カテゴリ:聖書

パウロの手紙

久留米教会のマリア様はとても良い香りがします。

10月のロザリオの月は金木犀の香りがするマリア様です。

20日の第一朗読はテモテへの手紙でした。

聖書は、あなたに知恵を与え、キリスト・イエスに基づく信仰によって、あなたを救いに導くことができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。

2テモテ3・15~16

この「聖書」とは、もちろん旧約聖書を指し、直訳では「聖なる文字」を意味しているそうです。

わたしたちが読んでいる聖書に、なぜ特定の人々に向けて出された『手紙』が収められているのだろう?と思ったことはありませんか。

新約聖書には、”パウロの手紙”とされる文書が13通あります。
実際にパウロが書いたと考えられているのはそのうち7通だそうです。
(テモテについては、パウロ書簡の研究において最も議論されている問題の一つ)

これらの手紙は、地中海のいろいろな都市に建てられた教会の特定の人々に宛てて書かれ、いくつかの教会で回覧されることを意図して書かれたそうです。

イエス様の十字架と復活についてのパウロの信仰告白、宣教の情熱、願いや祈り、課題とその解決の勧めなどがその内容です。

一方、6通の手紙は、名前も知られない伝道者たちが書きました。

当時、一定の権威を持って人々に知られていた人の名前を使って大切なことを書く、ということは珍しいことではなかったそうです。

 

では、なぜ初期のキリスト者たちはこれらの手紙を大切に伝え、残したのでしょうか。

いくつかの理由が考えられているようですが、なるほど!と思ったのは大きく次の2点です。

① 民族、出自、階級、性別を超えて、またユダヤ教の律法にとらわれずに、
 イエス様の十字架と復活の福音がすべての人に救いとして与えられている、
 と語るパウロの言葉のもつ大きな意味と励ましの重要性。

② エルサレム教会の指導者や様々な伝道者から「正当な使徒」ではないと批判されながらも、
 パウロが地中海世界の諸教会のなかで一定の権威を持つ伝道者とみられるようになっていたから。

 

当時は今と違い印刷技術もなく、高価な紙や羊皮紙に手紙を書きました。

そして、人々は丁寧に書き写してコピーを作っていました。

つまり、いかにパウロの手紙が重要な教えとして認められていたか、そしてパウロが評価されていたかが分かります。

そして、パウロの名を借りた6通の手紙が書かれた時代は80~120年頃であり、使徒たちも第一世代の主要な伝道者や指導者たちも亡くなり、キリスト者迫害の時代でした。

教会の強化を図りながら、福音を途絶えなく宣べ伝えていく必要性に駆られていたのです。

 

その中でも、ヘブライ人への手紙は特異な重要性を感じます。

著者が誰で、宛て先は誰で、どの教会への手紙なのか一切書かれておらず、迫害や試練の中で、信仰を持って生きることに疲れた人々への慰めと励ましのメッセージが込めらています。

以前も書きましたが、わたしはこのヘブライ人への手紙がとても好きで、たくさん線を引いたり書き込みをしています。

 

霊の父は、わたしたちの益のために訓練なさるのです。
楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われますが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。
ですから、あなた方はなえた手と、弱った膝をまっすぐにしなさい。

12・10~12

 

この本からの記事です。
とてもお勧めです!

 

 

塩の契約

昨日、10/13はジュゼッペ神父様の38歳(自称) のお誕生日でした!

そして、宮﨑神父様の叙階40周年の記念日でもあるという、とても大切な日でした!

そして、全勝で8強入り、おめでとうございます‼︎

おめでとうございます‼︎

宮﨑神父様のお祝いのために、東京から10人くらいの信者さんが駆けつけて来られていました。

 

話は変わりますが(宮﨑神父さま風)、食欲の!
いえ、味覚の秋です!!

塩、お料理には欠かせませんね。
わたしはコーシャーソルトを使っています。

 

ユダヤ教における食事に関する決まり(食事規定)である「カシュルート」に沿った食品をコーシェルと言います。
(英語ではコーシャー)

コーシャーソルトは精製塩ではなく、化学物質が含まれていない自然塩で、ミネラルが豊富、まろやかな味わいです。

とにかく、しょっぱくなくて、お肉が柔らかくなるし、スープの味付けにも最適です。

 

聖書には、たくさん「塩」についての記述があります。

旧約聖書だけでも41か所あるそうです。

(ちなみに、わたしは「塩対応」という言葉は好きではありません。。。)

創世記19章のソドムとゴモラの滅亡に関連した話では、ロトとその家族は神によって救われ、逃げる途中は振り返るなと神に言われたのにロトの妻は振り返ったために塩柱にされました。

