行事風景

現代の徴

『シビル・ウォー』という映画が公開中です。(観てないけど)

アメリカで内戦が勃発したら、という衝撃作です。
近未来のアメリカが舞台で、連邦政府から19の州が離脱し、テキサスとカリフォルニアの同盟軍がホワイトハウスに侵攻するというストーリー。

今、世界では信じられないようなことばかりが起きている(報道されている)ので、この映画も将来ありえるのかも、と思わされます。

ガザの惨状を映像で見るたびに、奇跡でも起きない限りこの街の将来は絶望的だ、と思うのはわたしだけではないでしょう。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』のなかに、こう書いてあります。

共観福音書やヨハネ福音書に記述されたおびただしいイエスの奇蹟物語は私たちに彼が奇蹟を本当に行ったか、否かという通俗的な疑問よりも、群衆が求めるものが奇蹟だけだったという悲しい事実を思い起こさせるのである。
そしてその背後に現実的な奇蹟しか要求しない群衆のなかでじっとうつむいているイエスの姿がうかんでいるのだ。

福音書が残しているこれらのイエスの悲しみの言葉にリアリティがあるのは、彼の前にあらわれる人間たちが「愛」ではなく、徴と奇蹟とを、現実に効力のあるものだけを願ったという事実に基づいて書かれたからにちがいない。

これらイエスの悲しみの言葉、とは、以下の2箇所を指しています。

すると、ファリサイ派の人々がやって来て、イエスに議論をしかけ、イエスを試みようとして、天からの徴を求めた。
イエスは心から深く嘆息して仰せになった、「どうして今の時代は徴を求めるのか」。
(マルコ8・11~12)

イエスはトマスに仰せになった、「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人たちは幸いである」。
(ヨハネ20・29)

下線を引いた「天からの徴」とは、フランシスコ会訳聖書の注釈によると、衆目を見張らせるようなメシア的徴のことで、エリヤの時に天から火が降って犠牲を焼き尽くしたような奇跡を指す、ということです。 

遠藤周作さんの仰るように、イエス様は「心から深く嘆息して」(フランシスコ会訳)、悲しみのうちにうつむいておられたことでしょう。

そして、今日の世界各地で起きている戦争や紛争をみて、今も悲しんでおられるでしょう。

教皇様は、先日談話を発表され、「戦争は敗北であり、武器は未来を建設するものではなく破壊し、暴力は和を決してもたらさない事実を歴史が証明しているが、我々は何も学んでいないようだ」、とおっしゃっていました。

イエス様が、病人を癒す奇跡というかたちで人々に徴をお見せになったのは、ご自分の権威を示し、証明するためなどではない、と教わりました。
そして、そう理解しています。

奇跡はイエスの神性を証明するために書き留められたのではありません。
イエスの神性を復活体験によって知った弟子たちが、導くために奇跡を行った旧約の神の働きの延長として、イエスの奇跡を語るのです。
これまでの歴史を導き続けた神が、今もイエスとなって導いている、との信仰告白として奇跡が語られたのです。
(雨宮神父「なぜ聖書は奇跡物語を語るのか」79ページ参考)

さらに、遠藤周作さんはエッセイの中でこう書いておられます。

イエスは、この結婚式ではじめて奇蹟を行った。
酒がつきたのを知った母マリアがそっとイエスに教えると、彼は甕に水を入れさせ、その水を葡萄酒に変えてみせたのである。
この奇蹟が象徴的だというのは、「水を葡萄酒に変える」ように、イエスはこの後、それまでの旧約的なユダヤ教の信仰を新約的な宗教に変えたことを、この物語が暗示しているからだ。
怒りの神、裁きの神、罰の神は、イエスによって愛の神、許しの神に変えられていく。
その旧約から新約への本質的な変化を、カナの奇蹟の物語は語っているのである。

イエス様が「どうして徴を求めるのか」、と仰ったときのことを考えています。

冒頭に、「奇跡でも起きなければガザに未来は見えない」と書きました。
戦争も冤罪もすべて、人間の仕業です。

神に祈って解決してもらう、奇跡を信じよう、ではなく、わたしたち一人ひとりが、あたらしい現代の徴として行動することが求められています。

日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、何にも勝る徴でしょう。
68年も活動を続けてこられた被爆者の方々。
想いを引き継ぐべく活動をともにしている若者たちがいることにも、感動しました。

発表の映像を見ていて、「ヒダンキョウ」「ヒバクシャ」という日本語で委員長が語られたことにも感激し、誇らしく思いました。

受賞理由の骨子には、「被爆者の証言は世界で幅広い核兵器反対運動を生み出した」「平和に取り組んできた全ての被爆者に敬意」とありました。

彼らの活動も受賞も、奇跡ではありません。
現代世界を象徴する、新しい徴だと思うのです。

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13日は、宮﨑神父様の叙階45年、ジュゼッペ神父様の88回目のお誕生日という、素晴らしい日曜日でした。

幼児洗礼式も行われ、大阪に赴任する前のピーター神父様も来てくださり、侍者が5人もいて、久留米教会は恵まれた徴に溢れた日曜日でした。

 

