カテゴリ:降誕祭
祝福を受けたもの
あらためまして、主のご降誕おめでとうございます
久留米教会のミサにも、たくさんの方が参列されていました。
24日の1回目の夜半のミサは、おそらく1/4ほどが洗礼を受けておられない方だったかと思います。
始まる前に、「ミサの中で聖体拝領という時間があります。洗礼を受けている信者が小さなパンを受け取ります。まだ洗礼を受けておられないかたは、列に並び、ご聖体は受け取らず、司祭の前で頭を下げて祝福を授けてもらってください」とアナウンスをしました。
聖体拝領の際、改めて宮崎神父様が「洗礼を受けてない方は、聖体拝領が終わった後で列を作ってください」とおっしゃったのですが、「さぁ、祝福を希望する方は並んでください!」と言われたときにとても多くの方が列を作り、祝福を受けられていたのです。
(失礼ながら)聖体拝領の時とは違う宮崎神父様の嬉しそうな表情に、少し涙ぐんでしまいました。
「よく来てくださいましたね、ありがとう、祝福を受けてください!」
そういいながら按手されている気がして、心が熱くなりました。
田中昇神父様のnoteに、派遣の祝福について書かれているページがありました。
以下、少し抜粋してご紹介します。
祝福は、二者の間でやりとりされる一種のコミュニケーションであると言えます。
参加している会衆に向かって「全能の神、父と子と聖霊があなたがたを祝福して下さいますように」と祈ります。
それは、ミサを司式する司教や司祭にキリストの祭司として民に祝福を与える権能が付与されているからです。
もし教会におけるミサ聖祭で、司教あるいは司祭である司式者が神からの祝福を祈るのであれば、それは祝福を与える神とそれをいただく会衆との間の代理者・仲介者として彼らが立てられているからということに他なりません。
ミサ聖祭に参加した信者は皆、聖体によって「養われた者、豊かさをいただいた者、栄えにあずかった者」として、得たものを生活の場で表すように招かれています。
彼らは司式者の祝福によって自分たちの生活の場である家庭、職場、学校に送り出されていきます。
そこで、彼らは遣わされる場で「豊かさ」と「栄え」を福音宣教によって多くの人々に証しながら伝えて行く「使命」(Missio)を果たすわけです。
復活され天に昇って行ったキリストも、後に全世界に宣教に出かけていく弟子たちを、手を上げて祝福されました(ルカ24:50-51)。
それゆえ教会は、ミサの最後に、頂いた恵みを伝えるように、宣教に専心するようにと、貴い使命を受け、それぞれの生活の場に派遣されていく信者を祝福するのです。
Ite, Missa est(イーテ、ミッサ エスト)というラテン語は、字義的には簡潔に「(あなた方は)行きなさい!終了/解散・派遣です!」という意味で、それが日本語のミサ式文では、「感謝の祭儀を終わります。行きましょう(主の平和のうちに)」と訳されています。
私たちは目的なく散会させられるのではなく、使命を伴う散会なのです。
わたしたちは毎週、ご聖体をいただくだけではなく、派遣の祝福を受けているのだ、と改めて理解できました。
洗礼を受けているから、按手による祝福ではなくご聖体をいただける、ではなく、ご聖体をいただいた上にさらに祝福を受けて派遣されているのです。
主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。
(民数記6・24〜26)
元旦のミサで読まれるこの箇所は、司祭がわたしたちを祝福してくださる権能を授けられていることの証であるとされています。
『来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように』
(サムエル上25・6)
この箇所は、とても好きなのでいつも年末のあいさつとして用いてきました。
毎年、「わたしにとって今年は本当に素晴らしい一年でした、たくさんのお恵みをいただくこともできました、来年もよろしくお願いいたします」と言う気持ちから、この箇所を好んで人にもお伝えしてきました。
今年は、少し違った気持ちです。
元日に起きた能登半島地震、2日に起きた飛行機事故、クリスマスでさえ停戦がなされなかった戦争、これらを思い浮かべると、「来る年も今年のようでありますように」と言う気持ちにはなれないのです。
