カテゴリ:聖書
「今日」という日について
先週は司教館の青木神父様、昨日はジュゼッペ神父様がごミサに来てくださいました。
毎週違った神父様のお話を聞くことができる、というのも贅沢なものです。
先週のごミサと今週のごミサが違うものであるように、
昨日と今日は、まったく別のものです。
以前ある神父様が、遠方の町の教会にミサに呼ばれ高速道路で帰る際についうとうとしてしまった、というお話をされました。
「片道2時間ほどかかる道中、睡魔に襲われ、高速道路の壁に激突してしまいまいた。
幸い、前後に他の車はおらず、自分のケガも大したことはなかったけれど、
さっき司式した今日のミサが自分の司祭生活の最後のミサになっていたのかもしれない。
心を込めて務めただろうか。
次からは、毎回『今日のミサが人生最後』と思って務めよう、と心に誓った。」
今日、という日は今この瞬間のことでもあります。
24時間という時間軸ではなく、神様を感じたそのときが、今日となるのです。
御ひとり子は人となられ、
きょう神殿に捧げられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。
昨日の集会祈願のことばを聞いて
パパ様が「キリストは生きている」とおっしゃっている意味がよくわかりました。
今日、ダビデのまちに救い主が生まれた
今日、この家に救いが訪れた
今日、あなたは楽園にいる
これらの「今日」は、単にそのことが起きた日を指すと読むのではなく、いつでも起こりえる「今日」と考えられます。
社会的に弱い立場の人を受け入れたとき
人の嫌がる仕事を喜んで引き受けたとき
自分の罪を悔い改め心から神に祈るとき
他者のために自分を犠牲にして働くとき
家族友人と心を一つに神を賛美するとき
そのとき、それがイエス様が生まれた「今日」となり、
救いが訪れる「今日」、イエス様とともに楽園にいる「今日」となりえるのです。
『われらの日用の糧を、こんにちわれらに与えたまえ』
マタイ6・11では「今日与えてください」、
ルカ11・3では「毎日与えてください」となっています。
マタイ福音書では、きょう一日神の恵みによって生きるという幸せを願い求めており、
ルカ福音書では、神の恵みが永遠に続くことを願い求められていると理解できるそうです。
パパ様は先週の一般謁見で、山上の垂訓に関するお話しをされました。
「メッセージは弟子たちに対するものであったが、その背後には群衆の姿があったように、
これはすなわち全人類に向けたものであった。」
弟子たちに向けて教えられたその2000年前のある日は、
全世界のわたしたちに向けて語られた現代のある日でもあるのです。
事実、その教えは、聖書を開いて読んだその日、そのときにわたしたちに語りかけてきませんか?
朝起きて一番に祈るとき
「今日も一日よろしくお願いします」と唱えます。
寝る前に祈るとき
「今日も一日ありがとうございました」とつぶやきます。
わたしたちの人生は「今日」という日の積み重ねであり、明日が与えられる保証はありません。
今日、わたしたちのところにイエス様がお生まれになりますように。
今日、救いが訪れますように。
今日、楽園にいるお恵みが与えられますように。
新しく生まれる信仰
あけましておめでとうございます。
そして、主の公現の主日、おめでとうございます。
イザヤ書はわたしの好きな聖書です。
昨日の朗読は、60章1~6の美しい箇所が読まれました。
立ち上がれ、光を放て。
まことに、お前の光がやって来る。
主の栄光がお前の上に輝き上る。
まことに、見よ、
闇が地を、暗黒が諸国の民を覆うが、
お前の上には主が輝き上り、
その栄光がお前の上に現れる。
らくだの大群、
ミディアンとエファの若いらくだが、
お前の町を埋め尽くす。
これらはみなシェバから来て、
黄金と乳香を携え、
主に対する賛美を公に告げる。
ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」
神の栄光がキリストにおいて現れ、
すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現の祭日(エピファニア)は、
4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日なのだそうです。
昨年はどのような年だったでしょうか。
今年はどのような一年にしたいとお考えでしょうか。
「立ち上がれ、光を放て」
主の栄光を受けているわたしたち信徒の役割は、
周囲に光を放つことではないか、とわたしは以前から考えていました。
子どもが親や周囲の大人の言動に影響を受けるように、
わたしたちも、自分の周囲にいる人々に良い影響を、
信仰によって得たお恵みを与える存在であることが必要ではないでしょうか。
わたしはこの福音のための奉仕者となりました。
神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった
恵みとしての賜物に則してのことです。
