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誇りと義務感

それ以前から、世界各地で紛争が起きていたとはいえ、昨年のロシアによるウクライナ侵攻以来、世界は混沌としたままです。

いわゆる西側諸国だけでなく、ロシア、イラン、北朝鮮なども武器や資金を出し合い、地球全体で戦争が起きているかのような状態と言えるのではないでしょうか。

2019年に、イスラエルを巡礼で訪れました。
パレスチナ自治区内にあるベツレヘムに行った際、壁に覆われた町に入るために検問を通り、パスポートの提示を求められました。
イスラエル国内なのに、と奇妙な感じがしたものの、危険を感じることはありませんでした。

 

壁のRESILIENCE(レジリエンス)の文字が、彼らの立場を象徴しているかのようでした。

社会的ディスアドバンテージや、己に不利な状況などを「外力による歪み」ととらえ、レジリエンスは「外力による歪みを跳ね返す力」、という意味を持っています。

塀に囲まれたクリスマスツリーもシンボリックです。

ベツレヘムには、クリスマスミサの中継がされることでも有名な、聖誕教会があります。

 

 

この教会は、イエス・キリストが降誕されたと伝承される洞穴を中心として、その上に立てられている聖堂を、カトリック(フランシスコ会)、東方正教会、アルメニア使徒教会が区分所有しています。

2枚の写真は、同じ聖誕教会の内部です。

 

エルサレムの旧市街にある神殿の敷地内も、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が混在し、互いに尊重し合い、それぞれの巡礼者を受け入れてきました。

 

 

自分たちの「神に似る」本性を信じ、自分たちが神に選ばれ、神と交流していることを信じ、与えられた律法の正義の理想を心に保ち、その鏡に映して現実の自分たちの不正、醜さ、欲望と思い上がりと愚かさを嘆き悲しむ精神。

イスラエルの歴史のうちで、多くの希望と失意を経験してきた人々の心根。

エジプトでの奴隷状態からの救出と約束の土地カナンの授与は、ある希望の実現ではあったが、ダビデ、ソロモン王国の繁栄のあとは、周辺諸国による占領・支配が続いた。
その中でこの民族は、選ばれた民の誇りと義務感を保ち続け、預言者たちは現実の苦難を道徳的堕落への警鐘ととらえた。

(〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと 坂口ふみ 著より)

 

「この民族」、イスラエルの人々の理想は今も失われはいないと思います。

現実の世界で戦争を引き起こすのは、暮らしている市民ではなく、過激な思想に偏った人びとです。

ロイター通信のニュースによると、2007年にハマスがガザを掌握して以来、エジプトはガザの封鎖を後押しし、人と物資の往来を大幅に制限してきました。
2008年にはハマスが国境施設に穴を開け、数万人のパレスチナ人がシナイに渡ったため、エジプトは石とセメントの壁を建設しました。
ラファ検問所はエジプトが管理しています。
アラブ諸国は、今回のイスラエルとハマスの戦争が、パレスチナ人が自治区から恒久的に移住する新たな動きにつながる可能性を深く恐れているのだそう。
ガザと国境を接する唯一のアラブ国家であるエジプトと、イスラエル占領下のヨルダン川西岸に隣接するヨルダンは、パレスチナ人が土地を追われてはならないと警告を発しています。

ロイター通信10/18ニュース

 

奥に見えるのはヨルダン、死海を挟んで手前がイスラエルです。

このニュースを読んで、聖書に書かれている史実が思い浮かびました。

3500年前のユダヤ人(ヘブライ人)たちは、エジプトの奴隷状態から脱出するため、シナイ半島を渡って『約束の地』を目指して歩き続けました。

聖書にもし『約束の地』の記述がなかったら。
当時の人々だけが知っていて、信じていた神との約束だったのなら。

そうであったなら、イスラエルという国の建国もなく、当時住んでいたパレスチナ人が追われることもなかったのかもしれない、と考えるのは浅はかでしょうか。

現実の世界では、この地を巡っての争いが長きに渡って続き、終わることはありません。
しかし、イスラエルという土地は、信仰においては他者と共存してきました。

報道されていることが事実であれば、この戦争を始めるのも終わらせるのもイスラエル次第です。

モーセは民に言った、「恐れてはならない。しっかり立って、主が今日あなたたちのために行われる救いを見なさい。
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
イスラエルの部隊の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らの後ろについた。
雲の柱も彼らの前から移動して彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。
雲と闇があったが、み使いは夜を照らした。
(出エジプト14・13〜14、19〜20)

