カテゴリ:四旬節

お恵みを受け取る

もう2週間以上も体調がすぐれず、風邪やコロナでもなく、黄砂と花粉が原因と思われる、むせかえる咳に悩まされています。

聖書を開いて今週の記事を書く、という気持ちの余裕がありませんでした。

それでも、毎日の小さなお恵みを見逃さずにノートに書き留める習慣は、忘れずに続けていました。

「主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠」。
主に贖われた者は言え。
主は彼らに敵対する者の手から贖い、もろもろの国から、東と西、北と南の海から集められた。
彼らが悩みのあまり主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出された。
主はまっすぐな道に彼らを導き、人の住む町にたどりつかせた。
主の慈しみと、人の子らへの不思議な業に感謝せよ。
主は渇ききった魂を満ち足らせ、飢えた魂を善いもので満たされた。
(詩編107・1〜9)

お恵みノートは、20年近く続けている、わたしの習慣です。

お恵み=良かったこと、嬉しかったこと、幸せを感じたこと、思いがけない喜び、など、1日にひとつもなかったことはありません。

そんなことがお恵み?と思われるかもしれませんが、小さな喜びや幸せを受け取ると、「神様、ママ、ありがとうございます」と思わず呟くのも、わたしの長年の習慣なのです。

先日書いた、職場でのストレスの原因の人が、「お昼に食べて」とたこ焼きを買ってきてくれました。
(さすがにわたしへの態度が悪かったことを反省したのか!?)

洗濯機が壊れ、新しいのを買うしかない、と家電店に行ったら、「もったいないので修理したほうがいい」と思いがけない提案をされ、年度末の繁忙期にも関わらず迅速に対応してもらえました。

体調を崩していることを知った教会の方が、栄養ドリンクとケーキを届けてくれました。

別の教会の方も、「道の駅であなたが好きなお野菜(セリ!!)見つけたから」と色々なお野菜を買ってきてくれました。

こうしたわたしなりのお恵みを見逃さずに受け取ることで、心のキャパシティのうちの不安・悲しみ・寂しさが占める割合を減らすようにしています。 

弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
見よ、お前たちの神を。
神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる」。
(イザヤ35・3〜4)

体調がすぐれないと、どうしても気持ちまで落ち込んでしまいます。

自信をなくし、心に占める不安や心配事の割合が大きくなるのを感じます。

それでも、神様が毎日の暮らしの中にもお恵みを与えてくださっていることを感じることができる、それ自体がお恵みだと思えると、元気が出るのです。

 

教皇様の体調が心配です。

教皇様は、回心し、悔い改め、神のいつくしみを受け入れるべき時であるこの四旬節に、自分たち自身がまず何よりも神のゆるしの対象であることを忘れないように、と指摘されています。

宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

「赦してもらうのだから、自分も人を赦さなければなりません。
隣人を赦して受け入れること、放蕩息子のたとえの“兄の心“を持たないこと。
特にこの四旬節は心がけてください。」

自分が日々受け取っているお恵み、神様がわたしたちの日々の罪をも赦してくださるというお恵みを、もっと深く噛み締めたいと思います。

 

信仰を噛みしめる

わたしは、33年前の御復活祭に受洗しました。

今年が33回目の四旬節です。

その年の3月22日に、まだ桜の便りはなかったような気がします。

33年前、久留米教会での御復活祭の写真です。

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先週の来住神父様のnoteには、こう書いてありました。

「私が洗礼を受けたのは1981年です。
今年が43回目の四旬節です。
43年のうちに、良くも悪くも平穏であろうと思っていた人生が意外に難しいとわかって来ました。」

来住神父様は、洗礼を受けていたから、聖書を読んでいたから、自分に降りかかった苦しみの意味を考えざるを得なかった、とおっしゃっています。

受洗を控えた方が、「まだ悩んでいる」「疑問がたくさんある」「心が定まっていない」、といったことをおっしゃるのを聞いたことがあります。

わたしが洗礼を受けた時、受洗への迷い、信仰・聖書への疑問など、持ち合わせるほどに考えもしていませんでした。
周囲から、「あなたは神様の子だ」「インマヌエルだ」と何度も言われて(調子に乗り)、洗礼を受けることは「正式な信仰の始まり」のような気持ちでした。

来住神父様が書かれているように、わたしもこれまでの年月、人間として成長していく過程に信仰と聖書があったことは何よりの救いでした。
神様に「どうしてですか?」「どうしたらよいですか?」と訴えることができた、そう言える対象は、最高の相談相手でした。

 

主に信頼し、主を望みとする者は祝福される。
その人は水辺に植えられ、流れの方にその根を伸ばす木。
暑さが来ても恐れず、その葉は青々としている。
旱魃の年にも心配はなく、実を結ぶのをやめることはない。
心はあらゆるものに勝って偽るもの、たばかるもの。
誰がこれを究めえようか。
わたし、主が心を調べ、思いを吟味する。
各々をその振る舞いに応じて
その行いの実に応じて報いるために。