聖なる人々のうちで最も小さな者であるこのわたしに、
このような恵みが与えられました。
すなわち、キリストの測り知れない豊かさを福音として異邦人に告げ知らせ、
また、すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められてきた神秘が、
実現するというのはどういうことであるかを、
すべての人々に明らかにするという恵みです。
エフェソ3・7~9
常々、宮﨑神父様がおっしゃるように、もっと聖書に親しむことも必要なことだと思います。
聖書には全てのこと、人生に必要なことは全部書いてあります。
2020年という新しい年が始まりました。
信仰を新たに生まれ変わらせるチャンスです。
去年出来なかったことを実行するチャンスです。
教会から遠ざかってしまっているとしたら、
月に一度だけでもごミサに与ろうと決意するチャンスです。
日曜日、ごミサから帰ったら、その日の朗読の個所を聖書を開いて読み返す、
という良い習慣を身に着けるチャンスです。
今年も素晴らしい一年にしましょう。
パウロの手紙
久留米教会のマリア様はとても良い香りがします。
10月のロザリオの月は金木犀の香りがするマリア様です。
20日の第一朗読はテモテへの手紙でした。
聖書は、あなたに知恵を与え、キリスト・イエスに基づく信仰によって、あなたを救いに導くことができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。
2テモテ3・15~16
この「聖書」とは、もちろん旧約聖書を指し、直訳では「聖なる文字」を意味しているそうです。
わたしたちが読んでいる聖書に、なぜ特定の人々に向けて出された『手紙』が収められているのだろう?と思ったことはありませんか。
新約聖書には、”パウロの手紙”とされる文書が13通あります。
実際にパウロが書いたと考えられているのはそのうち7通だそうです。
(テモテについては、パウロ書簡の研究において最も議論されている問題の一つ)
これらの手紙は、地中海のいろいろな都市に建てられた教会の特定の人々に宛てて書かれ、いくつかの教会で回覧されることを意図して書かれたそうです。
イエス様の十字架と復活についてのパウロの信仰告白、宣教の情熱、願いや祈り、課題とその解決の勧めなどがその内容です。
一方、6通の手紙は、名前も知られない伝道者たちが書きました。
当時、一定の権威を持って人々に知られていた人の名前を使って大切なことを書く、ということは珍しいことではなかったそうです。
では、なぜ初期のキリスト者たちはこれらの手紙を大切に伝え、残したのでしょうか。
いくつかの理由が考えられているようですが、なるほど!と思ったのは大きく次の2点です。
① 民族、出自、階級、性別を超えて、またユダヤ教の律法にとらわれずに、
イエス様の十字架と復活の福音がすべての人に救いとして与えられている、
と語るパウロの言葉のもつ大きな意味と励ましの重要性。
② エルサレム教会の指導者や様々な伝道者から「正当な使徒」ではないと批判されながらも、
パウロが地中海世界の諸教会のなかで一定の権威を持つ伝道者とみられるようになっていたから。
当時は今と違い印刷技術もなく、高価な紙や羊皮紙に手紙を書きました。
そして、人々は丁寧に書き写してコピーを作っていました。
つまり、いかにパウロの手紙が重要な教えとして認められていたか、そしてパウロが評価されていたかが分かります。
そして、パウロの名を借りた6通の手紙が書かれた時代は80~120年頃であり、使徒たちも第一世代の主要な伝道者や指導者たちも亡くなり、キリスト者迫害の時代でした。
教会の強化を図りながら、福音を途絶えなく宣べ伝えていく必要性に駆られていたのです。
その中でも、ヘブライ人への手紙は特異な重要性を感じます。
著者が誰で、宛て先は誰で、どの教会への手紙なのか一切書かれておらず、迫害や試練の中で、信仰を持って生きることに疲れた人々への慰めと励ましのメッセージが込めらています。
以前も書きましたが、わたしはこのヘブライ人への手紙がとても好きで、たくさん線を引いたり書き込みをしています。
霊の父は、わたしたちの益のために訓練なさるのです。
楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われますが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。
ですから、あなた方はなえた手と、弱った膝をまっすぐにしなさい。
12・10~12
この本からの記事です。
とてもお勧めです!
塩の契約
昨日、10/13はジュゼッペ神父様の38歳(自称) のお誕生日でした!
そして、宮﨑神父様の叙階40周年の記念日でもあるという、とても大切な日でした!
そして、全勝で8強入り、おめでとうございます‼︎
おめでとうございます‼︎
宮﨑神父様のお祝いのために、東京から10人くらいの信者さんが駆けつけて来られていました。
話は変わりますが(宮﨑神父さま風)、食欲の!
いえ、味覚の秋です!!
