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連帯の気持ち
自宅から高校まで、バス電車バスを乗り継いで90分かかりました。
元より、読書家の母の影響で本を読むことは好きでしたが、この90分をいかに有効に使うかは、当時のわたしには大切な問題でした。
電車の中では、とにかく本を読むか英単語を覚えるか!
そんな中で、初めて買ったカトリックの本は森 一弘名誉司教の著書でした。
当時は洗礼を受けることに興味を持っていたわけではなく、担任だったシスターがとても魅力的な人だったこと、毎週月曜にある司祭による集会で、信者だけがステージにあがってご聖体をいただいていたことへの憧れがあったこと、から、カトリック関係の本をたくさん読んだ記憶があります。
先日帰天されたというニュースに、とても寂しさを感じています。
神様の横で、安らかにお過ごしください。
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この動画をご存じでしょうか。(↓動画のスクリーンショット)
これは癌で闘病中のお客さんが、抗がん剤で抜ける髪をあらかじめ剃るために来店し、落ち込んでいる彼女に連帯の気持ちを表そうと、担当した美容師さんだけでなく、その場にいた他の美容師さんもみんな、自分の頭を剃ったのです。
Barber shaves his head in solidarity with his client fighting cancer and then his friends do the same.
皆さん、 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
(コロサイ2・6~)
失敗をしてしまい、ちょっと落ち込んだ日々を過ごしました。
友人たちが、わたしに連帯の気持ちを表してくれたのにもかかわらず、何日も引きずってしまいました。
そんな中この箇所を読んで、わたしがいかに「世を支配する霊に従って」いたかを思い知らされた気がしました。
あなた方も、霊の賜物を熱心に求めているからには、教会を造りあげるために、賜物を豊かにいただくように努めなさい。
(1コリント14・12)
そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
(ルカ6・43~)
隣人から受けた不正を赦せ。
そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
(シラ28・1~5)
今週の聖書朗読も、素晴らしい教えがちりばめられていました。
先日、友人がこう言っていました。
「日曜日のミサで読む聖書の箇所は前から決まっているはずなのに、『今の自分へのメッセージ?!』と思うことが多くあり、心にビンビン響く時がある。
誰を通して神様が自分たちに伝えてくるのか分からないけど、常に心を開いておかなければ気づかないのかもしれない。」
あなた方が、すべての善い行いを通して実を結び、神を深く知ることによって大きく成長しますように。
そして、あなた方が神の栄光に伴うあらゆる力をもって強められ、いかなる場合にも忍耐強く寛大でありますように。
(コロサイ1・10~11)
来週24日の日曜日のミサのあと、信徒集会を開催します。
活動報告、今後の予定、昨年度の決算報告、今年度の予算計画について、信徒の皆さまと共有したいと考えています。
集会では、委員会活動以外にも、いろいろな活動をされている皆さまのご紹介もしますが、やり取りをしていてとても感激したことがあります。
「久留米教会が好きなので、少しでも役に立ちたいと思っている」という言葉が何度も聞かれたのです。
キリストに根を下ろして造り上げられるわたしたち信徒は、だれもが教会共同体の役に立つことが出来ます。
久留米教会は昨年秋に委員会(役員)メンバーが交代し、それまで永年いろいろな役割を担ってこられた先輩方にご指導いただきながら、この1年、若い(?!)わたしたちなりに、丁寧に一生懸命努めてきました。
そして、集会で皆さまにお伝えしたいことを、丁寧に準備してきました。
久留米教会をわたしたちの共同体として維持していくために大切なことのひとつが、お金の管理の問題です。
どのようにお金が使われたのか、これから何に使おうとしているのか。
是非皆さまに知っておいていただきたいと思っています。
何のために集会を開いてまでお伝えするのか。
久留米教会の連帯、一致の一助になると考えているからです。
ご参加をよろしくお願いいたします。
女性らしく
ようやく、気持ちの良い秋が久留米にも訪れました。
ベツレヘム、エフラタ、ユダの氏族の中で、最も小さな者よ、わたしたちのために、お前の中からイスラエルの統治者となる者が出る。
その起こりは、永遠の昔からのもの。
それ故、主は、身籠った女が子を産む時まで、彼らを敵の手に委ねる。
そして残りの兄弟たちは、イスラエルの子らのもとに帰ってくる。
統治者は立ち、主の力と自分の神、主の名の威厳をもって牧する。
彼らは平穏に住まう。
今や、彼の威力は地の果てまで及ぶからだ。
彼こそ平和をもたらす者。
(ミカ5・1~4)
9月8日は聖マリアの誕生の祝日でした。
