行事風景
共に食卓を囲む
教皇様の2023年1月の祈りは、「教育にたずさわる人たち」のためにとなっています。
「教育にたずさわる人たちが、信頼される証し人となって、競争ではなく友愛を育みながら、とりわけ幼く傷つきやすい者の助けとなることができますように」
みこころレター13号に、日曜学校からのメッセージを掲載しました。
「日曜学校は祈りの場」
毎月第4日曜日は「こどもとともに捧げるミサ」です。
たくさんのこどもたちを待っています。
学年が上がるにつれてなかなか日曜日のミサに行けなくなってしまうという現象は(習い事、部活、塾等で)、どこの共同体も同じ悩みだと思います。
だからこそ日曜日、ミサに行けるときはぜひこどもたちに来てほしい、と願っています。
教会学校では、久しぶりにミサに来たこどもには必ず、言葉かけを行っています。
「待っていたよ!来てくれるのを!!」という気持ちです。
それは、イエス様も同じ気持ちだからです。
お父さん、お母さんにお願いです。
祈りの場へこどもを導いて下さい、大人が祈る姿をこどもに見せることが、一番の信仰教育だと思います。
こどもたちの成長を間近で見ることは、すごく嬉しく、楽しい事です。
神に感謝!!
コロナ禍以前に比べ、日曜日のミサ、日曜学校へのこどもたちの参加がとても減ってしまったことは、みなさまもお気づきだと思います。
日曜学校にたずさわる担当者の声は、ご家族の皆さんに届いているでしょうか。
わたしたち大人も、こどもたちと共にミサに与ることで信仰を確信し、深めていくことができます。
大人だけでなく、共に集まって祈り、共にイエス様の食卓に並ぶことが神様のお望みです。
先週ご紹介した本に、マルコ6章のパンと魚の奇跡についての考察があります。
そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちはイエスに近づいて言った、「ここは人里離れた所です。もう、時もだいぶたちました。みなを解散させてください。
そうすれば、周りの村里や村々に行って何か食べるものを買うことができるでしょう」。
すると、イエスは答えて、「あなた方が食べる物をやりなさい」と仰せになった。
(マルコ6・35~37)
弟子たちの解決策は「人々を解散」させることでした。
それに対してイエス様の解決策は「あなた方が彼らに食べるものを与える」でした。
クロッサンは、この物語はイエス様がパンと魚を増やしたことを表した譬え話ではなく、神の国の食べ物を民に分配する責任を強調する譬え話だ、と言っています。
弟子たちとイエス様の繰り返されるやり取りは、イエス様が自らの神の国のビジョンへ弟子たちを引き込んでいく過程なのです。
そこで、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンを裂いて、弟子たちに渡し、みなに配らせ、二匹の魚もみなに分け与えられた。
みなは満腹するまで食べた。
(6・41~42)
神の国がすでにこの地に存在しているのだから、弟子たちが食べ物の適切な分配の責任を負うように、イエス様は仕向けているのです。
だから、「あなたがたがの手で食べ物をあげなさい」が、「人々を解散」させるに打ち勝つのです。
イエス様にとって、神の国について教えることは、人々に食べさせることだったのです。
神の正義の手をとおして分配するならば、私たちの地にはすでに十分に、必要以上の食べ物があると言っているのだと私は考えます。
取られ、祝福され、裂かれ、渡されるならば、つまりそれを聖別された神の贈り物と見るならば。
今ここに存在する神の国とは、この地をすべての人に公正に分配することです。
イエスはただ、世界の世帯主である神の譬えを実演しているだけなのです。
(「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」166ページ)
主の食卓であるミサには信仰を持つすべての人が集うべきである、とわたしは痛感させられました。
親の意思で洗礼を授かったこどもたちは特に、保護者や家族が導いてあげる必要があります。
周囲のこどもたち、こどものいる家庭の方々に、今年はもっと積極的に声をかけていきましょう。
来週は、こどもとともに捧げるミサです。
今ここにあるお恵み
ご家族やご友人などと、賑やかで楽しいお正月を過ごされましたか?