塩、お料理には欠かせませんね。
わたしはコーシャーソルトを使っています。
ユダヤ教における食事に関する決まり(食事規定)である「カシュルート」に沿った食品をコーシェルと言います。
(英語ではコーシャー)
コーシャーソルトは精製塩ではなく、化学物質が含まれていない自然塩で、ミネラルが豊富、まろやかな味わいです。
とにかく、しょっぱくなくて、お肉が柔らかくなるし、スープの味付けにも最適です。
聖書には、たくさん「塩」についての記述があります。
旧約聖書だけでも41か所あるそうです。
(ちなみに、わたしは「塩対応」という言葉は好きではありません。。。)
創世記19章のソドムとゴモラの滅亡に関連した話では、ロトとその家族は神によって救われ、逃げる途中は振り返るなと神に言われたのにロトの妻は振り返ったために塩柱にされました。
すべての献げ物を、塩で味付けしなければならない。
お前の穀物の供え物にお前の神の契約の塩を欠いてはならない。
お前の献げ物にはすべて塩を添えてささげなければならない。
レビ記2・13
わたしはイスラエルの子らが主にささげる聖なる献納物すべてを、お前と、ともにいるお前の息子たちや娘たちに、永久に受けるべき分として与える。
これは主の前でお前とお前の子孫に対する永遠の塩の契約である。
民数記18・19
塩そのものは腐りません。
フランシスコ会訳の聖書の注釈には「塩が持つ防腐の機能から、浄化や保存作用のあるものと考えられ、会食に用いられる塩は解くことのできない友情の徴とされた。」とあります。
さらには、その性質は、神とその民との間に交わされた不変の契約を表すのに最適な象徴なのです。
一方で、新約聖書には6か所、塩に関する記述があります。
一番有名なのは、マタイ5・13でしょう。
あなたがたは、地の塩です。
もし塩がその持ち味を失ったなら、どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。
もはやその塩は何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである。
イエス様がこの話をされたのは、ユダヤ人に対してです。
彼らはそれまで、神の命令はレビ記、民数記、申命記に記されている、という教えを厳格に守って生きていたので、おそらく、先ほど書いた「塩の契約」のことをイメージしたはずです。
塩は善い物(ルカ14・34)です。
わたしたちは、地の塩、世の光(マタイ5・13)であり続け、自分の中に塩を持ち互いに平和を保つ(マルコ9・50)ことができるよう、心がけていきましょう。
聖書、面白い!!
いちじくの実、オリーブの木
マタイとマルコの福音書にある「実のないいちじくの木」の例え話をご存じでしょう。
イエス様が、道端のいちじくの木に葉のほかには何も見当たらなかったので
呪って「今後、永遠にお前は実を結ばないように」と仰せになると枯れてしまった、
というお話です。
ルカの喩えでは、
「3年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。」
とまで言われています。
以前、聖書の勉強会で、
「これは、神殿そのものに仕えている不毛な人々への警告と
イスラエルの宗教的不毛の暗示です」
と教わりました。
今回イスラエルに行った時にガイドをしてくださった牧師さん(↑写真の、立ってお話されている方)によると、
「いちじくの木は、葉が茂っているということは同時に実もなっているもの。
その木に葉しかついていないということは、
実りのないうわべだけの偽善者のようなもの、ということなのです。」
とのこと。
(↑写真は、ゲッセマネの園の立派な年代物のオリーブの木です!)
イスラエルをオリーブの木に喩えられている箇所も多くあります。
エレミヤ書11・16では
主はかつてお前を、
「素晴らしい実のなる、美しく生い茂るオリーブの木」と名付けられた。
・ぶどう園、ぶどう畑、ぶどうの木
=旧約時代のイスラエル(ユダヤ人)
・いちじくの木
=イエス様の時代のイスラエル(ユダヤ人)
・オリーブの木
=将来の患難時代のイスラエル(ユダヤ人)
という見方ができる箇所もあります。
イスラエルは、死海の西側のユダの荒野と対照的にガリラヤ湖やヨルダン川流域は緑豊かで、
お野菜と果物がとても美味しい国です。
ぶどう(ワイン)、いちじく、オリーブオイル、
これらは毎食わたしたちを楽しませてくれました。
当然、イエス様の時代も、こうしたものを楽しむのが日常だったので、
喩えとして大衆にわかりやすく話す際に多用されたのでしょう。
根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。
思いあがってはなりません。
むしろ、恐れなさい。
神が自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、
あなたをも惜しまれないでしょう。
ここに神の慈しみときびしさがあります。
ローマ人への手紙11・16~22
わたしたちキリスト者(野生のオリーブ)は
ユダヤ教徒(元の木の根)であったイエス様の新しい教えを受け取っています。
「思いあがってはなりません」
パウロの厳しい愛の言葉ですね。