(エレミヤ17・7~10)

(アンダーラインの箇所、聖書教会共同訳の聖書では、「主である私が心を探り、思いを調べる。おのおのが歩んだ道、その業が結んだ実に応じて報いるためである」となっています。)

信頼して望みをかけることができるよりどころがある、それが信仰の醍醐味です。

しっかりと根をはり、葉を青く茂らせ、実を結ぶように、心と心の芯(はらわた)を強く整えてくださる神様。
憂いを和らげてくださる神様を信頼する以外に、人生に降りかかる様々な問題を解決する術を知りません。

とはいえ、わたしがちゃんと聖書を読むようになったのは、この15年ほどです。
信仰について噛みしめて核心を持てるようになったのは、この10年ほどです。

いつもここに偉そうなことを書いていますが、書きながら噛みしめることが、ここ数年のわたしの信仰の基盤になっているのです。
自分が今歩んでいる道が実を結ぶように、と心がけながら。

あなたの立てた決心を思い起こし、十字架上の救い主の面影を、常に自分の眼前に置きなさい。
イエス・キリストのご生涯を思うなら、大いに恥じるべきことがあるはずである。
なぜなら、あなたは長い間、神の道に入っていながら、未だに、イエスに自分を一致させようと、真剣に努力していないからである。
彼の聖なるご生涯とご受難とを、熱心に、注意深く黙想するキリスト者は、自分に有益で必要なものを、そこに多く見出すであろう。
イエスにまさる何かほかのものを探す必要はないはずである。
(「キリストに倣いて」 第1巻第25章6)

3/20長崎・浦上教会での司祭叙階式には、久留米教会からバスで34名が参列しました。
久留米で司牧実習をしてくださったホンさんの、晴れやかな、新しい出発の日でした。

来月の御復活祭で洗礼を受けることになっている方が、中村大司教から祝福をいただいた時に、「よくいらっしゃいました」と声をかけられたそうです。

「祝福が心に染み渡りました」と感激されていました。

わたしたちキリスト者には、このように、信仰を噛みしめる幸せな瞬間があります。

愛する者よ、あなたの魂が幸いであるのと同じように、万事において恵まれ、また、健やかであるようにと祈っています。
兄弟たちが来て、あなたが真理のうちに歩んでいることを証ししてくれたので、わたしは非常に喜んでいます。
事実、あなたは真理のうちに歩んでいます。
わたしにとって、子供たちが真理のうちに歩んでいると聞くことほどうれしいことはありません。
(3ヨハネ1・2~4)

この聖句は、友人がわたしの誕生日プレゼントに添えて送ってくれた箇所です。

こうして信仰の分かち合いができることも、幸せなお恵みです。

 

 

ストレスと向き合う

今年の四旬節にあたっての教皇様のメッセージ、この一文が目と心に留まりました。

「この四旬節、神がわたしたちに求めるのは、生活において、家庭で、職場で、小教区や諸共同体において、他者とともに歩めているか、その声に耳を傾けられているか、自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈せずにいられているかということです。」

https://www.cbcj.catholic.jp/2025/02/28/31569/

皆さんは、どのようなことに、どのようなときにストレスを感じますか?

わたしは最近、いろいろなことにストレスを感じて疲れてしまっている気がしていましたので、ストレス度自己テスト、というのをネットで見つけてやってみました。

日常生活でのストレス、職場でのストレスの2つのパターンでテストしてみたのですが、「あなたは『軽度のストレス状況』(多少のストレスはあるが、大きな問題はない)にあるようです。」という結果でした。
ようは、自分で「自分はストレスを感じている」と思い込んでいるだけで、心とからだには大した不調はない、ということがよく分かったのです。

つまり、「自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈していた」ということを自覚しました。

⚫︎人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である
⚫︎自分ではどうしようもない物事は軽視せよ
⚫︎自由に生きていくうえで重要なことは、自分がどのような人間かをしっかりと把握し、自分の強みに磨きをかけることだ(日々、内省すること)

古代ローマの奴隷出身のストア派哲学者、エピクテトスの残した格言です。 
古代ローマの人々も、やはり人間関係や仕事のストレスを抱えていたと思われます。

⚫︎ストレスを感じているのは、自分の意に沿わないからなのではないか、と立ち止まって考えてみる
⚫︎夢に出るほど考えたところで、明日何かが変わるわけではない
⚫︎今日の自分の言動は本当にあれで良かったのかを毎晩反芻し、明日はよりよく過ごすこと

エピクテトスの言葉に沿ってみると、うまくストレスと向き合える気がしてきました。

 

