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丘を登る勇気
先日、ある神父様といろいろなお話をしました。
その中でも、多くの方と共有したいと思ったテーマは、「エジプトに戻ることばかりを考えちゃいかん!」ということです。
現在の世界の状況をよく見て、考え、理解するならば、「元の世界に戻る」ことが幻想であると気づくはずです。
「元の世界」とはすなわち、ウィルスの感染に怯えることなく、自由に、計画したとおりに、楽しみを追い求め、安定した、そうした生き方ができることです。
わたしたちは知っています。
自由を求めて、労働の代わりに食事に事欠くことのなかったエジプトから脱出した民が、荒野での生活に嫌気がさし「エジプトの方が良かった、エジプトに戻りたい、元の生活に戻りたい」と訴えていたことを。
王に隷属させられ自由がなかったエジプトでの生活から出て、安定を捨てても神に仕えることを選んだことを忘れてしまった民のことを。
わたしたちは分かっています。
苦難は「40年」続くことを。
40年とは数字通りの年数ではなく、長い時間がかかるという意味だと。
長い年数をかけて、苦難を噛みしめて乗り越えていかなければ得られないことがあることを。
数年で元に戻したい、そういう感覚で生きていく時代ではないのではないでしょうか。
『よく聞け、しかし、理解するな。
よく見よ、しかし、悟るな』。
この民の心を鈍くし、その耳をふさぎ、その目を閉ざせ。
自分の目でみることなく、
自分の耳で聞くことなく、
自分の心で悟ることなく、
悔い改めて癒されることのないために。
(イザヤ6・10)
よく考えてみましょう。
自分の目と耳と心を研ぎ澄まして、よく考えるのです。
今の時代は、地球全体の歴史の上に於いて、数千年に一度訪れる大きな大きな変革の時である。
そのことをもっとみんなが理解して行動し、生き方を変えていく必要があるのではないか。
こんなことを、神父様と盛り上がってお話しました。
アメリカの大統領就任式で詩を朗読した若い女性、アマンダ・ゴーマンさんの『The Hill We Climb (私たちがのぼる丘)』をお聞きになりましたか?
彼女の詩は、この4年で分断され暗く陰ったこの国をわたしたちが立て直すのだという、強く勇気溢れる気持ち、鮮やかな希望が表現されています。
わたしは、今世界が置かれている変革のチャンスの時とその丘に勇気をもって登っていくのだ、という風にも読むことができると感じました。
少し抜粋してご紹介します。
日が昇ると、私たちは自問する──どこに光を見いだせようか、この果てなき陰のなかに。
私たちが引きずる喪失、歩いて渡らねばならない海。
私たちは果敢に、窮地に立ち向かった。
平穏が平和とは限らず、「正しさ」の規範や概念が正義とは限らないことを学んだ。
それでもその夜明けは、いつのまにか私たちのものだ。
私たちは、完全なる一致を形作ることを目指しているわけではない。
私たちが目指しているのは、意義ある一致を築くことだ。
聖書は私たちにこう幻を抱くようにと語りかける──
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」
(ミカ書4:4)
私たちがこの時代に応えようとするのであれば、勝利は刃ではなく、私たちの作ったあらゆる橋にあるのだ。
それが、木立ちのなかの空き地、私たちがのぼる丘の約束だ──ただし私たちが果敢にのぼりさえすれば。
この信仰に、私たちはより頼む。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはその始まりにあって、恐れた。
そんな恐ろしい時の後継ぎになる備えができているとは思えなかった。
それでもその内側で私たちは見出した──新しい章を著す力を、自分たちに希望と笑いを与える力を。
かつて私たちは問うた──「私たちはいったいどうしたら破滅に勝りえようか」
いま私たちは断言する──「破滅はいったいどうしたら私たちに勝りえようか」
私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。
私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
だが、ひとつ確かなことがある。
私たちが慈悲と力を、力と正しさを解け合わせるなら、
そのとき愛が私たちの遺産となり、変革が私たちの子供たちの生得権となる。
(クーリエジャパンのHPより引用 全文は以下のアドレスでご覧になれます。)
https://courrier.jp/amp/229523/?utm_source=yahoonews&utm_medium=related
いかがですか。
アメリカだけの話ではない、そう感じませんか。
繰り返しになりますが、ここだけでも暗記したいと思った箇所です。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。
私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
次の数千年の幕開けのために、エジプト(元の暮らし)を忘れて果敢に丘(新しい生き方)にのぼっていく。
それは、おそらく将来の歴史の記録に刻まれることになるであろう今を生きているわたしたちの責任なのです。
信仰のモチベーション、教会の在り方、教会へのコミットの仕方も同様です。
いま、ありし日々を懐かしむばかりで何もしないこと
-----早く元の生活が戻りますようにとばかり祈ること
-----自粛するだけで次を見据えて行動しないこと
は、子どもや孫の世代に対して無責任なのだ、と若い詩人が教えてくれました。