主よ、わたしの祈りを聞き入れ、わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日に、あなたの顔を隠さず、わたしに耳を傾け、わたしが叫び求める日に速やかに答えてください。
(詩編102・1〜3)
天地を造られた主が、あなた方を祝福してくださるように。
天は、主に属するもの、地は、主が人の子らに与えてくださったもの。
わたしたちは主をほめたたえよう、今からとこしえに。
(詩編115・16、18)
来る年も、神様がわたしたち一人ひとりを正しく進むことができるように導いてくださいますように。
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29日、今年最後の日曜日は、ミサの最後にベトナムとフィリピンの皆さんが、「今年一年の感謝の気持ちを表したい」と聖歌を披露してくれました。
小道具を持参していらしたジュゼッペ神父様もイタリア語の聖歌を(負けじと)披露してくださり、心温まる最後の主日ミサとなりました。
救いの時
主の御降誕おめでとうございます。
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主は、アハズに重ねて語られた、「お前の神、主に徴を求めよ。陰府の深みに、また天の高みに」。
しかし、アハズは言った、「わたしは求めません。主を試みるようなことはしません」。
そこで、イザヤは言った、「ダビデの家よ、開け。あなたたちは、人間を煩わせるだけでは足りず、わたしの神までも煩わせるのか。
それ故、主ご自身が、あなたたちに徴を与えられる。
見よ、おとめが身籠って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
(イザヤ7・10〜14)
インマヌエル、わたしの洗礼名です。
キリスト者であることを自覚するべく反省する時などには、この霊名を思い返すようにしています。
与えていただいた名前、これがわたしの誇りです。
神様がわたしたちに与えてくださった徴、それは救いの象徴です。
わたしのいとしい方は、わたしに語りかけて言われます、
「わたしの愛する人、立ちなさい。
美しい人、出ておいで。
冬はさり、雨はやんで、もう去った。
大地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来て、山鳩の鳴き声が、わたしたちの国じゅうに聞こえる。
いちじくの木は初なりの実をつけ、花を咲かせたぶどうの木は香りを放つ。
わたしの愛する人、美しい人よ。
さあ、立って、出ておいで。
(雅歌2・10〜13)
雅歌は、紀元前4〜3世紀の間に書かれたとされており、ヘブライ語本では「歌の歌」と言う表題で、数ある歌の中でも最も美しい歌であるという意味が込められています。
花婿はイスラエルの民を愛する主なる神で、花嫁は主を愛するイスラエルの民
あるいは、キリストと教会、神と聖母マリア、キリストとキリスト者を当てはめて解釈されることもあります。
そう思ってこの歌を読み返すと、その美しさがさらに増すように感じます。
祈り続け、ようやく身籠って産まれたサムエルを、ハンナは主に捧げます。
「祭司さま、あなたの命に懸けて申します。
わたしはここであなたの傍らに立って主に祈っていた女でございます。
この子が授かるようにと、わたしは祈り、主はわたしの願いを聞き入れてくださいました。
ですから、わたしもこの子を主に委ねます。
この子は生きているかぎり主に委ねられたものです」。
(サムエル上1・26〜28)
「主に委ねる」、という表現が心にしみます。
(聖書の表記で、「」。というのが好きです。
大切なことを語り終えて、。で心を止める、という感じがしませんか?)
以前、悩んでいたことを友人に相談したところ、彼女が「神様にすべてを明け渡すしかないよ」とアドバイスをくれました。
目が開かれる思いでした。
すべてを「主に委ねる」ことは、何もせずにほおっておくこととは違います。
以前も書いたように、自分にできることをしたうえで、神様のお導きを信頼して待つのです。
24日の朝のミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。
「どのようなことが起きても、いつでも全てを主に委ねると言うマリア様の信仰を思い、アベマリアの祈りを祈っていますか?
