行事風景
キリスト教の芸術
メトロポリタン美術館に行きました。
日本で有名な絵画展があっても、写真撮影は出来ないことが普通ですが、こちらではOKです。
もちろん、その美術館の収蔵品だから、と言うこともありますが、例えば小学生が課外授業でクラスごと訪れていて、座り込んで写生していたりするのも普通の光景です。
とても1日では見て回れない数の展示品がありますので、見たいポイントを調べてから行かないと、疲れ果てるだけに終わる贅沢な美術館です。
わたしはいつも、同じ絵を見るために行くのですが、今回はこれらのキリスト教にまつわる作品を初めて見ました。
カトリック教会が芸術に力を入れるようになったのは、宗教改革に端を発しています。
トリエント公会議で、芸術は崇拝の対象ではないとの判断がなされ、建築や絵画が重要な位置を占めるようになって行きます。
絢爛豪華で力強い教会の建築を推し進め、教義の重要性を絵画や彫刻で語ることに力を入れていきます。
1506年に着工されたローマのサン・ピエトロ大聖堂はその事情を反映している、とウィキペディアにありました。
「聖人崇拝に好意的ではないプロテスタントへの反動で、多くの聖人画も描かれるようになりました。
カトリック教会が宗教美術の力を利用したのは現代でいうメディア戦略であり、「宗教画=目で見る聖書」によって、わかりやすく、そして劇的に信者の宗教心に訴え帰依させようとしたのです。」
と書いてある記事も見つけました。
事情はどうあれ、現代のわたしたちにとってこうしたキリスト教の芸術は、信仰の助けというよりは心の滋養に最適なものではないでしょうか。
こちらは、ニューヨーク最大のカトリック教会、セントパトリック教会です。
五番街の真ん中にそびえ立つ、豪華絢爛な聖堂です。
平日の午後に行ったのですが、平日は毎日3回のミサがあり、ちょうどその最中でした。
どういう事情でかはわかりませんが(わたしが日曜に行く近くの教会も同じで)、聖歌はみんなで歌わず、一人のプロのような人(おそらく、音大の学生)が声高らかに歌い上げます。
神がほんとうに地上にお住みになるのでしょうか。
天も、天の天も、あなたを包むことはできません。
わたしが建てたこの神殿などなおさらです。
しかし、わたしの神、主よ、あなたの僕の祈りと願いを顧み、今日、あなたの僕がみ前にささげる叫びと祈りを聞き入れてください。
どうか、あなたの住まいである天でこれを聞き、聞き入れてお赦しください。
(列王記上8・27〜30)
8章は、「あなたは天にあってこれを聞き」と繰り返し書かれている、『ソロモンの祈り』という箇所です。
ソロモンが豪華絢爛な神殿を建て、そこに神の櫃を置いた時、雲が神殿に満ちます。
「主は密雲の中に住む」、とソロモンは悟ります。
豪華な神殿も教会も、建物そのものは、わたしたちにとっての一つの祈りの場所にすぎないのです。
自分磨き
先日の記事で、各所で人材が不足しているということについて書きましたが、ここアメリカでも危機に瀕している教会があることを知りました。
今、ニューヨークにいます。
犬の散歩で近所を歩いている時、姪が「あの古い教会は、維持できなくなって売られて、中は素敵なアパートに改装されてるのよ」と、教えてくれました。
↑この古い教会は、外観をそのままに、今はアパートになっているのです。
ブルックリンは、ニューヨークの中でもとても教会が多い地区で、2ブロックごとに様々な宗派の教会があります。
↓こちらは、フレンチバプティストの教会
そして、こちら↓が、わたしが滞在する時にいつもミサに行くカトリック教会です。
(妹の家から歩いて10分の距離です。
歩いている途中に、4つのプロテスタント教会があります。)
QUEEN of ALL SAINTS CHURCH
学校が併設されている、とても大きな教会です。↓
ご存知の通り、ニューヨークはとても物価が高く、不動産を維持するのはとても大変です。
エアライツ(空中権=近隣のビルからの眺めを阻害しないように、これ以上建物の上を高くしないという約束)を売って、維持費を得ている教会もあるそうです。
韓国では多くの召命があるのに、とも嘆いたことを書いていましたが、12/14発表の韓国統計庁によると、韓国の出生率は2023年は0.72となり、2025年には0.65まで低下するとの推計だそうです。
少子化が社会問題である日本でさえ、2022年の出生率は1.26ですので、いかに韓国が危機的な状況かがわかります。
つまり、韓国の召命が日本のようになるのは時間の問題なのです。
ある神父様に「もう久留米教会に神学生が実習に来てくれることもない。日本の教会はどうなっていくのだろう」という愚痴を話していた時、こうおっしゃいました。
「以前わたしが教えたように、信徒それぞれが『信仰のセンス』を磨いていくしかないのですよ」
信仰のセンスについては、前にもここに書きましたが、大切なことですのでもう一度書いておきます。
大まかに、2つのセンスが必要となります。
①能力としてのセンス
・聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力
・神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力
・日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力
②理解としてのセンス
・神の啓示について、各人が理解して得る意味
・人がそれを他者に表現するとき、信仰の知識として顕になるもの
どうですか?
