カテゴリ:秘跡
「父になる」召命
19日のごミサは、6人の子どもたちの待ちに待った初聖体のお祝いでした。
6人中5人が男の子という、なんとも期待に胸が膨らむ(笑)初聖体の晴れの日のお祝いでした。
みんなでお揃いの、十字架の刺繍の入ったマスクを作ってもらったようで、晴れ晴れとした子どもたちの姿に、教会中が幸せと喜びに満ち溢れた、久しぶりに活気の戻った久留米教会でした。
ルカに書かれている放蕩息子のたとえ話は、福音書の中でも一般的によく知られたストーリーでしょう。
この物語は、次男坊に甘い父(よくある)、兄が弟より愛されておらず、弟よりも価値を認められていない、どうしようもない弟と妬む兄(あるある)、そういうことを言っているたとえ話ではありません。
父は2人の息子を比較していません。
父が2人の息子を愛していることは明らかで、それぞれの置かれた立場に合わせて愛を表しています。
弟を迎えた父は祝宴を催し、畑から戻った兄を迎えた父は弟の帰還をともに喜んでほしいと願います。
ヨハネの14章のタイトルは『父への道であるイエス』
わたしの父の家には、住むところがたくさんある。
わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、
戻ってきて、あなた方をわたしのもとへ迎えよう。
わたしのいる所に、
あなた方もいるようになるためである。
(ヨハネ14・2~3)
神の子とされたわたしたちには、ひとりひとりに特別な場所が与えられています。
比較、嫉妬、ライバル心、競争心を捨て、父の愛にゆだねることを暗示しているのが、この放蕩息子のたとえ話です。
真に憐れみ深い父性が生き生きと描かれているのです。
このたとえ話の前には、見失った羊となくした銀貨の話があり、この3つを合わせた15章のタイトルは『憐れみの三つの喩えの序』です。
嘆き
赦し
惜しみなく
この3つのキーワードが秘められています。
祈りの多くは嘆きであり、それを受け止めてくださる父
心からの絶えざる赦しを与えてくださる父
父は自分のために何も取っておかず、子どもたちのために自分自身を注ぎ出します。
何のためらいもなく自分を与え尽くします。
その善良さ、愛、赦し、ケア、喜び、憐れみに何の限界も設けない神の存在が暗示されています。
わたしたちもキリスト者として、この父性に倣うべきところが大きいと思います。
大変難しいことですが、イエス様をとおして表された父の憐れみ深さを、いつも心に刻んでおかなければなりません。
あなた方の父が憐れみ深いように、
あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)
これは、神の子となるための根本条件なのです。
いよいよです。
神様がわたしたちに新しいお父さんをお与えくださる日が近づいてきました。
およそ父と名づけられるすべての父性の源である天の父(エフェソ3・14~15)の代理人の一人として、わたしたちの船津新司祭の誕生を祝う日が迫ってきました!
召命とは、よく耕された相互愛という畑で熟す果実です。
忘れないでください、召命はひとりでに生まれるものではありませんし、ひとりでに育つものでもありません。
召命は神のみこころを起源とし、信仰心の土壌で、兄弟愛を体験するなかで芽吹きます。
(教皇フランシスコ 世界召命祈願の日メッセージより)
叙階式の模様は、YouTubeでライブ配信される予定です。(23日午後2時より)
準備に余念のない宮﨑神父様と久留米の信徒たちです!
死者とのつながり
14日のミサでの第一朗読は申命記からでした。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
(申命記8・14)
自分たちが他国で奴隷の身であったこと、苦難に耐えて生きてきたことを決して忘れるな。
だから、在留する他国の人、やもめや孤児を虐げてはならない。
度々書かれているこのくだりがとても好きです。
人種差別も性差別も、この観点でみなが生きるならばこれほど混乱した世界にはならなかったはずなのに、と思うのです。
昨日のごミサでは手話通訳が行われ、通訳者はフェイスシールドを着用しました。
人はこの世の命が終わったら、もう生者のために働くことはできないのか。
生者が死者のために祈ることには意味があるのか。
これは、身近な大切な方を亡くした経験のある人にとっては「とんでもない!」となる問いです。
ギリシャ語には「命」を表す2つの言葉があります。
「ゾエ」は永遠の命
「ビオス」は現世の命
ギリシャ語で書かれたヨハネの福音書では、この2つの単語が使い分けられています。
↓「ゾエ」バージョン
命を与えるのは霊である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなた方に話した言葉は、
霊であり、命である。
(ヨハネ6・63)
↓「ビオス」バージョン
再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。
それ故、父はわたしを愛してくださる。
誰もわたしから命を奪いはしない。
わたしが自分から命を捨てる。
わたしは自由に命を捨て、また、再び自由に命を得る力を有している。
