行事風景
変わることを恐れない
いかがお過ごしですか?
待降節を落ち着いた、穏やかな心で暮らせているでしょうか。
宣言したわたしは、仕事でストレスを感じて疲れてしまっていますが、それでも毎晩「だいじょうぶ!」と気持ちをリセットするようにしています。
ご近所づきあい、職場の人間関係、家族との距離など、何かと頭を悩ませることがあります。
「誰一人として付き合いづらい人は周りにいない」、などという人はいないのではないでしょうか。
「何かを変えたいと思ったなら、その選択肢は自分にある。」
これは、フリーアナウンサーの内田恭子さんの言葉です。
ここ数か月にわたり、友人の職場での相談に乗っています。
友人は、「わたしは正しい、間違っていない。上司のやり方が間違っているので、おかしいことを見過ごすことができない。」と何度もわたしに訴えています。
自分が正しいかどうかを判断するのは、果たして「自分」でしょうか。
ほんとうに自分を正しく知り、自分を軽んじることこそ、最高の、そして最も有益な知識である。
自分を無に等しいものと見なし、常に他人をより高く評価することが、大いなる知恵であり、より高い完徳である。
たとえ、他人が公然と罪を犯し、あるいは何か大きな悪事を行うのを見たとしても、自分をその人よりも善人だなどと考えてはならない。
あなたは、自分がいつまで、そのような状態に留まり得るかを知らないからである。
われわれは皆弱い。
しかし、自分よりももろい者はほかに誰もいない、と考えなさい。
(「キリストを生きる」第1巻第1章4)
われわれは、自分自身を過大に信頼してはならない。
われわれは、しばしば能力と分別を失いがちだからである。
われわれの心の光はかすかであり、しかもわれわれはそれさえ怠惰によってすぐに失う。
われわれは他人のことになると、わずかなことでも咎めるが、しかし自分の短所については、たとえそれが大きくても見逃しがちである。
他人からいやな目に遭わされると、非常に敏感にこれに反応し、これを重視するが、われわれが、他人にどれほど迷惑をかけているかについては、なかなか気づかない。
自分の行動について、よく、正しく反省する人には、他人を厳しくさばく理由などないはずなのに。
(同、第2巻第5章1)
問題の答えを見つけたいときは、聖書とこの本を開きます。
トマス・ア・ケンピスの「デ・イミタチオネ・クリスティ」は、ルネッサンス以降、今日までのあいだ、聖書に次いで最も広く読み続けられているカトリックの信心書です。
日本でさえ、キリシタン時代(1596年)にはローマ字版日本語訳が存在していました。
わたしが愛読書として手元においているのは、2017年発行の、長崎司教区・山内清海神父様の訳本「キリストを生きる」です。
(他にも、「キリストに倣いて」と言うタイトルでいくつかの訳本があります)
自分を信じてくれる人が周囲にいるか、も大事ですが、自分のことをきちんと理解することが大人としての責任です。
自分は正しい、と確固たる自信をもって相手を変えようとしている友人には、何度も伝えています。
「人を変えるのではなく、自分が変わるのよ」
自分の正しさが相手にとっての正論ではない、ことは、おそらく誰もが知っていることではあるのでしょうが、理解できていないことが多いように思います。
ああ、主なる神よ、「正しい裁き手、罰することを怠らない神よ」(詩編7・12)、人間の弱さと悪を知っておられるあなたこそ、わたしの力、わたしの拠り所となってください。
自分の判断だけでは不十分だからです。
他人から非難を受ける時、わたしはへりくだって柔和に忍ばなければなりません。
もしそうしなかったなら、そのたびごとにわたしを赦し、(次の試練の時には)より以上の屈辱を忍ぶ力をお与えください。
なぜなら、自分が正しいと思って、自分でも知りえない心の秘密を弁護するよりも、あなたの豊かなお慈悲にすがって赦しを受けるほうが、わたしにとってずっと有益だからです。
「わたしは自分に何らやましいところはありませんが、だからと言って、わたしが義と認められるわけではありません」(1コリント4・4)
あなたの憐れみがなければ、「生ける人の中で、誰一人として、あなたのみ前にあって正しい者とは言えない」(詩編143・2)からです。
(同 第3巻第46章5)
わたしが友人にアドバイスしていることは、むしろわたし自身ができていない事でもあります。
友人とのやりとりを通して、こうして答えを探す中で、自分にも言い聞かせることができました。
と、ここまで書いたところで、15日はアベイヤ司教様の司式ミサでした。
そのとき、群衆はヨハネに「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
(ルカ3・10)
アベイヤ司教様は、こうおっしゃいました。
「わたしたちは変わらなければ、という思いがあったから、ヨハネの話を聞いて受け入れたのです。
今、わたしたちは待降節で神を迎えようとしています。わたしたちに必要な姿勢がこれなのです。」
アベイヤ司教様が、結論とも言える答えを教えてくださいました。
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インスタグラムで、街行く素敵な人に突然声をかけてインタビューする、という動画があります。
NYの街中を闊歩する女性に、「失礼ですが、とても自信に満ちて見えます。どうしてでしょうか?」と質問していました。
その女性の答えは、「ありがとう。たぶん、確固たる信仰を持っているからだと思う。」というものでした。
突然カメラを向けられて、「どうしてでしょうか?」などという質問をされ、(やらせかもしれませんが)「信仰を持っています」と、美しい笑顔で答えていた女性に感動しました。
さらに、「どうしたらあなたのようになれますか?」と質問され、「そうねぇ、もし興味があったら、教会に行くこと、聖書を読んでみることを薦めるわ!」とも答えていました。
(わたしがこういう記事を書いていることをAIに見抜かれて、わたしが喜びそうな動画を見せられたのかも!?)