主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』
このように、彼らがわたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしは彼らを祝福する」。
(民数記6・22〜27)

坂口さんの本にあるような、「選ばれた民の誇りと義務感」をいま一度思い起こし、他者の犠牲の上に成り立つ民族ではないことを示して欲しいと願います。

 

 

旅人たち

日本人は、国籍や見た目が違う人を「外国人」と呼びます。

島国なので、両親、祖父母もみな生まれも育ちも日本です、という人が多いのが日本です。

先日のラグビーワールドカップを見ていた父が、「日本代表は外国人ばっかりだ」と言ったので、「違うよ、日本国籍を持っていたり、長く日本でプレーしている外国籍の人たちなんだよ。国籍やルーツは関係なく、自国の代表を選ばず日本を選んだんだよ。」と説明しましたが、父の感想が大方の日本人の感覚でしょう。

イスラエルで起きていることを思うと、心が苦しくなります。

長い歴史の中での根深い問題であるため、表面的な言い方は不適切かもしれませんが、ユダヤ人とパレスチナ人という人種間の争い、ユダヤ教とイスラム教の闘い、でもあるのでしょうか。

パレスチナの人々の立場で言えば、国になれないままイスラエルの占領下に置かれているというのが現実です。
ガザ地区は、種子島ほどの面積に220万人の人々が住み、最低限の生活さえできない状況なのだそうです。

イエスはガリラヤを巡っておられた。
ユダヤ人たちがご自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。

さて、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいていた。
祭りの時、ユダヤ人たちはイエスを探し求めて、「あの男はどこにいるのだろう」と言っていた。

群衆の間では、イエスのことがいろいろと取りざたされたいた。
「善い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れて、だれもイエスについて公然と話す者はいなかった。
(ヨハネ7・1,11~13)

北イスラエル、南ユダ、現代のわたしたちから見ればどちらもユダヤ人ですが、当時から、こうしたルーツの違いによる争いがありました。

ロシアの、ウクライナにおける戦争犯罪
中国による、新疆ウイグル自治区での人権弾圧

世界中で、国籍や人種間の争いが絶えません。

もし他国の者がお前と共に、お前たちの土地に在留するなら、その人を虐げてはならない。
お前たちのもとに在留している他国の者を、お前たちの国に生まれた者と同じようにみなし、お前自身のように愛さなければならない。
お前たちもエジプトの地において他国の者であったからである。
(レビ記19・33〜34)

10月は宣教とロザリオの祈りに捧げられています。
アフガニスタンで起きた地震の被災者、イスラエルとパレスチナで被害を受けている一般市民、世界中で苦しい思いをしている人々のために祈りましょう。

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日本と韓国のいがみ合いのような関係は、ここのところ改善に向かっているように思います。
韓国はお隣の国であり、わたしには外国という感覚はあまりありません。

韓国へのキリスト教の宣教は18世紀になってから始められましたが、いまでは人口の3割がキリスト教徒と言われています。
そいのうち11%ほどがカトリック信者なのだそうです。
日本は人口の0.35%ほどです。

日本と比べても、キリスト教に対する熱意が高いことがわかります。

先日、韓国カトリック新聞社が作成したビデオが配信されました。

福岡教区と長崎教区に派遣されている4名の司祭が、なぜ日本で司牧活動をすることになったのか、その経緯と現在のお気持ちをお話しされています。

言葉の通じない国に、神学生時代から派遣され、日本で叙階された韓国人司祭のお話しに、強く心が揺さぶられました。

高見大司教と話していて、日本では、司祭がいくつもの小教区を一人の司祭が兼任しているという現状を知り、「宣教とは、貧しい国や遠い国に行くことではなく、必要なところにいくことではないか、そう思った」とおっしゃった韓国のファンギル大司教のお言葉が印象的でした。

