心の支え
枝の主日、あいにくの雨でしたが、大切な日を祝うことができました。
この枝は、久留米教会の敷地に育っているもので、有志の皆さんが丁寧に洗い、棘をとり、枝の主日のために準備してくださったものです。
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わたしたちカトリック信者は、占いやおまじないと言ったものを信じてはいません。
全ては神様の御旨の通り、お導きを信じていますから。
ですが、京都でお寺を巡ったり、神社でおみくじを引いたり、といったことは、日本人の習慣として楽しむことはあります。
占いやおみくじに書かれていることは、時には(都合のいい時には)わたしたちの心の支えとなります。
言葉に心を留める人は喜びを見出す。
主に寄り頼む人は幸い。
(箴言16・20)
心地よい言葉は蜂蜜のよう、
舌に甘く、体を健やかにする。
(箴言16・24)
人の歩みは主によって導かれる。
人間は、どうして自分の道を悟り得ようか。
(箴言20・24)
NYの妹が、仕事で東京に来ています。
彼女は、父と変わらない年齢の世界的アーティストのプロデューサー的な仕事をしており、その方の作品を昔売った方から買い戻す、外国の美術館で個展を開催する、など、大きなミッションを幾つも抱えています。
洗礼を受けている妹が今日引いたおみくじには。
わがおもう
港も近く なりにけり
ふくや 追手のかぜのままに
災自ら去り福徳集まり目上の人の助けを受けて喜事があります
行先利徳あり
売物買物損はなし
相場は好機です
プレッシャーのかかる案件を抱えた妹にとって、とても大きな心の支えになっているようです。
(おみくじの文面を考えている方のセンスに感動しました。)
自分の今の状況に応じた言葉を得ることができると、わたしたちは都合のいいもので、「『神様』がわかってくださっている!」と実感することができます。
よく宮﨑神父様がおっしゃるのが、「プロテスタントの方に比べて、カトリック信者はあまり聖書を読みません。もっと聖書に親しんでください。」
聖書を開くと(特に、わたしがいつもやるように、目をつぶって適当に開くと)、必ずと言っていいほど、目が開かれるような聖句に出会うことができます。
神がわたしを助けて、思いのままに語らせ、授かった恵みにふさわしい考えを起こさせてくださるように。
神こそ知恵の案内者であり、知恵ある者の指導者でもあるのだから。
わたしたちもわたしたちの言葉も、あらゆる分別と仕事の知識も神の手にある。
存在するものについての誤りないい知識をわたしに授けたのは神である。
(知恵の書7・15〜17)
わたしたちカトリック信者も、もっと聖書に心の支えを求めるべきでしょう。
ここを読んでくださっている方は、こうして毎週紹介している聖書の箇所を開いてくださっているのでしょうか。
ぜひ、この四旬節の間、それぞれにとっての心の支えとなる聖句を見つけてみてください。
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NYから来た姪が、「カトリックの教会素敵!」と宮﨑神父様と英語で話していた様子が、わたしにとっての今日のお恵みでした。
仕事と子育てを頑張っている妹たちと、4人の姪甥、そして、聖書に見出す言葉が、わたしの心の支えです。