神に全てを委ねる信仰は、覚悟を持つと言うことです。」
今年のクリスマスは、なにか、心が落ち着かないままで迎えてしまいました。
ひとつには、イスラエルで起きていることのためです。
新聞報道によると、ガザで食料配布用のトラックが襲われ、人々がトラックの荷台に乗って食料を奪い、その場でむさぼるように食べていた、といいます。
避難所では水は1日1人当たり1.6リットル、トイレは486人に1つ、感染症も急増しているそうです。
犠牲者が増える一方で、同時に生存者も、食料・水・燃料がなく、生きる希望を失っています。
希望の季節を迎えたキリスト教会のわたしたちは、救いのない状況を強いられている人々の現状を、ニュースの世界のこととして傍観してはなりません。
このような時に、どうこの気持ちを表したらいいかと考えていたところ、ローマの船津神父様のFacebookにその答えをみつけました。
現在バチカンに展示されている「100の飼い葉桶」について、船津神父様はこう書いていらっしゃいました。
「様々あって面白い。
しかし一番強烈で心が痛むのは、今年、聖地ベツレヘムの教会に置かれている、瓦礫の中のイエス。
絶望、争い、悲しみ、恐れの世にイエスは生まれてくる。
希望、平和、喜び、愛として。」
みなさま、よい年末年始をお過ごしください。
神様の子
主の御降誕、おめでとうございます。
ADVENTアドベントとは、「到来」を意味します。
メシア、キリストの到来を祝うのがクリスマス、キリストのミサです。
実際に12月25日にベツレヘムでお生まれになったわけではありませんが、史実かどうかは問題ではないのです。
何のために、誰に向けて誕生物語が描かれているのを理解することが大切です。
わたしたちキリスト者は、このイエス様の誕生の意味をどう捉えているでしょうか。
当時のユダヤ人たちにとってのメシア(キリスト)とは何者だったのか。
ナザレのイエス
歴史上の人物
信仰のキリスト
ユダヤ人にとっての救い主は、当時のローマ帝国からの圧政から救ってくれる王としての神でした。
現代のわたしたちキリスト者にとっては、イエス様は神の子、そして同時に神様です。
パウロの認識では、イエス様は神の子としてお生まれになったのではありませんでした。
一人の人間として生まれ、活動したイエス様がご復活を通して神となられた、という考え方です。
ペトロの認識では、イエス様は特別な使命を神から受けたメシア(王)である、というものでした。
彼はイエス様を神の子であるとは思っていなかったのです。
「あなたはメシアです」(マルコ8・29)
1番古い福音書であるマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」という出だしで進みます。
これは、最初から神の子だった、という認識からではなく、イエスとは何者なのか、そして「神の子」として人々に認識されていく過程を中心テーマとする、マルコの洞察の表れです。
「まことに、この方は神の子であった」(マルコ15・39)
この百人隊長の言葉は、マルコの神学的頂点である考え方、受難・死・復活によって全世界の異邦人から神の子であることが認められたことを暗示しています。
それに比べ、誕生物語を記したマタイとルカは、当時のユダヤ人に向けて「この方は神の子、神様だ」と伝えたかったので、生まれた時から神の子であるということを強調しているわけです。
ルカ2章のイエスの誕生物語は、旧約聖書からの多くの逸話が散りばめられた、映像が目に浮かぶような美しい描写です。
今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産衣にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。
これが徴である。
(11〜13)
イエス様が神の子、神様であるからこそ、わたしたちはその神様の子なのです。
25日のミサでは、2名の方の洗礼式が執り行われました。
来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
(サムエル上25・6)
良いお年をお迎えください。✝️
喜びのなかに
クリスマス、おめでとうございます。
愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
(テトス2・11~14)
今年はいろいろなこと、特に信仰、他者との関わりについて、深く考えを巡らせることができた一年だったと感じています。
みなさまにとっては、どのような年でしたでしょうか。
今年最後の一冊として読んでいる本、若松英輔さんと山本芳久さんの対談による「危機の神学」。
若松さんが、アウグスティヌスの「告白」の一節を引用していらっしゃいましたので、本棚から取り出してその個所の前後を再読してみました。
やや悲観的な文章に感じるかもしれませんが、決してそうではありません。
神様のあわれみを最高の拠り所とする、まさに、これがわたしがこの一年の間に感じたことを象徴する言葉です。
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おのがすべてをささげてあなたに寄りすがるとき、何のかなしみも苦しみもなくなることでしょう。
そのとき、私の生はまったくあなたにみたされ、真に生ける者となることでしょう。
ああ、何たることか。
主よ、あわれみたまえ。
悪しきかなしみと善きよろこびとが、争っています。
ああ、何たることか、主よあわれみたまえ。
ああ、何たることか、見たまえ。
私は傷をかくさない。
あなたは医者で、私は病人です。
あなたはあわれみ深く、私はあわれです。
地上の人生、それは試練にほかならないのではないでしょうか。
だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。
あなたはたえよと命ぜられますが、それを愛せよとはお命じにならない。
私は逆境にあって順境を熱望し、順境において逆境を恐れます。
この二つの境遇のあいだに、人生が試練ではないといったような、中間の場所はありません。
まことに、地上における人間の生は、間断のない試練ではないでしょうか。
