそれぞれ自分たちの国の言葉で、あの人たちが神の偉大な業を語るのを聞こうとは」。
(使徒2・7~11)

ウィルスは、世界中、文字通りくまなく蔓延してしまっています。
それぞれが自分たちの国の言葉で話しています。
医療体制も対策もさまざまです。

それでも願いは同じ、同じことを目指しています。

感染者の回復
医療従事者の負担軽減
この事態の収束

今こそ、もう一度私たちが人類共通のことばを構築する必要があるのではないでしょうか。
つまり、批判ではなく、互いに理解しあい、世界が協力することが今こそ必要なのです。

「わたしはいつも目の前に主を見ていました。
主がわたしの右にいてくださるから、
わたしは動揺することがない。
それ故、わたしの心は楽しみ、
わたしの舌は喜びに溢れた。
わたしの体もまた希望のうちに憩う。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨ておかず、
あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、
み前にあって、わたしを喜びで満たしてくださる」。
(使徒2・25~28)

 

危機的な中でありながらも、世界中の人が同じことを願うというこの状況のなか迎えたご復活の日でした。
ともに祈り続けましょう。

Stay home.

 

受難の主日

久留米教会は美しい。
久しぶりに訪れてみて、その威厳に満ちた佇まいを見て心からそう思いました。

 

5日日曜日は受難の主日(枝の主日)、イエス様のエルサレム入場を記念する日でした。

『集会祈願』
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。

 

久留米教会は、平日の午後のみ、皆さんの祈りの場として開放されています。
聖書と典礼も、4月分が置かれています。

 

以下、教皇フランシスコ 2020年3月27日新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての「特別な祈りの時」でのことば(ローマと全世界へ)から抜粋しています。

この四旬節、あなたの差し迫った呼びかけが聞こえます。
「回心せよ」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2・12)。
主はこの試練の時を選びの時とするようわたしたちに求めておられます。
それはあなたの裁きの時ではなく、わたしたちの判断の時です。
何が重要で、何が一過性であるかを識別し、必要なものとそうでないものを見分ける時です。
人生が向かう方向を、あなたと他者に向けて定め直すときです。

主はわたしたちに呼びかけておられます。
この嵐の中で目覚めるよう、イエスはわたしたちに招いておられます。
そして何もかもが難破しそうに思える今このときに、堅固さと支えと意味を与えることのできる連帯と希望を促すよう呼びかけておられます。


「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、岩のように固いペトロの信仰を物語るこの場で、今夜わたしは皆さんを、嵐の海の星であり民の救いであるマリアの取り次ぎのもとに、主にゆだねたいと思います。
ローマと世界を抱きしめるこの広場から、神の祝福が皆さんに、なぐさめに満ちた抱擁として注がれますように。

主よ、世界を祝福してください。
人々のからだに健康をもたらし、心を慰めてください。
恐れてはいけないと呼びかけてください。
けれども、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは恐れてしまいます。
それでも主よ、どうか嵐のなすがままに、わたしたちを放っておかないでください。

もう一度「恐れることはない」(マタイ28・5)とおっしゃってください。
そうすれば、わたしたちはペトロとともに、「思い煩いを、何もかも神にお任せします。
神が、わたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5・7参照)。

 

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教会でミサに与れる日がいつまた訪れるのか分かりません。

ですが、祈りはどこででも、いつでもできます。

わたしたちは、祈りの力を信じています。

福岡教区では聖週間の過ごし方として、次の祈り方を薦めています。

新型コロナウィルス感染の終息と、これに苦しむ人々への慰め、そして主が自らのもとへ呼び寄せられた人々の永遠の救いを全能の神に祈願する人は、
ロザリオ、十字架の道行き、聖体訪問、聖体礼拝、最低30分の聖なる読書のうちのいずれかを行い、神への信仰と隣人へのいつくしみと愛をもって、次の祈りを唱える。

- 信仰宣言
- 主の祈り
- アヴェ・マリアの祈り

 

心をこめてわたしに立ち返れ。
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、
お前たちの神、主に立ち返れ。
ヨエル2・12~13(フランシスコ会訳)

 

