行事風景

派遣されたわたしたち

ミサに与るために、日曜日の朝、いつもよりも早く起きて家事を終わらせる。

そして、早めに教会に行ってお祈りをし、一週間の感謝を伝える。

ミサ前に幾人かの方々と言葉をかわす。

ミサにみなさんとともに与る。

新しい一週間の始まりに、決意を新たにする。

ミサ後に神父様にお声をかけ、また幾人かの方々と交流する。

本当にすがすがしい気持ちになります。

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あらためて、ミサに参列してご聖体をいただく意味と意義について考えました。

以前もご紹介した、故アドルフォ・ニコラス神父様の本にある、わたしがみなさんにもう一度(何度でも)お伝えしたい言葉を書いておきたいとおもいます。

☆教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識しなければならなりません。
 ここに私たちのアイデンティティがかかっています。

☆ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す文化的・歴史的な表現です。
 ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。

☆ミサは教会の顔である。

☆ミサはラテン語で「派遣されている」という意味です。
 「行きなさい、あなた方は派遣されている。」
 「ここで体験したことを生きなさい。」ということです。

 

毎年10月は宣教の月で、最後から2番目の日曜日は「世界宣教の日」とされています。

宣教、というと「宣教師」とか「一信者には恐れ多い」といったイメージがあるかもしれませんが、これはわたしたち一人ひとりに向けられた、わたしたちの使命なのです。

わたしたちは、周りにいるひとに「教会について」「信仰とは」と聞かれたときに、目を見て、素直な心で、優しい言葉で語りかけることができるように準備しておかなければなりません。

 

2021年「世界宣教の日」の教皇メッセージのテーマです。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
(使徒言行録4・20)

聖書のこの箇所は、ペトロとヨハネが捕えられ、尋問された時のものです。

「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。
私たちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」
(フランシスコ会訳)

そう言われた大祭司たちは、二人を罰するすべをなくし、彼らを釈放せざるを得なくなりました。

「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10・17)とパウロが言っているとおり、キリスト者はイエス様の言葉に出会い、教え導いてくださる先輩信徒や司祭の言葉に耳を傾けながら生きています。

信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。
宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。
遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
(ローマ10・14)

聞いて信じているわたしたちが、それぞれの場所で周囲に宣べ伝えていく使命を帯びていることを忘れないようにしましょう。

聖書を論じる必要はありません。

わたしたち一人ひとりは「神にささげられた、キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2・15)です。
このことを心に刻みながら、周囲にその香りをふりまく生き方を心がけたいと思っています。

以下、教皇様のメッセージを少し抜粋します。

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このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。

わたしたちが受けたものすべて、主がわたしたちに与えてくださったものすべては、わたしたちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/29/22623/

 

信仰を持つこと

世界には素晴らしいリーダーがたくさんいらっしゃいますが、今日書いてみたいのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相についてです。

ドイツでは26日に総選挙が行われ、その結果の如何に関わらず、数年前に自ら決断されていた通りにメルケル首相は退任されます。

2015〜2016年にかけてシリア難民を100万人以上受け入れた際には、世界がその決断を称賛しました。
拒むこともできたのに、弱者に共感して国境を開き社会を巻き込んでいく姿に、当時彼女には「ドイツの母」と称されるほどの賛辞が贈られました。

ですが、予期しない展開が待っていました。
難民が次々と事件やテロを起こすのです。
社会は一気に不安に陥ります。

そして選挙で負け、2018年には党首を退任し次の選挙後には政界を引退する、と表明していました。

 

 

今回の退任にあたり、以前読んだ彼女の本を改めて読み返してみました。

旧東ドイツ出身で、父親は牧師であるメルケル氏は、とても熱心なプロテスタント信者として知られます。
実際、先ほど書いた難民受け入れの政策は彼女の信仰的確信の現われだと言われていました。

この本によると、首相としてのメルケル氏はキリスト教の信仰についてあまり公に強く語ることは控えていたようです。

ですが、本の中の様々な場での彼女のスピーチなどからも、読めばすぐにわかるほどの篤い信仰の持ち主であることは間違いありません。

「信仰と、希望と、愛。
これらが、かなり多くのものごとにおいて、わたしを導いていると思います。

ですがわたし自身は信仰に関していつもはっきりと確信があるわけではなく、ときには疑いも抱きます。」
と述べています。

 

一国のリーダーが迫られるほどの決断の場はないとはいえ、わたしたちにもこちらかあちら、どうするかの判断を迫られる場面はあります。
そのとき、そこに信仰による影響があるでしょうか。