わたしは妹家族が帰省していましたので、それはそれは賑やかな(騒々しい)年末年始でした。
大騒ぎしながらみんなで鍋を囲んでいるときに、思わず涙ぐんでしまいました。
「何という幸せだろう。
今ここに、神様がいてくださっているんだ。」
心からそう思いました。
主の御国が来ますように。マラナタ、マラナタ。
頭の中で、聖歌がぐるぐると鳴り響いていました。
「神の国」
その時に、このテーマで記事を書こう、と思ったのです。
いつもこのように、日々の些細な出来事や、目にした、耳にしたニュースから聖書の言葉が浮かび、iPadに向かって聖書を開くのが、わたしのここ数年の日課となっています。
今読んでいる本はこれ。
クロッサン
「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」
主の祈りのワンフレーズずつが章になっていて、広く深く考察された、クロッサン独特の洞察力による解説です。
この中の、神の国の到来についての下りによると、ヨハネは神の国は『神による世界の大掃除』であり、今にも起きるかもしれないが未来のことである、と語っていました。
一方でイエスは、すでに今ここに現臨していると語りました。
わたしが神の指(神の力)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。
(ルカ11・20)
律法と預言者はヨハネの時までである。
それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、あらゆる人が力ずくで、そこに入ろうとしている。
(ルカ16・16)
神の国は目に見える形で来るのではない。
また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。
(ルカ17・20〜21)
当時の人々にとって、神の国がすでに存在していると言われても、理解することができなかったことは容易に想像できます。
クロッサンによると、イエス様の言いたかったのは次のようなことなのです。
あなたがたは神を待っているが、実際には神の方があなたがたを待っているのだ。
どうりで何も起こっていないわけだ。
あなたがたは神の介入を求めているが、神があなたがたの協力を求めているのだ。
神の王国はここにある。
あなたがたがそれを認めて、その中に入り、それを生き、そしてそれを築きさえすれば。
イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです。
神による世界の大掃除は、人が神によって力づけられて参与し、超越的な力に動かされて協力しなければ開始せず、完成しないのです。
わたしにとって、この考え方は新しく斬新で、とても腑に落ちました。
神の国は、人の協働がなければ始まらない。
神の介入だけでは神の国の実現は起こらない。
主の祈りが、神に対する祈りの前半と、わたしたちの祈りの後半で構成され、均等にかつ相関的に成り立っているように。
どんなことであれ、もしあなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。
(マタイ18・19〜20)
わたしたち現代人にとっては、イエス様のこの言葉が1番「神の国」のイメージに近いのではないでしょうか。
わたしたちの間に、今ここに神様がいてくださる。
互いが思いやりを持って愛し合っている場に、神様の愛がある。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
いまだかつて神を見た者はいません。
しかし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちに留まり、神の愛はわたしたちのうちに全うされているのです。
(1ヨハネ4・10、12)
神の国は、わたしたち次第でわたしたちのうちに実現するお恵みです。
飛行機から見る景色にも、神様の現存を感じます。
今年の誓い
新年、明けましておめでとうございます。
今年も皆様にとって、恵み溢れる豊かな一年となりますように。
前教皇ベネディクト16世がご逝去されました。
皆様は、「2人のローマ教皇」という映画をご覧になったでしょうか。
この映画が公開された時、このページで紹介したことがありますが、もう一度皆様にお勧めさせてください。
この映画は、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿を後任に押すために説得を繰り返す、2人の交流の様子が丁寧に描かれたものです。
実際にバチカンで撮影されたこと、2人の俳優が同時にアカデミー賞にノミネートされたことなどでも話題となりました。
アンソニー・ホプキンスがドイツ訛りの英語を話すだけでなく、容姿も風貌も、本当にそっくりです。
わたしの抱いていた前教皇様のイメージとは違い、厳格ながらもユーモアのセンスと愛嬌のある様子が描かれていて、むしろベルゴリオ枢機卿(現 フランシスコ教皇)の方が頑固で融通が利かないようなところがあるのが面白いのです。
この映画で特にわたしが印象に残っているのは、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿に告解をするシーンです。
当時、幾つものスキャンダルに見舞われ、精神的肉体的に疲労困憊していた教皇が、正反対の主義主張・性格の枢機卿に次第に心を許していく様には、心が揺さぶられます。
そしてその後、バチカン美術館に見学に訪れていた多くの観光客にもみくちゃにされながら、気さくに、楽しそうに自撮りに応じるベネディクト16世の様子が、本当に微笑ましいのです。
ぜひ、ご覧いただきたい映画です。
天国で安らかにお過ごしになられますよう、心からお祈りいたします。
・・・・・・・・・・・・
1月1日、元日の主日のミサで、新成人の祝福が行われました。
20歳を迎える3名の新成人が参列し、宮﨑神父様の祝福を受けました。
3人は、今年の抱負を抱いていることでしょう。
そして大人として扱われることになるこれからの人生に、期待と希望を持っていることでしょう。
20歳の時、皆様はどのような誓いをしましたか?
