行事風景

イエス様の教え

先週の記事のテーマについて引き続き考えながら、大好きな大相撲中継を見ていました。

教会の友人と、「改めて考えてみると、カトリックって決まり事が多いよね。。。」と話しをしたところでしたので、相撲の所作を改めて注意深く見てみました。

相撲好きの方はご存じのように、

「勝った力士は、勝ったという事実に縁起を担ぎ、次の取組の力士に力水をつけてあげる」
「勝った力士は、懸賞金を受け取るときに刀手を切る(右手で左側を切り、その後で右と中央を連続して切る)」

など、相撲は所作をとても大事にしています。
こうした所作が雑な力士は、たとえ横綱であっても評価が下がり、親方から叱責を受けるのです。

わたしたちも、ミサ中に決まった場面で十字を切り、立ったり座ったり、歌ったり祈ったり、決められた所作をしています。

何気なく、ではなく、ひとつひとつに意味があることも理解しています。

 

19日のごミサでは、お2人の方が受洗されました。

洗礼の秘跡の中では、司祭も受洗者も代父母も、決められた美しい所作を大切にします。

 

ルカ・シニョレッリ『使徒たちの聖体拝領』
Comunione degli apostoli

『初聖体拝領』パブロ・ピカソ

イエス様からパンをいただく使徒たちの姿は、司祭からご聖体を受け取る信徒に重なって見えます。

初聖体式は、子どもたちの晴れやかな笑顔が感動的で、幼児洗礼式、成人洗礼式と同じくらい、カトリックではとても大切な儀式です。

ご聖体自体の重要な意味(イエス様のからだをいただけるのは洗礼を受けているから)、はもちろんですが、わたしたちはその「拝領」する行為(所作)をも大切にしているのではないでしょうか。

幼児洗礼であっても、成人洗礼であっても、ご聖体拝領について学びの期間があり、どのような意味を持つものかをしっかりと教えられます。
ご聖体の受け取り方、口に含むタイミングも決められています。

永年の習慣にすぎないものになっていたとしても、身に沁み込んだ所作は、きちんとした学びがあって与えられた、わたしたちの信仰上の権利のようなものとも言えるのではないか、、、間違っているかもしれませんが、そう思っていました。

旧約の時代のユダヤ教徒たちも、様々な儀式やしきたり、所作を大事にしていました。

レビ記の第一部(1〜7章)には、守るべき掟がびっしりと書かれています。
今でも、厳格なユダヤ教徒であればモーセ5書(創世記〜申命記)を毎日繰り返し読み、頑なにこれらの教えを守っています。
(例:安息日に労働をしてはならない=エレベーターのボタンを押すことも、冷蔵庫の扉を開け閉めすることも、絶対にダメです)

 

先日、親戚の法事があり、お坊さんのお経を45分間も聞かされる、苦行のような体験(何を言っているのか全く分からないので)をしました。
そして驚いたのは、叔母がお経の冊子のようなものを見ながらお経をしっかりと聞いていたことでした。

同時に思い出したのが、母の葬儀ミサに参列してくれた友人が後に、「葬儀ミサは初めての経験だったけど、何を言ってるのか何をしているのか全然わからなかったから、仏教の葬儀よりもすごく長く感じた。。。」と聞かせてくれたことでした。

ユダヤ教、キリスト教、そして仏教でも、知らない人・理解していない人にとっては不思議なことを大真面目にやっているのです。

ヨハネ福音書には、イエス様の教えそのものが「パン」なのだ、と明確に書かれています。

わたしが命のパンである。
わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して乾くことがない。
わたしは天から降ってきた、生けるパンである。
このパンを食べる人は永遠に生きる。
(ヨハネ33・35、51)

主は、乏しいパンと僅かな水しかお前たちに与えないことがあっても、お前の導き手はもはや隠れることはなく、お前の目はお前の導き手を見ている。
(イザヤ30・20)

イエス様は、この預言を成就した存在なのです。

初代教会は、聖体(エウカリスティア)の象徴的な先駆けをイエスが言葉と食べ物をご自分の民と分かち合おうとされたパンの奇跡のうちに見ていました。
事実、聖体祭儀の典礼の構造は、この奇跡に見られるのと同じ形式に従っています。
まず言葉の典礼で、聖書朗読に貫かれている教えと、その教えの意味を解き明かす説教によって、イエスは私たちを養ってくださいます。
それから感謝の典礼で、イエスは、私たちのために与えてくださるご自分の体と血である命のパンによって、私たちを養ってくださいます。
かごいっぱいになった残り物が、生き生きとした象徴になっているように、神がご自分の民を養われるとき、すべての人を十分に満たしても、それ以上の食べ物が常にあるのです。
その賜物は神ご自身なのですから、どうしてそれを知らずにいられるでしょうか。