それゆえ、すべての希望はただひたすら、真に偉大なあなたのあわれみにかかっています。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲することを命じたまえ。
おお、いつも燃えてけっして消えることのない愛よ。
愛よ、わが神よ、われを燃えたたしめたまえ。
御身はつつしみを命じたもう。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲するものを命じたまえ。
「告白」第10巻 28~29章より抜粋
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先月から「侍者を希望する小学生」を募集したところ、7名の子どもたちが手を上げてくれました。
なんというお恵みでしょう。
今年の降誕祭は、この子たちが侍者を務めてくれました。
24日の午後、宮﨑神父様が久留米のドリームスFMに生出演され、クリスマスについてお話されました。
この世に来られた、いのちのことばであるキリストを、わたしたちの生き方を通してあかしすることができますように。
みなさま、よい年末年始をお過ごしください。
父である方の愛
イエス様の誕生をもって、教会のカレンダーは降誕節に入ります。
クリスマスの次の日曜日は聖家族をお祝いするのが習わしです。
父と子と聖霊の御名によって アーメン
父である神
イエス様
聖ヨセフ様もお父様です。
どうしても存在感の薄いヨセフ様ですが、イエス様がダビデの家系なのはヨセフ様の血です。
ヤコブの子はマリアの夫ヨセフである。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
(マタイ1・16)
イエス様がダビデの家系てあることが書かれたそのあとに続き、ヨセフ様へのお告げについて書かれています。
イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身ごもっていることが分った。
マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。
ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った。
(2・18~20)
ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じたとおり、彼女を妻として迎え入れた。
マリアが男の子を生むまで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。
(2・24~25)
イエス様が生まれた直後にも、エジプトに非難するように主の使いが夢でヨセフ様に現れて言います。
そして、エジプトから出てイスラエルに行け、と主の使いが夢に現れるのもヨセフ様に、です。
ルカには、「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフ」がベツレヘムに住民登録にマリア様を連れて行ったことと、主の使いが羊飼いにベツレヘムへ行くように告げたとき「マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」という2か所にヨセフ様のことがチラッと書かれています。
マリア様を静かに受け入れ、エジプトへ行け、イスラエルに戻れ、と天使のお告げに従って家族を守ったお父様。
なのに、外典に書いてあるからなのでしょうが、中年だったさえないおじさんが若いマリアを嫁にもらうことになり気が引けたから耐えた、ようなイメージがないことはない、、、です。
ミケランジェロ HolyFamily
(完全に、お父さんじゃなくておじいさんです、、、)
ヨセフは一見すると主役級にはならないものの。その姿勢の中にはすべてのキリスト者の知恵が収められています。
説くことも語ることもしませんが、神のみ旨を行おうとするかたで、しかもそれを福音に沿った、真福八端の仕方で行います。
ヨセフは完全に神を信頼し、天使の言葉に従ってマリアを自分のもとに迎えます。
神に対する固い信頼によって、人間には困難なことを、ある意味納得のいかない状況を、受け入れることができるのです。
ヨセフはマリアの胎から生まれる子は自身の子ではないこと、神の御子であることを、信仰において理解します。
そうしてヨセフは、地上での父であることを全面的に受け入れる保護者となるのです。
(教皇フランシスコ講和集7より)
早くから描かれていた聖母子像と違って、聖家族は16世紀頃から描かれるようになりました。
それまではヨセフ様に対する信仰が薄かったからと言われています。
教会がヨセフ様を保護者として認定したのは1870年です。
久留米教会にはもともと、マリア様のご像しかなかったのですが、30年ほど前にヨセフ様のご像もこうして設置されました。
(ちょっと頼りない雰囲気?)
これは、ガイドさんが「イスラエルで一番美しい聖家族のご像だと思っている」とおっしゃっていた、イスラエルの聖ヨセフ教会のご像です。
(頼りがいありそう?)
教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。
教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。
聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。
使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言してから150年を記念して発表されました。
教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。
(カトリック中央協議会ホームページより)
2020年は、誰にとっても試練が与えられたような、多くのことを考えさせられる、忘れがたい年となりました。
わたしたちには、幸いにもお父さんがいてくれます。
天の父
イエス様、ヨセフ様
神父様
マリア様へは毎日お祈りしていますが、ヨセフ様にお祈りしたことはないかも。。。
この一年の締めくくりとなるあと数日、ヨセフ様にもご加護をお願いしつつ、地球全体に与えられたこの試練の日々が一日も早く収まりますように祈りながら新しい年を迎えたいと思います。