彼女の口調は、決して押しつけがましいものではありませんでしたし、自信を持って答えた彼女は本当に素敵でした。
わたしも、そうありたいです。
自分を知ること
待降節第2の主日を迎えました。
クリスマスまでの日々、通常よりも丁寧に日々のお恵みを噛みしめて過ごすように心がけています。
長年書いている「お恵みノート」に、今日のお恵みを書くことだけでなく、何かにつけて「ありがとう」という言葉を発するようにしています。
どう生きるか。
普段から自分をしっかり持っていないと、余計なストレスを抱えてしまいます。
無駄に一喜一憂したり、不必要なヤキモキを感じて、気分が滅入る。
そういったこと、ありませんか?
最近は、ネットのニュース・情報、SNSで一方的に表示される広告から、不要な情報ばかり目にしてしまっている(&お買い物してしまう)ことに反省しています。
待降節の1か月だけでも、怒らず、イライラせず、穏やかに暮らすことに専念したい!
神と自分の惨めさとを当時に知ることなしに、イエス・キリストを知ることはできない
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めとの神である
みずからとらえた人々の魂と心情とを満たす神である
彼らに自分の惨めさと神の無限のあわれみとを内的に感知させる神である
彼らの魂の奥底で彼らと結びつき、彼らに謙虚と喜びと信頼と愛とを満たし、彼らをして神以外の目的を持つことができないようにさせる神である
(パスカル「パンセ」第8章より)
自分の「惨めさ」をきちんと理解しているでしょうか。
「惨め」という言葉はとても後ろ向きな、暗いイメージですが、ここでいう「自分の惨めさ」というのは、「自分の貧しさを知る」ことだと思うのです。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人のものである」(マタイ5・3)は、わたしの大好きな聖句のひとつです。
わたしたちキリスト者はいつも「心が貧しい」状態を意識するべきだ、と思っているからです。
自分をしっかりと持つために、いつも自分を見つめ直して、正直に、謙虚に、奢らずに神様に向き合う姿勢を大切に、そう心がけています。
それが、「心が貧しい」ことの証だと思っています。
ブロッホ〈山上の垂訓〉
ローマ皇帝であり、ストア派の哲学者であったマルクス・アウレリウス・アントニヌスは、著書の『自省録』の中で幸福のためにどうあるべきかを、自分自身に話しかける形で書いています。
いくつか、心に響いた点をご紹介します。
・今すぐこの世から去る者であるかのように、考え、話し、行うこと。
・誰もがたった今しか生きていない。だから、今を大切に生きよ。
・善き者であることが可能なうちに善き者であれ。
・ひどい悲しみに気高く耐えることも幸運である。
・死ぬときは、吸った息を吐きだして大気に戻す。日々の呼吸も同じ。
・自分とともに生きるよう定められた人々には愛情を寄せなさい。
・自分の心を明るいものにしたいなら、ともに生活している人々の長所を思いなさい。
最後の2つは、特に気に入っています。
幸せのバロメーターは人それぞれです。
少なくともキリスト者であれば、自分の貧しさを自覚し、自分のことをきちんと理解することなしに幸せを感じ取ることはできないでしょう。
毎年この時期には、今年一年を振り返り、やり残したこと、ほおっておいたままのこと、気がかりで解決しておきたいこと、を整理するのが長年の習慣です。
皆様は、いかがですか?