 

沈黙のうちに

2024年10月の祈りの意向は、「使命を担い合う」ために。
教皇様は次のようにおっしゃっています。

わたしたちキリスト者は皆、教会の使命に責任を負っています。
すべての司祭が、すべての人がです。
信徒たち、洗礼を受けた人たちは、教会の中に、自分の家にいます。
そして、その家の世話をしなくてはなりません。
それはわたしたち司祭や修道者にとっても同じです。
一人ひとりが自分に得意なことをとおして貢献するのです。
わたしたちは教会の使命における共同責任者です。
わたしたちは教会の交わりの中で、参加し、生きています。

 

主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
(創世記2・18、21~22)

この箇所は、女性は男性の一部から造られたものであり、男性より劣っている、などという意味ではありません。

教皇様のお考えでは、こうです。

最初のアダムを深い眠りに落とされた後に、神が彼の脇腹からエバを引き出したように、十字架上での死の眠りに落ちた新しいアダムの脇腹からは、新しいエバである教会が生まれたのです。
(使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」14)

わたしたちキリスト者は、いつも、旧約に書かれていることがどのようにイエス様によって成就されたのか、という並行的な読み方で聖書を理解する必要があります。

必要がある、というより、その方が何倍も、聖書を身近で面白いものに感じられるはずです。

新しいエバである教会の一員として、冒頭の10月の祈りの意向のように、教会に集うわたしたち皆が、その使命における共同責任者であることに誇りと喜びを感じることができますように。

 

教皇様の使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」は、70ページほどの薄い本ですが、毎週ミサに集うわたしたちが理解しておくべき教えがぎっしりつまっています。

 

 

イエスは言われた。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。
(ルカ22・15)

過越の食事であるミサ、その『祭儀の美』としての典礼について、教皇様の教えが述べられています。

その中でわたしが特にご紹介したいと感じたのが、ミサにおける「沈黙」の重要性についてです。

洗礼を受けた時、代母であるシスターから「ミサ中に何度か『祈りましょう』という場面があるから、その時は目を閉じて頭を少し下げて、静かに祈るのよ」と教わりました。

ミサのなかでの所作については、以前このページに書いたことがありますが、わたしはミサの中で特に大切にしているのが、この『祈りましょう』の時間です。

 

会衆全体に属する儀式行為の中で、沈黙は絶対的な重要性をもっています。
感謝の祭儀全体は、それに先立つ沈黙と、展開する儀式のあらゆる瞬間を特徴づける沈黙に浸されているのです。
回心の祈りの中に、「祈りましょう」という招きの後に、ことばの典礼の中に、奉献文の中に、そして聖体拝領の後に、沈黙が存在しています。

典礼的な沈黙とは、祭儀の行為全体にいのちを吹き込む聖霊の現存と働きのシンボル(象徴)なのです。
だからこそ典礼的な沈黙は、聖霊の多面的な働きを表現する力を持っているのです。

沈黙はみことばを聞く心構えを呼び覚まし、祈りを目覚めさせます。
そして、沈黙はわたしたちを、キリストの御からだと御血への礼拝へと向かわせます。

これらすべての理由から、わたしたちは細心の注意を払って沈黙と言うシンボリック(象徴的)な動作をするように呼ばれているのです。
沈黙を通して、聖霊はわたしたちを磨き、形づくります。
(52)

ミサのなかでの沈黙は、ある意味で「間(ま)」とも言えるかもしれません。

展開する儀式、シンボリックな所作、みことばの連続の中に織り込まれた「間」。
聖霊の働きを、わたしたち一人ひとりが体感するための「間」。

形式的に祭儀を進めない(受けない)ように、ミサの先唱をする際にわたしが特に気を付けているのも、「間」です。
ひとつひとつの典礼が進むたびに、わたしなりにごく小さな時間を置くようにしています。

 

久留米教会では、ミサの5分前までロザリオの祈りを行います。
そして、ミサまでの5分間、それぞれが静かに沈黙し、祈っています。

ミサが終わると、(すぐに立ち上がって帰る方もいますが)ほんの少しの時間だけ、皆がまた座り、沈黙の時間を持ちます。

沈黙にはじまり、祭儀中に訪れる沈黙を守り、沈黙のうちに終える。

次のミサで、これまでよりもう少しだけ、この沈黙を意識してみませんか?

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上智福岡高校の生徒たちが、夏休みに行ったカンボジアでの研修の報告をしにきてくれました。

毎年実施されている研修だそうで、多数の応募者の中から選抜された12名が参加したとのことでした。

久留米教会から派遣されている中島 愛さんとの交流もあったようで、貴重な体験をした高校生たちの生き生きとしたレポートに、多くの質問が投げかけられました。

 

ひとつの生

明日から10月、ようやく秋を感じ始めたというのに、色々な教会の行事のことを考え、個人的な予定を立てていたら、もう今年は終わった気分です。

ステンドグラスから差し込む光も、柔らかで、あたたかく感じます。

イスラエルが展開する報復攻撃が、新たな局面に入っています。

自国民を殺害され人質に取られた報復にハマスを撲滅する、とガザ地区を集中攻撃していたのが、いつの間にか、ハマスを支援しているヒズボラをも撲滅する、という作戦も同時進行しています。

