行事風景

日常を振り返る季節

待降節が始まり、クリスマスまでひと月を切りました。
この一年を振り返り、やり残したことや気になっていること(掃除も含め!)を整理するにはちょうど良い期間です。

今年もアドベントクランツを作りました。

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とても個人的なことですが、わたしには今年どうしても前に進めたい懸案事項が2つありました。
11月に入り一つ目が大きく前進し、もう一つのことをどうやったら実現させることができるか、ずっと思い悩んでいました。

もちろん、神様のお導きを信じていましたので「きっと大丈夫、その時が来るのを待とう」とも考えていましたが、それでも、わたしはそのために何をしたらいいのか、どう行動すべきか、ずっと模索していました。

それは、認知症の叔母のことでした。

よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。
よい恐れは、希望に結ばれている。
なぜなら、それは信仰から生まれ、信じている神に希望をおくからである。
悪い恐れは、絶望に結ばれている。
なぜなら、信じなかった神を恐れるからである。
(パスカル「パンセ」262)

プライドの高い叔母は、認知症を自覚してはいるものの、デイサービスを利用することをどんなに勧めても頑として拒否していました。

この数ヶ月、従兄弟たちや東京にいる叔母と連携して、思いつくかぎりのことに取り組みました。
そしてようやく、先週、叔母はデイサービスに行くことになったのです。

この間、わたしは家族の絆と信じる心に支えられました。
叔母の穏やかな日常と同居する家族の負担の軽減を願ってのことでしたが、結果的には、わたしや東京の叔母たち自身が、不安の中にも強く幸せを感じることができたのです。

自分のために、古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に蓄えなさい。
そこでは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなた方の宝のある所に、あなた方の心もある。
(ルカ12•33〜34 マタイ6•20〜21)

叔母にはキリスト教の信仰があるわけではありません。
ですが、日々進行していく認知症の中で、時にはわたしのことも分からなくなる中でも、家族の支えを感じてくれたのか、訪問するたびに顔が明るく、見違えるほど穏やかになって行くのを見ることができました。

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。
信仰とはこのようなものである。
理性にではなく、心情に感じられる神。
(パスカル「パンセ」278)

わたしを通して、叔母にもお恵みが与えられたのだと信じます。
もしかしたらまた、「あそこには行きたくない」と言い出すかもしれません。
その時はまた、違う対応をして前に進めるつもりです。
彼女のために、家族のために何が1番よいことなのかを考えて。

主イエスに結ばれた者として、あなた方にお願いし、また勧めます。
神に喜んでいただくためにどのように歩まなければならないか、あなた方がわたしたちから学んだとおりに、いや、今そのとおり歩んでいますから、その歩みをますます完全なものにしてください。
(1テサロニケ4・1)

以前もここに書いたとおり、今年は多くのことを学ぶことができました。
ご聖体をいただくときの心の祈りも続けています。
自分に与えられた召命を生きるための努力を積み重ねることができたようにも感じています。

心に残っていること、やり残したことをもう少しきちんと振り返ってみたいと思います。

どんなに困窮し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)

振り返ることも大切ですが、同時に、先を見据えて「来年こそは!」と気持ちを切り替えることもよいでしょう。
このような時代(コロナ禍)に生きるわたしたちは、できるだけ悔いのない日々を送れたら、それに勝る幸せはないのかもしれません。

先週はどのような日々でしたか?
今週はどんな風に過ごしたいですか?

あとひと月あまりです。
今年もたくさんのお恵みをいただけた年であった、そう思えるように、待降節を心穏やかに過ごしましょう。

慈しみとまことはともに会い、
義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、
義は天から身をかがめる。
主ご自身が恵みを授け、
わたしたちの地は豊かに実る。
(詩編85•11〜13)

 

 

 

価値ある判断

21日のごミサでは、9名の子どもたちの初聖体があり、晴れやかな子どもたちとご家族の様子に心から幸せを感じることができました。

初めてイエス様の体(聖体)をいただくこの日のために、子どもたちは長い時間をかけて勉強をし、日曜学校の先生方のご指導のもとこの日を迎えました。

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日本でも、感染拡大を抑制するために「ワクチン接種済み、あるいはPCR検査での陰性証明の義務化」をする方向性が取られ始めました。

アメリカ南部では、今でもマスク着用を「禁止」するレストランやバーがあるそうです。
店も客も自由の権利があり、全ては自己責任という考え方なのだそう。
一方でニューヨークでは、レストランの室内営業や劇場などでは利用者にワクチン証明書の提示を義務付け、9/27からは医療機関や教職員に対する接種義務化がスタートしています。

オーストリアでは11/15から、新型コロナウイルスのワクチン未接種者(人口の3分の1以上を占める)には、不要不急の外出の禁止措置がとられています。
警察官が巡回し、外出中の人がワクチをン接種済みかどうか抜き打ち検査を実施するのだとか。
(違反者の罰金は500ユーロ)