覚えていらっしゃいますか?
わたしは、20歳になってすぐに、大きな病気をしました。
それまでは、勉強とスポーツに明け暮れ、何となく幸せに生きていましたので、生死に関わるような大病を20歳の時に経験したことで、そしてその後すぐに洗礼を受けたことで、文字通り「生まれ変わり」、新しい人生を歩み始めました。
生きていれば誰も、節目となるような出来事に遭遇するでしょう。
まずは、20歳という成人の年は大切にしたい節目です。
人生とは、生きるとは、楽しむことだ。
若い彼、彼女には、そう思ってほしいものです。
望まなくても、辛いことや悲しいことは必ず起こります。
まずは、楽しんで!と伝えたい。
わたしも、今年の誓いを立てました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
神様の子
主の御降誕、おめでとうございます。
ADVENTアドベントとは、「到来」を意味します。
メシア、キリストの到来を祝うのがクリスマス、キリストのミサです。
実際に12月25日にベツレヘムでお生まれになったわけではありませんが、史実かどうかは問題ではないのです。
何のために、誰に向けて誕生物語が描かれているのを理解することが大切です。
わたしたちキリスト者は、このイエス様の誕生の意味をどう捉えているでしょうか。
当時のユダヤ人たちにとってのメシア(キリスト)とは何者だったのか。
ナザレのイエス
歴史上の人物
信仰のキリスト
ユダヤ人にとっての救い主は、当時のローマ帝国からの圧政から救ってくれる王としての神でした。
現代のわたしたちキリスト者にとっては、イエス様は神の子、そして同時に神様です。
パウロの認識では、イエス様は神の子としてお生まれになったのではありませんでした。
一人の人間として生まれ、活動したイエス様がご復活を通して神となられた、という考え方です。
ペトロの認識では、イエス様は特別な使命を神から受けたメシア(王)である、というものでした。
彼はイエス様を神の子であるとは思っていなかったのです。
「あなたはメシアです」(マルコ8・29)
1番古い福音書であるマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」という出だしで進みます。
これは、最初から神の子だった、という認識からではなく、イエスとは何者なのか、そして「神の子」として人々に認識されていく過程を中心テーマとする、マルコの洞察の表れです。
「まことに、この方は神の子であった」(マルコ15・39)
この百人隊長の言葉は、マルコの神学的頂点である考え方、受難・死・復活によって全世界の異邦人から神の子であることが認められたことを暗示しています。
それに比べ、誕生物語を記したマタイとルカは、当時のユダヤ人に向けて「この方は神の子、神様だ」と伝えたかったので、生まれた時から神の子であるということを強調しているわけです。
ルカ2章のイエスの誕生物語は、旧約聖書からの多くの逸話が散りばめられた、映像が目に浮かぶような美しい描写です。
今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産衣にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。
これが徴である。
(11〜13)
イエス様が神の子、神様であるからこそ、わたしたちはその神様の子なのです。
25日のミサでは、2名の方の洗礼式が執り行われました。
来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
(サムエル上25・6)
良いお年をお迎えください。✝️
クリスマスの過ごし方
久留米は初雪の日曜日でした。
朝は吹雪のような降り方でしたが、主日のミサにはいつも通り100名以上の参列がありました。
・
先日、ジュゼッペ神父様が「あなたにラブレターです」、とお手紙をくださいました。
先週のごミサで、ジュゼッペ神父様がこうおっしゃいました。
「人を喜ばせるために、努力・苦労していますか?