ヒズボラは先週、テルアビブ近郊にあるイスラエルの対外特務機関モサド(Mossad)本部を標的とした報復攻撃を行いました。
数日後には、イスラエルがヒズボラの本部を攻撃し、最高指導者を殺害したと発表しました。

互いに「血の復讐をする者」(申命記19・6)となり、やられたから何倍にもしてやり返す「復讐」の連鎖は、エスカレートする一方のようです。

 

紀元前18世紀に制定されたとされるハンムラビ法典の、「目には目を、歯には歯を」という同害復讐法は有名ですが、この法典は犯罪に対して厳罰を加えることが主目的ではありません。
(もちろん、目をやられたら目をやり返せ、という意味でもありません。)

ハンムラビ法典はその目的を、「全土に正義をいきわたらせるため、悪事を撲滅するため、強者が弱者をしいたげないため」としています。

財産の保障なども含まれており、奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利が含まれている。
ハンムラビ法典は身分の違いによってその刑罰が異なるのに対し、旧約聖書の律法は身分の違いによる刑罰の軽重はない。
(Wikipediaより)

ハンムラビ法典は、次の序文から始まります。

敬虔なる君主で、神を畏れる朕ハンムラビをして国の中に正義を輝かせるために、悪者と奸者とを殲滅させるために、シャマシュ神のように黒い頭どもに向かって立ち昇り国土を照らすために、アヌ神とエンリル神とは朕の名をこう呼び給うた。
これは人びとの幸せを満たすためである。

世界の現代民法の根幹に影響を与えているとされるハンムラビ法典は、一般的に世間が持つイメージとは違い、弱者保護、人民の幸せを守るための法律なのです。

旧約聖書では、出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章の3か所に、この同害復讐に関する記述があります。

 

あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。
必ず彼と共に助け起こさねばならない。
(出エジプト23・4~5)

これは動物愛護の掟ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがあると思われます。
イエスは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。
この場合、キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ父である神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」かただからであり、目指すところは天の父の子となることです。

今道瑤子シスターは、「復讐」についてこう書いておられます。

あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしはあなたがたに言っておく。
あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。

それは、天におられる父の子となるためである。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。
(マタイ5・43〜45)

 

30歳で逮捕されてから58年、1980年に最高裁で死刑判決が確定していた袴田巌さんが、9/26の再審によって無罪となりました。

袴田さんのニュースを見聞きするたびにいつも気になっていたのは、お姉様のひで子さんの存在です。

「人生を懸けてでも、弟の無実を証明する。それが自分の運命だと感じた。」という彼女は、御年91歳。

長年の拘禁生活で精神を病んでしまった袴田さん、弟の代わりに出廷したお姉様。

裁判長が判決を言い渡した最後に、「心身ともに健やかに、ひで子さんの健康を祈ります」と、時折言葉を詰まらせながら語りかけた、というニュースの記事を見て、心が痛くなりました。

この58年間という長い日々、取り返すことのできない人生について、判決が下りた今、どう考えておられるのだろうかと思いを巡らせています。

裁判を終えてインタビューに答えていらっしゃる様子、笑顔で何度も「ありがとうございました。」とおっしゃるお姿、「裁判長にねぎらいの言葉をかけてもらって、とてもうれしかった。皆さま、ありがとうございました」というお言葉。

わたしが彼女の立場だったとして、「うれしかった」「ありがとう」という言葉を発することができたか、、、、。

世界的仏教者のティク・ナット・ハンは、その著書『イエスとブッダ』の中で、このように言っています。

仏教徒はリインカーネーション(生まれ変わり)を信じています。
人間は幾度も生をくりかえすという考え方です。
仏教界では、リーインカネーションよりも、リバース(輪廻転生)という言葉のほうを好みます。
死後、あなたはふたたび生まれて、別の生を生きるのです。

キリスト教では、あなたの今の生は唯一無二のもので、このたったひとつの生があなたの救済の唯一のチャンスとなります。
あなたにあるのは、ただひとつの生だけです。

パウロ袴田さんとお姉さまに、この人生は過ぎ去ってしまったので、生まれ変わったら良い日々があるでしょう、などとは言えません。

「判決をもらって、58年なんか吹っとんじゃったみたいな気がする」とおっしゃっていましたが、お2人は、これからの人生をどのような思いでお過ごしになるでしょうか。

過ぎ去った日々を思い起こせ。
代々の年を顧みよ。
主は荒れ野で、獣の吼える不毛の地で、彼を見出し、彼を囲み、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。
今こそ、見よ、わたし、わたしこそがそれである。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、また癒やす。
(申命記32・7、10、39)

人生

2024年の全国の100歳以上の高齢者は、2023年から3000人近く増えて9万5000人あまりで、女性が8万3958人(全体の88%)、男性が1万1161人との統計が発表されました。

1924年(大正13年)は、シャネルがリップスティックを初めて発表した年であり、日本初の大規模多目的野球場である甲子園球場が竣工し、越路吹雪・淡島千景・竹下登・相田みつを・力道山などが誕生した年でもあります。