主よ、わたしたちを思い起こし、この悩みの時、あなたご自身をお示しください。
わたしに勇気をお与えください。
すべての主権を統治する方、神々の王よ。

主よ、あなたの手をもってわたしたちをお救いください。
わたしをお助けください。
わたしはただ一人、わたしにはあなたのほかに誰も助け手はおりません。
すべてに勝って力ある神よ、絶望のうちにある者の声を聞き、悪を行う者の手からわたしたちをお救いください。
また恐れからわたしをお救いください。

(エステル記C 23,25,30)

ストレスを感じていると思う時は、神様への信頼が損なわれている時かもしれません。

わたしのストレスの多くは仕事に関することですが、いつも結局はこう自分に言い聞かせて落ち着くようにしています。
「母が感じていたストレスに比べたら、こんなことはちっぽけな悩みに過ぎない」

わたしたちは四方八方から苦しめられていますが、行き詰まりはしません。
途方に暮れますが、望みを失いはしません。
迫害されますが、見捨てられはしません。
打ち倒されますが、滅びはしません。
わたしたちは、いつもイエスの死に瀕した状態を体に帯びています。
それはまた、イエスの命がこの体に現れるためでもあります。
実に、わたしたちは生きていますが、イエスの故に絶えず死の危険にさらされています。
イエスの命が、わたしたちの死すべきこの身に現れるためです。
そこで、死がわたしたちの内に働いでいますが、命があなた方の内に働いていることになります。
(1コリント4・8〜12)

パウロが献身的に働いていた宣教活動において受けた苦しみは、そのことを通してイエス様の死が働き、自分自身と信徒たちにイエス様の命を現すための犠牲だったのです。

 

地下鉄サリン事件から30年です。
事件から25年後の2020年に最高裁で判決が確定し、オウム真理教の後継団体「アレフ」が支払い義務を負う賠償金約10億円が未だに支払われていないことをニュースで知りました。
東日本大震災から14年です。
福島原発の廃炉への工程が予定通りに進んでいないことも懸念されます。

物事の解決には、なんと時間がかかるのだろうかと痛感させられます。

30年前のテロの犠牲者のご家族、いまだ後遺症やトラウマに悩む方々。
帰還者が想定通りに戻らず、故郷の再生に不安を抱く地域の方々。

そのような方々の抱えるストレスを想像すると、日々のちっぽけなこと(目をつぶればいいこと、気にしなければいいこと)にストレスを感じたわたしが恥ずかしくなります。

今週のお恵みは、ストレスと向き合う方法をこうして神様と母がわたしに気づかせてくれたことでした。

無償の愛

曽野綾子さんが帰天されました。

20代前半、いろいろ悩んでいた時期に曽野さんの本を読み漁っていたのを思い出し、いまでも大切にとってあった『天上の青』を読み返しました。

ヘブンリーブル―という鮮やかな青い朝顔に引き寄せられて、ふと、雪子の家を訪問するようになった富士男。
彼は、適当に狙いを定めた女性や子どもを次々に、大した理由もなく(本人には明確な理由があるのですが)殺します。
それでも、ふらっと雪子の家に来ては、お茶を飲み、お菓子を食べながら素直な様子でおしゃべりをすることが唯一の救いのような楽しみでした。

そして、ある事件をきっかけに富士男は逮捕されます。 
(以下、紫の太文字は本からの抜粋です)

「今、良識ある行動というのは、一切黙っていることであり、宇野富士男に関することは総て忘れることだということは、わかっている。しかしそう思う傍ら、雪子はそのような自分の判断に恐怖を抱いた。
その人は確かにこの世にいるのに、その人の存在が都合悪くなると、あたかもその人がいなかったように無視せよ、と言う。
それが良識、というものなのだろうか。
それが、正しい、人間的な行為なのだろうか。
聖書の中には、イエスと悪人との関係がいくつも明瞭に記されている。
それはともすれば溺れそうになる感情の深淵から這い上がった上での悲痛なまでに理性的な選択だった。」

そうして、雪子は留置所の富士男に手紙を書くのです。

「この手紙は、あなたの手に届くのかどうか、私は知りません。差し入れということができるとも聞きました。
私にできることがあったら致します。
あなたには私など必要ないかもしれません。

しかしもし、何かの事情で、ご家族にそういうことがおできにならないような状況になった時は、私がしましょう。
あなたが、私の身内でしたらこう言うだろうと思います。
今いる所と時間を、どこであろうといつであろうと、自分を育てるために使ってください、と。
あなたが、ご自分を失われないことを祈っております」

どうしたらこのような気持ちになれるのだろうか、と初めて読んだ時は理解できませんでした。

さらに、雪子は富士男のために弁護士を見つけて費用を負担しようとします。
相談に行った教会の司祭からも、ごく普通に考えても死刑になる可能性が大きい人のために、なぜかなりの額のお金を払うのか、あなたの気持ちが何のためなのですか、と問いかけられます。