ドイツでは、娯楽施設などへの入場に加えて、バスや列車に乗車する際にもワクチン接種証明書か陰性証明書の提示を義務付ける法案が審議中。

ベルギーでは、12歳以上はマスクの着用を義務づけられていて、今後は10歳以上に拡大。
在宅勤務については、11/20から週4日が義務。

ポーランドでは、入国しようとベラルーシの国境で多数の移民が立ち往生していて、その対策(国を守る権利)として政府は来月から国境に壁を建設することを発表。

フ〜ッ。。。。(ちょっとため息)

いまわたしたちが生きているこの時代は、どうなっていくのでしょうか。
わたしたちの生きる社会は、どのような未来を描いているでしょうか。

いつの時代も、その時代ごとに大きなジレンマを抱えていたのだろう、ということを考えます。

わたしたちが抱えている問題は、トリレンマかもしれません。
トリレンマとは、どれも好ましくない三つのうちから一つを選ばなければいけない、という三者択一の窮地を意味します。

義務
権利
自己責任

この3つは、本来は大切な概念であり、それぞれ独立したものであるべきですが、ひとたびはき違えると「選択肢」と捉えてしまうことがあります。

義務という名のもとに、本来好ましくないはずの政策が押し付けられているかもしれません。
権利を声高に叫ぶことで、他者への配慮が無視されているかもしれません。
難民とは自己責任で生きていけない人々である、ということを忘れているふりをしているのかもしれません。

初聖体の子どもたちを見ていて感じました。
ご聖体をいただくことは、キリスト者の義務や権利ではありません。

わたしたちは、信じているから、導かれているから、「はい、そのようにします」と確信と希望を持ってイエス様とともに歩んでいるのです。

 

パスカルは『パンセ』のなかで、人は3種類いる、と言っています。

「神を見出したので、これに仕えている人々」
「神を見出していないので、これを求めることに従事している人々」
「神を見出してもいず、求めもしないで暮らしている人々」

科学者の視点で、人間の心の特徴を分析したパスカル。
パスカルが生きた時代は、科学が目覚ましく進歩し、人間の理性への過信がはびこり、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。
しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには危うさがある、と確信するようになります。
「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことを書いてまとめたのが「パンセ」です。
(NHK 100分de名著 ホームページを参考)

 かなりの長編ですが、今この時代に読むべき本ではないかと思い、読み始めました。

 

イギリスで路上ライブを行なっていた女性シンガーが、ライブ中にゴミ箱を漁っているホームレスを見つけました。
近寄って自身の収益をホームレスの男性に寄付したところ、通行人がその倍の金額をシンガーに寄付してくれた、というニュースが目に留まりました。

沖縄の海に押し寄せている軽石を除去するボランティアを人気のユーチューバーが呼びかけたところ、多くの人が集まって作業した、というニュースもありました。

この2つの例は、どちらも「個人の判断」による選択です。

わたしたちはいつも正しい判断ができるわけではありませんが、神の導きをいつも意識しているわたしたちは、何が価値あることで何が必要とされることかはわかっているはずです。

昨日のミサで、初聖体を終えた子どもたちに宮﨑神父様がおっしゃいました。

「教会で、みんなの必要に応えることができる人になってください。」

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ヨセフは、本当に価値あることはわたしたちの関心を惹かないが、それを発見し、価値づけるために、忍耐強い識別が必要であることを教えてくれる。
本質を見極めるこの眼差しを、全教会が取り戻すことができるよう、聖ヨセフに取り次ぎを祈ろう。 
(11/17教皇フランシスコ 一般謁見でのお説教より)
 聖ヨセフよ、
 あなたはいつでも神に信頼し、
 御摂理に導かれ、判断しました。
 わたしたちの計画ではなく、
 愛の御計画を大切にすることを教えてください。
 辺境から来たヨセフよ、
 わたしたちの眼差しを変え、
 辺境へ、世が切り捨て疎外するものへと、
 向けてください。
 孤独な人を慰め、
 人間のいのちと尊厳を守るために、
 静かに努力する人を支えてください。
 アーメン。

 

悔いない毎日

今年、ゆるしの秘跡をお受けになりましたか?

「悔い改める」という言葉について、ここのところずっと考えています。

受講している神学のオンライン講座で、教授が「イエスは悔い改めよとは言っていない。ルカが追記したのだ。」とおっしゃいました。
以前、聖書百週間の講義の中でも神父様から、「ルカに度々出てくる悔い改めという言葉は、ルカが付け加えた編集句です。」と教わりました。

例えば、マタイとマルコでは、イエス様が徴税人たちと会食することの正当性について語るとき、自分は罪人たちを呼び集めるためにやって来たと述べますが、それに対してルカでは、罪びとたちに「悔い改め」を呼びかけるためにやって来たと述べています。

このように、並行個所のうちルカだけに結論として「悔い改め」が追記されている箇所がいくつもあります。

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あなたがたも気をつけなさい。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカ17・3~4)

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E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、

「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

ということになるようです。

 