すべての献げ物を、塩で味付けしなければならない。
お前の穀物の供え物にお前の神の契約の塩を欠いてはならない。
お前の献げ物にはすべて塩を添えてささげなければならない。

レビ記2・13

わたしはイスラエルの子らが主にささげる聖なる献納物すべてを、お前と、ともにいるお前の息子たちや娘たちに、永久に受けるべき分として与える。
これは主の前でお前とお前の子孫に対する永遠の塩の契約である。

民数記18・19

 

塩そのものは腐りません。

フランシスコ会訳の聖書の注釈には「塩が持つ防腐の機能から、浄化や保存作用のあるものと考えられ、会食に用いられる塩は解くことのできない友情の徴とされた。」とあります。

さらには、その性質は、神とその民との間に交わされた不変の契約を表すのに最適な象徴なのです。


一方で、新約聖書には6か所、塩に関する記述があります。

一番有名なのは、マタイ5・13でしょう。

あなたがたは、地の塩です。
もし塩がその持ち味を失ったなら、どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。
もはやその塩は何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである。

イエス様がこの話をされたのは、ユダヤ人に対してです。

彼らはそれまで、神の命令はレビ記、民数記、申命記に記されている、という教えを厳格に守って生きていたので、おそらく、先ほど書いた「塩の契約」のことをイメージしたはずです。

 

塩は善い物(ルカ14・34)です。

わたしたちは、地の塩、世の光(マタイ5・13)であり続け、自分の中に塩を持ち互いに平和を保つ(マルコ9・50)ことができるよう、心がけていきましょう。

聖書、面白い!!

 

いちじくの実、オリーブの木

マタイとマルコの福音書にある「実のないいちじくの木」の例え話をご存じでしょう。

イエス様が、道端のいちじくの木に葉のほかには何も見当たらなかったので
呪って「今後、永遠にお前は実を結ばないように」と仰せになると枯れてしまった、
というお話です。

ルカの喩えでは、
「3年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。」

とまで言われています。

以前、聖書の勉強会で、

「これは、神殿そのものに仕えている不毛な人々への警告と
イスラエルの宗教的不毛の暗示です」

と教わりました。

 

今回イスラエルに行った時にガイドをしてくださった牧師さん(↑写真の、立ってお話されている方)によると、

「いちじくの木は、葉が茂っているということは同時に実もなっているもの。
その木に葉しかついていないということは、
実りのないうわべだけの偽善者のようなもの、ということなのです。」

とのこと。

 

(↑写真は、ゲッセマネの園の立派な年代物のオリーブの木です!)

イスラエルをオリーブの木に喩えられている箇所も多くあります。

エレミヤ書11・16では
主はかつてお前を、
「素晴らしい実のなる、美しく生い茂るオリーブの木」と名付けられた。

・ぶどう園、ぶどう畑、ぶどうの木
 =旧約時代のイスラエル(ユダヤ人)

・いちじくの木
 =イエス様の時代のイスラエル(ユダヤ人)

・オリーブの木
 =将来の患難時代のイスラエル(ユダヤ人)

という見方ができる箇所もあります。

 

イスラエルは、死海の西側のユダの荒野と対照的にガリラヤ湖やヨルダン川流域は緑豊かで、
お野菜と果物がとても美味しい国です。

 

ぶどう(ワイン)、いちじく、オリーブオイル、
これらは毎食わたしたちを楽しませてくれました。

当然、イエス様の時代も、こうしたものを楽しむのが日常だったので、
喩えとして大衆にわかりやすく話す際に多用されたのでしょう。

 

根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。

思いあがってはなりません。
むしろ、恐れなさい。
神が自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、
あなたをも惜しまれないでしょう。
ここに神の慈しみときびしさがあります。

ローマ人への手紙11・16~22

 

わたしたちキリスト者(野生のオリーブ)は
ユダヤ教徒(元の木の根)であったイエス様の新しい教えを受け取っています。

「思いあがってはなりません」

パウロの厳しい愛の言葉ですね。

 

聖書の読み方

 イスラエル巡礼後、今までと違った感覚で聖書を読めるようになりました。

特に、旧約聖書を読みたい!とよく思うのです。文中に地名が出てくる箇所を読んでいると
「あぁ、あそこのことだ」と思い出しながら読め、
そこで言われていることが実感として伝わってくるように感じます。

 

