カテゴリ:秘跡
森山司教様 誕生
2022年7月3日、森山司教様が叙階されました。
2014~2017年まで、主任司祭として久留米教会に来てくださいました。
司教様にとって、最後に赴任された小教区です。
信徒一同、心からお祝い申し上げます。
今日は、少しだけセンチメンタルに、思い出に浸っています。
森山神父様(そう呼ばせてください)らしい聖句を選ばれたと感じました!!
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毎年、女性の会で楽しく新年会をしていました。
その時に、1月生まれの神父様のお誕生日会も!
毎週、聖書の勉強会をしていただき、「聖書100週間」で学んだメンバーは、2019年にイスラエル巡礼に連れて行ってもらいました。
洗礼を授けてもらった信徒も大勢です。
コロナもなかった時代ですので、ご復活のミサのあとは、こうして賑やかに懇談していたのですね。
ゴールデンウィークにはバーベキューをし、6月には熊本地震の被災地で田植えを!
久留米のフィリピン人コミュニティが、タグレ枢機卿をお招きしました。
枢機卿と一緒に、まるでジャニーズのアイドルのようにもみくちゃにされている様子です。
子どもが大好きで、子どもたちも神父様が大好きでした。
「隣の県にいますよ。東京より近いですよ。」
そうおっしゃっていましたが、やはり、隣の県の司教様は遠くに感じてしまいます。
司教様のご健康とご活躍、神様のお導きを心よりお祈り申し上げます。
家族を築く
聖堂は閉められていますが、5日の日曜日は2組の結婚式が執り行われました。
参列者はごく限られたご家族などで、ささやかな中にも優しい幸せに包まれた素敵なお式でした。
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1組目は、新郎側のご両親が緊急事態宣言ということで久留米に来ることが叶いませんでした。
2組目は、ご家族がベトナムから日本に来ることができませんでした。
ということで、youtubeでライブ配信をすることになったのです。
便利な世の中です。
このようなことが、2年前に想像できたでしょうか。
結婚式に親が参加できない。
友人をたくさん招いてパーティを開くことはしない。
このような世の中になり、本来ならば一世一代の大イベントであるはずの結婚式と披露宴は、新しいカタチになりました。
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カトリック教会に於いて、結婚は7つの秘跡のひとつとされています。
厳密には、新郎新婦共に洗礼に与っている場合が秘跡とされますが、人生のある時に偶然出会った二人が家族になるという結婚は、神様の計らいであるとしか思えません。
現代人にとって、結婚とは「制度」にすぎない、という考え方もあるでしょう。
もちろん今でも、民族や宗教によっては親が結婚相手を選ぶ、ということもあります。
旧約聖書には、結婚生活についての苦労や嫁姑問題、夫の務め、妻の役割など、多彩な記述が随所にあります。
4000年以上前から変わらぬ苦労があったのか、と笑ってしまうような箇所もあります。
創世記の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」として女性は男性のために造られた、とか、出エジプト記の「不妊の妻は離別される」、「夫の権利を尊重するため、姦淫の妻とその相手は死罪(夫が姦淫してもおとがめなし)」といった記述は、現代に生きるわたしたちには抵抗がありますが。。。
旧約聖書のルツ記は、短い文章の中に、結婚によって新しく築かれる家族の愛が書かれています。
BC450ごろ書かれたとされるルツ記は、旧約聖書のなかで一番短い書物ですが、当時のイスラエルの結婚に関する慣習が書かれています。
兄が子供を残さないまま亡くなった場合、その弟が兄嫁を娶って子孫を残すことが普通になされていました。
寡婦であったルツはイスラエル人ではありませんでしたが、ナオミ(姑)の働きかけで親戚のボアズに嫁ぎ、子どもが生まれます。
その子がダビデの祖父にあたることから、異邦人ルツは旧約の中でも重要な女性となりました。