罪人に悔い改めを要求するのは洗礼者ヨハネの教えであり、イエスはかつての徴税人・罪人ではなく、実際の徴税人・罪人たちの友人でした。
イエスは罪深いと思われていた人々と関わり、飲食を共にし、神はとりわけ彼らを愛してくださること、神の国がすぐそこまで迫っていることを告げます。

「今こそ悔い改めよ、さもなく滅ぼされる」はヨハネの教えで、「神はあなたがたを愛してくださる」とイエスは教えたのです。

イエスは、自分に従う人々は、たとえ聖書の要求すること(犠牲の供物とともに神殿で赦しを乞う)を行わなくても神の選びに属している、と考えていました。

その具体的逸話として、思い出してください。

王が披露宴の客を集める時、僕たちが「通りへ出て来て、彼らの見つけた人々はすべて悪人の善人も集めてきた。こうしてその婚宴は来客者でいっぱいになった」(マタイ22・10)

僕たちは、初めにすべての悪人たちに善人になるように求めたわけではなく、とにかく彼らを中に連れてきたのです。

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『悔い改めなくても大丈夫』という話ではありません。

聖書思想辞典によると、

洗礼によって一つの実を結ぶ悔い改めの行為は、一回限りのものであり、これを繰り返すことは不可能である。
ところが、洗礼を受けた者もふたたび罪に陥ることが可能である。

ちょっと笑ってしまいました。

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

福音書の並びは書かれた順ではありません。
おおまかな年表で表すと、

30  イエスの処刑
44  パレスチナ全土が再びローマの支配下に
64~67皇帝ネロによるキリスト教迫害
    ペトロ、パウロがローマで殉教
66~70第一次ユダヤ戦争
70  マルコ福音書成立
   エルサレム神殿が炎上し陥落
71~74ローマによりマサダなどが陥落
79  ベスビオ火山噴火によりポンペイ滅亡
80  ルカ福音書成立
85  マタイ福音書成立

マルコとルカの間の10年に、悲劇的な出来事が続いたことがわかります。
旧約の著者たちが、第一神殿の破壊、バビロン捕囚を自らの神への不誠実な行いが原因であり、「神に立ち返れ」と自分たちを律したように、ルカも「神を信じて悔い改めよ」と追記したのではないでしょうか。

悔い改めなければ、告解しなければ罪は赦されない、と考えるよりも、
「しまった!」と思ったその日のうちに、すぐに軌道修正して、「神様に胸を張って生きる毎日を送りたい」というのが、今のところわたしがたどり着いた答えです。

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可愛い子どもたちの七五三の祝福がありました。
この子たちには「悔い」も「赦し」もありません。
素直にすくすくと、毎日を神様に守られながら育ってほしいと、心から願います。

 

この世の祈り

6日に母校である雙葉学園の同窓会が主催した、死者追悼ミサに与ってきました。
この1年の間に、3名の先生と25名の卒業生が天に召されました。

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久しぶりに、所属教会以外の浄水通教会でのごミサに与りました。

7日には久留米教会の死者追悼ミサが捧げられました。

キッペス神父様がお亡くなりになったという、悲しいお知らせがありました。
これは、2019年のクリスマスのごミサの写真です。

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こうして、クリスマスや敬老のお祝いのごミサなどにいつも来てくださっていたキッペス神父様。
いつも陽気なお姿でした。
安らかに憩われますように。

わたしも今年、親しい方々が天に召されました。

コロナ禍にあって、会えずにいた間に病魔に襲われた子ども時代からの友だち。
一緒にイスラエル巡礼にも行った、仲良しのおじさま。
わたしが洗礼を受ける時からずっと気にかけてくださっていた先生。
親しくしていた後輩の奥様。

わたしたちにいつ、その時が訪れるのかは本当にわからないのだ、と痛感した一年でした。

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11/2の死者の日の朗読箇所です。

神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。
(知恵の書3・1~6, 9)

4節の「彼らには不滅への希望が満ちている。」(フランシスコ会訳)
不滅という単語は、終わりなき命、完全な幸福の永遠性を意味しています。

この箇所を母校の追悼ミサで朗読させていただき、イザヤ書の言葉が浮かびました。

太陽はお前にとってもはや昼の光ではなく、
月の明かりはもはやお前を照らす光ではない。
主がお前にとって永遠の光となり、
お前の神がお前の輝きとなる。
お前の太陽が沈むことはもはやなく、
お前の月が欠けることはない。
まことに、主がお前にとって永遠の光となる。
お前の嘆きの日々は終わる。
(60・19〜20)

死者は平和のうちにあり、永遠の完全な幸福の中にある。

この信仰は、この世で祈り続けるわたしたちにとって、最高の救いではないでしょうか。

死者は神様とともにいるので何も心配することはない、と何度言われても、何年経っても、「天国の母が安らかに過ごすことができますように」と祈り続けています。

信じていないからではなく、この世のわたしが天の母のためにできることは、祈ることとその意思を引き継ぐことだけだと思っているからです。

 