難しい、と感じられたかもしれません。
でも、全てのセンスを持っている、と断言できなくとも、どれも薄っすらとは分かっているものではないでしょうか。
「今日、わたしがあなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものでも、遠く及ばぬものでもない。
それは天にあるのではなく、海の彼方にあるのでもないから、『誰がわたしたちのために天に昇り、海の彼方に渡り、それを取って来て、わたしたちが行うように、それを聞かせてくれるのか』と言うには及ばない。
実に、言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、あなたはそれを行うことができる」。
(申命記30・11〜14)
ローマ10章に引用されている箇所です。
司祭の数が足りない、少子化が心配だ、と嘆く前に、「わたし」に授けられている「言葉」を自覚する必要がある、と言うことです。
信者としての自分のセンスを、それぞれが磨くのです。
信仰のセンスは、個人の生き方で現されるものです。
上に書いた5つのポイントを意識して生活してみるといいですね。
わたしたちの信仰のセンスが磨かれれば、自然とその背中を見た若者の気持ちが芽生えてくれるかもしれません。
人の痛み
いつも、ここに書くことの基礎は、その週に起こった出来事や考えたことを信仰に結びつけています。
皆様は、今週はどのような日々でしたか?
何か、考えさせられることや、気になることはありましたか?
わたしは、「病気」についてずっと思いを巡らせていました。
以前から何度か書いたことのある、ある神父様から依頼を受けて支援を続けている方のことです。
彼に何かあると、決まって『虫の知らせ』があり、心に引っ掛かるものが湧き、連絡を入れるのです。
また、負のスパイラルに陥っていました。
いくつかの身体的な病気を患っているのですが、根本的な問題は、アルコール依存症です。
身体に不調があると入院し、病院にいる間はお酒が抜けることで精神的に軽やかになります。
信仰を持っていること・神父様とわたしに気にかけてもらっていることへの感謝に満ち、お電話をくださり、優しい言葉で会話をすることができます。
家に戻ると、そのうちまたお酒に浸るようになり、生かされていることの意味を問うようになり、自暴自棄になってしまうのです。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。
この人ですか。それともこの人の両親ですか」。
イエスはお答えになった、「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。
むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。
わたしをお遣わしになった方の業を、
わたしたちはまだ日のあるうちに行わなければならない。
誰も働くことのできない夜が来る。
世にいる間、わたしは世の光である」。
(ヨハネ8・2〜5)
その方が、わたしにこれまで何度もおっしゃいました。
「どうしてわたしを見捨てないんですか。」
わたしは、「神父様から頼まれているからよ。わたしはあなたのことを見捨てませんよ。」とお答えします。
彼のために働くこと、それはわたしに神様がお与えくださった、一つの使命だと思っています。
彼の痛みが、なんとなくですが、わかるのです。
恐らく、わたしたちは誰も、同じような罪を繰り返し犯しているのではないでしょうか。
アルコール依存症は病気です。
それは、罪ではありません。
生かされている意味を疑うこと、それが罪だと思うのです。
病気、それも、本人に治す気があれば治る病気なのに、、、、とずっと考えています。
以前、その神父様から教わったことの一つに、「ある宗教的な体験によって自分が変えられた、という誰かとの出会い。その時を持っていることは幸いだ」というものがあります。
イエス様が十字架の死を予告される場面でおっしゃる言葉があります。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
(ヨハネ12・27)
「この時」
誰かとの出会いがその人を救う、そのことはイエス様にとっての「この時」である、と教えてもらいました。
その方が、わたしとの出会いをきっかけに変わってくれるのを何年も待っているのです。
旧約の「難解さ」が好きなので、いつも好んで旧約を読むのですが、今回はこの記事を書くにあたって、書簡を読み返してみました。