1924年生まれの山頭原太郎神父様は、9/20に100歳を迎えられました。

まだまだお元気で、相変わらずお茶目で、みんなの人気者です。

以前は時々久留米教会のごミサに来てくださっていましたし、現在は久留米の施設にいらっしゃるということもあり、久留米教会で100歳記念ミサを開催しました。

アベイヤ司教様、森山司教様を始め、神父様方が各所からお越しになり、盛大なお祝いのミサとなりました。

山頭神父様がお説教で、色々なお話をしてくださいました。

365日前の、まさに今日、救急車で病院に運ばれました。
悪魔にやられた、と思うほどの痛みに苦しみました。
そのちょうど1年後に、司教様から「ミサで説教をしなさい」と言われてこの場にいます。
神様がこうして、また司祭としての道に帰してくださいました。
今、聖母の家という施設で、なんでもやってもらえて何不自由ない生活をしているのに、やはり寂しいです。
ステーキもトロも、何にもいらない。
ただ、どこかの教会で信者と過ごして、ミサを捧げたい。
それだけが望みです。

カトリック教会は今、衰え始めているのかもしれませんが、イエズス様は全く衰えていません。
司教や司祭だけではなく、あなたたち一人ひとりにイエズス様が力を与えてくださっていることを忘れないでください。

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人生100年時代、と言われて久しいかと思いますが、自分がまだ折り返したばかりなのかと思うと、、、、(;'∀')

人の生とは、語り尽くすことのできない、100人100様の生き様です。

お前は白髪の人の前で起立し、老人を敬い、お前の神を畏れなければならない。
(レビ記19・32)

白髪は栄光の冠。
それは正義の歩みによって得られる。
(箴言16・31)

ヤコブの家よ、わたしに聞け、イスラエルの家のすべての残りの者よ、母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3〜4)

このイザヤの言葉は、こうして書いていて、涙が出そうになります。

あと残りの人生がどのくらい与えられるか、見当もつきませんが、背負って救って頂かなければ。

山頭神父様の人生は、県内各地から集まってくださった、この参列者の溢れんばかりの愛が物語っています。

 

時代に求められる資質

9/11に行われたアメリカ大統領選挙の討論会を観ました。

表情をほとんど変えずに、時にはイラついた様子で、(虚言も多かった印象ですが)相手を非難したり自身の主張を述べていたトランプ氏

一方で、相手の発言がひどい際には(それは、ほとんどの発言であり、わたしでさえ「根拠がなさそう」と思った)、口の動きは「It's not true.(事実ではない)」とあきれ顔をするハリス副大統領

ハリス副大統領は、トランプ氏には「事実を混同しない気質や能力」がないと主張していました。

兵庫県知事、2つの党の党首選のニュースも含め、最近のニュースは「誰が、どのような人がリーダーとして相応しいか」を考えさせるきっかけになっています。

リーダーにはいろいろな要素が求められますが、時代、国、現状によって、相応しいリーダー像は当然変わっていきます。

旧約に描かれたリーダーも、状況に応じていろいろなタイプがいます。

そこで、モーセとアロンは、集会の前から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。
すると、主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに次のように告げられた、「杖を取れ。そして、お前と兄弟のアロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じて水を出させよ。こうしてお前は岩から水を湧き出でさせ、会衆とその家畜に水を飲ませよ」。
モーセは主が命じられたとおり、主の前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは集会を岩の前に召集して言った、「反逆する者たちよ、聞け。お前たちのためにわたしたちはこの岩から水を湧き出させることができるのだろうか」。

モーセは手を上げ、杖で岩を二度打った。すると、水が豊かに湧き出てきたので、会衆もその家畜も飲んだ。
 (民数記20・6~11)

会衆たちにとって、モーセは自分たちを約束の地に引き連れてくれる、信頼すべきリーダーでした。
途中で「肉が食べたい」などと文句を言っても、こうして必要な時に水を豊かに湧き出させることができる彼は、主に導かれた理想のリーダーに映ったことでしょう。

ですが、この場面に続いて、主は怒りを露わにします。

「お前たちは、わたしを信じようとはせず、イスラエルの子らの目の前でわたしの聖なることを示さなかった。
それ故、お前たちはこの集会を、わたしが彼らに与えた土地に導くことはできない」。

主への信頼があれば、言われた通りに岩に命じればよかったのです。
そして、いらだって岩を二度も打つ必要はなかったのです。

その後、ほどなくしてアロンがホル山で死に、モーセもネボ山で召され(申命記32・48~52)、兄弟は約束の地に入ることは出来ませんでした。

「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。
彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。
あなたは裁きを曲げてはならない。
人を分け隔てしてはならない。
賄賂を受け取ってはならない。
賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
ひたすら正義を追い求めなさい。
そうすれば、あなたは生き永らえ、あなたの神、主が与えてくださる土地を所有することができる」。
(申命記16・18~20)

リーダーに求められるのは、いつの時代も「信頼」と「正義」

やはり、聖書にはすべての答えが書かれています。

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WOWOWのドラマ「0.5の男」をネットフリックスで観ました。
(最近はネットフリックスで日本のドラマが充実しています!)