わたしはこの掟を父から受けた。
(ヨハネ10・17~18)
命には、この世での命と霊的次元での命がある、ということなのだそうです。
使徒信条の中に、「聖徒の交わりを信じます」とあります。
これは、死者との交わりのことも意味しています。
死者との交わりについて、女子パウロ会のホームページにはこう書いてありました。
亡くなられた方々も、イエス・キリストの神秘体に属する人々です。
教会は、その最初の時代から、死者の記念を行い、死者に尊敬を払っていました。
そして、亡くなられた方にもし罪が残っていたとするならば、彼らがその罪から解かれるように、祈ってきました。
このような死者のための私たちの祈りは、死者を助けることになるのです。
先日、教会に信者さんではない方が入ってこられ、
「質問があります。
洗礼を受けていたのか分かりませんが、この教会によく行っていた、という知り合いが亡くなりました。
きちんと教会で葬儀をしていないのですが、その場合、浮かばれないのでしょうか。
11月にお盆のような死者の月があると聞いたのですが、その時に供養すればいいのでしょうか。」
わたしなりのお考えを少しお話しました。そして、
「ぜひ、宮﨑神父様にご相談してみてください。
希望されるのであればきっと、追悼のごミサを執り行ってくださるかと思います。
あなたが洗礼を受けていなくても、その方のためにこの聖堂でお祈りされてもいいですし。」
亡くなられた方のことを思い出されたのか、少し涙を浮かべられた様子でした。
この問いの答えを知りたくて、ここ数か月、何度も教会に足を運ばれたそうです。
ようやく教会の扉が開いているのを見て、入ってこられたのです。
こうした方々のお気持ちを大切にしなければならない、と痛感した出来事でした。
たまに母が夢に出てきて、何かのメッセージをくれます。
「ミサに行きたいけど、いいかな?」と言うので
「ダメよ!あそこでお葬式したのに、連れていけるわけないでしょ!?」
と焦る夢を見たことがあります。
よく見るのです、実は母は亡くなっていなくてどこかに暮らしている、という夢を。
いつも近くに寄り添っていて家族を守っているのよ、というメッセージだと信じて疑いません。
命とは、この世で肉体とともにあったものだけではないのです。
イエス様に「恋する」
久留米教会の敷地では、いつも美しい神様の愛を感じることができます。
27日のごミサでは幼児洗礼式が執り行われ、3名の子どもたちが受洗しました。
子どもたちの目がキラキラしていました。
嬉しい光景です。
8月に出版された新しい使徒的勧告「キリストは生きている」には、とても生き生きとした表現でイエス様の姿が、特に若者に向けて表されています。
(ここでご紹介したいと思って付けた付箋がたくさん!)
130
神はあなたを愛している、キリストはあなたの救い主である、このかたは生きている―
この3つの真理には、父なる神が登場し、イエスが登場します。
御父とイエスがおられるならば、そこには聖霊もおられます。
裏方をしておられるかたです。
このメッセージを受け入れるために心を整えさせ、開いてくださる方です。
救いの体験を鮮やかに保たせてくださるかたです。
あなたがこのかたに働いていただくようにすれば、この喜びを膨らませるよう助けてくださるかたです。
132
美しい詩「恋しなさい」が語っているとおりです。
「神に出会うこと、つまりは、決定的に熱烈に、神と恋に落ちること。
これ以上に大切なことはない。
あなたが恋しているかたは、あなたが思い描くことすべてに映り、そうしてすべてにその痕跡が刻まれる。
朝、床から出るのはそのかたのため、夕べもそのかたのためにあり、週末はそのかたのために使う。
読み取るものはそのかた、感じ取るものはそのかた、そのかたのために心を砕き、そのかたへの喜びと感謝で打ちのめされる。
恋しなさい。愛に浸っていなさい。
すべてが違ってくるでしょう。」
神へのこうした愛によって、生活のすべてを情熱をもって過ごせるようになります。
158
主を求め、そのことばを大切にし、生活をもってそれにこたえようと努め、徳を磨く、
こうして若者の心は強くなるのです。
そのためにはイエスとの「接続」を保ち、イエスと「オンライン」でいなければなりません。
あなたの力と、あなたの知識だけでは、幸福も聖性も高めることはできないからです。
インターネットにつながらないことを心配するのと同じく、主との接続を確保しておきなさい。
つまり、対話をたやさず、主に耳を傾け、自分のことを主に伝え、どうしたらいいか分からないときには主に尋ねなさい。
「イエス様、あなただったらどうなさいますか」。
まだまだたくさん、素晴らしいと思って付箋を付けたページがあります。
本や神父様のお話は、その方が置かれている状況やその時の心境で、入ってくる内容が違うかと思います。
ぜひ、お読みいただいて自分へのメッセージを受け取ってみてください。
この子どもたちが久留米教会で生き生きとした信仰生活を送っていけますよう、お祈りしてください。
寄り添う人、ダミアン神父様
先日、ハンセン病の元患者さんたちとそのご家族の裁判のニュースが話題になっていました。
ダミアン神父様のことを思い出しました。