言葉の習得をしながら馴染んでいけるように、と神学生時代から計4名を派遣されることになります。

最初はだれも希望しなかったようです。

ですがそのうちに、「誰も行かないなら自分が行く」と、手を挙げる神学生が出てきます。

「僕が行きたいところに行き、やりたいことをやりながら暮らすのは司祭の生活とは違うのではないかと考えるようになった」というのは、シジン司祭のお言葉。

 

「司祭が少ないこの地こそ、わたしを呼んでくださった理由。日本は宣教の根がないのではなく、まだ火がついていないだけ。私は喜んで火を付けに行く。」

後に、福岡教区の司祭となったウォンチョル神父様のお言葉です。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)

国籍は関係ありません。 

彼らもまた、わたしたちと同じ、人生を旅するキリスト者なのでだと感じました。
日本人の青年に召命があることがもちろん望ましいのですが、こうしてわたしたちの中に来てくださる、お隣の国出身の司祭たちは、わたしたちの宝です。

ぜひ、ご覧ください。

 

 

人としての成長

気持ちの良い秋の朝のごミサに与り、今週も良い一週間になりそうな気がしています。

とっても素敵な映画を観ました。

『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(Guillermo del Toro's Pinocchio)は、2022年のアメリカ合衆国のファンタジー映画です。
第80回ゴールデングローブ賞ではアニメ映画賞を、第95回アカデミー賞では長編アニメ映画賞を受賞しています。

物語の舞台はムッソリーニが支配するファシズム時代のイタリア。
「市民が従順な操り人形として生きる世界」にピノッキオが生まれますが、ピノッキオは大人たちとは異なり自由奔放に振る舞います。
行儀の良かった息子カルロの代わりを求めるゼペットと自由奔放なピノッキオ
ムッソリーニや死の精霊といった相手に対しても、規則や権威に服従しないピノッキオ
キリギリスのセバスチャンは、木の精霊から「ピノッキオの良心として成長を手助けすれば、一つだけ願いを叶える」と告げられ、提案を受け入れます。
なんだって叶えられるのに、セバスチャンが最後に頼んだ願いは、、、。

わたしたちは、どういう時に成長するでしょうか。

楽しい、嬉しい経験から得るものもありますが、やはり、失敗や苦い経験から学び、それを素直に反省して受け入れることによって成長するものだと思います。

今の時代の人々を何に喩えようか。
何に似ているのだろうか。
それは広場に座り、互いに呼びかけ合う子供に似ている。
『ぼくらが笛を吹いたのに、君たちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』
というのは、洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないと、あなた方は『あれは悪霊に憑かれている』と言う。
また人の子が来て食べたり飲んだりすると、『見よ、あれは大食漢、大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、知恵のすべての子らによって証明される。
(ルカ7・31~35)

「笛吹けど踊らず」ということわざは、ここから来ているのだそうです。
あれこれと手を尽くして準備をしても、それに応じようとする人がいない、という意味です。

サラメシ出演でも有名になった大西司祭が、インスタの投稿にこう書いていらっしゃいました。

「その場所に人はいるか、選曲は間違っていないか、いまそのタイミングか。
どうして人々が踊ってくれなかったか。
おそらくそれには理由がある。
僕たちの日常も同じ。
誰かになにかを伝えたい時、相手の態度を嘆くのではなく、こちらの伝え方を改めたい。」

おっしゃる通りだと、心にしっかりと受け止めました。

成長は自分で公言することではなく、他者が感じてくれなければただの勘違いになりそうですが、母が亡くなってこの12年、我ながらよく頑張ってきたものだ、と思っています。
ですが、常々わたしは「自分は頑張っている」と自認しすぎる傾向があり、相手のリアクションがこちらの予想に反する場合に過剰に反応してしまいます。

大西司祭のおっしゃるように、相手の態度を非難することは解決にはならないとわかっていたのですが、先日、ある方からこう言われてハッとしました。

「もう少し頼み上手になってくれたら、あなたがもっと輝くような気がします。」

なんて素敵な注意の仕方だろう、、、と感激したのです。
その方に強い口調で「どうしてわかってくれないの!?」と言ってしまったわたしを、こう諭してくださったのです。

ゼペットおじいさんもキリギリスのセバスチャンも、ピノッキオの成長を見守っているようでいて、自分たちも大きく成長していきます。

お互いが高め合える関係性は、人が成長していく上で最も素晴らしいものですね。

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18日に、筑後地区の6つの教会のレクレーション大会が開催されました。
二日市、小郡、久留米、今村、本郷、大牟田の司祭と信徒、総勢160名の参加による4年ぶりの集まりでした。