書簡はストレートに心に入ってくる文章が多く、読んでいてワクワクします。
律法全体は、「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守ることによって果たされます。
わたしたちは霊の導きに従って、生きているとするなら、また、霊の導きに従って前進しましょう。
機会あるごとに、すべての人に、特に、信仰によっていわば家族となった人々に対して、善を行いましょう。
(ガラテヤ5・14、23、6・10)
聖霊が言っておられるように、「今日、もしあなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」。
あなた方のうち誰一人罪にまどわされて、頑なになる者がないように、むしろ、「今日」という日が過ぎ去らないうちに、毎日、互いに励まし合いなさい。
「今日、もし、あなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない、神に背いた時のように」。
(ヘブライ3・7、13〜15)
「この時」
「今日」
いずれも、神様がわたしたちに語りかけ、働きかけてくださる瞬間です。
人の痛みを感じるならば、神様が「働きなさい」と背中を押しているのだ、ということを忘れないように。
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2年間、久留米教会で司牧実習をしてくれた神学生のホンくん。
28日が最後のミサでした。
いよいよ、3/20に長崎で助祭に叙階されます。
久留米教会からも、バスを借りてみんなで叙階式に参列させていただこうと計画しています。
ホンくんは、韓国から来て日本で神学校に行き、長崎教区で叙階されます。
彼のために祈りましょう。
(彼の送別会を兼ねたバーベキューだったのに、彼が1番働かされていました!)
人のちから
「人材不足」、経済活動において今一番重大な問題です。
「置き配」や、飲食店でのタブレットや携帯からのオーダーなど、さまざまな工夫で、業界とユーザー相互で解決できることもあります。
JALの次期社長が初の女性になることは、業界の人材不足解消の一助になるでしょう。
防衛省が、自衛隊の男性隊員への「丸刈りルール」・女性隊員への「ショートカット推奨」を廃止することを発表しましたが、これも人材不足の対策のひとつだそうです。
カトリック教会においても、司祭不足が懸念されています。
将来、「告解はAIが担当します」とお知らせに載る日が来たら、、、。
お隣の韓国では、毎年多くの神学生が召命を受け、司祭を日本に派遣していただけるほどです。
なにがこれほどの違いを生じさせているのでしょうか。
「1月15日、アメリカ大統領選挙の共和党公認候補のアイオワ州選挙でトランプ元大統領が圧勝」、というニュースがありました。
人口の約 90% が白人で、エヴェンジェリカル(福音派)が主流という土地柄の影響が大きいとはいえ、(能力や人柄は置いておくとして)(良くも悪くも)「あれほど分かり易くて、あれほどパワーがあれば、きっと何かやってくれるに違いない!」という期待を抱かせるのは、なんとなくわかる気がします。
歴史に残る時代は、その時を象徴するような人のちからによって形成されます。
世界が混沌とし、明るいニュースが聞かれない今、希望の光となる救い主が必要だ、と思うのは極端でしょうか。
現代社会に必要な人とは、どのような人でしょうか。
先週ご紹介した本には、アッシジの聖フランチェスコについても少し記述がありました。
フリードリッヒ2世と同年代に生きたフランチェスコのことを、塩野さんは「ルネッサンスの第一走者」と書いていらっしゃいます。
おそらくフランチェスコは、当時相当な変わり者として見られていたはずです。
(親からもらったものは置いていく、と着ていたものを脱ぎ捨てて家を出て、鳥と話していたんですもの・・・)
1182年生まれのフランチェスコの説いたことは、当時のキリスト教界では革命的なものでした。
教皇たちの豪華絢爛ぶりをよそに、清貧であることの尊さを説き、キリスト教の神は、これまでに言われてきたような厳しく罰を与える神ではなく、優しく包み込む愛の神であると初めて説いたのは彼です。
そして何より彼が行った革命は、利潤追求を目的とした工業、商業に専念する人々をも修道僧として受け入れ、組織としてまとめたということです。
修道僧だけでは社会は存続できない、そのためには資金が必要である。
貧しい人、不幸な人に精神的にも物質的にも援助を惜しまない商売人も、修道会へ寄付をすることで信者としての義務を果たし、時には修道僧として共に生活を送ればよい、というのです。