聖週間の過ごし方とお願い

聖週間は、以下の通り、非公開でミサが捧げられます。

信徒はミサに与ることは出来ませんが、同じ時間に各家庭にて心を合わせてお祈りください。

 

4月 5日(日)枝の主日 6:30

4月 9日(木)聖木曜日  19:00

4月10日(金)聖金曜日(大斎・小斎)19:00

4月11日(土)聖土曜日 19:00

4月12日(日)復活の主日  6:30

 

福岡司教区内で、公開のミサはすべて中止となっております。

世界中で、信徒が教会でのミサに与れない現状であるという現実についても思いを馳せ、ともに祈りましょう。


カトリック久留米教会

信仰を持つという強さ

ドイツのメルケル首相の16の講演とインタビューをまとめた一冊の本があります。

『わたしの信仰 キリスト者として行動する』
という素晴らしいタイトルがついています。

 

この本は、彼女のキリスト者としての信念を根底に置いた力強い指導力を垣間見ることができます。

現在、わたしたちは困難な時代の中にあると言えるのではないでしょうか。
そんなときに、メルケル首相のこの本を読んで、力づけられました。


「紀元前5世紀前半、イスラエルの歴史においては困難な時代でした。
でも、イスラエルとユダヤ民族の歴史において「困難」でなかったときがあるでしょうか。
何千年にもわたるイスラエルの歴史は、大きな苦しみの道でしかなかったようにも読めます。
平和で幸せな時期もごくわずかに混じっていますが、ほとんどは苦難と痛みと悲劇の連続のようでした。

ユダヤ人の何千年もの歴史のなかで、彼らの希望と生命力の強さを目の当たりにするならば、大いに畏敬の念に襲われるでしょう。
この民族は常に、神が歴史の本来の主であるという信仰の掟を守り続けたのです。

この世界が直面する脅威や不安、破滅の淵を目にして、日ごとにおかしくならずにいられるでしょうか。」

 

2020年の春、まさに世界がそのさ中にあります。

お前たちは、『神に奉仕するのはむなしいことだ』と言う。
『その戒めを守ったからといって、
万軍の主の前に慎んで歩んだからといって、何の益があるだろう。
(マラキ3・14)

 

人生の方向や価値観を見失いそうな深刻な危機のなかで、現代のわたしたちにとってもこのマラキの問いは縁のないものではありません。

メルケル首相は、マラキの関心は、神を思い出させることにあった、と言います。
方向を見失って分裂した社会において、神を想起するように促し、
よき人生の支えであり最終的に人生を決めるものでもある、人間の存在理由を考えるように呼び掛けたのだ、と。

しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、
正義の太陽が輝き、その翼には癒やしがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)

 

彼女の政治家としての信念は、キリスト教的な人間観に基づいています。

あらゆる人(ドイツ人だけではなく)の尊厳を守ろうとし、「被造物」に対する責任を全うしようとする姿勢。
次世代の繁栄に配慮し、スピードを増していく社会変化に取り残される人のないよう気を配り、高齢化社会への努力を続ける誠実さ。

政治家がキリスト教の信仰に基づいて行動する、というのは日本人には違和感があるかもしれませんが、現代の困難に立ち向かうためには、彼女のような確固たる信仰、ぶれない信念があることは最大の強みなのかもしれません。

この状況を、イスラエルの歴史と重ねるのは強引だとわかっています。

それでも、どうしても感じるのです。
希望と生命力の強さは、信仰というゆるぎない信念からくるのだ、と。

日本にいると、いえ、久留米で生活していると、この今の、恐怖に飲み込まれそうな現実から遠い世界に生きているようにも思えます。
ニューヨークとカリフォルニアに住んでいる知り合いは、不自由な生活の中、不安な日々を過ごしています。

強い信仰心があっても、この危機から逃れられるわけではありません。

今こそ、神様への信頼を見失わないように、心を鍛えるときでしょう。

 

パパ様は3/20のビデオメッセージで、こうおっしゃっていました。(意訳しています)

「イースターを前に告解したくても、教会に行けない、神父はどこに?
 家から出れないのにどうすれば?

 そういう人の声を聞きます。

 いまこそ、神様と直接向き合いなさい。」