今年のクリスマスこそは、誰かを幸せにするための努力をしましょう!」
・
この前、わたしの前の席に座られていたご年配の女性。
お見かけしたことのない方でしたし、明らかにごミサに与るのは初めて(数回目?)のご様子。
聖体拝領の時に「洗礼を受けておられますか?」とお尋ねしてみました。
「いいえ。両親は信者でしたが、わたしは受洗していません。今日は父の命日なので、教会に来てみました。」
「それでは、神父様の前に行かれた時に、頭を下げてみてください。祝福してくださいますから。」
「本当にいいのですか?」
「もちろんです。お父様も喜ばれますよ。」
席に戻られた時、とても晴れやかなお顔をされていました。
毎年この季節になると、信者ではない方のミサへの参列が増えます。
フラッと入ってこられるだけではなく、ミサに参列してみよう、というのはおそらく勇気のいることではないでしょうか。
そうした方を見つけたら、「はじめてこられた方へ」という教会のパンフレットをお渡ししたり、少しお話を伺ったり。
・
ジュゼッペ神父様のおっしゃったように、「この季節だからこそ!」とできることはいろいろとあります。
十戒には、「お前の父と母を敬え」という項目があります。
男性優位社会であったのに、「父に従い、母を尊重」ではなくどちらも同じように「敬え」となっているところがポイントです。
シラ書には、この十戒について解説された箇所があります。
父を敬う者は罪を償い、
母を尊ぶ者は宝を積む者に等しい。
言葉と行いを持って、父を敬え。
そうすれば、父の祝福が、お前の上に臨むだろう。
父の祝福は、子供たちの家を強めるが、
母の呪いは、その土台を覆す。
(3・3〜4、8~9)
心を尽くして父を敬え。
母の産みの苦しみを忘れるな。
お前は、両親によって生まれたことを銘記せよ。
彼らがお前に与えたものに、
何を持って報いることができようか。
(7・27〜28)
箴言23章24~25節には、次のように書かれています。
正しい者の父は大いに楽しみ、
知恵のある子を産んだ人は、その子を喜ぶ。
お前の父はお前とともに喜び、
お前の産みの母はお前とともに楽しむ。
今週は、耳を疑うような事件がありました。
親を大切にする家庭で育っていれば、その習慣は自ずと子どもに引き継がれるものだと思うのです。
「両親を大切にする。」
当たり前のような、誰もが分かっているこの大切な務めは、同時にみんなが「思ったほどできていない」ことではありませんか?
遠く離れて住んでいても、亡くなって天国にいても、できる親孝行はあるものです。
・
わたしがモットーにしているのは、次の聖句です。
『天国にいる母のために』
主に従う者は、母に安らぎをもたらす。
(シラ書3・6)
教会で与えていただいている役割を務めていると、母が喜んでいるような気がするのです。
『助け合って暮らす父のために』
子よ、年老いた父の世話をせよ。
その余生を悲しませるな。
たとえ、父の知力が衰えても、これを大目に見よ。
(シラ書3・12〜13)
かなり大目に見ています。
歳と共に優しくなってきているので、これからも大目に見ることとします。
・
フランシスコ教皇様は水曜日の一般謁見のお説教で、クリスマスを祝うことは良いことだとしながらも、「しかし、お金をかけずに、もっと質素なプレゼントを用意し、節約した分をウクライナの人々に送ろう」と呼びかけられました。
これもまた、クリスマスのよい過ごし方でしょう。
降誕祭までのあと数日、丁寧に、悔いのないように、大切に過ごしていきましょう。
愛すること
アウグスティヌスの「告白」第10巻第27章は、彼の回心後の心境を表現した美しい文章です。
古くて新しき美よ、おそかりしかな、御身を愛することのあまりにもおそかりし。
御身は内にありしにわれ外にあり、むなしく御身を外に追いもとめいたり。
御身に造られしみめよきものにいざなわれ、堕ちゆきつつわが姿醜くなれり。
御身はわれとともにいたまいし、されどわれ、御身とともにいず。
御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、わが心御身を遠くはなれたり。
御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、わが聾せし耳をつらぬけり。
ほのかに光さらにまぶしく輝きて、わが盲目の闇をはらいたり。
御身のよき香りをすいたれば、わが心は御身をもとめてあえぐ。
御身のよき味を味わいたれば、わが心は御身をもとめて飢え渇く。
御身はわれにふれたまいたれば、御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり。
先週ご紹介した、山本芳久さんの本に、この箇所の解説があります。
「何を愛しても何を手に入れても本当の満足が得られなかった。
しかし、神と出会って、神を愛するようになって、真の恋人である神と出会って、自分の心は本当の満足をはじめて得ることができた。
なぜなら、もともと自分は神に向けて造られていたのだから、と。
