行事風景

それぞれの持つ個性

パラリンピックが行われています。

わたしは、これまでの人生で「こうすればよかった」と思わないように努めて生きてきましたが、唯一思うこと。

「パラリンピックを目指して何かスポーツを極めればよかった!」

これだけは後悔しています。

わたしの個性で一番自慢できる点は、障害があることです。

これは、障害を持つすべての方を代弁しているわけではありません。
わたし個人の思いです。

わたしのことをご存知の方には、おそらくこう思ってくださっている方がいらっしゃるでしょう。
「体が不自由だとは思えない、バイタリティのある人」だと。
わたしにとって、片足が義足であるということはわたしの「強み」なのです。

 

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イエス様の時代、精神的に障害がある人には悪霊がついていて、身体的に障害がある人は前世や本人が犯した罪による穢れ、罰だと考えられていました。

旧約の時代には、サムエル記下5章にあるエピソード(「ダビデの命を憎むという足の悪い者、目の見えない者を討て。」という記述とそのことにまつわるエブス人との争い)があり、このことから、目や足の不自由な人は神殿に入ってはならないとされたのです。

レビ記では、イスラエルの人々は神によって聖別された民であるからこそ、神の掟に服従して聖なる者であり続けなければならない、と主が語っています。
(19章、22章)

それでも、他宗教に染まり偶像崇拝に走る民と、それを罰する(病気、障害、滅び)神という構図が聖書に書かれています。

同時に、申命記の十分の一税やレビ記の落穂に関する下りのように、社会的弱者を虐げてはならないということも書かれています。

3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちで、相続地の割りあてがないレビ人や、あなたの町に住む他国の者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるようにしなさい。
(申命記14・28~29)

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
(レビ記19・9~10)

 

障害のある人は罪人であると考えられ、忌み嫌われていました。
触れたらその人まで穢れる、と思われていたため、人里離れたところに固まって暮らしていた人々もいたように聖書には書かれています。

ですが、イエス様はそうした人々を始め、娼婦、寡婦、といった社会的弱者を最優先にされます。

『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?
本人ですか。それとも両親ですか』。
イエスはお答えになった。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネ9・2~3)

ローマの人々への手紙3章で、結論とも言えることをパウロが書いています。

☆障害のあるなしにかかわらず全ての人は罪人であること
 (ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある 3・9)
☆イエス様の贖いの業を通して神の救いを得ることが出来る
 (3・22〜24)

 

障害があることはわたしの強みであり個性だ、と、わたしは思っています。

パラの選手たちの競技を見ていて、「すごい!」「なぜあんな身体能力が!?」と感じるでしょう。
彼らはその個性を生かして努力を重ね、一見不可能な能力を驚くほど発揮するのです。

入院していたころ、お見舞いに来てくださるシスター方は決まって「あなたは神様に選ばれた子だ」とおっしゃってくださいました。

病気をしたことが「選び」「恵み」だということではなく、そのことを受け止めて前向きに治療に取り組むわたしのことを、そう言ってくださったのです。

信仰によって、わたしたちは誰もが神様からの憐れみを受けることができる。

このことをわたしも、何度も身をもって実感しながら生きてきました。

まだ遅くないかも!?
何かスポーツ始めようかな、、、。