わたしがルツ記を好きな理由は、ルツのナオミへの家族愛が書かれているからです。
夫が亡くなり、子どもがいなかったルツは故郷であるモアブ人の地へ戻ることもできました。
ですが、一人になってしまう姑のナオミを気遣って、一緒にベツレヘムへ戻るのです。
結婚により、彼女にとって姑は他人ではなく、家族になったのです。
家庭は2人で築くものでしょう。
ですが、結婚によって家族が築かれるのです。
わたしには妹が2人いて、義弟が2人できました。
彼らはわたしにとって、大切な家族です。
妹たちの結婚によって、わたしにも家族が増えました。
幸せのおすそ分けです。
『堅信式』アベイヤ司教様公式訪問ミサ
6日はアベイヤ司教様の司式によるミサの中で、17名の子どもたちの堅信式が執り行われました。
マリア様が聖霊によって身籠られたこと、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたこと、このようにイエス様は2回聖霊を受けられています
聖霊の導きによって洗礼を受けることで「神の子」として誕生したわたしたちは、2回目の聖霊の働きである堅信の秘跡によってその信仰を確固たるものとし、派遣されていくという意味があるのです。
アベイヤ司教様は「今日もらう堅信証明書は卒業証書とは違います。今日からみなさんは、聖霊の働きによってキリスト者として新たにされたのです。今日参列している先輩信徒の皆さんは、あなたたちのために祈ってくれています。あなたたちのためにですよ!」と力強くおっしゃいました。
今年はコロナ禍において、何も良いことがなかった、、、ということはありません!
5月にはアベイヤ司教様が着座され、7月には船津司祭が、10月には古市助祭が叙階されるという素晴らしい記念すべき年でした。
司祭
司教
教皇
教皇様が一番偉くて、枢機卿、司教、司祭の順である、ということでは全くありません。
12使徒がどのような人々だったかを思い返してみるとわかります。
それぞれがユニークであり、現代の信徒であるわたしたちがそれぞれに個性があるのと全く同じで、12人は違った特性を持っていました。
違いながらもイエス様への愛と信頼において、彼らはひとつに結ばれていたのです。
誰が一番偉いのか、で言い争ってはいましたが、結局はペトロが一番だった、というわけではないのです。
イエス様は、3度自分を否認したペトロに3度ご自分への愛を確認し、首位権をお示しになります。
(ヨハネ21・15~)
神の国の鍵を与え(マタイ16・17~19)、ご自分の羊の群れ(信者たち)をペトロに委ねられました。
イエス様の教えを次の世代に確実に誤りなく伝えていく役割が使徒たちに委ねられ、それが教父たちによって確立され、現代の司教たちへと続いているのです。
『教導職』と言います。
教皇権・教皇職(司教・司祭職)は「信ずる人々のエクレシア(集り、教会)」を生き生きと生かし、分裂なき健やかな集まりとするための奉仕職・奉仕権なのだ。
この奉仕(サービス)を受けて、集る側もまた、世の万人のために奉仕(サービス)する。
では、教皇(ペトロ後継者)は「教会のかしら」か。
めっそうもないことである。
教会のかしらはただキリスト・イエスのみ。
教皇(司教)はキリストのわざと心を託されて継いでゆく管理者的しもべ。
(ルカ12章以降度々出る管理人のたとえ参照)
犬養道子さん「聖書を旅する3」より
久留米教会というエクレシアに集うわたしたちです。
同じひとつの心の集まりである教会における、多様性、ヴァラエティ。
これこそがイエス様の望まれたことなのです。
アベイヤ司教が7月の船津司祭の叙階式で久留米に来られた時のことです。
全ての参列司祭が黒っぽいスラックスパンツに黒の革靴でしたが、ある神父様(久留米の前任主任司祭!)は、ブラックジーンズに裸足に皮のサンダル姿で現れ、そのままその上に着衣されたのです。
思わずわたしは、「え、、、まさかその恰好のまま!?うそでしょ!??!」と言ってしまいました。
するとアベイヤ司教様が笑いながら
「カトリック教会は多様性を重んじていますから!」とおっしゃったのです。
このユーモアのセンスと素敵な笑顔と足の長さに、わたしはすっかりファンになってしまったのでした。
司教様へインタビューさせていただきましたので、みこころレターをお楽しみに!!