雪子の答えはこうです。

「同じ死刑になるのでも、それまでが、大切だと思うんです。
見捨てられて死ぬのではいけないんです、誰でも。」

雪子は帰り道、「あなたと神の間になにがあるか、ということだから」としか言ってくれなかった司祭のことを「何も進路を教えてくれなかった」と考えていました。

少し考えてから、司祭の深い配慮を感じるようになります。
余計な指示は出さずに、だたよく祈って決めるように、と背中を押してくれていたのだと。 

こうしてずいぶん時間を置いて読み返してみて、最初は理解できなかった雪子の気持ちがすーっと心に入ってきたことに驚きました。

富士男は、いびつな愛情を雪子に抱いていますが、雪子は恋愛感情も明確な友情も感じているわけではありません。

20代のわたしには分からなかった、真の無償の愛を持って、最後まで富士男と誠実に向き合う様子に涙がこぼれます。

聡明な愛は、愛する相手の贈り物よりも、むしろ贈る者の愛を重んじる。
彼は価よりもむしろ愛情に注目し、愛する者の次に贈り物を置く。
崇高な愛をもつ人は、受けた贈り物に満足せず、あらゆる贈り物にまさって、神であるわたしに満足する。
(「キリストを生きる」第3巻 第6章 2)

ネタバレをしますが、留置所の富士男との文通の中で、彼は「たった一言答えを聞かせてほしい。愛していてくれるなら、控訴しない」と書いてよこします。
それに対し、雪子は「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました」と返事を書くのです。

1994年にNHKでドラマ化されました。
雪子は桃井かおりさん、富士男は佐藤浩一さんです。
最後の「愛している」の重要なシーンで、ドラマでは「愛していません」と雪子は返信したのです。

インタビューで桃井かおりさんが、「聴衆を信じようよ、と監督と話し合い、原作・脚本と違うように変えた」とおっしゃっていました。
(このインタビューは衝撃だったので、よく覚えています)

当時は、桃井さんの考えも深くは理解できませんでした。
そして、愛とは親子の愛と恋愛のことだ、と思っていました。

色々な経験を積み重ね、信仰についても自問自答しながら生きてきた今、はっきりと無償の愛とはそういうものなのだと、今回読み返してみて素直に思えたことは、新たな発見でもありました。

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9日のミサでは、御復活祭で洗礼を受ける2名の方の洗礼志願式が行われました。

今年の四旬節は、教皇様のご病気への心配が拭えないままにスタートしましたので、とても嬉しいミサとなりました。

 

心の支え

枝の主日、あいにくの雨でしたが、大切な日を祝うことができました。

この枝は、久留米教会の敷地に育っているもので、有志の皆さんが丁寧に洗い、棘をとり、枝の主日のために準備してくださったものです。

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わたしたちカトリック信者は、占いやおまじないと言ったものを信じてはいません。

全ては神様の御旨の通り、お導きを信じていますから。

ですが、京都でお寺を巡ったり、神社でおみくじを引いたり、といったことは、日本人の習慣として楽しむことはあります。

占いやおみくじに書かれていることは、時には(都合のいい時には)わたしたちの心の支えとなります。

言葉に心を留める人は喜びを見出す。
主に寄り頼む人は幸い。
(箴言16・20)

心地よい言葉は蜂蜜のよう、
舌に甘く、体を健やかにする。
(箴言16・24)

人の歩みは主によって導かれる。
人間は、どうして自分の道を悟り得ようか。
(箴言20・24)

NYの妹が、仕事で東京に来ています。

彼女は、父と変わらない年齢の世界的アーティストのプロデューサー的な仕事をしており、その方の作品を昔売った方から買い戻す、外国の美術館で個展を開催する、など、大きなミッションを幾つも抱えています。

洗礼を受けている妹が今日引いたおみくじには。

 

わがおもう
港も近く なりにけり
ふくや 追手のかぜのままに 

災自ら去り福徳集まり目上の人の助けを受けて喜事があります
行先利徳あり

売物買物損はなし 
相場は好機です

 

プレッシャーのかかる案件を抱えた妹にとって、とても大きな心の支えになっているようです。

(おみくじの文面を考えている方のセンスに感動しました。)