ほんの少し前に、土から生まれた彼自身が、
少し後に、借りていた魂を返すように求められるとき、
元の土に帰っていく
(知恵の書15・8) 

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フランシスコ教皇は、この1年に亡くなられた枢機卿を始めとする方々のためにミサを捧げられました。
以下、バチカンニュースのサイトからです。

「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3,26)という聖書の言葉を観想しながら、従順に信頼して主を待つことを学ぶよう招かれた。

困難の時も沈黙のうちに希望をもって主を待つことを学べば、人生の最も大きい試練である死に備えることができる、と教皇は説かれた。

新型コロナウイルス感染によって亡くなった人々をはじめ、最近故人となった枢機卿・司教らを悼まれた教皇は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25,34)という、主の忠実なしもべたちへの招きを、これらの兄弟たちが今、喜びをもって味わっているようにと祈られた。

 

庭で撮った写真です。
天国と死者と生者が繋がっている、と感じた一枚です。

 

コヘレトの空

「わたしたちの生活をコロナ前に戻す」といった発言を最近よく耳にします。

戻るのでしょうか。
全てが元通りになることを期待しますか?
聖堂中に聖歌の歌声が響き渡る日は、いつでしょうか。

この2年近くの間の日常、信仰生活も含め、確かにいろいろな制約がありましたが、悪かったことばかりではありません。

わたしの場合、かなりよく聖書を開くようになりました。
教会に行けない月日が長くあったので、ミサや行事風景をお伝え出来ませんでした。
ですので、ここを読んでくださる方ともっと聖句を分かち合いたいと思って取り組むようになりました。
それまで以上に、聖書に関係する本もよく読んでいます。

良かったこと、というと語弊があるかもしれませんが、人々が一堂に会したり、わざわざ遠方まで出向かなくてもオンラインでできることが多い、ということが実証されたことは、多くの方が納得されているかと思います。

実はわたしも、先月から大学のオンライン講座を受講し始めました。
以前でしたら、「学びたいけど平日の夕方に大学まで通うのは無理」と諦めていたでしょう。

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二人は一人に勝る。
もし一人が倒れると、その仲間が助け起こす。
二人が一緒に寝れば暖かい。
もし、襲われたとき、一人なら負けるが、二人ならともに立ち向かうことができる。
「三本縒りの紐は、たやすくは切れない」。
(4・9〜12)

コロナ禍にあって、友人や家族がどれだけ大切な存在であるか、わたしたちは痛感させられました。
頼ることのできる友人がいること、互いを心配し合う家族がいること、それがどれほどの幸せか。

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順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起きるか、人には見通せないからである。
(7・14)

明日のことを知る人はいません。
今を、毎日を大切に生きること。
日常の小さなことの中に喜びを見出し、自らの至らなさを素直に認めることができますように。

あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてもならない。
なぜ、自分で自分を滅ぼそうとするのか。
あなたは悪すぎてはならない。
愚かすぎてもならない。
自分の時がまだ来ないのに、なぜ、死のうとするのか。
(7・16〜17)

生きることは、自分一人の力でできることではないということを忘れてはいけないのです。

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あなたの生涯の空しいすべての日々の間に、
あなたは愛する妻とともに楽しめ。
神がこれらの空しいすべての日々を、
日の下であなたに与えてくださった。
それが、あなたがこの世にあって受ける分であり、
日の下で苦労するあなたが受ける分である。
(9・9)

わたしがこの世にあって「受ける分」、これは先日書いた主の祈りのことにも通じます。
わたしたちの日ごとの糧をお与えください。
日ごとの糧、生きていくのに必要な、わたしたちに神様から与えられた賜物のことです。

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あなたのパンを水の上に投げよ。
長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう。
あなたの持っている物を、七つ、否、八つに分けよ。
(11・1〜2)

寛大な施しは、後日、その報いを受けるだろう、という旧約の一般的な教えです。
施しに限らず、喜び楽しみも、人と分かち合うことでお恵みは7倍8倍になって帰って来た、という経験がわたしにもあります。

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コヘレトは言う。空の空。
空の空。一切は空。
(1・2)

紀元前250〜200の時代に書かれた、コヘレト。

人間が極端に走り、到達不可能な目的をいたずらに追求するのを諫めています。
ひたすら幸福だけを把握し続ける人間の空しい努力を否定します。
(フランシスコ会訳聖書の解説より)

「空」という言葉はヘブライ語で「へベル」といい、日本語の「空しい」という言葉の持つニュアンスとは厳密には開きがあるようです。

この本によると、「空」は「束の間」という意味が適切であろう、ということでした。

 

この本を読んで、久しぶりにコヘレトを読み返し、今心に留まった箇所を抜粋してみました。
間違いなく、2年前に読んだ時とは違った箇所がわたしを捉えました。

コロナ以前の生活に戻りたい、という人間の希望は「空」のように感じます。
わたしたちが求めるべきものは、そこではないと思うのです。

箴言30・7〜8も、コヘレトと同じようにわたしたちを諭します。

わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください。
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。