このドラマは、ざっと以下のテーマが網羅されています。

・引きこもり
・家庭内暴力
・いじめ
・職場でのパワハラ
・育休後の女性の働き方
・老後の暮らし方

すべて現代社会を反映している問題であり、その対策が国のリーダーに求められていることです。

なんだか、重くて暗い展開を想像されるかもしれませんが、俳優陣の演技の賜物もあり、軽快で明るく、ホロリとさせられる、とっても楽しいドラマでした。

この、現代の社会問題のすべてを解決するキーワードは、「家族」でした。

現実はそう単純なものではないでしょうが、親子の関わり方、兄弟姉妹の関係性、孤立した人への接し方など、いろいろな点において「知れてよかった」と思える内容でした。

人間関係の根本はやはり、家族なのです。
そしていつの時代も、やっぱり家族のリーダーは「お母さん」なのです!!
(このドラマ、かなりお薦めです!)

 

将来を見据える

8日のミサでは、敬老祝福式が行われました。

わたしにとっては、親と変わらない世代の先輩方ですが、友人のように仲良くさせていただいている方も多くいます。

そして、いつのまにか宮﨑神父様も、「敬老」の対象者に近づいていました。

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今読んでいる本に、ブッダの召命について書かれているくだりがありました。

若き王子ゴータマ・シャーキムニ、未来のブッダは、世俗を捨てるという考え方に染まっては困るから、老・病・死と出家は知らせないように、と父に厳格に守られ、大切に育てられていました。

3つの宮殿と4万人の踊り子をあてがわれ、現世の世俗的な喜びの世界を経験し尽くしていた若者は、違った経験を求めるようになります。

ある日、庭園に行こうと思った王子は、御者が用意した豪華な馬車で出かけます。
「王子に光を与える時来たり。しるしを見せねばならない」と神々は考え、仲間のひとりを身体の弱った年寄りに変え、未来のブッダに見せました。
王子と御者にしか見えていないので、王子は御者に尋ねます。
「この人は何だろう。髪までほかの人と違うが」
生まれれば老いが必ず訪れるものだと知った王子は、心をかき乱されます。

次に庭園に出かけた時は、神々は病人を、その次には死人を見せます。
そのたびに心を乱し、引き返す王子。

ある日、庭園に向かっていた王子は、神々が造った、丁寧にきちんと衣装をまとった僧侶を見ます。
「この人は何者だ」
「この世から隠遁した者でございます」
御者は、この世から隠遁することがどれほど素晴らしいことかを話して聞かせます。

この世から隠遁するというのは、未来のブッダを大変満足させる話でした。

神よ、わたしを守ってください。
わたしはあなたのもとに逃れます。
主に向かって、わたしは言う、
「あなたこそわたしの主、わたしの幸せ、あなたに勝るものはありません」。
(詩編16・1〜2)

 

わたしにも、「あぁ、あれが召命だった」と思い返すことができる出来事があります。

14年前、熱心にミサに通うようになったわたしは、昨日お祝いした先輩方が、ミサ前に準備で忙しく立ち回っていらっしゃる姿を遠目に見ていました。

それまで、たまに気が向いたらミサに行く、程度の信徒でしたので、教会の運営やミサの典礼準備など、全く知らなかった(関心を持っていなかった)のでした。

ある日、「あなた最近よく来てるわね。聖書朗読してみない?」と声をかけてもらいました。
それ以来、気にかけていただき、少しづつ色々な役割を任せいていただくようになりました。

先週のミサで、あらかじめお願いしていた聖書朗読者が5分前になっても現れず、急遽、夏休みで帰省していた大学生に「お願い、第2朗読、いまから!」とお願いしました。

その時、14年前の記憶が蘇ったのでした。

いま役割を任せてもらっているわたしたちも、将来を見据えて行動しなければ、と。

教会を繋いでいくためには、人の力が必要です。

建物を綺麗に整備して、傷んだ箇所を修理し、祭壇にお花を飾っても、教会という組織を動かして典礼の準備をする人材がなくては、信仰の場を将来に繋げていくことはできないのだ、と最近よく考えるようになりました。

信仰には、信徒の交わりという横軸がとても大切です。

そして、その交わる場が教会です。

以前のわたしのように、自分がミサに与ること以外に関心のない方も多いかと思うのですが、わたしが目をかけてもらったように、わたしも次の人材を見つけたい、と常々目を光らせています。

主よ、あなたはわたしの分け前、わたしの杯に受けるもの。
あなたこそわたしの行く末を決める方。
測り綱はわたしのために善い所に落ちた。
まことに、わたしが受けた譲りは素晴らしい。
わたしはたたえる、わたしを諭す主を。
夜には、心がわたしに教える。
わたしは常に主を思い浮かべる。
主がわたしの右におられるので、わたしは揺らぐことがない。
あなたはわたしに命の道を示してくださいます。
あなたの前には溢れる喜び、あなたの右には永遠の楽しみ。
(詩編16・5〜8、11)