(メアリー・ヒーリー著
カトリック聖書註解 マルコによる福音書より)

洗礼を受けたわたしたちは(なんとなくであったとしても)こうしたことを知っていて、理解しています。

ここを読んでくださっている方、あるいは、勇気を持って日曜日のミサに参列してくださる洗礼を受けておられない方にも、わたしたち信者がもっとこうした教えをお伝えしなければならないのでしょう。

そうでなければ、信仰への理解が広がることも深まることも、あり得ないのです。 

教会の先輩が教えてくださった、教皇様のお言葉です。

「キリスト信者にとって最大の誘惑となるのは、神からの呼びかけを特権だと考えてしまうこと、それは全く違います」

洗礼を受けていることだけが、本当に神様からの特別なお恵みなのか。
あたらめてもう一度考え直さなければならないと思っています。

宮﨑神父様はお説教で、このようにおっしゃいました。

「 同じ信仰を持つものが、互いに集い、互いに磨き合う場、その集まりの一致の場が教会・エクレシアなのです。」

いつも、わたしたちの心に響くお説教をしてくださいます。

伝わる信仰

人の価値観や物事の受け取り方が予想とあまりにも違うと、驚いたり・気付かされたり、ということがありませんか?

最近、ごミサの中で気になっていることがあります。

「あの方はお見かけしたことがないな、初めて来られた方かな?」ということがよくあります。

そうした方のことは、気にかけて声をかけるようにしています。
そして、『初めて教会に来られた方へ』というパンフレット、聖書と典礼、聖歌集をお渡しし、質問も受けるようにしています。

ところが、中には知らずにご聖体を受け取り、口にしてしまう方がいらっしゃるのです。
並んで、信者の所作を真似てしまうようです。

「洗礼を受けておられない方は、司祭から祝福を受けることができます」、とアナウンスをしていますが、委員会でこのことが話題になりました。

「司祭から祝福を受ける」ということを、そもそも理解できないのではないか、と。
「洗礼を受けていないと聖体がもらえないなんて、差別されてる気持ちがする」とおっしゃった方もいたそうです。
「信じなければ救われない、というのがキリスト教ですか?」と聞かれたこともあります。

わたしたち信徒の価値観で、「洗礼を受けていないのにご聖体を口にするなんて!!」という気持ちが湧くことも。

このような一方通行では、信仰が人々に伝わるわけがありません。(反省)

 

わたしも、ここにこうして書く内容については1週間かけてじっくりと吟味していますが、やはり「難しい」「わからなかった」という感想を聞くこともあります。

「カトリックの信仰に関心を持っていただけるように」、「久留米教会に行ってみたいと思っていただけるように」と書き始めたのに、いつの間にか、「学んだことを多くの人に伝えたい」気持ちの方が先走ってしまうことも。

わたしの母校である大学は、とても熱心なプロテスタント教育でも知られる学校です。

イギリス国教会から独立したアメリカの聖公会。
ウィリアムズ主教は、まだキリスト教が禁止されていた江戸時代末期の1859年に米国聖公会の宣教師として来日し、日本聖公会初代主教となります。
1874年には、東京・築地に聖書と英学を教える私塾「立教学校」を設立し、これが後に立教大学となりました。

カトリックも多くの学校を創設し、いまでも日本中でカトリック教育を実践していますが、プロテスタントの教育の方が率直で分かり易くて力強い気がするのです。

 

 

大学の広報誌には、当時のトランプ大統領に祈りを捧げる様子が掲載されていて驚きました。
アメリカ聖公会は、福音派(エバンジェリスタ=いわゆるトランプ派)ととても深い結びつきがあるようです。