ダミアン神父様(1840~1889年)は、ベルギー出身の司祭で、ダミアンは修道名、
本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)
ハワイ王国のモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに志願して生涯を捧げ、
自らもハンセン病に感染し、48歳の若さで亡くなられました。
聖人で、記念日は5月10日です。
ハンセン病の患者のケアをしていて、不運にも感染されたのではありません。
患者たちともっと寄り添うためには、自らも病気にならなければ、
本当の意味で彼らの苦悩を知って寄り添うことはできないのではないか、
と考えてあえて感染することを望んだ、と言われています。
手や顔に病気の兆候が現れた時、神父様は初めて患者たちに向かって
「我々ライ患者は」と言うことができた、と喜んでいたそうです。
長崎の二十六殉教者記念像などで有名な、偉大な彫刻家、舟越保武さんの作品です。
ダミアン神父様がハンセン病患者となったあとのお姿です。
ただ私はこの病醜の顔に、恐ろしい程の気高い美しさが見えてならない。
このことは私の心の中だけのことであって、人には美しく見える筈(はず)がない。
それでも私は、これを作らずにはいられなかった。
私はこの像が私の作ったものの中で、いちばん気に入っている。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/16659/20150821/funakoshi-yasutake.htm
(彫刻の画像と舟越さんの言葉は、こちらの記事から使わせていただいています。)
聖霊の働き、プネウマ「神様の慈愛の息吹」が神父様に宿っていたのでしょう。
わたしたちが誰か助けや励ましを必要としている人に心を寄せるとき、
ダミアン神父様ほどの献身的な愛を注ぐことはできないかもしれません。
ですが、相手の立場に立ち、自分だったらどうしてほしいか、どう言ってほしいか、を
いつも考えて行動することはできます。
人にしてもらいたいと思うことを
人にもしなさい
ルカ 6・31~36
この言葉はわたしの座右の銘と思っている箇所ですが、同時に、
「人にしてほしくないことは、人にもしない」とも心がけています。
七つの秘跡:Part5
最終回は、叙階の秘跡についてです。
3/21に大名町教会において叙階式が執り行われ、船津亮太助祭が誕生しました。
久留米教会出身ということで、わたしたち久留米の信徒も大勢でお祝いのため参列させていただきました!
叙階、これは召しだされた本人はもちろん、わたしたち信徒にとっても大きな大きなお恵みと喜びです。
まずは、今回のように助祭となり、次に司祭へ叙階され、3つ目は司教叙階です。
昨日のごミサでは船津助祭として、とてもキリッとした様子でジュゼッペ神父様の横でお手伝いされていました。
助祭は、ミサと告解はできませんが、洗礼を授けること、結婚式、葬儀の司式は執り行えます。
21日の様子を、たくさんの写真とともにお伝えします。
福岡教区の司祭団の入場
親族席も設けられ、ご両親はやや緊張の面持ち。
まさに、息子が神様と結婚する式!の様でした。
久留米教会の聖歌隊のみなさんも、朝早くから練習を重ね、上の階から素晴らしい歌声を響かせてくれました。
中には、感極まって涙ぐみながら歌われていた方もいらしたそうです。
宮原司教様の按手によって、助祭に叙階されます。
最初に船津助祭に神学校を勧め、召命のきかっけを作ってくださった
浦川神父様によってストラを着せてもらう様子。
引き続きミサが行われ、久留米教会の可愛い3人によって奉納の儀式が。
船津助祭、最初のごミサです!
最初にご聖体を拝領されたのは、ご両親。感無量だったのではないでしょうか。
馬渡島から駆けつけられたおばあ様のお手製の紅白まんじゅうが振る舞われました!
ご家族のみなさま、本当におめでとうございます!!
結婚の秘跡の際にも書きましたが、叙階は教会共同体と受階者の絆を確固たるものにするので、
結婚の秘跡とともに「交わりの秘跡」と呼ばれています。
宮原司教様が司式の際におっしゃった言葉が心に響きました。
「仕えられる者ではなく、仕える者として来られたキリストの
真の弟子としてのお恵みをお与えくださいました。」
「信者にも、信者でない者にも良い知らせを伝えて行ってください。
福音に奉仕しなければなりません。」
船津助祭がごあいさつで言われました。
「日曜学校の子どもが言った、『助祭は神様へのあといっこ』という言葉が、
なるほど、と心に残っています。
神様に少し劣るものとして作られたわたしが、
少しでも神様に近づけるように奉仕していかなけれはならないと思っています。」
叙階の秘跡を受けた司教や司祭たちは、教会の頭であるキリストの代理者として行動します。
キリストの現存を現す司教、司祭という役務を果たすからといっても、
これら役務者が完全無欠の人になるということではなく、
人間的な弱さもかかえながら神の民の奉仕のために尽力するのです。
https://www.pauline.or.jp/catechism/catechism107.php
本当に素晴らしいお恵みの一日でした。
召命を願って祈りましょう。