気づいた時に、思った時に、こうして自分の背中を押すためにもここに書いています。

おこがましくも、勝手に身に負った使命感ですが、今神様がわたしたちをこうして働かせてくださっていることの意味を、見逃してはいけないと感じています。 

典礼担当者が作ってくれた共同祈願の文が、まさに今の気持ちに合致していました。

今月、敬老の日を迎えるにあたり祈ります。
これまで、周りの方々のため、また教会のために、自分の時間、才能を惜しみなく使われてきたみなさんが、これからも健康に恵まれ、心身ともに元気に過ごすことができますように。
アーメン

 

聖書を楽しむ日

台風10号は、進路が刻一刻と予報から変わり、想定されていなかったであろう地域にも被害をもたらしました。

逆に久留米は、予想されていた暴風雨がほとんどありませんでした。

人間はコンピュータのデータ計算によって何事も予測できるようになったと思っていますが、自然の力はわたしたちの次元とは全く異なり、災害からは逃れることはできない、という無力さを痛感します。

教皇様の9月の祈りの意向は「地球の叫びのために」

私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。

・・・・・・・

台風の影響を考慮して、金曜日は仕事を休みにしていましたので、ゆっくりと聖書を開いて読み返していました。

列王記のエリシャの召し出しと活躍のあたり、いつもワクワクさせられます。

エリヤはシャファトの子エリシャを見つけた。
彼は十二軛の牛を先に立て、畑を耕しており、自分は十二番目の牛とともにいた。
エリヤはそばに行き、自分のマントをエリシャに投げかけた。
エリシャは牛を残したまま、エリアの後を追って言った、「わたしの父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」。
エリシャは一軛の牛を取って犠牲としてささげ、牛の引き具を燃やして肉を調理し、人々に振る舞い食べさせた。
それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
(列王記上19・19〜21)

12という数字
自分のマントを投げる行為
牛を残したまま後を追う様子
両親への別れの口づけ

新約へのつながりを感じます。 

列王記は、北イスラエルと南ユダ、両王国の王の不誠実さとその滅亡という悲劇的な史実を描いているのですが、その中に挿入されている、反バアル礼拝の主唱者である預言者エリヤと、その弟子エリシャの信頼関係が際立っています。

列王記下の2章では、エリヤが主に遣わされて遠くへ行くので、何度もエリシャに「あなたはここに留まりなさい」と言います。

ですがエリシャは、「生ける主と生けるあなたに誓って申します。わたしはあなたから離れません」。と何度も答えるのです。

イエス様から弟子が逃げるように離れて行った場面を思い起こすと、このエリヤとエリシャの場面はとても感動的です。

「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をすればよいか、言いなさい」。
エリシャは答えた、「あなたの霊の二倍の分け前を継がせてください」。
(列王記下2・9)

エリシャにはエリヤの霊が強く留まり、水が悪くて流産が多いと嘆くエリコの町で、水源の水を癒します。
(列王記下2・19〜)

この『エリシャの泉』は、聖書にある通り、今現在もきれいな水が湧き出で続けています。

 

 

2019年の巡礼の際に毎日書いていた記録を読み返してみると、コーディネーターの牧師さんから教わったことを、次のように記していました。

エリコは地中海の海面より250m低い。
亜熱帯的な気候と泉から、BC9000年頃から人類が定住した地として、世界最古の記録がある。
BC7000年の時代の城壁で囲まれた町の跡が発見された。
新約の時代のエリコは別の町。
1994年のオスロ合意でパレスチナ自治区となる。
日本のODA支援で、病院、学校、工場が建てられた。 

 

悲劇を悲観的に捉えるのではなく、その不忠実さを悔い改めを呼びかけるためにあえて楽観的に締めくくられているのが列王記です。

こうして旧約聖書を読むことは、イエス様の教えの根本を知る、大切なことだと教わってきました。

巡礼の手帳の最初には、指導してくださった森山神父様(現、大分教区司教)が事前説明会でおっしゃった言葉を記していました。

わたしたちは、2000年後のキリスト教を受け取っている。
この巡礼は、2000年前のイエス様の言葉を受け取る旅。
新約に書かれたイエス様の言葉の元である旧約を理解し、イエス様と一人ひとりが出会う旅。
イエス様と近しくなるための巡礼の旅。
(2019・7・22コレジオにて)

旧約聖書を読みながら、イスラエルの風景を思い出す休日でした。

 

モチベーション

この夏の久留米の暑さは本当に異常でしたが、ようやく、朝晩がいくらか過ごしやすくなってきました。

先週18日の夕方、久留米教会恒例の夏の行事「納涼祭」が開催されました。

酷暑の中ではありましたが、多くの皆さんが協力し合い、夏の思い出深い時間を過ごすことができました。

・・・

社会学者・古市憲寿さんの「楽観論」という本を読みました。
その中にこう書かれています。

全く科学的根拠がなくても、ほんの些細なきっかけで人は自信を持ったり、幸せな気持ちになったりする。
結果として、その気分が仕事を成功に導くこともある。
社会学では「予言の自己成就」と言うが、たとえ間違った「予言」であっても、その内容によって人間の行動や意識が影響を受け、ついにはそれが現実となってしまうことがあるのだ。