広報誌に書かれていた、「宗教を学ぶことは国際問題の理解や自己理解を深める」という文言には、納得するような違和感を抱くような、複雑な気持ちになりました。

カトリック信者であるわたしがこの大学に行ったように、生徒のほとんどは聖公会の信徒ではなかったように思います。

わたしにとって宗教は、頭で「学ぶ」もの、よりも先に心と身体で「感じる・信じる」もの、です。
信じたうえで、こうして「学び」を楽しんでいます。

同時に思うのは、プロテスタントの方々は本当によく聖書を学ばれている、ということ。

例えば、「あなたは、わたしに従いなさい」。というヨハネにある言葉を頼りに検索すると、たくさんの教会のホームページやコラムが表示されます。

それは、ほとんどがプロテスタントです。

横浜指道教会という、プロテスタントの教会のホームページで見つけた牧師さんの文章には、こうありました。

「私たちそれぞれには、それぞれなりの、主イエスに従う道が備えられています。
それは人によって全く違う道です。
私たちは、他の人にどのような道が備えられ、どのように導かれているのかに目を奪われるのではなくて、自分に与えられている道を見極め、そこをしっかり歩んで、主イエスに従って行くことが大切なのです。」

https://yokohamashiloh.or.jp/jn-fj-21-3/

とても分かり易く、勉強になります。

プロテスタントの牧師さんたちは、礼拝でのご自分のお話をホームページにまとめて発信する、ということにもとても熱心なように感じます。

知らずにふと入ってみた最初の教会が、カトリックかプロテスタントかは、信者でなければわかりません。 

キリスト教の信仰を知りたい、と思う方が、カトリック教会のミサに参列しようと日曜の朝に教会に来てくださったのに、「これはダメです」と言われたら、、、、。

わたしたちの信仰がもっとわかりやすく伝わるように、もう少し工夫が必要かもしれません。 

 

乙女峠への旅

津和野の乙女峠には、毎年5月3日に全国から巡礼者が集まります。

聖母月にあたり、聖母マリアと殉教者たちを讃えるお祝いのこの日は、コロナ禍も巡礼者が途絶えることはなく、今年も(おそらく)2500名ほどが津和野教会から乙女峠までの聖母行列、峠の記念聖堂でのごミサに与りました。

地元の方は「知っている限り、今までで1番多いような気がします」とおっしゃっていました。

 

このような、苔むした急な坂道を登ったところに記念聖堂と広場があります。
わたしは、この坂を登り降りることは難しかったので、麓でYouTubeの生配信をみながらごミサに与りました。

乙女峠のこと、ご存知でしょうか。

1867年、明治政府による浦上村の隠れキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」では、およそ3400名ほどのキリシタンたちが見知らぬ土地に流刑されました。 

全国22ヵ所に流された人々のうち、153名は津和野に辿り着きました。
激しい責苦を受け、37名が乙女峠で殉教しました。

1892年に、ビリオン神父が殉教者たちの遺骨を一つの墓に収めました。
1948年には、ネーベル神父が地域の方々の支援を受けて乙女峠に記念聖堂を建て、その周りの殉教地が祈りの場所にふさわしいものとなるように整備したのです。
彼が始めたのが、5/3の乙女峠まつりです。

今年の司式は、森山司教様

 

司教様は、お説教でこのようにおっしゃいました。

「今のわたしたちの信仰は、殉教したキリシタンの方々に負うところが大きいのです。
彼らは、自分たちを根底から生かしておられる方を信じました。
そして、見えないものにこそ真理が宿ることをも信じたのです。
わたしたちは「信仰を守る」という言い方をしますが、彼らは「信仰を生きた」人々です。
誰のために、どのように生きるべきかを知っていた人々です。

教皇様はこうおっしゃっています。
『何のために生きるか、ではなく、誰のために生きているか、が大事』だと。」

 

全国から多くの巡礼者が集まっていたことには、本当に驚きました。

特に印象的だったのは、津和野教会の副主任司祭である大西神父様が大勢の子どもたちを引き連れて、隣町から巡礼団として(徒歩で3時間半!)参列されていたことです。

 

今回の巡礼では、これまでにない感覚が生まれました。

巡礼地と言われる様々なところへ行ったことがありますが、今回のように、教会から峠までの道のりを大勢の信徒がロザリオを唱えながら歩き、全員でミサに与る、という巡礼は、とても特別なものでした。

久留米教会の子どもたちにもこのような体験をしてもらいたい、そして、今回わたしたちが経験できたように、楽しみながら信仰を分かち合うことができたら、と思うのです。

 

