2020年1月の記事一覧

ある、主日のミサ

昨年、教皇フランシスコ様が新しく制定された「神のみことばの主日」は
典礼歴「年間第3主日」、つまり1/26でした。

昨年の聖ヒエロニモ(ヒエロニムス)の日にパパ様は
『聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと』という彼の言葉を引用し、
みことばに捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育むことを願って、この新しい典礼歴を発表されました。

 

 

 

毎週の主日のミサの一時間余りの時間に、わたしたちは多くの聖書のみことばにふれています。

26日のごミサの集会祈願がとても美しいと感じ、ここに記しておきたいと思いました。

天の父よ、冬の寒さのなか、あなたを賛美するためにわたしたちは集まりました。
きょうも御子キリストは、神の国の福音をわたしたちに語りかけてくださいます。
わたしたちの集いがあなたの光を受けて輝き、世界のやみを照らすものとなりますように。

 

イザヤ書9・1
闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。
暗闇の地に住んでいた者の上に、光が輝いた。

闇があるから、光が美しいのです。
わたしたちの日々に、さまざまな困難が与えられているから、
より強く神様のことばに耳を澄ませることができるのです。

 

詩編27・4
わたしは主に一つのことを願う。
わたしは一つのことを請い求める。
命あるかぎり、日ごとに主の家に住み、
主の麗しさを仰ぎ見、神殿の中で暁に目覚めたい。

 

1コリント1・17
キリストがわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けるためではなく、
福音を宣べ伝えるためでした。
それも、キリストの十字架が無意味なものとならないように、
知恵に溢れた雄弁に頼らずに伝えるためでした。

わたしたちは、福音を周囲に宣べ伝えているでしょうか、その行いを通して。

 

マタイ4・17
この時から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスは宣べ伝え始められた。

ミサの司式をしてくださった青木神父様がおっしゃいました。
「神様のわたしたちへの働きかけ、神様の愛に気づくことが、悔い改めるということです。」

マタイ4・23
イエスはガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民のすべての患いや病気を癒された。

人々の軛をともに背負い、患いや病気を抱えている人々と心を一つにして歩んで行かれたイエス様のお姿が、ガリラヤ湖の景色とともに目に浮かんできます。

 

 

青木神父様は、こうもおっしゃいました。
「日曜日のミサの聖書のことばを日曜だけのものにせず、
聖書を日々の生活に、つまり信仰の旅路にあてはめながら大切にしてください。」

天の父よ、あなたはわたしのうちに、いのちと力をおくってくださいました。
わたしたちがこの力に生かされて、
新しい一週間をあなたとともに歩むことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。


今日のこの記事を、教会から遠ざかっている方、
事情がありなかなかミサに参列できない方、
教会に来る勇気がまだ持てない方、
みなさんに捧げます。 

 

 

 

誰に、どう祈るか。

「祈る」という行為は、とくに「こうあるべき」というスタイルの定義はなく、

自然に、いつでも、どこででも、心を神様に明け渡して静かに耳を澄ます。

わたしは、そういう風に祈っていた母の姿と、

代母をしてくださったシスターからの教えで、

これまでずっとそう考えています。

 

お御堂で、一人静かに祈りを捧げる人の姿は本当に美しいと思います。

パパ様は現代の教皇様らしく、さまざまな形でわたしたちにメッセージを発信されています。

もちろん、側近のどなたかが担当されているのでしょうが、

ツイッターとインスタグラムを活用して、わたしたちに毎日、そのお姿とお考え、祈りについて教えてくださいます。


このお姿、美しいと思いませんか?!

 


The Lord has so much compassion,He involves Himself in our problems.
Let us often repeat this simple prayer: Lord,I am a sinner,have mercy on me,have compassion for me.

主はとてもいつくしみ深いかたなので、わたしたちが抱える問題に関わってくださいます。
ですから、次の簡単な祈りを、何度も繰り返し唱えましょう。
「主よ、罪深いわたしをあわれみ、いつくしんでください」

 

In worship, we make it possible for the Lord to transform us by His love, to kindle light amid our darkness, to grant us strength in weakness and courage amid trials.

賛美の祈りをささげることで、主の愛によって、わたしたちは変えられていきます。
私たちが直面する暗闇の中に光を灯し、弱さの中に力を与え、
そして苦難の中に勇気を与えてくださるからです。

 

「願い事」と「祈り」は別物であると同時に、

わたしたちが一般的な祈りとして、神様に「お願い」をするのはごく普通のことです。

願い事をするための「祈り」という言葉は、ラテン語のPRECARIA(願い)に由来するもので、

神に語り掛けるORATIO(祈祷)とは別に、12世紀のヨーロッパで「願い事としての祈り」として広まったと言われています。

「畏れ敬うべき神」への祈りではなく、ひたすら救いを求めてすがる対象としてのマリア様への祈りが一般的になったからだそうです。

確かに、神様には感謝の祈りをし、マリア様には「お願いします」とつい甘えてしまいます。

パパ様ツイッターに、その正解を見つけました!

 

Worship means going to Jesus without a list of petitions, but with one request alone: to abide with Him. 
In worship, we allow Jesus to heal and change us.