この世で与えられた「束の間」を生きるわたしたちにとって、その生きる意味を見出すことは使命です。
コヘレトは「死」があるから「生」に意味があるのだ、と言います。

11月は死者の月です。
わたしも毎年、「死」についてよく考えを巡らせる月です。 

今月は、特に今年天に召された方々のために、日々の祈りを捧げましょう。

 

心のシャローム

「WeThe15」(ウィーザフィフティーン)

東京パラリンピックに合わせて始まったこのムーブメント、ご存じでしょうか。

地球上の人口の15%、つまり12億人もの障がいを抱える人々の生活をより良くしていくことを目標として人権運動を展開し、障がい者に対する差別をなくすことを目的としている世界的な運動です。 

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15%の人が心身のどこかに障害を持っている、という現実は、驚きと同時にその割合で自分の周囲にも、という気づきを与えたかと思います。

イエス様の時代にも、栄養や生活環境が原因で不治の病となっていた人や、精神的・身体的な問題を抱えていた人が多くいたことが福音書を読むと分かります。

当時の人々は、シャロームは主が与えてくれる救いや平安という祝福であり、それが与えられていない人々は罪を犯したから、と考えていました。

マルコ2・1~12の中風の人を癒すエピソードでは、「子よ、あなたの罪は癒される」とイエス様がおっしゃいます。
「このことから、病は罪の結果であり、癒されることで罪も赦されるのだとイエス様も考えていた、と考えることができるけれど、聖書学の分析によるとそうではない」と聖書学者の本多峰子さんが書かれています。

ヨハネ9・1~4では、
弟子たちが「誰が罪を犯したからこの人が目が見えなく生まれてきたのか」と問います。
イエス様ははっきりとこう言います。
「彼が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」

 

 

バチカンの一般謁見の際、教皇フランシスコが講和しているときに、トコトコと壇上に上がってきた少年。
これが普通の大人であったら、おそらく護衛が止めたでしょう。
でもこの少年(障害がある子でした)は、話している途中の教皇に近づいて話しかけ、隣にチョコンと座り、最終的には「その帽子が欲しい」とおねだりまでして帽子をゲットしました。

 

シャローム(主の平和)
イスラエルに行ったときは、「こんにちは!」という感じでホテルのスタッフやお店の人に言えました。

シャローム(主の平和)
左右前後の方々、周囲の皆さんに笑顔でご挨拶するとき、儀式のようになってしまい、わたしは心から言えていない気がしています。
ニューヨークでいつも行く教会では、届く範囲の方々はハグをして挨拶しあっていました。(コロナ前)
前任の神父様は、「周囲の方と握手をしてください!」と前置きされていました。

シャロームとは、心身ともに満たされた平和な状態を意味していることばです。

現代の複雑な人間関係社会においては、心の平安を保つのが難しい人、孤独のうちにいる人も多いでしょう。
自分の心に平和がなければ、「互いに平和の挨拶を交わしましょう」と促されても、素直に、本当に心からそうすることは出来ないのかもしれません。

ですが、身体や心に問題を抱えていたとしても、それは満たされていないということではありません。
ニュースの少年は、明らかに心が満たされた平和な存在でした。

シャローム「主の平和」と口にするときは、気持ちを楽にして自然体で。

態度で表さなければ、周囲には伝わらないでしょう。
来週こそは、、、やってみます!

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教皇フランシスコは10月7日、ローマ市内コロッセオで行われた諸宗教指導者らとの平和祈願集会に出席されました。
エキュメニカル総主教、アルメニア使徒教会の総主教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教などの諸宗教の指導者、そして、ドイツのメルケル首相をはじめとする政治家たちが参加したこの集会で、こうお話されました。

「古代、コロッセオでは人や動物が闘わされ、そこでは多くのいのちが失われたが、今日でも暴力や戦争、兄弟殺しを、わたしたちは遠くから眺め、自分たちはその苦しみとは無関係であるかのように思い込んでいる。
人々の生活、子どもたちのいのちがもてあそばれている状況に無関心でいることが決してあってはならない。

他者の苦しみを見世物にはするが、同情することはない今日の社会において、わたしたちが同じ人間であることを認め、共感し、憐れむ心を育てることが大切。

平和は取り付けるべき合意や、単なる言葉ではなく、「心の態度」である。

WeThe15

基本にして最高の祈り

毎週、ごミサの後の大掃除をする様子が好きです。

ようやく秋が訪れたので、落ち葉もキレイに集め、気持ちもスッキリです。

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タイトルのとおり、基本であり、同時にこれを超えるものはないという祈りが「主の祈り」です。