自分の今の状況に応じた言葉を得ることができると、わたしたちは都合のいいもので、「『神様』がわかってくださっている!」と実感することができます。

よく宮﨑神父様がおっしゃるのが、「プロテスタントの方に比べて、カトリック信者はあまり聖書を読みません。もっと聖書に親しんでください。」

聖書を開くと(特に、わたしがいつもやるように、目をつぶって適当に開くと)、必ずと言っていいほど、目が開かれるような聖句に出会うことができます。

神がわたしを助けて、思いのままに語らせ、授かった恵みにふさわしい考えを起こさせてくださるように。
神こそ知恵の案内者であり、知恵ある者の指導者でもあるのだから。
わたしたちもわたしたちの言葉も、あらゆる分別と仕事の知識も神の手にある。
存在するものについての誤りないい知識をわたしに授けたのは神である。
(知恵の書7・15〜17)

わたしたちカトリック信者も、もっと聖書に心の支えを求めるべきでしょう。

ここを読んでくださっている方は、こうして毎週紹介している聖書の箇所を開いてくださっているのでしょうか。

ぜひ、この四旬節の間、それぞれにとっての心の支えとなる聖句を見つけてみてください。

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NYから来た姪が、「カトリックの教会素敵!」と宮﨑神父様と英語で話していた様子が、わたしにとっての今日のお恵みでした。

仕事と子育てを頑張っている妹たちと、4人の姪甥、そして、聖書に見出す言葉が、わたしの心の支えです。

 

 

 

天国とは

天国はどのようなところだろう、と思ったことはありませんか?

「天の国」はわたしたちが永遠に安らぐ場所、という感覚で理解していますが、「天国」は、大切な人々が旅立ったところ、というイメージです。

わたしはいつも、母が天国で後から来た後輩たちのお世話を焼いている姿を想像しています。

何度か書いたことのある、支援していた方が天国へ旅立たれました。

どうしてわたしが神に答えられようか。
言葉を選んで神と論議することができようか。
たとえ、わたしが正しくても、わたしは答えることができない。
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけである。
たとえ、わたしが呼んで、神がお答えになっても、神がわたしの言い分をお聞きになるとは思えない。
わたしに息つく暇も与えず、苦痛でわたしを満たされる。
わたしはもう自分のことはどうでもよい。
わたしは生きることをいとう。
神でなければ、これは誰の仕業か。
(ヨブ記9・14~18、23、24)

なぜ、あなたはわたしを母の胎から引き出されたのですか。
わたしは誰の目にも触れずに息絶えていたらよかったものを。
あたかもこの世にいなかった者のように、母の胎から墓場へと運ばれていればよかったものを。
わたしの余命はいくばくもないではありませんか。
今、わたしから離れて、少しでもわたしを楽にさせてください。
わたしが、二度と帰って来られない所に、闇と死の影の国に行く前に。
暗黒のように真っ暗な国、秩序のない死の陰の国、そこでは、光すら暗黒のようです。
(ヨブ記10・18~22)

その方は、強い信仰のなかで、自分がなぜこれほどの苦しみの中を生かされているのか、いつもその意味を捜していました。

まさに、現代のヨブでした。

ヨブ記の著者は、苦しみの起源と意義について問題提起しています。
当時の因果応報的な世の中にあって、そのことに強い疑念を抱き、この物語で神がヨブに現れて語りかける様子を描きました。

MARC CHAGALL 'Job Praying'(シャガール:祈りを捧げるヨブ)

なぜこのような苦しみをお与えになるのですか。
どうしてわたしをこれほど辛い目にあわせるのですか。

その方も、病気で苦しみ続けたこの10数年は、自分に与えられた苦悩についてもがいていました。
それでも、彼のことを見放さずに支援してくださったある神父様の存在が、彼の希望の光でした。

家族の中でも孤立し、あまりうまく行っていなかったようです。
ですが、臨終には家族が立ち会い、最期を見送られたそうです。

「語りかけるが、苦しみの意義は明らかにされない。
それは神秘のまま留まる。
だが、重要なのはヨブが苦しんでいるときに神が現れたことである。
これによって、人は苦しんでいるときも、孤独ではなく、自分の傍らには神が常におられることを強く感じるのである。」

フランシスコ会訳聖書には、こう説明がありました。

「孤独ではない」

きっと彼も、ヨブの言葉を理解されたのではないか、そう思ってわたしは自分を慰めています。

わたしはあなたのことを耳にしていました。
しかし、今や、この目であなたを見ています。
それ故、わたしは塵と灰の上に座り、わたしの言葉を忌み、悔い改めます。
(42・5~6)

天の国は、このようなところではないか。

ヨブ記を読み返していて、そう強く感じました。 

地上での自分の人生は決して孤独ではなかった、いつも、隣に神様がいてくださったのだ、そう強く理解できる場所、それが天の国なのかもしれません。

 

主はこう言われる。
わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して、荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。
太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。
見よ、遠くから来る、見よ、人々が北から、西から、また、シニムの地から来る。
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
山々よ、歓声をあげよ。
主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。
(イザヤ49・8~15)