今年はどのように神様と、自分と向き合いながら生きましたか?
不安や心配事を残していませんか?
自分のことを見つめ直し、できることには取り組み、神様に委ねるしかないことは明け渡すこと。
心晴れやかな待降節を過ごすことができますように。
神様の光
最近よく聞く、「ミニストリー」・「カテキスタ」という言葉があります。
英語の「ministryミニストリー」の聖書的語源は、ギリシア語の「ディアコニア」です。
「キリスト共同体である教会とその生活の中で奉仕する」ことを表す一般的用語として、主にプロテスタントの牧師職を指して使用されてきました。
ここから、この言葉の中核的意味である「奉仕」が意味を拡大され、キリスト教の「聖務」「宗教活動」などに広く用いられるようになっています。
月刊誌の福音宣教では毎月「チーム・ミニストリー」という特集が組まれ、様々な立場で教会での奉仕活動をされている方々が、zoom座談会形式でお話をされている記事があります。
11月号では、ある信徒の方がこうおっしゃっています。
かいつまんでご紹介すると、
わたしたちには信仰の喜びというのはあるはず。
教会に通い、日々を生きているのに、それを報告する場がない。
信仰を生きるうえで、「宣教者」として歩むうえで、抱いている思いや課題、喜びなどを分かち合う場が少ない。
わたしは、こうして毎週ここに書くことで、学んだこと、感じたこと、今考えていることをアウトプットでき、時折感想をいただくことで、深い喜びや豊かな交わりを得ることができています。
最近、ある信徒の方とミサの後にゆっくりお話をする機会がありました。
初めてでしたが、お互いに信仰について感じていることをじっくりと語り合い、聞き合い、ミサに与るだけでは得られない、豊かで優しい、穏やかな気持ちになることができました。
皆さんは、ご家族や信徒の友人などと、信仰で得た喜びについてお話されていますか?
「カテキスタ」とは、おもに洗礼を希望する方々に、キリスト教の概要や教理(カテケージス・カテキズム)などを教える教師のことです。
あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。
むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。
その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。
これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。
そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
自分自身と教えとに気を配りなさい。
以上のことをしっかりと守りなさい。
そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
(2テモテ4・13~16)
教皇フランシスコは、2021年に公布された自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」の中で、信徒のカテキスタについてこのように書かれています。
受洗者一人ひとりの熱意を目覚めさせ、共同体の中で自らの使命を遂行するように召されているという自覚を再び燃え立たせるためには、実り豊かな形で現存し続ける聖霊の声に耳を傾けることが必要です
この教令は3年前に発布されたものの、いまだ正式な日本語訳が公開されていませんし、日本ではカテキスタの養成がまだ本格的に行われているとは言えないようです。
司祭の高齢化、新しい召命の少なさ、を見ても、わたしたち信徒がカテキスタとして養成されて研鑽を積むことは喫緊の課題です。
教会において様々な奉仕職を担っている信徒は、ある意味でカテキスタとも言えますが、自己流で務められるものでないことも事実です。
受洗者それぞれが受け取ったカリスマをもっと発揮するように、と教皇様はわたしたち信徒を鼓舞されています。
(教皇様のこの教令に関しては、福音宣教12月号でレナト・フィリピーニ神父様が詳しく書いておられます)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-05/il-motu-proprio-antiquum-ministerium.html
神はわれわれに隠れているが、神がぼんやりしてよく見えない原因は、いわば神が暗中に隠れているというように、神自身にあるのではない。
その原因はわれわれ自身のうちにある。
すなわち、われわれの精神の洞察力が弱いために、いなむしろ精神力がにぶいために、われわれは神の光に近づくことができないのである。
(カルヴァン「テモテへの第一の手紙注解」より)
待降節は、神様の存在を一番感じることができる季節です。
待降節の始まりにあたり、今年もアドベントクランツを作りました。
また、ヨゼフ会、青年会と日曜学校の子どもたちが協力して、プレゼピオの台座を設置しました。