召命のきづき
今年はよく、召命ということについて考えています。
今年は船津司祭の叙階式に立ち会うことが出来、そのころから、このコロナ禍にあっての身近な召命について、思いを巡らせているのです。
何度かご紹介したことのある、カラヴァッジョの『聖マタイの召命』です。
みなさんは、どれがマタイなの?と考えたことはありますか?
わたしはずっと、左端の青年だと勝手に解釈していたのですが、美術研究者の間では「マタイ問題」というほどのテーマなのだそうです。
イタリアではおおむね、左から3人目のおひげのおじ様がマタイである、と主張されているとか。
どれがマタイなのかはともかく、このマタイの召命についての聖書の記述を見てみると、
マタイ9・9、マルコ2・14、ルカ5・27~28のいずれも非常に簡潔なものであり、イエス様の呼びかけにレビ(マタイ)が従ったというだけのエピソードで、まったくドラマチックでも何でもないのです。
レビが徴税人であった、というのが重要なポイントなのです。
当時は罪人と同意味であった徴税人、ユダヤ社会の憎まれ者をイエス様が弟子に召し出した、というのがこのお話のドラマです。
仕事やお金を捨て、世間のしがらみや葛藤を断ち切ってイエス様に従ったマタイは、放蕩息子のように救われました。
現代においての召し出しは、どのような人に、どのようなタイミングで与えられているのでしょう。
聖職者としての召し出しだけではなく、わたしたちそれぞれに与えられている呼びかけについて、キリスト者としてもっともっと思いを馳せて日々を丁寧に生きていかなければならない、そう思うのです。
召命、は英語ではcalling、イタリア語ではvocazione、ドイツ語ではBerufで、どの単語も職業や職務、広義で仕事という意味を持っています。
つまり「マタイの召命」は「マタイの仕事」という意味にもとれます。
人の仕事というのは自分で選んで従事するのではなく、神から与えられた使命である、という考え方ができます。
youtubeで配信された、古市助祭の叙階式のスクリーンショットです。
久留米で司牧実習をしてくださっていた古市さんの召命が、一つのステップを上がったのです。
そして、この春からは、吉浦神学生が久留米に来てくれています。
彼も、自らが得た召命を生き、前に進んでいるのです。
船津司祭、古市助祭、吉浦神学生、こうして神様から特別な愛を注がれている方々が久留米教会に縁があるのは誇らしいことですね!
3人には、次号のみこころレター(12月号)に寄稿していただく予定ですのでお楽しみに!
船津亮太 司祭 叙階式
23日、久留米教会において、叙階式が執り行われ、船津司祭が誕生しました。
司祭叙階式は、一人の男性が「地に落ちて一粒の麦となる」緊迫した雰囲気であってほしいと思う、と来住神父さまがカトリック生活8月号の連載記事に書かれていました。
もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。
(ヨハネ12・24)
3月に予定されていた叙階式が延期となりました。
しかし、5月にはアベイヤ司教が着座され、お心遣いで久留米教会での開催となったという経緯は、わたしたち久留米教会の信徒にとっては大変光栄なことでした。
残念ながら招待者のみの参列ではありましたが、福岡教区のご尽力で初めて生中継され、まさに、厳粛でありながら、喜びに満ち溢れた叙階式でした。
今週末、25日(土)19時、26日(日)9時、11時、3回の主日のミサで船津司祭の初ミサが執り行われます。
最高の笑顔です。
亮太司祭の今後の歩みが愛と恵みに満たされるよう、祈りましょう。