合理的な支援の仕方です。
彼自身が商人の息子であるから生まれた考えでしょうが、お金儲けをする『働く人』(当時の第三階級)が修道士としても『祈る人』(第一階級)となれる、という発想は、当時『働く人』が持っていた劣等意識を取り払ったのです。
塩野さんは、「資本主義はフランチェスコから始まった」とおっしゃいます。
2000年前に人々を導いたイエス様、800年前に活動した聖フランチェスコ、彼らは文字通りの救い主でした。
わたしたちの悪行がわたしたちに不利な証言をしても、
ああ、主よ、
あなたの名のために、何かを行ってください。
まことに、わたしたちの離反ははなはだしく、
わたしたちはあなたに罪を犯したのです。
ああ、イスラエルの希望、困難の時に救ってくださる方よ、
あなたはどうして、在留の他国の者のようにこの地におられ、
一夜だけ宿った旅人のようなのですか。
あなたはどうして無力で、
救うことのできない勇者のようなのですか。
それでも、主よ、
あなたはわたしたちのただ中におられ、
わたしたちはあなたの名によって呼ばれているのです。
わたしたちを見捨てないでください。
(エレミヤ14・7~9)
現代をバビロン捕囚の時代に例えてみると、現状を引き起こしたのは頑なで利己主義に陥ったわたしたちの問題であり、それを神様が嘆いておられる姿が浮かび上がってくるようです。
救い主をじっと待つのではなく、わたしたち一人ひとりのちからが試されているような気がします。
主は憐れみ深く正しい方、
罪人に道を示し、
貧しい人を正義に導き、
へりくだる者にその道を教えてくださる。
主よ、わたしの咎は大きいが
み名の誉れのために赦してください。
主は、その人に選ぶべき道を示してくださる。
(詩編25・8、9、11)
貧しく、へりくだる人
わたしたち一人ひとりが自分の罪を認めて、今自分が選ぶべき道を正しく進むことができますように。
聖なるもの
気温はマイナスでも、気持ちの良い青空の日曜の朝でした。
毎週日曜日の朝、教会で皆さんと言葉を交わし、一緒に歌い祈り、そうして過ごせることの喜びをひしひしと感じました。
被災地の教会の被害状況に心が痛みます。
1日も早く、被災された方、海保のパイロットの方に笑顔になれる時間が訪れますように。
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去年からハマって読んでいるのが、塩野七生さんの本。
何冊か読んでみましたが、飛びぬけて面白く、皆さまにお薦めしたい本はこちら。
本好きの友人から、「現代のクリスチャンが、安全にイスラエルに聖地巡礼に行けるようになった基盤を作ったのは誰か知ってる?」と、この本を薦めてもらい、昨年の秋から読み始めました。
その時は、まだ現在の戦争状態が起きる前でしたので、まさか「もう二度と行けないかもしれない」という状況になるとは思ってもみませんでした。
塩野さんは、本を書く際にはかなり綿密な調査をされることでも知られています。
豊富な知識と徹底した資料収集から構築される中世ヨーロッパの歴史は、まるで彼女がその世界に生きていたのかと思わせるものがあります。
友人の質問、「誰がキリスト教徒の聖地巡礼を可能にしたのか」。
それが、神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒ2世です。
当時のキリスト教世界には、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝という、2人の最高指導者がいました。
ローマ教皇は神の代理人とされ、精神上の最高位者
ローマ皇帝は、ヨーロッパのキリスト教世界における世俗の最高位者
『教皇は太陽、皇帝は月』という有名なフレーズは、悪名高き教皇、インノケンティウス3世の残した言葉です。
幼くしてシチリア王国の国王になったフリードリッヒの後見人が、この教皇でした。
(当時は各地方が自治権を持っており、イタリアやギリシャ、という国は存在していません。)
当時の歴代ローマ教皇は、長年にわたってイスラム教徒の支配下にあったエルサレムの奪還が最優先事項であると考え、執拗に十字軍を送ります。
一方で、フリードリッヒはあれやこれやと理由をつけて、十字軍への参加を拒み続けていました。
それは、彼の「平和裏に聖都返還を実現したい」という思いからでした。
1228年、フリードリッヒは第六次十字軍を率います。
軍を率いたのは、あくまでも抑止力としてでした。