様々な立場で「カテキスタ」として働くわたしたちの、教会における「ミニストリー」は、こうした場面でも現れます。
毎週ミサに与るだけでなく、一人ひとりが共同体の中で思いを分かち合い、自分に与えられている神様からの光(カリスマ)を発揮できますように。
毎週灯されるロウソクの光の中に、少しづつ完成していくプレゼピオの飾りの中に、神様の光を感じ取り、待降節=今年の残りの日々を心豊かに過ごすことができますように。
神への信頼
大相撲を観てきました。
毎場所テレビで楽しみに観ていますし、九州場所に観戦に行くのも年に一度の楽しみです。
驚いたのは、わたしが取った升席の前後左右は外国人ばかりだったこと。
お相撲の世界にも神様がいます。
「相撲の神様」と奉られているのは、野見宿禰(のみすくね)という日本書紀に書かれている人物です。
東京での大相撲本場所開催前には、日本相撲協会の理事長・審判部長らが出席して例祭が行われ、その新横綱の奉納土俵入りをニュースなどでご覧になったことがあるかと思います。
ここを読んでくださっている方は、洗礼を受けていらっしゃらなくても、信じる「神」を持っているか、「何か」信じるものを模索していらっしゃるのではないでしょうか。
結論から言うと、「信じている『神』がいることは、人間の究極の心の支えではないか」と言うこと。
わたしが望むのは犠牲ではなく、愛である。
わたしが望むのは焼き尽くす捧げものよりも、
人が神を知ることである。
(ホセア書6・6)
アメリカの精神分析の権威カール・メニンガー博士は、
「ユダヤ教の指導者、プロテスタントの牧師、カトリックの司祭は、大まかな原則で言えば、理論上の違いを一致させることが可能だが、ひとたび永遠の命に到達するための方法や決まりについて議論を始めると、絶望的なほど意見が相容れない。ここまでは問題ない。しかし方法や決まりとは何か、確実に知らないと、すべてが茶番になってしまう。」
と書いています。
一方で、ヒンズー教の聖者ラーマクリシュナは、
「神は、大志を抱く者一人ひとりに合わせて、時代や国に合わせて、異なる宗教をつくった。すべての教理は多くの道にすぎず、そのうちの一本が神そのものであることはない。たしかに、どれかの道を心から信じて進めば、神にたどり着くだろう・・・。アイシングをかけた歌詞は、縦から食べても横から食べてもいい。どちらから食べてもおいしいのだから。」
とおっしゃったそうです。
三笠宮妃百合子様がお亡くなりになりました。
101歳でした。
18歳で皇室に嫁がれ、5人のお子様に恵まれました。
三男の高円宮様は、2002年にスカッシュのプレー中に突然倒れ、47歳でお亡くなりになりました。
長男の寛仁親王は2012年に癌で、次男の桂宮は1988年に急性硬膜下血腫で倒れ、闘病を続けて2014年にお亡くなりになりました。
3人の息子と三笠宮様に先立たれた百合子様は、「お孫さんたちのことを気にかけていた」と新聞に書いてありましたが、「何か」を強く信じて、心の支えにされていたのではないか、と勝手に想像してしまいます。
先ほど書いた、お二人の見解は、現代にもそのまま当てはまります。
色々な信仰、信じる対象、確固たる信念があっても、わたしたちの心はいつも揺れ動きます。
いざというとき、困難に直面した時に、信じている「神様」「何か」を信頼し、身を委ねることができなければ、それは(メニンガー博士の言うように)茶番になってしまうでしょう。
先日お亡くなりになった詩人の谷川俊太郎さんは、直前まで朝日新聞に詩を連載されていました。
最後の詩は、こう編まれています。
感謝
目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きてるんだ
今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない
どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?
神に?
世界に?宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る
最期の時に、「何か」に感謝する気持ちを抱きながら過ごせる。
谷川さんが信じていらっしゃったものがなにかは存じませんが、この最後の詩を読めば、彼の人生が素晴らしい締めくくりであったであろう、と想像できます。
人よ、何が善いことか、
主が何を求めていられるかは、
お前に告げたはずだ。
正義を行い、慈しみを愛すること、
へりくだって神とともに歩むこと、これである。
(ミカ書6・8)
ここで言う「正義を行う」とは、公正な裁きと正しい人間関係を保つこと、を意味しています。
人との関りを正しく保ち
隣人への慈しみをいつも心に留め
へりくだる心を忘れずに
神への感謝のうちに
信頼して全てを委ねる
この箇所は、印刷して寝室の枕元に貼っておくことにします!
後悔を晴らす
次の日曜日まで、聖書週間となっています。
皆さんは、どのようなタイミングで聖書を開いていますか?