自分が「あなた(御身)」を愛するようになったのは比較的最近のことだが、「あなた」の方では、私があなたを愛し始める前から私と共にいてくださって、私のことを愛し導いてくださっていたのですと。」
先日、宮﨑神父様がおっしゃっていました。
「最近では、わたしは無宗教です、家には仏壇も神棚もありません、そういう人がとても多い。」
自宅の神棚に手を合わせなくても、神社でお賽銭を投げて祈る日本人は多いのでしょう。
ワールドカップで日本の勝利を祈った人、受験の合格を願って祈る人、何かに向かって祈るという行為はそう難しいことではないのです。
ですが、それは「信仰」ではありません。
自分が神様から愛されている、そう実感して涙したことがある。
自分の事だけではなく、友のため、誰かのために祈りを捧げる。
信仰があるというのは、そういうことだと思います。
「ラザロの蘇生」(1631)
この絵は、最近観た映画の中で初めて知りました。
オランダの画家、ヤン・リーヴェンスの作品です。
映画のストーリーが頭に入らないほど惹きつけられました。
イギリスのBRIGHTON&HOVE MUSEUMSに収蔵されています。
ヨハネの福音書11章のラザロの蘇生のエピソードでは、イエス様が涙を流された様子が描かれています。
「わたしたちの親しい友ラザロが眠ってしまった。しかし、わたしは彼を眠りから覚ましに行く。」(11)
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」。(25~26)
心に憤りを覚え、張り裂ける思いで、(33)
イエスは涙を流された。(35)
イエスは、またも心に憤りを覚えて、墓においでになった。(38)
ラザロを愛しておられたから悲しまれた涙ではない、といろいろな方が解説されています。
愛する者たちが、イエス様の言葉を理解していないことへの怒りもあったのでしょう。
死から逃れられない、罪深い人の性への怒りもあったことでしょう。
そして、このこと(ラザロを起こされたこと)がイエス様の逮捕につながる重大な出来事となったのでした。
「ラザロ、出てきなさい」(43)
こう叫ばれて、「イエス様は愛するラザロを死から脱出させたのだ」と、わたしは聖書の師匠から学びました。
この絵のイエス様の天を仰ぐような様子を見た時、やはりイエス様は愛しておられた友の死に涙を流されたのだ、と感じました。
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(5)
イエス様の涙が書かれているのは、3か所あります。
エルサレムに近づいたとき(ルカ19・41)、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブライ5・7)と表現された箇所、そして、ラザロの蘇生に関する箇所です。
わたしは、この3つのエピソードいずれからも、イエス様の愛を感じるのです。
民(エルサレム)を救う愛、天の父への愛、そして愛する友(仲間、弟子)を想う気持ち。
・・・・・・・・・・・・・・
バキアーナスという曲をご紹介します。
日本語では「ブラジル風バッハ」と言うようです。
ブラジル出身のエイトル・ヴィラ=ロボスの代表作です。
先ほどのラザロの蘇生の絵を見ながら第4番の1、前奏曲Prelúdioを聴いてみてください。
わたしはこの曲に、イエス様の涙を感じるのです。
目覚めの季節
宮﨑神父様はお説教の中で、たびたびおっしゃっています。
「自分がいつ天に召されるかはだれにも分からない。
いつも、目を覚ましていなさい。」
神は最も普通の日常、毎日の生活の中に隠れておられるということを忘れないようにしよう。
神は日々の仕事の中に、偶然の出会いの中に、時には助けを必要とする人の中や、退屈な灰色の日々の中にもおられ、わたしたちを呼び、話しかけ、わたしたちがどのように行動すべきか促される。
この待降節、無気力を振り払い、眠気の中から目を覚そう。
意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか、自問しよう。
もし、今日、わたしたちが神の訪れに気づかないならば、終わりの時が来ても、準備できていないだろう。
だから、目覚めていよう。
教皇フランシスコ 11/27 正午の祈りでの説教より
先週、友人のお兄様が亡くなられたと連絡がありました。
まだ50歳でした。
家族と夕食を食べていて、突然倒れられたそうです。
持病があったわけではないそうなので、こどもたちと食事中に自分が天に召されることになるとは、夢にも思っていらっしゃらなかったでしょう。
ですが、葬儀でご家族からお話を聞いて、大変驚いたことがあります。
「会社の事務の専門的なことを、数か月前から奥さんに教えていた。
分与できる財産を、弟たちの名義に変える手続きも先月済ませていた。」
おそらく、死期が近いことを察してではなく、偶然のことなのだろうとは思います。
ですが、彼は「準備ができていた」のです。
目を覚ましていなさい。
いつもこの言葉とその教えを耳にし、理解しているはずのわたしたちは、「目を覚ます」ことの意味をしっかりと意識しておかなければなりません。