カトリック信者であるわたしたちは、マリア様を崇拝することは普通のことであり、「理想の女性として」「理想の母親像として」尊敬している、ということを特別にではなく、当たり前のこととして受け止めています。
「男らしさ」「女らしさ」という表現の仕方は、現代的にはアウトだとされる場面が多く、ちょっと戸惑ってしまうことがあります。
今年はスポーツのワールドカップ当たり年ですが、先日、ラグビー日本代表の稲垣啓太選手がインタビューでこう言っていらっしゃいました。
「日本中のラグビーファンが応援して期待してくれているのを感じる。
男としてはその期待に応えたい。」
わたしは、「かっこいい〜!!」と思いましたが、男らしく、女らしく、と発言することはどんな場面であれ現代では禁句のようにになっている感じがちょっとヤです、、、。
『ウーマン・トーキング』を観ました。
この映画は、ある新興プロテスタントの女性たちが、自分たちの意思で、自分たちの女性としての生き方を模索していくお話です。
実際に2000年台初頭にボリビアで起こった事件を元に描かれています。
この村(コミュニティ全体がこの新興宗教の信者)では、女性は家事全般を担い、男性の世話をするため、男性の性欲を満たすため、子供を産むために存在しているかのような扱いを受けています。
若い娘たちが次々とそうした男性の欲求の犠牲となっていく中、母親たち、娘たちが、自分たちの生き方を自分たちで決めるための話し合いを続けるのです。
罪を赦さなければ天国へ行けない、そう教えられてきた彼女たちは、対話を続けながら葛藤します。
イエス様の教えとして心に刻まれたことと現実とのギャップに、もがき苦しみます。
対話がヒートアップして紛糾すると、 誦じた聖書の言葉を祈りとして唱え、聖歌を歌うのです。
特に印象に残っているのが、以下のフィリピの教会への手紙を唱えるシーンでした。
わたしは、こう祈っています。
神への深い知識と、研ぎ澄まされた感覚を身につけることによって、あなた方の愛がますますいっそう豊かになり、大切なことを識別できるようになりますように。
キリストの日に備えて、あなた方が純粋で、非難されるところのない者となり、イエス・キリストによってもたらされる義の実を豊かに結んで、神の栄光を讃えることになりますように。
(フィリピ1・9~11)
彼女たちは本当に純粋に、心から丁寧に信仰を守ろうとしています。
決して「面白い映画」ではありませんが、女性として生きていくために、女性らしく対話を尽くし、自分たちの未来を自らの意思で決定する彼女たちの姿には感動しかありません。
架空の話ではない、実際につい最近起きたことです。
「自分なりに女性らしく生きたい」と願い考えることは、いつの時代であれ決して間違ったことではないとわたしは考えます。
キリスト「教」
先週は、秋はそこまで来ているように感じたのに、猛暑再来!
この夏はあまり読書ができていなかったので、この秋はたくさん読もうと思っています。
今日は、春に買ったのに眠らせていて、ようやく読み進めている、この本をご紹介します。
坂口ふみさんは、1933年生まれ(現在90歳)の宗教・哲学研究者でいらっしゃいます。
この本は、1996年の著作ですが、今年になって岩波現代文庫から再出版されたものです。
彼女のことは存じ上げなかったのですが、タイトルと解説が山本芳久さんだということに惹かれて買ってみました。
とても面白いのです!
難しい内容でもありますが、彼女のエッセイのような始まりで、引き込まれていくうちに難解なテーマが分かり易く解きほぐされていく、という構成です。
山本さんの解説には、「キリスト教教理という特殊なテーマを取り扱った書物で、この書物ほど多くの読者の関心を呼び起こし、キリスト教の信仰の有無を超えて広く読み継がれてきた書物は他にないと言っても過言ではない」、「本書を類書のない名著としているのは、よい意味でのエッセイ的な筆致である」とありました。
以前、「なぜパウロはローマに宣教に行ったのか」と、聖書の師匠に質問した話を書いたことがあります。
この本には、「なぜローマでキリスト教が確立されていったのか」という、これまたわたしの疑問だったことが解き明かされています。
まず、イエス様は「隣人愛」について単純なことばで語ったということ、これが始まりであるということ。
「隣人」とは何だろう。
そこには何の条件もない。
あらゆる属性、地位、身分、能力、等の区別は捨象されている。
おそらく、目がみえること、耳が聞こえること、四肢が揃っていること、また、伝統的に人間の本質だとされている理性さえも、それがもし単なる論議や計測の能力ならば、条件とはされていない。
隣人の唯一の条件は、私に近いということ、私が関わるということである。
唯一そこで現実的で重要なのは、その関わり、愛と規定された関わりである。
(本文より抜粋)
イエス様は、隣人への愛を説き、あるがままの人間の愛について教えられました。
そしてそれが、キリストの教えとして、また、「仲介者キリスト」「贖罪者キリスト」「神人キリスト」というかたちで表現し、現代のものの考え方の基礎を作ったのは歴史の成せる業なのだ、と坂口さんは書いておられます。
イエス様には当然、こんな考え方はなかったのだ、と。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大切な掟はない。