(私服だと、神父様方の様子が全く違って、それぞれの個性も出ていて、それも面白い。
宮﨑神父様はやっぱり学校シューズだし、まじめな大牟田のT神父様は暑いのに司祭の襟のカラーを付けたシャツにチノパンだったし、二日市のT神父様はいつだってスポーツウェアだし!)

参加者全員でのレクリエーション、子どもたちだけのアクティビティ、敬老のお祝いなどがあり、まだ残暑の厳しい日でしたが、大盛り上がりの会となりました。

ご準備された宣教司牧評議会の皆さまには、本当に心から感謝です。

 

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連帯の気持ち

自宅から高校まで、バス電車バスを乗り継いで90分かかりました。

元より、読書家の母の影響で本を読むことは好きでしたが、この90分をいかに有効に使うかは、当時のわたしには大切な問題でした。
電車の中では、とにかく本を読むか英単語を覚えるか!

そんな中で、初めて買ったカトリックの本は森 一弘名誉司教の著書でした。

当時は洗礼を受けることに興味を持っていたわけではなく、担任だったシスターがとても魅力的な人だったこと、毎週月曜にある司祭による集会で、信者だけがステージにあがってご聖体をいただいていたことへの憧れがあったこと、から、カトリック関係の本をたくさん読んだ記憶があります。

先日帰天されたというニュースに、とても寂しさを感じています。
神様の横で、安らかにお過ごしください。

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この動画をご存じでしょうか。(↓動画のスクリーンショット)

これは癌で闘病中のお客さんが、抗がん剤で抜ける髪をあらかじめ剃るために来店し、落ち込んでいる彼女に連帯の気持ちを表そうと、担当した美容師さんだけでなく、その場にいた他の美容師さんもみんな、自分の頭を剃ったのです。

Barber shaves his head in solidarity with his client fighting cancer and then his friends do the same. 

 

皆さん、 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
(コロサイ2・6~)

失敗をしてしまい、ちょっと落ち込んだ日々を過ごしました。
友人たちが、わたしに連帯の気持ちを表してくれたのにもかかわらず、何日も引きずってしまいました。

そんな中この箇所を読んで、わたしがいかに「世を支配する霊に従って」いたかを思い知らされた気がしました。

 

あなた方も、霊の賜物を熱心に求めているからには、教会を造りあげるために、賜物を豊かにいただくように努めなさい。
(1コリント14・12)

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
(ルカ6・43~)

隣人から受けた不正を赦せ。
そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
(シラ28・1~5)

今週の聖書朗読も、素晴らしい教えがちりばめられていました。

先日、友人がこう言っていました。

「日曜日のミサで読む聖書の箇所は前から決まっているはずなのに、『今の自分へのメッセージ?!』と思うことが多くあり、心にビンビン響く時がある。
誰を通して神様が自分たちに伝えてくるのか分からないけど、常に心を開いておかなければ気づかないのかもしれない。」

 

あなた方が、すべての善い行いを通して実を結び、神を深く知ることによって大きく成長しますように。
そして、あなた方が神の栄光に伴うあらゆる力をもって強められ、いかなる場合にも忍耐強く寛大でありますように。
(コロサイ1・10~11)

 

来週24日の日曜日のミサのあと、信徒集会を開催します。

活動報告、今後の予定、昨年度の決算報告、今年度の予算計画について、信徒の皆さまと共有したいと考えています。

集会では、委員会活動以外にも、いろいろな活動をされている皆さまのご紹介もしますが、やり取りをしていてとても感激したことがあります。

「久留米教会が好きなので、少しでも役に立ちたいと思っている」という言葉が何度も聞かれたのです。

キリストに根を下ろして造り上げられるわたしたち信徒は、だれもが教会共同体の役に立つことが出来ます。

久留米教会は昨年秋に委員会(役員)メンバーが交代し、それまで永年いろいろな役割を担ってこられた先輩方にご指導いただきながら、この1年、若い(?!)わたしたちなりに、丁寧に一生懸命努めてきました。