パパ様のお説教にあったとおり、「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」を自らに問い掛けてみましょう。
山本芳久さんの、「愛」の思想史という新刊を読みました。
山本さんの本はいつもわたしには難しく、途中で挫折してしまうこともあるのですが、この本は分かり易く、とてもお勧めです。
たくさんの学びがありましたが、特に心に残った箇所を抜粋しながらご紹介します。
「主はわたしの牧者。」で始まる、詩編23章についての下りです。
「愛」という言葉は一度も使われていませんが、この詩篇以上に鮮やかに神の愛とはどういうものかを表現した旧約聖書のテクストはほとんどないと言っても過言ではありません。
旧約聖書の中には、イスラエルの民の導き手である神のことを「牧者」として捉える箇所はいくつもあります。
ですが、「わたしの牧者」というような仕方で個人の内面的な神への信頼関係が描き出されている箇所は他にはほとんどありません。
単なる一般論ではなく、極めて親密な「わたし」と「神」との信頼関係が描き出されているのです。
「恵みと慈しみは生涯わたしに伴う」の「わたしに伴う」と訳されている部分は、原文のヘブライ語では「わたしを追いかける」と訳することができる単語になっています。
神の「恵みと慈しみ」の方が、わたしを見失わないように、わたしを追いかけてくるというわけです。
この詩篇に表現されているのは、「死の影の谷を歩む時」とか「敵」といった詩句に顕著なように、この世界が様々な危険に満ちた場所であることが痛切に自覚されたうえで、その危険や困難に正面から立ち向かう力を与える者として、牧者である神に対する信頼が歌い上げられているのです。
危険や困難に立ち向かう、病気や苦しみと向き合う、そうした場面に置かれたとしても「目覚めて」いることが大切です。
「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」
このパパ様のお言葉を、胸に刻み、今年の待降節の日々を大切に過ごしていこうと思います。
ベトナムコミュニティの力作が完成しました!!
待降節を創る
いよいよ今年の待降節が始まりました。
ミサの式次第が新しくなったこともあり、背筋が伸びるような、清々しい気分です。
待降節になると、今年を振り返ってやり残したことはないか、今年を誠実に生きたか、などを丁寧に想う気持ちが自然と湧き起こります。
もし心に引っかかった棘のようなものがあれば、降誕祭までにクリアにする。
いつも、そうやって新年を迎えることができるように取り組みます。
毎年、久留米教会では祭壇に大掛かりな馬小屋の飾り付けをしますが、コロナ前は日曜学校のこども達や青年会の若者たちが協力して取り組んでくれていました。
一昨年からは、ベトナムコミュニティのみんなが率先して手伝ってくれていましたが、今年は、神父様が全面的におまかせになり、かなり凝った設定になっているようです。
筑後地区には、300名ほどのベトナム人の若者たちが暮らしています。
留学生、技能実習生、中には資格をとって就職している人もいます。
みんな20代前半ですので、おかげで久留米教会は若いパワーで活気に満ちています。
これは、本当に素晴らしいお恵みです。
月に一度、ベトナム人の司祭を招いてベトナム語のミサがありますが、それでも毎週日曜日の日本語でのミサにも参列する、熱心な信仰を持ったベトナムコミュニティの若者たち。
彼ら、彼女たちに、「隣人愛」を抱くのはごく自然なことです。
ベネディクト16世の回勅「神の愛」には、こうあります。(18)
神への愛と隣人愛を切り離すことはできません。
それらはただ一つのおきてをなしています。
しかし、この二つの愛をともに生かしているのは神の愛です、
まず神がわたしたちを愛したからです。
重要なのは、無償で与えられる愛を自分のなかで経験することです。
そして、この愛は、本性的に、人に分け与えないでいることのできないものです。
愛は愛によって成長します。
愛は「神的」なものです。
愛は神から出て、わたしたちを神と結びつけるものだからです。
愛はわたしたちを神と結びつけながら、わたしたちを一つの「わたしたち」にします。
こうしてこの一つとされた「わたしたち」は、わたしたち人間の分裂を乗り越え、わたしたちを一致させます。
神様に愛されていること実感したら、無償で誰かにその愛を伝えたくなる。
そういう連鎖が起こるのが「神の愛」なのだ、とベネディクト16世はおっしゃいました。
来月発行の久留米教会の広報誌みこころレター、今回のテーマは「共同体の役割」としました。
コロナ禍にあって、本来の共同体活動が全面的にできるようになるにはもう少し時間がかかるでしょう。
それでも、例えばベトナムコミュニティの若者たちの献身的な行動は、わたしたちに無償の愛を与えてくれています。
わたしたちはとかく、「まだできない」と考えがちです。
「役に立ちたい」という 若者たちの愛が、わたしたち久留米教会共同体をひとつにしてくれている、毎週、そう感じています。
来週の完成が楽しみです!