いつも何か、1冊の本を読むようにしています。
信仰に関する本でなくとも、気になった箇所があればそこに関連するかもしれない聖書の箇所を探します。
ニュースも、気になる内容があれば聖書にその応えがないか開いてみます。
わたしにとって、聖書を開くのは習慣となっています。
昨日お話しした方は、「眠れない時や、夜中に目が覚めてしまった時に、聖書を開いて読んでいます」とおっしゃっていました。
聖書を家で一人で読んでも、「理解」することは難しいかもしれません。
ですが、聖書を家で開いて斜め読みすることは、テレビをつけっぱなしにしておくよりもずっと善い「習慣」になるでしょう。
ぜひ、今週は心掛けてみてください。
・・・・・・・・・・
先週紹介した、米田神父様の『イエスは四度笑った』を読んでいて、ある記憶が蘇りました。
18歳、大学一年生の冬の忘れられない記憶です。
終電での帰りの車内。
満員でギュウギュウ詰めに近かったのですが、ドア付近にいた若い男性に、酔っていて立ったまま寝ていたおじいさんが寄りかかっていました。
若い男性は何度もおじいさんを押して自分から離していましたが、すぐにまた寄りかかってきます。
その時、駅に到着し、ドアが開いた途端、若い男性はおじいさんをホームに突き倒したのです。
降りる人も乗り込む人も、一様に驚いていましたし、近くに立っていたみんなが(わたしを含め)あっけにとられました。
そして、ドアは閉まり、何事もなかったように電車は動き出しました。
すぐに、一人の女性が大きな声でその男性に向かって「あなた、サイテー!!」と言い放ちました。
すると、2人くらいが続けて「ホントだよ、あのおじいさん、頭打ってケガしてたらどうすんだよ!」「サイテーなやつだな!」などと非難を始めたのです。
終電でした。
降りて介抱するか、乗らずにおじいさんを助ければ、帰りの電車はもうありません。
わたしも含め、誰もそうしなかったのです。
米田神父様は、こう書いておられます。
イエスが生涯かけて身をもって示したこと、それは人間性の回復である。
困っている他者、悲しんでいる他者に近づき、他者のために惜しみなく時間を空け、他者の必要をすべて満たしつつ、その人の友人になりなさい、という内容こそ、「よきサマリア人」の譬え話である。
18歳のわたしが、洗礼を受けていたら、ホームに突き倒されたおじいさんに駆け寄って、介抱したのでしょうか。
当時、「よきサマリア人」の教えのことをきちんと理解していたら、おじいさんを助けたでしょうか。
おそらく、出来なかったでしょう。
この後悔は、長い間ずっとわたしの心に刺さったままでした。
電車が動き始めてから若い男性の行為を非難した人たちとわたしは、全く同じなのだ、という恥ずかしい気持ちです。
「よきサマリア人」の話は、ルカ福音書だけに書かれています。
ですが、米田神父様によると、共観福音書すべてに出てくる「最も重要な掟は何か」(マルコ12・28,マタイ22・36)、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」(ルカ10・25)が前提となっている話です。
イエス様の時代、「隣人」というのははっきりとした概念があり、選ばれたイスラエルの民に属していて、ユダヤ教の掟に忠実で敬虔な仲間内のことを指していました。
ですが、この譬え話の結論としてイエス様が伝えようとしているのは、「隣人」の定義でもあるのです。
「隣人とはだれか?」と問われて、「隣人とは誰々である」と答えることは、隣人の枠を定めることになります。
イエス様は、まずその枠を取り払いなさい、とおっしゃっているのです。
枠や壁を打ち破り、苦しんでいる人、悲しんでいる人に自分から近づいていき、その人の隣人になりなさい、という教えなのです。
イスラエルよ、聞け。
わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。
今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。
(申命記5・4〜7)
「第二の掟はこれである。
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大事な掟はない」。
(マルコ12・31)
洗礼を受けたから、信仰を持っていると自覚しているから、「隣人を自分のように愛する」ことができるわけではありません。
人生の中で、幾つものつまずきを経験し、失敗を糧に進み、後悔を挽回すべく努力する。
そうした積み重ねによって形成されてきた、自分の人間性。
「酸いも甘いも」ではありませんが、若い頃には分からなかったこと、気づかなかったこと、出来なかったことを、人生を重ねるうちに理解し、自分の糧としていく。
今の自分の姿を、神様の前で自信を持って「努力していますので、これからもよろしくお願いします」、と言えるようにしたいものです。
先日、とても嬉しいお言葉をいただきました。
「いつも読ませてもらっています。
先日の記事で、とても救われました。
ありがとうございました。」
本当に嬉しく、「一人の方を励ますことができた」としたら、わたしの過去の後悔も神様に少しは許してもらえるかも、、、、と思えたのです。
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いつも、花壇を美しく整えてくださって、ありがとうございます。