そして、集会で皆さまにお伝えしたいことを、丁寧に準備してきました。

久留米教会をわたしたちの共同体として維持していくために大切なことのひとつが、お金の管理の問題です。

どのようにお金が使われたのか、これから何に使おうとしているのか。
是非皆さまに知っておいていただきたいと思っています。

何のために集会を開いてまでお伝えするのか。
久留米教会の連帯、一致の一助になると考えているからです。

ご参加をよろしくお願いいたします。

 

女性らしく

ようやく、気持ちの良い秋が久留米にも訪れました。

ベツレヘム、エフラタ、ユダの氏族の中で、最も小さな者よ、わたしたちのために、お前の中からイスラエルの統治者となる者が出る
その起こりは、永遠の昔からのもの。

それ故、主は、身籠った女が子を産む時まで、彼らを敵の手に委ねる。
そして残りの兄弟たちは、イスラエルの子らのもとに帰ってくる。
統治者は立ち、主の力と自分の神、主の名の威厳をもって牧する。
彼らは平穏に住まう。
今や、彼の威力は地の果てまで及ぶからだ。
彼こそ平和をもたらす者。
(ミカ5・1~4)

9月8日は聖マリアの誕生の祝日でした。

カトリック信者であるわたしたちは、マリア様を崇拝することは普通のことであり、「理想の女性として」「理想の母親像として」尊敬している、ということを特別にではなく、当たり前のこととして受け止めています。

「男らしさ」「女らしさ」という表現の仕方は、現代的にはアウトだとされる場面が多く、ちょっと戸惑ってしまうことがあります。

今年はスポーツのワールドカップ当たり年ですが、先日、ラグビー日本代表の稲垣啓太選手がインタビューでこう言っていらっしゃいました。

「日本中のラグビーファンが応援して期待してくれているのを感じる。
男としてはその期待に応えたい。」

わたしは、「かっこいい〜!!」と思いましたが、男らしく、女らしく、と発言することはどんな場面であれ現代では禁句のようにになっている感じがちょっとヤです、、、。

 

『ウーマン・トーキング』を観ました。

この映画は、ある新興プロテスタントの女性たちが、自分たちの意思で、自分たちの女性としての生き方を模索していくお話です。
実際に2000年台初頭にボリビアで起こった事件を元に描かれています。

この村(コミュニティ全体がこの新興宗教の信者)では、女性は家事全般を担い、男性の世話をするため、男性の性欲を満たすため、子供を産むために存在しているかのような扱いを受けています。

若い娘たちが次々とそうした男性の欲求の犠牲となっていく中、母親たち、娘たちが、自分たちの生き方を自分たちで決めるための話し合いを続けるのです。

罪を赦さなければ天国へ行けない、そう教えられてきた彼女たちは、対話を続けながら葛藤します。
イエス様の教えとして心に刻まれたことと現実とのギャップに、もがき苦しみます。
対話がヒートアップして紛糾すると、 誦じた聖書の言葉を祈りとして唱え、聖歌を歌うのです。

特に印象に残っているのが、以下のフィリピの教会への手紙を唱えるシーンでした。 

わたしは、こう祈っています。
神への深い知識と、研ぎ澄まされた感覚を身につけることによって、あなた方の愛がますますいっそう豊かになり、大切なことを識別できるようになりますように。
キリストの日に備えて、あなた方が純粋で、非難されるところのない者となり、イエス・キリストによってもたらされる義の実を豊かに結んで、神の栄光を讃えることになりますように。

(フィリピ1・9~11)

彼女たちは本当に純粋に、心から丁寧に信仰を守ろうとしています。

決して「面白い映画」ではありませんが、女性として生きていくために、女性らしく対話を尽くし、自分たちの未来を自らの意思で決定する彼女たちの姿には感動しかありません。

架空の話ではない、実際につい最近起きたことです。

「自分なりに女性らしく生きたい」と願い考えることは、いつの時代であれ決して間違ったことではないとわたしは考えます。