行事風景
熱い信仰
梅雨明けであって欲しい、そんな空です。
ジメジメとしているよりも、カラッと暑い季節が好きです。
以前、宮﨑神父様が「あなたの信仰がなまぬるいものでないか、自問してみてください」とお説教でおっしゃったのが、ずっと心に残っていました。
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信仰とは火を消してしまう水ではありません。
燃え上がる炎なのです。
ストレスにさらされている人のための鎮静剤でもありません。
信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです!
ですから、イエスは何よりも「なまぬるいこと」を嫌われるのです。
Faith is not water that extinguishes flames, it is fire that burns; it is not a tranquilizer for people under stress, it is a love story for people in love! That is why Jesus above all else detests lukewarmness (cf. Rev 3:16).
(教皇フランシスコ Twitterより)
最近は、この本と並行してヨハネの黙示録を読んでいます。
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黙示録は、旧約聖書の内容をベースに、独特の言い回しでさまざまなシンボルに例えて書いてあります。
わたしたち現代人にはそのシンボルを理解するのが難しく、とても難解で分かりにくい聖書の代表のように捉えてしまいます。
福音書の著者ヨハネではなく、ヨハネと言う名前の1世紀末の人物によって書かれたものだそうです。
自らを預言者であるとし、黙示録は典礼祭儀のなかで会衆に向けて朗読するための書である、と書いています。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。
時が迫っているからである。
(1・3)
会衆に向けられた書、ということで、わたしたちはもう少し気楽に読んでも良いのかもしれません。
『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』という、黙示録独特の神様の呼び名が、1章に2回出てきます。(1・4&8)
これは、出エジプト記にある「わたしはある、わたしはあるという者だ」を分かり易くいいかえたものだ、と今道さんは書いておられます。
エジプトからの脱出、約束の地に導き、バビロン捕囚を通して民に自尊心を与え、主に忠実な民に立ち返らせてくださった神。
かつてこれほどのことをしてくださり、今わたしたちを支えてくださる神は、世界にキリスト教が広まることを通して深い意味でともにいてくださる方であり、終末にはキリストの再臨をもたらしてくださる神。
それが、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。
アーメンである方、忠実で信実な証人、神の創造の初めである方が、こう仰せになる、
わたしはお前の行いを知っている。
お前は冷たくもなく熱くもない。
むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを。
だが、このように、お前は熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはお前を口から吐き出そうとしている。
(3・14~16)
『アーメンである方』という言い方も、黙示録特有のものです。
新約の中で、アーメンがキリストの属性として使われている唯一の例だそうです。
今道さんによると、わたしたちへの神の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の両方を、一身に具現しているキリストを表すのが「アーメンである方」、ということです。
「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という表現、面白いと思います。
まるで恋人同士の会話のような、真摯な愛を求めるイエス様のみ心でしょう。
冒頭に紹介したパパ様のツイッターにある通り、信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです。
見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする。
(3・20)
神様は、わたしたちが熱い気持ちで信仰を求める気持ちを期待されている、そういう感じが伝わってきます。
まだ3章までしか読み進めることができていませんが、今道さんの解説を同時に読みながら聖書をめくると、ヨハネの意図していたことが薄っすらと理解できるような気がしてきます。