あるときのスピーチで、メルケル氏はこう言っています。

「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに、明るく生きる能力も与えてくれるはずです。
自己満足に浸るべきではありませんが、わたしたちにはたくさんのことが動かせるのだ、と言ってもいいでしょう。
25年前の東ドイツでのデモを思い出すならば、教会で行われたこと、祈りやろうそく、変化を呼び起こした平和的な手段を思い出すならば、わたしたちドイツ人は、ものごとを好転させる力についてたくさんのことを語れるでしょう。
わたしたちは、キリスト者としてもそのことを発言していくべきなのです。」

また、あるときにはこう話しています。

「神は人に作用する火なのです。
この作用する火を、わたしたちも自らの内に持っているべきだと思います。

キリスト教信仰は、わたしたちにとって善き力です。
作用する火であり、わたしたちはその火を使って、すでに成し遂げたことを喜びと共に眺めることができますし、その火のもとにいれば大きな問題の前でも目を閉じる必要がなく、その火を通して、これから来る人々のために努力を続ける力を得るのです。」

たしかに、わたしが前向きで明るくいられるのは、信仰によるものだと気づかされます。

神様がわたしのうちに灯してくださった火が、小さく揺らめいているのを感じることがあります。

そして、信仰を持っている友人と話すと、心地よい優しさと良い影響を感じます。

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「信仰を持つこと、それ自体がお恵みである」といつも思っています。

信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
(ヘブライ11・1)

信仰を持っている人でも、この世での望みは同じではないでしょう。
少なくともキリスト者としては、大きな視野で望みを持っていたいものです。

信仰を持っている人とは、
望んでいること(希望=いつも神様がともにいてくださること)を持っていて、
目に見えない事実(愛=どんなときも神様がともにいてくださること)を信じている人のことだと思うのです。

 

さぁ、ようやく。
今週末は秋晴れの日曜日の朝、教会でミサに与れることでしょう!

スケープゴート

秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。

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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。

寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。

みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。

以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。

「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」

 

教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。

欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。

教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。

(9/14ロイター配信ニュースより)

 

スケープゴートという言葉をご存知でしょう。

簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。

アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)

最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。

例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」

すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。

以下、イザヤ書の53章を抜粋します。

彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。

もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。

彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。

このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。

わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)

同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。

イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。

イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)

この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。

わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。

人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。

 

十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。

そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。

みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。

 

 

故郷を逃れる人々

1980年代の内戦状態のエチオピアから、モサド(イスラエルのユダヤ諜報機関)のエージェントたちが1万人近いユダヤ人難民をイスラエルに避難させたという実話をもとにした映画を観ました。
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船で紅海を渡って逃がす「モーセ作戦」と、飛行機(先月のアフガニスタンからの脱出の映像のように)での「ヨシュア作戦」が実際に行われたのだそうです。

映画の中で、スーダンの難民キャンプに偽装難民として連れてこられたうちのひとりが、エージェントに文句を言います。

「わたしの父は、ここに来る途中で死んだ。夫とは途中ではぐれてしまった。子どもは病気だ。ここでは食事もまともに食べられない。
約束の地イスラエルに連れていくと言われて信じたのに。」

どこかで聞いたようなお話ですね。

モーセを信じ、それなりに安定していたエジプトでの暮らしを自ら捨て、主が約束された「乳と蜜の流れる」豊かな地を目指して40年もの間、旅をしました。
(途中、「エジプトの暮らしの方が良かった」「食べるものもない」「肉が食べたい」とか文句を言いながら。)

彼ら、古代のユダヤの人々もある意味では難民と言えるかもしれません。

しかし、現代の難民と言われる人々には選択の余地のない、切迫した状況下を逃れるしかなかった人が多いのです。
古代のユダヤ人のように安住の地を求めて自らの意思で国を出る、という状況とは違います。

オリンピックの期間中に亡命を申請してポーランドに受け入れられたベラルーシの選手がいましたが、彼女のようにすぐに他国に受け入れられる幸運な人は稀なのではないかと思います。

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聖書では、イスラエル人はかつては自分たちもエジプトで寄留者であったことを忘れずに、神が困窮者や貧しい者たちを保護するよう心を配っていることから、通りすがりの異邦人をも同胞のように大切にしていました。
神の前では誰もが寄留者であり、借地人にすぎない(レビ25・23)、との考えがあったのです。
新約の時代になると、信仰者はこの世には永遠の住まいをもたない(2コリント5・1~2)、地上では寄留者・巡礼者であり、天の国に入るまでは信仰者は旅人の生活を送るのだ(1ペトロ2・11)という教えに昇華していきます。
(聖書思想辞典より考察) 