聖書の楽しみ方
紅葉が美しいですね。
聖書は、すべての人を心にかけてくださる神の愛といつくしみを示す本であり、そのかかわりの中に生きるように人間を招く本です。
聖書は、「内容を覚える」教科書ではなく、人生を支える「糧」です。
だからこそ、わたしたちの心に響きます。
これは、今年の聖書週間(11/20~27)のリーフレットに寄稿された、アベイヤ司教様のお言葉です。
リーフレット『聖書に親しむ』
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf
「新約聖書外典」を読みました。
正典から排除された(正式に採用されなかった)文書を、外典と言います。
以前、ある神父様が「昔は神学校で『これは読んではいけない』と言われていたようですが、面白いので読んでみました。」とおっしゃったので、いつか読もうと思って買ったまま、ほこりをかぶっていました。
たとえば、ラファエロの「聖母の結婚」という絵をご覧になると、聖書のどこにこのエピソードが?と思われるでしょう。
外典のヤコブ原福音書にあるのは、次のような物語です。
マリアは神殿で育てられていました。
大祭司ザカリアの夢に天使が現れ、マリアの結婚相手にふさわしい人を集めて、その手に持った杖に徴があらわれた人を夫とするように、と告げられました。
ヨセフの杖から鳩が出てヨセフの頭にとまるという徴があり、マリアを引き取って保護したのです。
この物語では、「結婚した」とはなっていません。
というのも、この時マリアは12歳、男やもめだったヨセフには息子が何人かいて、自分はマリアの夫には年を取りすぎていると思っていたからです。
マリアがイエス様を産んだ時は、16歳になっていました。
(このストーリーは福音書には書かれていませんので、2人の年齢、ヤコブが2度目の結婚だと知っていたと思われた方は、この物語を知っていらしたのです。)
この絵は、1504年に描かれました。
わたしたちが外典として普段読むことの無い書物は、キリスト教徒の中で人気のある大衆文学作品として広く親しまれていたのです。
次の写真は、イスラエルに行ったときに撮影した、ナザレの聖ヨセフ教会のステンドグラスです。
ヨセフの杖にユリの花が咲いている、という徴が表現されています。
この教会は1914年に建てられたそうですので、長い間に浸透した福音書と外典の物語が、自然と融合したことが分ります。
冒頭にご紹介した、今年の聖書週間のリーフレットの2ページ目は、若松英輔さんのコラムです。
わたしが一番好きな彼の著書は、「イエス伝」です。
その中に、こういう記述があります。
ある若きインド人はこう語り始めた。
「もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツレヘムのどちらかといったことや、 山上の説教が語られた正確な日時を知る必要なない。
もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。
説教がなされた時期を論じるために書かれた数多くの言葉を読む必要はない。
それらはすべて学者たちのたのしみにすぎない。
そうしたことは彼らに任せておこう。
私たちは『マンゴ』を食べようではないか。」
マンゴとは、この場合「聖典」を意味している。
キリスト者に求められているのは「山上の説教」について知ろうとすることではなく、そこで語られる言葉を「感じる」ことだというのである。
何かについて知ろうとすることに留まるものは、空腹にもかかわらず『マンゴ』を目の前にいつまでもその生態を調べているような者だというのである。
聖書の楽しみ方は、ぞれぞれにいろいろとあるかと思いますが、わたしは絵画や音楽の中に聖書のエピソードを見つけてその箇所を読むのが好きです。
聖書を読んでもわからないことが多い、と思っている方には、わたしが聖書を学んだ師匠がおっしゃった言葉をお伝えします。
「イスラエルの人々の体験を通して神様を知るために、聖書があるのです。」
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死者の月、毎日の祈りの中で、特に親しかった方々のことを想っています。
大好きなマックス・リヒターのNovember(11月)という曲があります。
最近気に入っている、マリ・サムエルセンの北京での演奏は、何度聴いても涙がこぼれます。
天国の皆さんのことを想いながら、聴いてみてください。
模範となる人
12日土曜日は、宮﨑神父様の71歳のお誕生日でした。
夜ミサで、花束をお渡ししてお祝いしました。
久留米教会に赴任して来られて6年です。
ちょっとコワモテですが、意外とチャーミングで素敵な神父様、まだまだよろしくお願いします!
