行事風景
希望の火
天皇陛下は、62歳の誕生日に際してのお言葉で、コロナ禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」とおっしゃいました。
また、「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼びかけられました。
忍耐強く、希望の火を絶やさずに。
まもなく始まる今年の四旬節を前に、困難の最中にある人々へ心を向けることの大切さを再認識したいと思います。
四旬とは、試練・苦難の象徴である数「40」を意味します。
ウクライナの人々のことを思い、苦しい気持ちで過ごしています。
まさに聖書で言うところの「荒野の40年」のような状況に置かれているのかもしれません。
旧約のイスラエルの民と重なって見えます。
バビロン捕囚で苦しみ、外国勢力による支配で迫害を受け続けた彼らは、民族の救いと、救い主の到来を忍耐強く、希望の光を絶やさずに待ち続けたのでした。
40年という数字は、文字通りの年月ではなく、試練・苦難の象徴として使われます。
新しい秩序に向かうための時間であり、神に出会うために必要な時を表す数字です。
四旬節の教皇様のメッセージを皆様もお読みになったことでしょう。
「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)
他の人のために良い種を蒔きなさい。
この回心の時に、神の恵みと教会での交わりに支えを得て、たゆまずよい種を蒔きましょう。
断食は地を整え、祈りは地を潤し、愛は地を実らせます。
断食と祈りは一人でもできます。
それに比べ、地を実らせるための愛の実践はなんと難しいことでしょうか。
人のために良い種を蒔く、とはどういうことでしょう。
わたしはあなた方を遣わした。
自分で苦労しなかったものを、あなた方に刈り取らせるためである。
ほかの人々が苦労して、あなた方はその労苦のお陰を被っている。
(ヨハネ4・38)
種蒔く者に、種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実をますます大きくさせてくださいます。
(2コリント9・10)
わたしたちの人生全体が良い種を蒔く時だ、と教えてくださっています。
今日わたしたちが出会った人に、キリストの香りを振りまくことができたでしょうか。
霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)
わたしたちの日々の行いは、すべて種を蒔く行為なのだ、と考えることができます。
その言動は、良い実を結ぶのか。
いつもそう考えて人に接し、言葉を発する、とても難しいことかもしれませんが、少なくとも「あんなことを言わなければよかった」「もっと優しくすればよかった」などといった後悔の気持ちからは解放されます。
先日の宮﨑神父様のお説教にあったように、「教会に来て神父や信者の悪口を言うような日曜日を送ってはならない」のです。
荒野の40年は、あの時のイスラエルの民には必要な犠牲だったかもしれません。
ですが、今のウクライナが置かれている状況は耐えるべき苦難とは言い難いものです。
アメリカとドイツが、ウクライナへ地対空ミサイルや戦車といった武器の提供を決定した、と報道がありましたが、それは決して良い種ではないと思います。
ウクライナ正教会は、ロシア正教会から分離独立したという経緯があります。
宗派は違えど、キリスト教の教えを汲む東方正教会の一員である、ロシア正教とウクライナ正教。
少なくとも、多くのウクライナ人、ロシア人がキリスト者であるという事実も忘れてはならないでしょう。
宗教的にも政治的にも、自分が正しい、という驕りは良い実を結ぶ考え方ではありません。
経済制裁で直接的に影響を受けて苦しむのは、ロシアの一般国民です。
何が解決法なのか。
ウクライナの人々が希望の火を失わないように、全身全霊で祈ること、今わたしたちにできるのはこれしかありません。
犠牲になった人々、今困難の中にあるウクライナの人々、リーダーの行動のために不本意な迫害を受けているロシアの人々のために祈りを捧げることに注力するときです。
倦まず弛まず、飽きずに、世界中のキリスト者が一丸となって祈り続けるのです。
宮﨑神父様もおっしゃっていました、「ロザリオの祈りは世界を変える力を持っている」と。
教皇フランシスコは、ウクライナにおける状況に深い悲しみを表明され、次のように呼び掛けられています。
「信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。
暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。
来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします。
特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。
平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」
奇跡物語が語るもの
中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。
宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。
遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。
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マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。
全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。
話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。
エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。
(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った。
(マルコ10・46~52)
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)
そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した。
(ルカ18・35~43)
3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。
マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。
マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。
ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。
『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
雨宮 慧 神父 著より
ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。
聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。
聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。
「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」
歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。
イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。
復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。
ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。
聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。
このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)
1人の教えと多くの努力
北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。
ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。
4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。
彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。
わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。
わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。
そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。
イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。
天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)
出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。
主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)
イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。
直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。
聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。
同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。
イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。
4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。
イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。
イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。
ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。
この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。
幸福の目的
小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。
美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。
わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。
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彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。
わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。
『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』
これはわたしのモットーになっています。
「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。
幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。
こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。
ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。
心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。
今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。
奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。
その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳
なぜでしょうか。
当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。
聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。
古巣神父様の記事に、そう書いてありました。
この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)
フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。
自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。
自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。
感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。
これはわたしの幸せです。
イエス様の方を向く
宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。
自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。
これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。
南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。
教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。
「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。
新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。
悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)
また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ1・15)
この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。
本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。
メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。
「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。
ムリリョ「パウロの回心」
以前、HPの記事に以下のように書きました。
E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)
契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。
つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。
神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。
そう、この一週間で学びました。
キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
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