「予言の自己成就」とは、根拠のない噂や思い込みであっても、人々がその状況が起こりそうだと考えて行動することで、事実ではなかったはずの状況が本当に実現してしまうこと。

例えば、自分は成功すると思う人は成功しやすく、失敗すると思う人は失敗しやすくなることなどがあります。

人から言われた些細な事、ちょっとした行き違い、などがきかっけで負のスパイラルに陥ることもあれば、努力が実ったと実感できること、美味しい食事、友人との楽しい会話などで力がみなぎるような気分になり、やる気が湧くこともありますね。

信仰も、ある意味「自己成就」的な要素を持っているのではないか、と思います。

信仰とは、願うだけ、祈るだけ、想像するだけ、ではありません。
求めるもののために、積極的な行動を起こす必要があります。

信仰生活は、「神様と向き合うことを縦軸とし、周りの人々とのつながりである横軸を深める」ことであると言われます。
そして、人生とは、自分と向き合い、周囲との関係性のなかで常に成長することで深まっていきます。

「わたしはお前たちに清い水を注ぐ。
そうすれば、お前たちは清くなる。
すべての汚れ、すべての偶像からお前たちを清める。
お前たちに新しい心を与え、新しい霊をお前たちの内に置く。
お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
わたしたちの霊をお前たちの内に置く。
そして、わたしの掟に従わせ、わたしの定めを守り行わせる」。
(エゼキエル36・25〜27) 

わたしは、心が汚れていることを自覚しており、流言やテクノロジーといった偶像に時に支配されています。
心が石のようになり、他者を退け、批判することもあります。

そして、日々反省し、「絶対に神様がわたしを正しく、あるべき方向に導いてくださる」と信じています。
毎日の祈りで、呪文のように祈っています。
必ず祈りを聞き入れてくださる、と信じて、毎日をよりよく生きようと努めています。

谷は一面おびただしい骨で埋まり、しかもそれらは枯れきっていた。
主はわたしに仰せになった、「人の子よ、これらの骨が再び生き返ると思うか」。
わたしは答えた、「主なる神よ、それはあなたがご存知です」。
すると主は仰せになった、「これらの骨に向かって預言し、告げなさい。枯れた骨よ、主の言葉に耳を傾けよ。主なる神はこれらの骨に仰せになる。わたしはお前たちの中に息を送り込む。そうすれば、お前たちは生き返る」。
(エゼキエル37・2〜6)

 

適切な言い方ではないかもしれませんが、わたしにとって信仰は、人生のモチベーションを上げるために欠かせないものです。

ゼッタイたいじょうぶ
きっとたいじょうぶ

そう自分に言い聞かせるときに、祈りを捧げる対象があることは、本当に救いでありお恵みであると思うのです。

わたしのカトリックの信仰は、母から教わって始まりました。
神様が母を選び、そして、わたしをも選んでくださったのです。

キリストの良い香りでありたい、そう思って信仰を思い返し、今日もモチベーションを上げて、生きます。

永遠の父よ、約束された聖霊を待ち望むわたしたちの祈りを聞き入れてください。
多様な価値観が共存する世界の中で、救い主キリストを信じるわたしたちが、その信仰を誠実にあかししていくことができますように。

 

 

わたしが今すべきこと

お盆休みの間、皆さんも、ご家族が帰省されていたり、ご家族の元を訪ねて遠出されたりと、それぞれの過ごし方をされていたことでしょう。

お盆、というのは仏教に起源がある風習なのかもしれませんが、日本の夏の習慣として定着しています。

改めて家族のことを深く想う、日本の美しい季節です。

わたしも、横浜に住む甥を預かって、美味しいものを食べに行き、宿題を見てあげたりお買い物をしたり、と、楽しい時間を過ごすことができました。

子よ、すべての行いに注意し、すべての振る舞いに節度を守りなさい。
お前自身が嫌うことを他人にしてはならない。
(トビト4・14)

信仰を持たない家族に、自分の生き方を示して理解してもらうのは、そう難しいことではないと思っています。
わたしは、妹と、亡くなった母が信仰を持っていますが、姪・甥は洗礼を受けていません。

だからこそ、機会あるごとに、「人からしてほしいと思うことを、人にもしなさいね」と伝えるようにしています。

小さな頃から、機会があればごミサに連れて行き、一緒に祈って一緒に歌って、そうやって大きくなった姪と甥です。
カトリックの教義や信仰の意味については、おそらく全く理解していないでしょうが、わたしは彼らとミサの時間を共にすることが大切な喜びです。

聖母の被昇天の祝日のごミサに、甥を連れて行きました。

ジュゼッペ神父様のお説教は、今のわたしの心境を表してくださったような、とても大切な教えでした。

マリア様の被昇天については、聖書には全く書かれていません。
1950年に、教皇様が正式にカトリックの信仰として確立されました。
このことは、マリア様がわたしたちの父である神のお母様であることを、改めて「信じるべきこと」として宣言されたと理解するべきことです。