目に浮かぶようなこの光景。

天国がこのような場所であったら。
見送った大切な人たちがここで過ごしてくれていたら。

彼が、安らかな穏やかな顔で、「神様、ようやくお会いできましたね」と天の国で幸せに過ごしている様子を想像しています。

 

癒しの力

レコンキスタという言葉、ご存じでしょうか。
「失地回復」を意味するスペイン語です。

718年から1492年まで、イスラム教徒から南欧イベリア半島を奪還するために、ヨーロッパのキリスト教勢力が起こした戦争のことです。
当時、イスラム教徒だけではなく、多くのユダヤ人もスペインから追放されました。

最近は、プーチン大統領によるウクライナ侵攻は「レコンキスタ」であると表現されています。

1198年に選出されたローマ教皇インノケンティウス3世。
悪名高き行いや政策で、カトリック界のみならず、歴史に名を遺した教皇です。

カトリックの威信の発揚とイスラムの撃退を目指した教皇は、キリスト教諸国間の争いを停止し、対ムスリムで結束するように呼びかけます。
これに応えて、ヨーロッパでは第4回十字軍が結成されました。
これも、当時の彼らの意図としては「レコンキスタ」です。

イベリア半島でも、アルフォンソ8世を中心としたキリスト教連合軍が結成されることになり、ピレネー山脈を越えて多くの十字軍騎士が来援し、連合軍は総数6万を超えました。

レコンキスタは、「再征服」という言い方もされるようです。
取り戻す、ということでしょうか。

 

先日、テレビのインタビューでこうおっしゃっていた方が。

「東日本大震災の被災者もそうだったと思うが、能登地震で被害に遭った自分も、元の生活に完全に戻るということはあり得ないと思っている。
新しい生活を一から作っていかなければならないんだ。」

13年経ってようやく下水道工事が始まる、という福島の方は、こうおっしゃっていました。

「これから新しい街を作っていくのだから、いろんな夢がある。」

元々は自分たちの土地だとして「取り戻す」戦争は、現代の世界では容認できないものです。

自然災害などによって荒廃した故郷を、新しく「取り戻す」という、力強く前を向いた方々の姿には、敬意を表すことしかできません。

シャガールが故郷への愛をもっとも詩的に描いた作品「村と私」を、NYのMoMA(近代美術館)で見てきました。

「これは単なる風景画ではなく、親しんだ習慣に対するノスタルジーを反映した大きな世界を表現したものである。自身を緑色で描いているが、これは彼にとって、復活と喜びを象徴するものであった。」と解説されているサイトがありました。

聖書には、バビロン捕囚からの帰還後、エルサレムを復興する希望を書いた美しい文章がたくさんあります。

すでに捕囚から帰還し、なお苦しい生活をしている人々を奮い立たせようとする神の姿です。

わたしは囚われ人となっているお前の民を、水のない穴から助け出そう。
囚われの身にあっても希望を持つ人々よ、砦に帰れ。
(ゼカリヤ9・11~12)

万軍の主は子自分の羊の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場で栄えある軍馬のようにされる。
この群れから隅の石が、
この群れから天幕の杭が、
この群れから戦いの弓が、
この群れからすべての指揮者が出る。
わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。
わたしは彼らを憐れむが故に、彼らを連れ戻す。
彼らは、わたしが見捨てたことのなかった者のようになる。
(ゼカリヤ10・3~6)

東日本大震災から13年
能登地震から3か月です。

同様に聞かれるのが、避難先から人々が戻らず、故郷が失われる不安や寂しさです。

そして同じように、故郷の再建のために隅の石となって指揮をされる人々の存在があります。

今なお、苦しい思いを抱えている方々に、少しでも癒しの時間がありますように。
復興への長い道のりを、諦めずに前進し続ける方々に、勇気と知恵、導きが絶えず与えられますように。

・・・・・・・・・・・・

マイケル・ジャクソンの名曲のひとつ、「ヒール・ザ・ワールド」は、直訳すると「世界を癒そう」という意味です。
歌の内容は「人間同士の争いで傷ついた世界を、愛で治癒しよう」というものです。

時代が変わっても、同じ行い、過ちを犯し、変わらぬ理想を持ち、癒しを求めるのが、わたしたち人間なのです。

Heal the world
Make it a better place
For you and for me and the entire human race
There are people dying
If you care enough for the living
Make a better place for you and for me

世界を癒そう
もっと素晴らしい世界にしよう
君にも僕にも、そして人類すべてにとって
死にかけている人々もいるんだ
君が命にちゃんと思いやりをもてば
君にも僕にも、より良い世界になる

 

 

 

普通のこと

今回の滞在は長かったため、いろいろなことをじっくりと考える時間がありました。

先日、クロイスターズ美術館に行ってきました。
ここはメトロポリタン美術館の別館になっていますが、セントラルパークの中央あたりにある本館からはかなり遠く、マンハッタンの上の方にあります。