*乙女峠の聖母への祈り*

キリストの母マリアよ
あなたは乙女峠の証し人をはげましてくださいました。
神のみ旨に従って生きることができるようあなたの子供である私を助けてください。
私がなにを必要としているかは、母であるあなたがよく知っておられます。
神のみ前にあなたの取り次ぎは必ず聞き入れられると信じ特に今お願いします。
(あなたの願い)
聖母よ、私の母、取り次ぎ者としてあなたを慕う幸せを深く悟らせてください。
アーメン

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津和野教会

山口ザビエル記念聖堂

 

お二人の司教様と

(このお店、俵種苗店の先先代が、乙女峠の聖堂を作るための資金を出されました。
今は子孫であるお嬢さんが経営され、とても素敵なインテリアや食器のお店「SHIKINOKA」になっています。) 

来年は、久留米教会の巡礼団として参加できたらいいな、と心から思いました。

マリア行列、峠への坂道の様子など、↓ こちらの記事でご覧いただけます。

https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/569322

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静かな津和野の街が賑わう乙女峠まつりだけでなく、5/3に復活したSL蒸気機関車を見に、これまた全国から人が集まっていました。

 

知的好奇心

以前書いた、聖書とキリスト教の教えについて学び始めた友人と、先日LINEでやりとりをしていました。

先週の記事を読んでもらい、意見交換をしていて、わたしが「この世はテンポラリーなもので、永遠の命のためにわたしたちはこの世を旅しているのよ」と伝えたところ、こう質問されました。

「永遠の命、とはどういうこと?」

皆さんは、そう尋ねられたらどうお答えになりますか?

昔、「マラナタ、ってどういう意味ですか?」と、年配の信者さんに質問したことがあります。
その時のお答えは、「心で理解していることなので、そういう風に聞かれたらうまく言葉にできない」と。

使徒信条は、このように締めくくられます。

聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます

二ケア・コンスタンチノープル信条では、

わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。

この文章を使って友人に説明してもおそらく理解してもらえないでしょうし、わたし自身もいまいちピンとこないというのが正直なところです。

聖霊、聖徒の交わり、こうしたことは「信じています」と簡単に言えますが、「永遠のいのちを信じます」とは何を信じているということなのでしょうか。

「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。
生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。
このことをあなたは信じるか」。
(ヨハネ11・25〜26)

愛していたラザロが墓に葬られ、嘆き悲しむ姉妹のマルタに対してイエス様はこうおっしゃいました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、「イエスが死者を復活させる力をもち、永遠の命の源であることを意味する。イエスを信じるものは、この世の命に死んでも、永遠の命に生き続けることを意味する。」とあります。

うっすらと、疑問の霧が晴れてきたような気がします。

逮捕される直前、イエス様は数々の祈りをされます。
ヨハネ17章では、まずご自分のために祈りを捧げます。

あなたは、すべての人を治める権能を子にお与えになりました。
子が、あなたから与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(1〜3)

続けて、弟子たちのために祈りを捧げます。

あなたが世から選んでわたしにお与えになった人々に、わたしはあなたの名を現しました。
彼らはあなたの言葉を守りました。
あなたがわたしにお与えになったものはすべて、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
なぜなら、あなたがわたしにお与えになった言葉を、わたしが彼らに与え、そして、彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたの元から出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
(6〜8)

だいぶん視界が開けてきました。

以前ご紹介した、わたしの愛読書を開いて、さらなる答えを探してみました。

第3巻第47章は、タイトルが「永遠の命を受けるために、すべての労苦を忍ぶべきこと」となっており、その2節にはこう書いてあります。

あなたの為すべきことを忠実に行いなさい。
『わたしのぶどう園に行って働きなさい』(マタイ21・28)、そうすれば『わたしはお前の報い』(創15・1)となるだろう。

読み、書き、歌い、願い、沈黙し、祈り、勇気をもって苦しみを受け入れなさい。
永遠の命は、このような苦悩、いやそれ以上の苦悩に値するものである。

第49章「永遠の命への憧れと、そのために戦う人に約束された大いなる報いについて」の3、4節には、

あなたは、『神の子供の栄光の自由』(ローマ8・21)に入りたがっている。
またあなたは、永遠の住居と喜びに満ちた天の国を望んでいる。
しかしその時はまだあなたの上には来ていない。
今は、まだその時ではなく、戦いの時、苦労と試練の時だからである。

あなたはまだこの世で試され、さまざまに鍛えられなければならない。
たびたび慰めも与えられるが、しかしこの世に完全な慰めはない。

「キリストを生きる」トマス・ア・ケンピス(翻訳:山内清海)