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現在、日本の人口の半数を超える8,240万人が難民となり故郷を離れざるを得ない状況にあると言われています。
ですが、難民となった人の正確な人数は把握できない場合も多いと思われます。

2020年末時点で最も多い難民の出身国はシリアで、アフガニスタンやイラクといった紛争地域を抱える中東の人が全体の半数以上を占めているそうです。

政治的な迫害などが原因の政治難民
経済的貧困から外国へ逃避する難民は経済難民
自然災害、飢餓、伝染病などの災害難民
宗教的追放や域内外の紛争から逃れた難民

先週閉幕したオリンピック・パラリンピックでは、前回大会に続いて2回目となる難民選手団が結成されていたことも話題になりました。
今回参加した6名の選手とその家族は、紛争・圧政、国内の混乱から逃れて難民となった人々でした。


「世界難民移住移動者の日」は、日本では9月第4日曜日に定められています。
「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」として設立されました。

教皇フランシスコが選ばれた今年の9月26日のテーマは、
「ひたすら『わたしたち』でありますように」

遠い見知らぬ国の人々のこと、ではなく、この問題について知ること、そして自分の問題として捉えて考えてみる機会になれば、と思います。

 

日本カトリック難民移住移動者委員会
https://www.jcarm.com/

第107回 世界難民移住移動者の日(2021年度) 委員会メッセージ
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/08/10/22983/

 

 

家族を築く

聖堂は閉められていますが、5日の日曜日は2組の結婚式が執り行われました。

参列者はごく限られたご家族などで、ささやかな中にも優しい幸せに包まれた素敵なお式でした。

1組目は、新郎側のご両親が緊急事態宣言ということで久留米に来ることが叶いませんでした。
2組目は、ご家族がベトナムから日本に来ることができませんでした。

ということで、youtubeでライブ配信をすることになったのです。

便利な世の中です。

このようなことが、2年前に想像できたでしょうか。
結婚式に親が参加できない。
友人をたくさん招いてパーティを開くことはしない。

このような世の中になり、本来ならば一世一代の大イベントであるはずの結婚式と披露宴は、新しいカタチになりました。

カトリック教会に於いて、結婚は7つの秘跡のひとつとされています。

厳密には、新郎新婦共に洗礼に与っている場合が秘跡とされますが、人生のある時に偶然出会った二人が家族になるという結婚は、神様の計らいであるとしか思えません。

現代人にとって、結婚とは「制度」にすぎない、という考え方もあるでしょう。

もちろん今でも、民族や宗教によっては親が結婚相手を選ぶ、ということもあります。

旧約聖書には、結婚生活についての苦労や嫁姑問題、夫の務め、妻の役割など、多彩な記述が随所にあります。

4000年以上前から変わらぬ苦労があったのか、と笑ってしまうような箇所もあります。

創世記の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」として女性は男性のために造られた、とか、出エジプト記の「不妊の妻は離別される」、「夫の権利を尊重するため、姦淫の妻とその相手は死罪(夫が姦淫してもおとがめなし)」といった記述は、現代に生きるわたしたちには抵抗がありますが。。。

 

旧約聖書のルツ記は、短い文章の中に、結婚によって新しく築かれる家族の愛が書かれています。

BC450ごろ書かれたとされるルツ記は、旧約聖書のなかで一番短い書物ですが、当時のイスラエルの結婚に関する慣習が書かれています。

兄が子供を残さないまま亡くなった場合、その弟が兄嫁を娶って子孫を残すことが普通になされていました。
寡婦であったルツはイスラエル人ではありませんでしたが、ナオミ(姑)の働きかけで親戚のボアズに嫁ぎ、子どもが生まれます。
その子がダビデの祖父にあたることから、異邦人ルツは旧約の中でも重要な女性となりました。

わたしがルツ記を好きな理由は、ルツのナオミへの家族愛が書かれているからです。

夫が亡くなり、子どもがいなかったルツは故郷であるモアブ人の地へ戻ることもできました。
ですが、一人になってしまう姑のナオミを気遣って、一緒にベツレヘムへ戻るのです。

結婚により、彼女にとって姑は他人ではなく、家族になったのです。

 

家庭は2人で築くものでしょう。

ですが、結婚によって家族が築かれるのです。

わたしには妹が2人いて、義弟が2人できました。
彼らはわたしにとって、大切な家族です。

妹たちの結婚によって、わたしにも家族が増えました。
幸せのおすそ分けです。