(マルコ12・30〜31)
キリストの教えが、キリスト「教」として確立されたのには、歴史の必然がありました。
*何人かの天才的な人々が、決定的な方向づけを与えたこと。
*古代の理想に反旗をひるがえす、世界に対する新しい基本的態度を表したのがイエスの教えだったこと。
*ヨーロッパとアラブを併せた、文明世界全体の様相を呈した末期のローマ帝国にとって、帝国統一の組織造りためにキリスト教は利用価値があったこと。
この宗教はもともと自然宗教と違って、宣教によって伝播する宗教であったから、人的組織を頼りとするところが大きい。
この(ローマ帝国末期までの)300年の間に階層、行政、地域、税制などの秩序をある程度備えた、一つの共和制国家であった。
聖職者と俗人の区別と、聖職者による俗人の統制法、そして聖職者の職掌と階層は精密の度を増していた。
政治家コンスタンチヌスが、これに着目したとしても意外ではない。
しかし、皇帝がキリスト教に価値を認めたのに数倍して、教会の方が、コンスタンチヌスに利用価値を認めたことはいうに及ばないことである。
(本文より抜粋)
つまり、ウィンウィンの関係による、いわゆる「オトナの事情」があったというのです。
わたしたちが日常において信仰生活を送るにあたり、こうした事情は直接には関係のないことかもしれません。
ですが、日本の天皇制が脈々と紀元前660年の神武天皇即位から守り続けられているということを、日本人として誇らしく知っておく必要があるように、わたしたちキリスト者は、キリストの教えがキリスト「教」として2000年以上も続くことになった根っこの部分について、知っておいた方が良いのではないかと考えます。
この本からは、まだまだたくさんのことを学べると思いますので、追って皆様にそのアウトプットをお伝えしたいと思います。
来週には、また、秋の足音を感じることができますように。
積み重ねる経験
4年ぶりの納涼祭でした!
台風接近のため、そして参加した多くのみなさんの熱気のため、熱くて暑い、お恵みに満ちた時間でした。
ヨゼフ会の男性陣の頼もしさ、女性の会のおば様方のおもてなし、青年会のみんなの楽しそうな様子、フィリピンコミュニティのお姉様方の明るい笑顔、ベトナムコミュニティの若者たちのエネルギー!!!
久留米教会共同体の良さを改めて実感できた、楽しいひとときを過ごすことができました。
納涼祭のダイジェスト←こちら。
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以前ご紹介したことのある月刊誌、『致知』の8月号に、古巣馨神父様の対談記事が掲載されました。
内容を少しかいつまんでご紹介したいと思います。
古巣神父様は、「生きていく上で大切なのは、一度きりの人生で誰かから受け取ったものを正しく伝えていくことだ」とおっしゃっています。
わたしもいつも感じながら生きています。
これまでの人生、今日があるのは、出会ってきた人々から受け取った素晴らしいもののおかげだ、と。
古巣神父様は、多くの人との出会いから3つの大切なことを受け取った、と言います。
①「にもかかわらず、まだ笑う」
ユーモアは持って生まれた性格ではなく、人生の中で何度も困難を乗り越え、それでも潰されずに歩む中で得るものだ、というのです。
確かに、わたしの周囲で「素敵なユーモアの持ち主だわ」と思う方は大抵、大きな試練に遭った経験をお持ちです。
順風満帆に生きてきた、と言える人は少ないと思います。
やはり乗り越えたものがある人は、人として魅力的だと思います。
②「非常識」
世間から見たら非常識かもしれないとしても、「わたしはそうするように親から教わりました。
それが 正しいと思うから、同じように生きています。」と言える自分の物差し、価値観を持って生きることは大切だ、と。
頑固に生きるということではなく、ある程度の年齢(=色々な経験を積んできた)であれば、ブレない自分の物差しを持っていなければ、真っ直ぐに生きることはできないと思います。
③「賜物になる」
ただでいただいた、なくてはならないお恵み。
賜物に出会うと、人生の意味がわかります。
そして、自分も誰かのためになろうとします。
わたし自身、大病と洗礼で生まれ変わった、と思って生きてきました。
病気もお恵み、洗礼もお恵み、賜物です。
「誰かの役に立つかもしれないから、受け取ったものを伝えていく」
これは、わたしも努めて心がけるようにしています。
ただで受け取った賜物は、学びに限らず、自分の存在そのもののことも指していると思います。
おこがましい言い方かもしれませんが、自分自身が「神様の子」のひとりとして周囲に良い香りを振りまきたい、そう思っています。
古巣神父様は、長崎刑務所の教誨師を務められています。
おそらく、受刑者からも大きな影響をお受けになっているのだと推察します。
罪を犯した受刑者の心の中を受け取る、というお仕事については、想像することしかできません。
苦しみや反省、後悔の気持ちに寄り添う中で、神父様もまた、何かを受け取られているのでしょう。
日常において罪を重ねてしまうわたしたちもまた、神様、司祭、そして信徒仲間からの導きが必要です。
雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。
雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。
旅路にあるときはいつもそうした。
雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
(出エジプト40・34~38)
小学生のとき、いつも空を見上げながら家路に着くのが好きでした。
無意識でしたが、雲の流れを追いながら、神様の存在を想っていたような気がします。
その習慣は今も変わらず、毎日、ふとした時にいつも空を見上げます。
わたしをいつも導いてくださっている神様を思いながら。
ビバルディの四季より、『夏』の音色で涼んでください。
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致知は書店では販売していませんので、興味がおありの方は、お貸しいたします。
遠い国
傍島神父様の初ミサには、通常よりはるかに多い、300名ほどの参列がありました。
初ミサの様子は、こちらでご覧ください。
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1994年、ルワンダで多数派のフツ族が、少数派で政権を担っていたツチ族を大量虐殺する、という事件が起こりました。
正確には、3か月間にわたって100万人とも言われる人々が虐殺されたのです。
『ハム仮設』という考え方について、初めて知りました。
現代では到底受け入れられないものですが、19世紀のヨーロッパで主流だった思想で、創世記のノアのエピソードを元に、ハム系の民族をカナン(ノアの息子)の末裔とみなして、全ての民族をセム系、ハム系、ヤフェト系などノアの息子たち因んだ名前で人種を分けていました。
中世の時代、ユダヤ人とキリスト教徒はハムをすべてのアフリカ人の祖先であると考えていました。
創世記にあるカナンに対するノアの呪いは、一部の神学者によって、ハムのすべての子孫に黒い肌という人種的特徴を引き起こしたと解釈されていました。
その後、西洋とイスラムの商人、奴隷所有者は、アフリカ人の奴隷化を正当化するために「ハムの呪い」の概念を使用しました。
もともと、フツ族とツチ族は宗教、言語、文化に差異がなく、婚姻も普通に行われていた民族でした。
ベルギーの植民地時代に、フツ族とツチ族が異なった民族として分け隔てられたことが起源と言われています。
また、カトリック教会の運営する学校ではツチ族が優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチ族に対してのみ行われたこと、べルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会が、第二次世界大戦後には一転して公式にフツ族の支持を表明したこと、など、さまざまな要因があるようです。
こうした、ヨーロッパ(キリスト教)の大きな影響下にあったルワンダ(他のアフリカ諸国においても同じ)で起こった悲劇が、民族間の殺戮でした。
2017年3月、教皇フランシスコは、ルワンダ共和国のポ-ル・カガメ大統領をバチカン宮殿での個人謁見に招き、「近年の慈しみとあわれみの特別聖年と、ルワンダの司教たちにより結論として出された報告により、不幸にもカトリック教会の体面を損なった過ちを謙虚に認めることが、過去の記憶の浄化の助けとなり、人間の尊厳と、共通の利益をきっぱりと中心に据え、共に生き、ともに働いてゆくことを証言し、平和な未来、信頼の回復を願います」と述べられました。
「福音伝道の使命を裏切り、憎しみと暴力に屈した司祭や教会関係者を含むカトリック教会の罪と過ちの許し」を神に改めて嘆願した、ともおっしゃっています。
この、複雑で難しい、そして辛い問題を取り扱ったネットフリックスのドラマを観た直後に、傍島神父様のことを知りました。
43歳になられる傍島神父様は、社会人経験を経て司祭を志されました。
そして、最初の赴任地としてアフリカのザンビアを選ばれています。
神言会の機関紙のインタビューでは、神学校時代に出会った神父がザンビアで働いたことがあった方だったこと、一緒に英語の勉強をした宣教師がこれからザンビアに行くと言っていたこと、ザンビアでは神言会の宣教の歴史が新しいことや会員数が少ないこと、研修でガーナに行ったときにお世話になった方がザンビアで修練長をしていること、が選んだ理由だとおっしゃっています。
召命。
これがお導きなのだ、と強く思います。
アフリカは遠い国ですが、今週はずっとルワンダのことについて考えていた矢先に、傍島神父様に実際にお目にかかってお話しさせていただき、とても興味が湧いています。
ウクライナの穀物輸出がストップしそうな情勢がアフリカに及ぼす影響についても、これからも注視していきたいと思っています。
実際に起きた、当時のルワンダのカトリック教会に逃げ込んだ1万人ものツチ族の人々が司祭の手引きによってフツ族に虐殺されたことも、このドラマのなかで描かれています。
ご興味のある方は、是非ご覧になってみてください。
(なお、このドラマの中では残虐なシーンは一切描かれていません。)