毎日唱えているためか、暗記しているためか、頭に染み込んでいるせいか、その意味を考えることなく機械的に口ずさんでしまっていることがあります。

結論を先に書くと、この祈りは「わたしの願い」を伝えるためのものではなく、「わたしたちがどう生きるか・何をするか」の決意を表すものです。

わたしは、昔の文語体の方がしっくりとくるため、日常的には昔の言葉で祈っています。

天にまします われらの父よ
み名の尊まれんことを
み国の来らんことを
み旨の天に行わるるごとく 地にも行われんことを
われらの日用の糧を 今日われらに与えたまえ
われらが人に赦すごとく われらの罪を赦したまえ
われらをこころみにひきたまわざれ
われらを悪より救い給え

 

福音書では、マタイとルカに書かれています。

普段わたしたちが唱えている祈りはマタイによる7つの祈願です。(マタイ6・9~13)
それに対し、ルカの祈りは5つです。(11・2~4)

天におられる わたしたちの父よ
(あなたの)み名が崇められますように
(あなたの)み国が来ますように
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください
わたしたちの罪を赦してください わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから
わたしたちを誘惑に遭わせないでください

前半は、み名が崇められ、み国が来ますよう願っているのではなく、「わたしたちがそうなるように参画します」という決意を神様に誓っています。

後半は、「わたしたち=世界中で祈っているどこかのわたしたち」のことを心に想いながら祈るものです。

糧とは、パン、水、医薬品、住まい、仕事といった、人間が生きていくために必要なもののことです。
イエス様がこの祈りを弟子たちに教えた時、今日食べるものがない、極度の貧困や孤独の中にある人々のことを思われていたのです。

フランシスコ教皇は、講和の中でこうおっしゃっています。

キリスト者の祈りは対話です。
イエスは「あなた」と最初に口にする祈りを教えてくださいました。
わたしの名、わたしの国、わたしの心が、ではありません。わたし、ではありません。
それから次に「わたしたち」へと移ります。
キリスト者の祈りでは、自分のために食べ物を願う人はいません。
神との対話には、個人主義の入る余地がないのです。
まるで世界で自分だけが苦しんでいるかのような、自分の悩みの誇示はそこにはありません。
わたしたち、兄弟姉妹としての共同体の祈りではなくして、神にささげられる祈りはありません。
「わたしたち」という祈りは、自分一人の平穏にはならずに、兄弟姉妹に対して責任を感じるように促しているからです。

 

罪・負い目(正確には借金のこと)を赦し、悪の誘惑に惑わされないように、とは次のようなことではないでしょうか。

「神は人に作用する火なのです。」というアンゲラ・メルケルさんのことばを以前紹介しました。
フランシスコ教皇の次のことばも、同じような意味に捉えられます。

「『月の神秘』、つまり、自分自身は発する光をもたずに太陽の光を反射する、月のようなものということです。
わたしたちも自分自身に光はもっていません。
わたしたちの光は、神の恵みを、神の光を反射する光です。
月の神秘とは次のようなものです。
わたしたちが愛を行うのは、ほかでもなく愛されたからです。
ゆるすのは、ゆるされたからです。」
 

ある神父様はこうおっしゃいました。

「主の祈りを、単に自分の内面的、霊的な、宗教上の祈りにしてはなりません。
自分が関わっている人、世の中、世界の出来事、苦しんでいる人々のことを心に想いながら祈るのです。」

そう教わってから、主の祈りを口にする時の気持ちが大きく変化しました。

今までは、やはり機械的に、自分のために祈っていたのだということに気付かされました。

皆様はどうですか?
主の祈りの意味を、噛みしめながら唱えていらっしゃるでしょうか。

 

 

祈りのかたち

10月は宣教の月、そしてロザリオの月でもあります。

コロナ前は、10月は聖堂に集ってともにロザリオの祈りを捧げるのが習慣でした。
ですが、今年もそうした集まりは「中止」されています。

(ここにも、ウィズ・コロナの現代には工夫が求められているでしょう。
個人が各家庭で祈ることでもロザリオの意味は変わらないかもしれませんが、
みなが一堂に集まって、声に出して祈ることにも大きな意味があるのです。
ミサに聖歌が欠かせないように。
なにもかも「中止」ではなく、なにか策を考えなければ!)

久留米教会でも、やはり年配の信者さんたちは年中、熱心にロザリオで祈っていらっしゃいます。
そんな先輩方の、敬老のお祝いの祝福がごミサの中で行われました。

ロザリオという言葉はラテン語ではロザリウム、『バラの冠』という意味です。

1571年10月、ヨーロッパのキリスト教を滅ぼそうとするトルコ帝国にキリスト教徒がロザリオの祈りによって勝利しました。
その記念にと、時の教皇ピオ5世はその日を「ロザリオの聖母マリアの祝日」と定めたとされています。
(平和的なマリア様へのとりなしの祈りの起源が「戦争の勝利」だとは、、、。)

ロザリオの祈りは、イエス様の生涯を黙想しながら、聖母マリアの取り次ぎによってわたしたちの救いと世界平和の恵みを求める祈りです。
(女子パウロ会のホームページを参考にしました。)