わたしたち信者は、胎内の子が喜んで踊ったように、いつも喜んでいなければなりません。
そして、周りの人も喜ばせなさい。
あなたが出会う人々に、あなたがもらっているお恵みを与えなさい。
そうすれば、イエス様があなたを通してあなたにも周囲の人にも、喜びを与えてくださいます。

わかりやすい、とても心に響くお話でした。
中2の少年にこのお話が響いたとは思いませんが、わたしが受けているお恵みを彼にもお裾分けしていることを、いつか気付いてくれたら、と思っています。

いつもこのことを基本として、わたしが家族の中ですべきことはなにか、を考えています。

こうして、聖書を開きながら書いている横で、甥はイヤイヤながら夏休みの宿題をしています。
この瞬間も、わたしにとっての思い出深いお恵みのひとときです。

すべての思慮深い人から助言を求めなさい。
そして、有益な助言を軽んじてはならない
いかなる時にも主である神をたたえ、お前の道をまっすぐにし、お前の歩みと計画とが栄えるように神に祈りなさい。
ただ主だけが、ご自分の欲する人にすべての善いものを与えてくださるからである。
(トビト4・18〜19)

受けているお恵みを家族にもお裾分けし、わたしの歩み(生き方)と計画(家族の幸せ)を神様が力強く導いてくださるように、と毎日毎日お祈りしています。

神様が、今もいつも、わたしたちの祈りを聞き入れ、導いてくださいますように。

 

自分の心で

今の期間は、カトリック教会の平和旬間(8/6~15)となっています。

平和の祭典でもあるオリンピックの期間中も、戦闘は止まず、ネット上では身勝手な正義感を振りかざす誹謗中傷がエスカレートしています。 

根拠がなく真偽が定かではないのに言いふらされる、無責任なうわさのことを、「流言(りゅうげん)」と言います。

今回のオリンピックでは、ボクシングの女性選手2名は「性転換して女性になった男性」という流言が広まりました。

イングランド全土と北アイルランドの町や都市で現在も続く暴力事件は、7月末に起きたダンス教室で幼い子ども3人が殺された事件に端を発しました。
容疑者は小型ボートでイギリスに到着したイスラム教徒の亡命希望者だ、という間違った憶測と間違った名前がSNSで拡散されたことで、大きな移民排斥運動へと繋がったのです。

第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章のほぼ全部が読まれます。

「福音書のある一章を5回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。
ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。」

と、来住 英俊 神父様がnoteに書いていらっしゃいました。

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸へ行かれた。
大勢の群衆がついて行った。
イエスが病人たちに行われた徴を見たからである。

よくよく言っておく、あなた方がわたしを探し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。
(ヨハネ6・1~2,26)

イエス様の時代にも、もちろん貧困はありました。
ですが、現代のほうが世界には大いなる貧困が存在し、富の格差は遥かに大きいのです。

パンと魚を食べて物質的に満足した群衆は、現代のわたしたちとも通ずるものがあるように思います。

今日食べるものに困っているわけではない人の方が、現状への不満や不安を大きく抱えているようにも思えるのが今の時代です。

イエス様を追い求めて付いて行った群衆は、イエス様の業の噂を聞き、実際に自分で確かめたかったのです。
少なくとも彼らは、自分の目で確信を得ようとしたのです。
貧困とローマの圧政から救ってくれると信じられていたメシアを、自分で。

流言などというものはなかったのでしょう。
インターネットがない時代は、可能であれば自分の目と耳で確認する、出向いて会って話す、これしかなかったのですから。

なぜ、ヨハネの6章がカトリック教会で重視されてきたのでしょうか。

改めて読み返してみて、今のわたしにはこの箇所が1番心に響きました。

弟子たちのうちの多くの者はこれを聞いて、「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」と言った。
イエスは、弟子たちがこのことについて不平を言っているのに気づいて、仰せになった、「わたしの話があなた方をつまずかせるのか。
それでは、人の子が元いた所に上って行くのを見るなら・・・・・

しかし、あなた方の中には信じない者もいる」。
このことがあって、弟子の多くはイエスに背を向けて去り、もはやイエスと行動をともにしなくなった。
(6・60〜66)

ここで書かれた「弟子」は、12使徒ではなく、イエス様の行われた徴を見てイエス様に付き従った群衆を意味しています。

わたしたちの多くは、この群衆と同じです。
自分の求めていたものとは違う
自分はこの人を間違っていると思う
自分のために何もしてくれない

目先の利益(ここでは満腹すること)が優先され、イエス様の伝えたかったメッセージを「とうてい受け入れられない」と拒絶する。

聖書とは素晴らしいことばかりを書いている書物ではない、とつくづく思います。

人の心の中をつぶさに表現し、「あぁ、わたしも同じだ」と身につまされるエピソードが散りばめられています。

それに気づくことができる信仰、それが、自分の心の中で行われる神様の業、徴なのです。

 

来年1月1日に記念される「第58回世界平和の日」のために教皇フランシスコが選んだテーマは、
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちに平和をお与えください」。

平和旬間の今こそ、そう祈りたいと思います。

いつも、不安、不満を探し出してばかりいるわたしたちをお赦しください。
すべての人々の周りに平和をお与えください。