賛美の祈りとは、多くの願い事を持たず、ただ「主とともにいたい」と願って、イエスのもとへ行くことです。
そして、賛美の祈りをささげるなかで、イエスにわたしたちをいやし、変えていただくことなのです。

 

心に刻んでおきたい、神様への祈り方です。

 

それは、誰のためか。

久留米教会では、毎月第2日曜日のごミサで手話通訳がなされています。

 

 

前任の森山信三神父様が始められた取り組みで、そのお考えに共鳴した信徒によって、もう4年以上続けられています。

あなたは祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。

マタイ6・6

 

竹下節子さんの新書に書かれていました。
彼女が昔、初めて日本の愛徳姉妹会のシスターに会ったときに驚いたことがあるそうです。

シスターたちの視線や関心が、「ご出現」や「奇跡」にではなくて、
彼女らが世話をする子どもたちやお年寄り、訪問する病院や支援を必要とする人々にばかり向けられていることに驚いた。

彼女たちからあふれる幸せオーラの秘密は、いわゆる生産性も承認要求も関係のないところでの、
「見返り」を求めない奉仕の生活にあるらしかった。

いや、「見返り」どころか、先に無償で与えられている何かを分かち合う歓びが、彼女らの「奉仕」だった。

竹下さんが出会ったシスター方は、隠れた行いをご覧になる父からの「報い」すら求めてはいない、のではないでしょうか。

 

毎月、ごミサを手話通訳してくださっている方々にお話を聞きました。

「誰のために手話通訳をされていますか?」

 

「森山神父様から手話通訳ミサの理念を初めて伺ったとき、その趣旨に賛同しました。
通訳を必要としている人がいるから行うのではなく、
久留米の教会に行けば手話通訳ミサがある、という開かれた場を作りたい、というお考えでした。

それでも、時には自己満足にならないようにしなければ、というジレンマを感じることもありました。
必要としている人は久留米の信徒には誰もいないのに、と言う声があったのも事実です。

それでもこうして続けてきて、最近では、久留米教会外から数名の耳の不自由な信徒の方が来てくださるようになりました。
来ていただいたときは、特にその方のために心を込めて通訳しています。
ミサの後の手話の勉強会に参加してくださるようにもなりました。」

「できれば、毎週でも手話通訳ミサができるような体制になり、
近隣の教会からもっと多くの必要とされている方が来ていただけるようにしたいとも思っています。」


最初は「誰のために?」という葛藤を抱え、
次第に「誰かのために」、そして今では「もっと多くの方のために」と気持ちが高まってこられているのを感じ、同じ久留米教会の信徒として誇らしく思いました。

通訳をされている方々が、分かち合う歓びという「報い」をお感じになっている気がしました。

 

これをご覧になっている方で、周囲に手話通訳ミサを必要とされている方がいらっしゃれば、お伝えください。

久留米では毎月第2日曜にやってるよ!と。 

 

新しく生まれる信仰

あけましておめでとうございます。

そして、主の公現の主日、おめでとうございます。

イザヤ書はわたしの好きな聖書です。

昨日の朗読は、60章1~6の美しい箇所が読まれました。

立ち上がれ、光を放て。
まことに、お前の光がやって来る。
主の栄光がお前の上に輝き上る。

まことに、見よ、
闇が地を、暗黒が諸国の民を覆うが、
お前の上には主が輝き上り、
その栄光がお前の上に現れる。

らくだの大群、
ミディアンとエファの若いらくだが、
お前の町を埋め尽くす。
これらはみなシェバから来て、
黄金と乳香を携え、
主に対する賛美を公に告げる。

 

ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」

神の栄光がキリストにおいて現れ、

すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現の祭日(エピファニア)は、

4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日なのだそうです。

 

昨年はどのような年だったでしょうか。

今年はどのような一年にしたいとお考えでしょうか。

 

「立ち上がれ、光を放て」

主の栄光を受けているわたしたち信徒の役割は、

周囲に光を放つことではないか、とわたしは以前から考えていました。

子どもが親や周囲の大人の言動に影響を受けるように、

わたしたちも、自分の周囲にいる人々に良い影響を、

信仰によって得たお恵みを与える存在であることが必要ではないでしょうか。

 

わたしはこの福音のための奉仕者となりました。

神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった

恵みとしての賜物に則してのことです。

聖なる人々のうちで最も小さな者であるこのわたしに、

このような恵みが与えられました。

すなわち、キリストの測り知れない豊かさを福音として異邦人に告げ知らせ、

また、すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められてきた神秘が、

実現するというのはどういうことであるかを、

すべての人々に明らかにするという恵みです。

エフェソ3・7~9

 

常々、宮﨑神父様がおっしゃるように、もっと聖書に親しむことも必要なことだと思います。

聖書には全てのこと、人生に必要なことは全部書いてあります。

2020年という新しい年が始まりました。

信仰を新たに生まれ変わらせるチャンスです。

去年出来なかったことを実行するチャンスです。

教会から遠ざかってしまっているとしたら、
月に一度だけでもごミサに与ろうと決意するチャンスです。

日曜日、ごミサから帰ったら、その日の朗読の個所を聖書を開いて読み返す、
という良い習慣を身に着けるチャンスです。

 

今年も素晴らしい一年にしましょう。