行事風景
マラナ・タ
教会は閉鎖されていますが、以前と同じように、事務の森さんと有志の方が聖堂を整えてくれています。
久留米教会の行事風景を、聖書の言葉と神父様、先輩方に教わったことを交えながら書いてきました。
ご紹介すべき行事がありません。
神父様や先輩方とお会いしてお話することもありません。
ですが、素敵な写真をこうして撮影して送ってくれる友だちがいます。
今週の記事についての感想を聞かせてくださる先輩方がいらっしゃいます。
外出自粛の生活の中で、読書の時間がたっぷりとあることは、お恵みのひとつでしょう。
そして、信仰に関する本を読んでいると聖書を開いて確認したくなります。
聖書を開き、以前、神父様に教わったことを書きこんでいる箇所に出会ったときの喜び!
「聖書に直接どんどん書きなさい。
聖書が汚れるくらい書いていいのです。」
と、よくおっしゃっていました。
(故人ではありません!お元気です。
東京で頑張っていらっしゃるようです!)
十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては愚かしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」と聖書に書き記されています。
事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。
ユダヤ人は徴を要求し、ギリシャ人は知恵を追求していますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。
つまり、わたしたちが宣べ伝えているのは、ユダヤ人には人をつまづかせること、異邦人には愚かなことですが、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵であるキリストなのです。
神の愚かさは人間より賢く、神の弱さは人間より強いからです。
(1コリント1・18~19、21~25)
この箇所には、
ギリシャ人(=異邦人)は知性を求めているが、本当の知恵とは「十字架につけられたキリスト」である。
十字架につけられたイエスは、今もなおわたしたちとともに苦しんでくださっている。
と手書きしていました。
「十字架につけられたキリスト」の事件は、その意味に共鳴しない者にとっては、単なる愚かな出来事にすぎないのです。
一方で、この事件の悲劇的な出来事が勝利であると目を開かされた者にとっては「神の力」となり、それが生み出すのが「神の知恵」というわけです。
バチカン美術館のインスタグラムからの画像です。
(天使がおじさんっぽいのがちょっと怖いですが。。。)
この絵の説明にはこうあります。
「キリストだけが、沈まない光の夜明けを引き起こすことができるのです。
なぜなら、彼は正義の太陽だからです。(Mal3・20)」
マラキ書の3章を開いてみました。
しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
(マラキ3・20)
正義の太陽( sun of justice )のところに、「メシア」と鉛筆で記入していました。
いま、切に願います。
マラナ・タ
神のもとにいらっしゃる「生けるキリスト」の再来を乞い願う言葉です。
いわゆる「再臨」信仰で、今の世の終わりと新しい世の到来を期待する、当時の黙示思想的信仰の表れだそうです。
黙示録に描かれているような状況が来るかは別として、「今の世」(=人間のおごりが招いた混沌)の終わりが近づき、「新しい世」(=世界が協調してより良い社会を築く時代)の到来が期待される現在は、ある意味では黙示思想の時代なのかもしれません。
今もなおわたしたちとともにいてくださる方、苦しんでくださっている方、わたしたちのすぐ近くに来てください。
迷い、苦しみ、正しくない方向へと進んでしまう弱いわたしたちのすぐ近くにいてください。