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七五三のお祝いを、13日のミサのなかで行いました。
無邪気なこどもたちの様子を見ていると、いつも思います。
「教会で出会うわたしたち大人が、この子たちの模範となる存在でいたいな。」と。
愛する者よ、あなたは健全な教えに適うことを語りなさい。
年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。
これは、神の言葉が汚されないためです。
同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。
教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。
そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
(テトス2・1~8)新共同訳
あなたは、健全な教えにかなうことを語りなさい。
年老いた男性には、節制し、謹厳で、思慮深く、信仰と、愛と、忍耐においても健全なものであるように勧めなさい。
同じく、年老いた女性には、敬虔な生活を送る者にふさわしく振る舞い、人を謗ることも、酒におぼれることもなく、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、年老いた女性は、若い女性に、夫を愛し、子供を慈しみ、慎み深く、貞潔で、家事に勤しみ、親切で、夫に従うようにと、教え導くことができます。
これは神の言葉が謗られることのないためです。
若い男性も同じく、すべてにおいて慎み深くあるように勧めなさい。
あなた自身を善行の手本として示しなさい。
教える場合には、誠実で謹厳で、非の打ち所のない、健全な言葉を用いなさい。
そうすれば、反対する者は、一言も悪口を言うことができず、恥をかくことになります。
(同)フランシスコ会訳
新共同訳よりフランシスコ会訳の方が柔らかい書き方ですが、年老いた男、年老いた女、若い女、若い男、という分け方がストレートで分かりやすい!
現代人には多少、抵抗がある表現かもしれませんが、ストライクに正論ではないでしょうか。
年配の男性=忍耐深くあるように
年配の女性=善いことを教える者となるように
若い女性=家族を愛するように
若い男性=思慮深くふるまうように
(ストレスの多い女性にお酒の注意を促し、男性に忍耐を求める。昔からそうなのですね、、、。)
信者の場合、自分の信仰の模範となる人が代父、代母であることも多いかと思います。
わたしも、自分の代母をとても尊敬しています。
現代社会のさまざまな問題のなかでも、わたしが特に気になっているのがこどもの不登校です。
11日の西日本新聞朝刊の社説に、9年連続で不登校の小中学生の数が増加している、と書いてありました。
2021年度は24万4940人で、コロナ禍にあって臨時休校や活動制限もあり、学校を休むことへの抵抗感が薄れたことも影響している、とのことでした。
そして、3人に1人が誰にも相談せず、支援を受けていない現状なのだそうです。
久留米教会も、コロナ前のミサはこどもの参列がとても多かったのですが、家族の仕事の都合や感染のリスクを考えて、などの事情があり、最近はこどもたちの姿がめっきり減ってしまっています。
もしかしたら、教会のこどもたちにも不登校の問題を抱えている子がいるのでは、と心配になります。
このことを友人と話していたら、「うちの娘も小学校の時、5ヶ月不登校だったよ。弟の息子も不登校になって、転校したよ。」と、当時の話を聞かせてくれました。
あたらめて、この問題が身近なことなのだと痛感させられました。
そのとき、 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカ17・20)
こどもが必要としているのは、必ずしも「模範となる大人」ではないかもしれません。
優しい親、素敵な家族であっても、大人もこどもも生きづらさを感じる世の中です。
それでも、わたしたち大人が担う役割は小さくはありません。
せめて姪たちには、模範、お手本となる存在であるよう、善いことを教えることができるように、わたし自身が生き方を見せることができるようにならなければ。
今、このことを強く感じながら過ごしています。
それぞれの家庭の中に、そして久留米教会の中に、神の国がありますように。