その前の第五次十字軍には、アッシジのフランチェスコも修道士として参加していることをご存知でしょうか。
フランチェスコもまた、平和のうちに交渉しようとして、スルタンにキリスト教に改宗するよう迫ったのです。
もちろん、そのような言葉での外交がうまくいくはずは無く、その場で殺されてもおかしくなかったのに、笑い飛ばされて追い返されています。
それに対し、フリードリッヒは聖地でのキリスト教徒の存続の保障を話し合うために、軍を率いてヤッファ(現在のテル・アビブ)に向かいます。
対するスルタン、アル・カミールは、離宮のあったガザにて待ち構えます。
二つの街を双方の使者が行き来して、四か月で講和が成立しました。
その項目の一つが、「キリスト教側の領土であろうとイスラム側の領土であろうと関係なく、巡礼と通商を目的とする人々の往来は、双方ともが自由と安全を保証する」というものでした。
今では大都会であるテル・アビブとイスラム教徒のパレスチナ人が追いやられているガザが、この平和交渉の舞台であったという事実に驚きを感じませんか?
なぜ交渉が成立したか、その内容に教皇が激怒したこと、などはぜひお読みいただくとして、わたしたちキリスト教徒にとって聖なるものが、同じように、イスラム教徒にとっても聖なるものなのだ、ということを痛感させられる本でした。
まことに、教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出る。
主は、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁を行われる。
彼らはその剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を振りかざすことなくもはや戦うことを学ばない。
(イザヤ1・3〜4)
わたしたちの生きている現在も、いつか歴史として語られる大きな転換点かもしれません。
例えば、イスラエルの不安定な状況。
エルサレムがイスラム教・ユダヤ教・キリスト教のいずれかに独立支配されているわけではないのに、巡礼すらままならないということ。
元日の地震で、石川県の海岸では4メートルも隆起している箇所があり、これは数千年に一度の現象であること。
塩野さんの文章に、こんなことが書いてありました。
歴史を書きながら痛感させられることの一つは、情報とは、その重要性を理解できた者にしか、正しく伝わらないものであるということだ。
十字軍の歴史一つとっても同じで。この点では、キリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうと、まったくちがいはない。
古代ローマの人である。ユリウス・カエサルも言っている。
「人間ならは誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
情報を活用できるのは、見たくない現実でも直視する人だけなのである。
それでも、主はお前たちに厚意を示そうとして待っておられ、
それでも、お前たちを憐れもうとして立ち上がられる。
まことに、主は公正の神。
主を待ち望むすべての者は幸い。
主は、お前が大地に蒔く種のために雨を与え、大地が産み出す食物は豊かで滋養に富む。
その日、お前の家畜は広い牧場で草をはみ、大地を耕す牛やろばは、シャベルと三又で選り分けて発酵させた飼い葉を食べる。
大いなる殺戮の日、塔の倒れる時には、すべての高い山、そびえたつ丘の上に、水のほとばしる流れができる。
主が民の傷口を包み、その討たれた傷を癒やされる日、月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は七倍にもなって、七日分の光のようになる。
(イザヤ30・18、23〜26)
弱った手を強くし、ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
見よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いがくる。
ご自身がこられ、お前たちを救ってくださる」。
(イザヤ35・3〜4)
宮﨑神父様がお説教で、「聖書にある言葉で1番好きなのは、恐れるな、というものです。わたしたちが選んで洗礼を受けたのではなく、神に選ばれたのだということを心に刻みましょう。」とおっしゃいました。
2024年の始まりに起きた日本の災害だけではなく、終わりの見えないウクライナの戦争とイスラエルの戦争、世界各地で起きている現実を直視し、今を生きる自分にできることは何かを自問自答したいと思います。