 

1934年から1938年にかけて、ヨーロッパの4つの修道院と3つの礼拝堂が、石材のままニューヨークへ運ばれ、再建され、ひとつの建物として生まれ変わりました。

それが、このクロイスターズ美術館です。

クロイスターとは、修道院の内部にある回廊のことです。

9歳の姪、シャーロットは、父親が入学させたかった学校に入るために、0歳の頃から一緒にクエーカーのミーティングに行っていました。
(わたしたちが日曜日に集まるのをミサ、という代わりに、彼らは日曜日の集まりをミーティングと呼んでいます。)

今回、クロイスターズ美術館でカトリックの美術品に囲まれて圧倒されたようで、「わたしも大きくなったらカトリックになりたい!」と言っていました。

「ミーティングではいつも何をしてるの?」
「ただ静かにみんなでお祈りをするのよ。」
「どんなことを祈ってるの?」
「みんなが幸せに、平和に暮らせますように、って祈ってる。」
「今度から、家族それぞれの幸せについてもお祈りしてみて!」

 そんな会話をしました。

カトリック学校に配布されている『よき家庭』という季刊誌の昨年12月号に、森山司教様が寄稿されており、こう書いてありました。

何を中心にし、どこに生活の基盤を据えるのかはとても重要な課題です。
グローバリゼーション、さらにコロナの影響により、その場にいなくとも、オンラインで会議ができ、必ずしも対面で話す必要はなく、自室にいて世界中の人々と交信できることは、一昔前からすれば驚くべきことです。
しかしながら人は、やはり直に相手の顔や表情を見、その声を聴いて安心したり、より互いの理解を深め合ったりします。
「家庭は社会生活の第一の細胞」(カテキズム2207番)なのですから、今一度、家庭からすべてが始まり、生まれることを再確認してみてはどうでしょうか。

こうして外国に暮らす家族を訪ね、それぞれがどのような価値観のもとで生活しているかを実際に確認し、来て良かったと心から思います。

四旬節にあたり、改めて家族の大切さ、普通のことですが、これが1番大切なことなのだと再確認できました。

主よ、あなたはわたしの心を調べ、わたしを知り尽くしておられる。
あなたはわたしが座るのも立つのも知り、遠くからでも、わたしの思いを見通される。
あなたはわたしが歩くのも休むのも見守り、わたしの道をことごとく知っておられる。
わたしの舌に言葉が上る前に、
主よ、あなたはすべてを察しておられる。
あなたは後ろからも前からもわたしを庇い、
その手をわたしの上に置かれる。
(詩編139・1〜5)

 

もしニューヨークに行く機会がありましたら、クロイスターズ美術館にぜひ行ってみてください。

個人的な旅の中で感じた、信仰にまつわることを書いてきた1ヶ月でした。
お読みくださって、ありがとうございます。

 

アイデンティティ

桜と菜の花が同時に美しく咲きほこり、1年で1番日本の素晴らしさを満喫できる時期ですね。

外国からの観光客の姿をあちらこちらで多く見かけるようになりました。

私ごとですが、我が家にもニューヨークから家族と友人が滞在していました。

皆さんは、ご自分のアイデンティティを明確に意識していらっしゃいますか?

わたしは、自分が日本人であるという誇りや愛国心といったものを、あまり感じずに生きているということを思い知った日々でした。

というのも、二人の姪(父親はアメリカ人)はニューヨーク生まれのニューヨーク育ちにも関わらず、「わたしは日本人だ」という明確な意識を持っていることを知ったのです。

そして、うちに滞在していた二人の友人は、共に「わたしはユダヤ人です」と熱く語ってくれたのです。

一人は、イスラエル生まれ育ちで、父親はオランダ人、母親がユダヤ人です。
もう一人はアメリカ生まれ育ちで、父親がユダヤ人、母親はアメリカ人(カトリック教徒)です。

二人とも、ユダヤ人として教育され、ユダヤ民族であることに誇りを持っていました。
ですが、二人とも食事の規定もさほど気にせず(豚肉は食べませんが)、シナゴークに通うこともなく、安息日にも「仕事」をしていて、「わたしはユダヤ教徒ではない」というのです。

 

外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、また、体に施された外面的な割礼がほんとうの割礼でもありません。
ユダヤ人を真のユダヤ人とするのは、内面的なものであり、また、真の割礼は、文字によらず、霊によって心に施されるものです。
そのようなユダヤ人は、人間からではなく神から誉れを受けます。
(ローマ2・28〜29) 

聖書のこの箇所を見つけ、「なぜ?!」と混乱していた気持ちがスーッと落ち着きました。

自分の在り方への確信、自負を強く抱くこと、内面的な価値観を持つことの素晴らしさを、彼ら二人から学びました。

 