 ロザリオの祈りには、祈り方の明確な決まりがあります。

一つひとつにちゃんとした意味があり、それはそれで大切な祈り方ですが、祈りにはいろいろなかたち、やり方があってもよいと思います。

わたしは、なにか大きなことがあった時、例えばやっかいな問題が起きた時、苦しい気持ちや痛い目にあった時などには神様にこう話しかけます。

「神様、この出来事を通して、私に何を語りかけていらっしゃるのですか?」

こう神様に問うことも、祈りの一つのかたちかと思います。
このことばを、一日中、とにかく何度も何度も唱えます。
答えが自分で見つかるまで。
神様が答えに導いてくださるまで。

 

 

エルサレムの「嘆きの壁」と呼ばれる西の壁です。

立って壁に向かって祈り、または椅子に座ってずっと旧約聖書(モーセ五書)を読んでいます。
ずっとです。
(え、仕事は?とか思わない思わない。)
ずっと彼らは祈っているのです。

この写真を撮った日はバルミツバ(少年たちの13歳の成人式=毎週行われています)の日でしたので、特に熱心な正統派ユダヤ教の方々が多かったのですが、それでも、彼らの神との誠実な向き合い方にはとても衝撃を受けました。
この壁の様子をテレビで観たことはありましたが、実際に目の当たりにし、祈っている人の崇高さを感じたのです。
「信じる」ということはこんなにも尊い美しさなのか、と。

 

全イスラエルの王となったダビデは、預言者ナタンから王朝の永久を約束された神の言葉を聞き、感謝の祈りをもって応えています。
「主なる神よ、あなたが語られたようになさってください」
(Ⅱサムエル7・25,Ⅰ王8・26)

次のソロモンは、神殿の奉献祭の際に民のために祈りを捧げており、その後の王たちにとっても、民のために祈ることは公的な職務とされていました。

旧約の預言者たちは、神との仲介者として祈っており、エレミヤは次のように讃えられています。
「民と聖なる都のために不断に祈っている神の預言者」
(Ⅱマカバイ15・14)

もしも祈りのためのことばをお探しならば、詩編をめくってみてください。
詩編はもともと、祈りに使用することを目的として編集されています。
イエス様もいつも詩編を祈りの糧とされていました。

パウロは祈りに言及するとき、「いつも」「どんなときも」「絶えず」「昼も夜も」などの言葉で語っています。

「祈る」という行為は、十字架の前で跪いて手を合わせることではなく、「いつでもどこでも神様に話しかける」ことなのだと、色々な方のお話を聞いていていつも思います。

 

福音書には、祈りに際して3つのことを必要とすると書かれています。

① 人を赦すこと(和解すること)
 (マルコ11・25,マタイ5・23~24、6・14)

②他者との一致を実現しようと努めること
 (マタイ18・19)

③自分の過失を思い出して悔い改めること
 (ルカ18・9~14)

 

わたしたちが重視すべきは「何をどこでどう祈るか」ではないのです。
信じているのですから、委ねましょう。
信仰を持っているのだから、人を赦しましょう。
いつも守られていることを、覚えていましょう。

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サルヴェ・レジナ

元后 あわれみの母
我らの命、喜び、希望
旅路からあなたに叫ぶエバの子
嘆きながら泣きながらも
涙の谷にあなたを慕う
我らのためにとりなすかた
憐れみの目を我らに注ぎ
尊いご胎内の御子イエスを
旅路の果てに示してください
おお、いつくしみ、恵みあふれる
喜びのおとめマリア

神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。

 

派遣されたわたしたち

ミサに与るために、日曜日の朝、いつもよりも早く起きて家事を終わらせる。

そして、早めに教会に行ってお祈りをし、一週間の感謝を伝える。

ミサ前に幾人かの方々と言葉をかわす。

ミサにみなさんとともに与る。

新しい一週間の始まりに、決意を新たにする。

ミサ後に神父様にお声をかけ、また幾人かの方々と交流する。

本当にすがすがしい気持ちになります。

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あらためて、ミサに参列してご聖体をいただく意味と意義について考えました。

以前もご紹介した、故アドルフォ・ニコラス神父様の本にある、わたしがみなさんにもう一度(何度でも)お伝えしたい言葉を書いておきたいとおもいます。

☆教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識しなければならなりません。
 ここに私たちのアイデンティティがかかっています。

☆ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す文化的・歴史的な表現です。
 ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。

☆ミサは教会の顔である。

☆ミサはラテン語で「派遣されている」という意味です。
 「行きなさい、あなた方は派遣されている。」
 「ここで体験したことを生きなさい。」ということです。

 

毎年10月は宣教の月で、最後から2番目の日曜日は「世界宣教の日」とされています。

宣教、というと「宣教師」とか「一信者には恐れ多い」といったイメージがあるかもしれませんが、これはわたしたち一人ひとりに向けられた、わたしたちの使命なのです。

わたしたちは、周りにいるひとに「教会について」「信仰とは」と聞かれたときに、目を見て、素直な心で、優しい言葉で語りかけることができるように準備しておかなければなりません。