深い霧が少しづつ晴れてきて、心が軽くなるような気持ちになります。 

わたしたちのこの世での日々は、信仰があったとしても苦悩や試練の連続です。
それらに打ち勝ち、内的成長のための糧と捉えて前に進むことができるのは、イエス様の教えを「知って、理解して、信じている」からです。 

現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。
わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。
目に見える望みは望みではありません。
目に見えるものを誰が望むでしょうか。
わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。
(ローマ8・18、24〜25)

と、ここまで書いたところで28日のごミサに与り、宮﨑神父様のお説教で目を見開かされました。

「永遠の命を得るということは、イエス様の求める生き方を追求して自分の人生を全うすること、とも言えるでしょう。」

わたしがこの記事を書いていることは、もちろん神父様がご存知なはずはないのに。
思わず、「今日のお説教素晴らしかったです!」とお伝えしました。
(「いつも、やろ」と返されました。) 

 

「 永遠の命とは」と、こうして聖書の言葉などを紐解きながら、友人がもっと「教えを知りたい」という好奇心を掻き立ててくれることは、わたしにとっても喜びです。

  

内なる旅

「The Book」といえば、「聖書」を意味します。

2010年の映画「ザ・ウォーカー」(デンゼル・ワシントン主演)は、原題「The Book」です。
それが聖書とは知らずに、「本を西へ運べ」という心の声に導かれ、目的地も分からぬまま30年間アメリカを西に歩き続ける男の話しです。

先日、「星の旅人たち」という映画を観ました。
原題は「The Way」

The Bookが聖書であるように、The Wayは聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のことです。

旅の途中で出会ったジプシーの男が主人公に告げた、「息子の遺灰をムシーアの海に撒け」との言葉に従って、目的の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着いた後も旅を続ける、父親の物語です。
父親役はマーティン・シーン、息子役はエミリオ・エステべス、2人は実の親子であり、息子のエミリオがこの作品の監督です。
(AmazonPrimeでご覧になれます。)

 

イスラエル、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステーラが、キリスト教の3大巡礼地と言われています。

スペイン語でEl Camino de Santiago(サンティアゴの道)と呼ばれ、El Camino(その道)、つまりThe Wayといえば、この巡礼のことを指します。

エルサレム、ローマと比べ、800キロ以上もの道のりを1か月ほど歩き続ける行程は、かなりハードルが高いものです。
そして、イスラエル、ローマへの巡礼とはかなり様子が違うのです。

つまり、「純粋なカトリックの信仰の故に歩く」のではない人の方が多いようなのです。

この映画の主人公もそうです。
旅を共にすることになる3人の仲間も、それぞれに「歩く理由」を持っていました。

巡礼者の中には、理由・目的をはっきりと自覚している人もいれば、それを捜すために歩く人もいます。
歩く理由、あるいは、生きる理由とも言えると思います。

わたしがイスラエル巡礼をした理由は、イエス様たちが生きた土地を自分で体感したいから、でした。

(実際には、足の不自由なわたしにとって灼熱のイスラエルを歩き回るのはかなり大変で、イエス様たちの生きた証を体感するなどという素敵な目的は、ほとんど忘れていましたが。。。)

歩く理由、生きる理由は本当に必要でしょうか。 

男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。
ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
(申命記16・16)

旧約時代の人々、熱心なユダヤ教徒たちは、この3つの祭りを厳格に祝うことを今で言う「巡礼」、と考えていました。

理由は、「主がエジプトからあなたを導き出されたから。エジプトで奴隷であったことを思い起こすため。すべての収穫、すべての働きの実を祝福してもらうため。」でした。

巡礼者であるとはどういう意味でしょう。
巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭につねに置いています。
ですが同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません。
このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にあるさまざまな道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。
疲労や困難はあっても、それによってつねに新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。

キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。
わたしたちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。
内なる旅とはいえそれは、多様なかかわりに刺激され続けるものです。
つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。
神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。
ですから、この地上におけるわたしたちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。

その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。
わたしたちは希望の巡礼者です。
よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。

「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージより

記事を書くために色々と読んだり調べたりしていたら、この、教皇様のメッセージに出会いました。
現代のわたしたちが巡礼する意味が、明確に述べられています。

イスラエルやローマなどに行かずとも、わたしたちは巡礼者、旅人なのです。

内なる旅を続けながら、自分自身を見出す人生、それが巡礼なのでしょう。

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この映画、とてもお勧めです。