日本では、日本人であることに誇りを持つような教育はあまり行われていないように思います。
外国人の友人たちは口を揃えて、日本の素晴らしさ、日本人のおもてなしの心地良さを褒め称えてくれます。

少なくとも、これからわたしは「キリスト者であることを誇りに思っている」ということをもっと明確に意識しよう、と心に誓いました。

わたしたちの「内なる人間」は日に日に新しくされています。
わたしたちは「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの世限りのものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(2コリント4・16〜18)

あなた方は、信仰を生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。
それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられることを自覚していないのですか?
(2コリント13・5)

枝の主日を迎えました。

聖週間であるこれからの日々を、わたしたち一人ひとりがどのように過ごすかで、キリスト者としてのアイデンティティへの自負をさらに高めることができるでしょう。

 

 

正してくださる神

春爛漫!花粉も黄砂も!

見ていたのに見えていなかった。
聞いていたのに聞こえていなかった。

そう気づかされる体験、ありませんか?

助けを求めるシグナルを、分かっていたはずなのに理解してあげることができていなかった。
話しを聞いてほしいという気持ちを、知っていたはずなのに足が向かないままだった。

最近、そう気づかされた出来事があり、気持ちが落ち着かない日々を過ごしました。

自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。
(ルカ18・9~)

そうした思いは無い、と断言できないかもしれない。
もしかすると、わたしは自惚れがすぎたかも。
人を見下した態度をとっていたのかも。 

今週は、こういう思いが断ち切れずに、気分が上がらない日々を過ごしました。

主はサムエルに言われた。
「容姿や背丈にとらわれるな。わたしはその者を退けた。
人間が見るようには見ないのだ。
人間は外観を見るが、主は心を見る。」
(サムエル上16・6~7)

確かに、わたしは、人を外観で捉えていることがある。
わたしのことを内面で評価してもらえるように望むのなら、相手のことを判断するときに心をよく見るようにしなければ。

毎日、たくさんのことを考えています。
少し考えすぎているくらい、最近はいろいろなことを思い巡らせています。
そして、立ち止まって聖書を開くのです。

19日のミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。
「四旬節は、自分の在り方を見つめ直す時です。
自分の弱い面を反省し、克服する機会にしてください。」

生活しながら、日々を生きていく中で、ちょっとずつ前に進んでいきたいと思います。

主よ、わたしは知っています。
人間は自分の道を選ぶ者ではなく、
歩む者が自分の足取りを定めるのではないことを。
わたしを正してください、ただ、あなたの怒りによらず、公正によって。
さもなければ、わたしは無に帰してしまうでしょう。
(エレミヤ10・23〜24)

今週も、思い煩いを神様に問いかけて、明け渡し、自分にできることを実行し、一歩前に進むことができた気がします。

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アメリカ・フィラデルフィアの『聖ペテロと聖パウロの大聖堂』という名前のカテドラルを訪れた際に撮影した写真です。
世界中のカトリック教会には、こうした貴重な美術品や文化財が数多くあります。

とても気になるニュースがありました。

教皇庁は、バチカン美術館に2世紀にわたり保管されてきたパルテノン神殿の断片をギリシャ側へ返還することを決意したと発表しました。

近年、文化財返還の問題がクローズアップされていることが気になっていましたので、このニュースは驚きでした。
報道では「返還」、バチカンサイドは「寄贈」、という両方の表現がニュースに混在していました。

戦争中に略奪されたり、(正当に)購入したと主張されている美術品や文化財を元の国へ返還すべきだとの機運が、ここ数年で高まってきています。

ニューヨークのメトロポリタン美術館、パリのルーブル美術館で、古代エジプト・アジアの美術品を見て、確かに「なぜこんなにたくさん、なぜここに?」と思ったことを思い返しました。

ロシアのエルミタージュ美術館に行ったときに、ガイドの方が「地下の保管庫には、山積みになったままの美術品がまだまだたくさんあります。」というようなことをおっしゃっていたことを思い出しました。

ルカ20・20の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」が心に浮かびます。

これはわたしのものだ。
これは我が国の領土・領海である。
人間の歴史は、現在に至るまでいつもこの主張の繰り返しです。

パンダのように、対価を払って期間限定で借りることが合理的で分かり易く思えます。
今、世界中に散らばっている美術品・文化財を元の国に戻すことがスタンダードになれば、混乱、反発、主張、争い、、、が世界にはびこってしまうような気がします。

みなさまは、とう思われますか?

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バチカン美術館からギリシャへの返還について

https://news.yahoo.co.jp/articles/d32704b6969176f899b79ca3b205faf50e9d2a2b

文化財返還問題について

https://www.cnn.co.jp/style/arts/35148855.html

https://www.theheadline.jp/articles/772