 

2021年「世界宣教の日」の教皇メッセージのテーマです。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
(使徒言行録4・20)

聖書のこの箇所は、ペトロとヨハネが捕えられ、尋問された時のものです。

「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。
私たちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」
(フランシスコ会訳)

そう言われた大祭司たちは、二人を罰するすべをなくし、彼らを釈放せざるを得なくなりました。

「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10・17)とパウロが言っているとおり、キリスト者はイエス様の言葉に出会い、教え導いてくださる先輩信徒や司祭の言葉に耳を傾けながら生きています。

信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。
宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。
遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
(ローマ10・14)

聞いて信じているわたしたちが、それぞれの場所で周囲に宣べ伝えていく使命を帯びていることを忘れないようにしましょう。

聖書を論じる必要はありません。

わたしたち一人ひとりは「神にささげられた、キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2・15)です。
このことを心に刻みながら、周囲にその香りをふりまく生き方を心がけたいと思っています。

以下、教皇様のメッセージを少し抜粋します。

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このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。

わたしたちが受けたものすべて、主がわたしたちに与えてくださったものすべては、わたしたちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/29/22623/

 

信仰を持つこと

世界には素晴らしいリーダーがたくさんいらっしゃいますが、今日書いてみたいのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相についてです。

ドイツでは26日に総選挙が行われ、その結果の如何に関わらず、数年前に自ら決断されていた通りにメルケル首相は退任されます。

2015〜2016年にかけてシリア難民を100万人以上受け入れた際には、世界がその決断を称賛しました。
拒むこともできたのに、弱者に共感して国境を開き社会を巻き込んでいく姿に、当時彼女には「ドイツの母」と称されるほどの賛辞が贈られました。

ですが、予期しない展開が待っていました。
難民が次々と事件やテロを起こすのです。
社会は一気に不安に陥ります。

そして選挙で負け、2018年には党首を退任し次の選挙後には政界を引退する、と表明していました。

 

 

今回の退任にあたり、以前読んだ彼女の本を改めて読み返してみました。

旧東ドイツ出身で、父親は牧師であるメルケル氏は、とても熱心なプロテスタント信者として知られます。
実際、先ほど書いた難民受け入れの政策は彼女の信仰的確信の現われだと言われていました。

この本によると、首相としてのメルケル氏はキリスト教の信仰についてあまり公に強く語ることは控えていたようです。

ですが、本の中の様々な場での彼女のスピーチなどからも、読めばすぐにわかるほどの篤い信仰の持ち主であることは間違いありません。

「信仰と、希望と、愛。
これらが、かなり多くのものごとにおいて、わたしを導いていると思います。

ですがわたし自身は信仰に関していつもはっきりと確信があるわけではなく、ときには疑いも抱きます。」
と述べています。

 

一国のリーダーが迫られるほどの決断の場はないとはいえ、わたしたちにもこちらかあちら、どうするかの判断を迫られる場面はあります。
そのとき、そこに信仰による影響があるでしょうか。

あるときのスピーチで、メルケル氏はこう言っています。

「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに、明るく生きる能力も与えてくれるはずです。
自己満足に浸るべきではありませんが、わたしたちにはたくさんのことが動かせるのだ、と言ってもいいでしょう。
25年前の東ドイツでのデモを思い出すならば、教会で行われたこと、祈りやろうそく、変化を呼び起こした平和的な手段を思い出すならば、わたしたちドイツ人は、ものごとを好転させる力についてたくさんのことを語れるでしょう。
わたしたちは、キリスト者としてもそのことを発言していくべきなのです。」

また、あるときにはこう話しています。

「神は人に作用する火なのです。
この作用する火を、わたしたちも自らの内に持っているべきだと思います。

キリスト教信仰は、わたしたちにとって善き力です。
作用する火であり、わたしたちはその火を使って、すでに成し遂げたことを喜びと共に眺めることができますし、その火のもとにいれば大きな問題の前でも目を閉じる必要がなく、その火を通して、これから来る人々のために努力を続ける力を得るのです。」

たしかに、わたしが前向きで明るくいられるのは、信仰によるものだと気づかされます。

神様がわたしのうちに灯してくださった火が、小さく揺らめいているのを感じることがあります。

そして、信仰を持っている友人と話すと、心地よい優しさと良い影響を感じます。

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「信仰を持つこと、それ自体がお恵みである」といつも思っています。

信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
(ヘブライ11・1)

信仰を持っている人でも、この世での望みは同じではないでしょう。
少なくともキリスト者としては、大きな視野で望みを持っていたいものです。

信仰を持っている人とは、
望んでいること(希望=いつも神様がともにいてくださること)を持っていて、
目に見えない事実(愛=どんなときも神様がともにいてくださること)を信じている人のことだと思うのです。

 

さぁ、ようやく。
今週末は秋晴れの日曜日の朝、教会でミサに与れることでしょう!