聖書は特別な「本」であり、
同時に、人生に必要なことがすべて書いてある「本」です。

英語で【 the Book 】 は、「聖書」を意味します。

ある信者さんは、自分がまだ洗礼を受けていなかった頃に、高校生だった娘さんに、
「一生のうちに一度は読んでおくべき本だ」と言って聖書をプレゼントされました。
それから20年後、娘さんはその本を手に教会に通うようになり、
聖書の勉強に行き始め、洗礼を受けました。

そしてその後、お父様も聖書講座に通い始め、
3年後に洗礼を受けることになりました。

 

聖書に求めるべきは、真理であって、雄弁ではない。
われわれは聖書を、それが書き記された精神に従って読まなければならない。

われわれは聖書を、著者の権威や、その文学的評価にかかわりなく、
真理に対する純粋な愛をもって読むべきである。
誰がこれを言ったのかを問題にせず、
どういうことが言われているかに注意しなければならない。

人は過ぎ去る。
しかし主の「まことは代々に及ぶ」(詩編117.2)
神はだれかれの差別なしに、われわれ人間に、いろいろな方法で語りたもう。
われわれが聖書を読むにあたってしばしば邪魔になるのが好奇心である。

われわれが素直に読み進めるべきところを、詮索し、議論じようとするからである。
もしあなたが聖書から利益を汲み取りたいと望むならば、
へりくだって、単純で、敬虔な信仰をもって読むべきであり、
学識があるなどという評価を得ようなどと望んではならない。

自由に質問し、聖人たちの言葉を黙って聞き、
また年配者たちの言うことを拒否してはならない。
彼らは、理由なしには、そのように語ってはいないからである。

 

わたしの愛読書のひとつ、
「キリストを生きる」(デ・イミタチオネ・クリスティ)からの一説です。

 

 

トマス・ア・ケンピスの原書が「キリストに倣いて」というタイトルで何種類か訳されていますが、わたしが何度も読み返しているこの本は、2017年に新しく翻訳されたものです。

聖書と同じように、何度読んでも新しい気づきと発見がある
素晴らしい本です。

 

『神の国』はいつ、どこに。

先週の納涼祭の記事を書いていて、『神の国』についてまた考えさせられました。

イエス様は30歳になるまで、ヨゼフ様のお仕事を手伝いながら暮らしておられました。
お生まれになった時には、「神の子、メシアだ」と有名だったはずなのに、です。

30歳になったころ、大衆を魅了した洗礼者ヨハネが現れました。
500年以上の空白ののちに現れた預言者でした。

彼は、民に罪の赦しを得るための回心を勧め、
「天の国は到来した」と述べ広めたのです。

多くの人が彼から洗礼を受け、その一人がイエス様でした。
その後、ヨハネは彼が起こした大衆運動の結果として逮捕されてしまいます。

イエス様にとって、ヨハネの逮捕は神の国が到来したしるしでした。

マルコの福音書には
「ヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤへ行き、神の福音を延べ伝えて、
『時は満ち、神の国は到来した。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
とあります。

イエス様はヨハネの宣教を継続したのです。

18日のごミサのルカの朗読にもありました。
「イエスのメッセージは人々に神の国を受け入れるか否かの決断を迫るので、必然的に分裂が起こる」

 

『神の国』とはなんなのでしょうか。

その当時の人々は神の国の到来を待っていました。
しかし、それぞれが違った考えでそれを待っていました。

神の国の到来とは、彼ら自身の努力によるものと考えられていました。

イエス様は全く反対に、
あなたがたの努力とは関係なく、神の国はもうそこにある、と言われました。

「神の国は目に見える形で来るのではない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」

ルカ17・20~21

フランシスコ会訳の聖書の解説には

神の国はイエスと弟子たちの働きによって、
すでに「あなた方の間」に現実に存在する、解釈できる。

と書かれています。

皆が待っていたものは、すでに民の間にあったけれど、
彼らはそれを知ることも、気づくこともなかったが、
イエス様はそれを感知していました。

そして、人々の間にあった神の国の隠された現存をこそ、
彼は自分の故郷のガリラヤの貧しく、除外された人々に述べ伝え、
啓示しようとしたのです。

 

『神の国』

わたしたち、現代のカトリック信者は、なにを待っているのでしょうか。


あなたにとっての神の国は実現していますか?

何を信じ、何を頼みに祈りますか?

わたしたちの間にも『神の国』は現存しているはずです。

この本を神父様から頂いて読んで、納涼祭での皆さんの平和な様子を見て、
そのことをずっと考えています。

 

 

記事中の青い文字は、この本からの引用です。 

 改めて、イエス様の声に耳を澄ませてみたいと思います。

 

 

イエス様の時代の聖書

夏休みに入り、船津助祭と横山神学生が久留米に帰ってきてくれています。彼らの姿を見ると、いつもとても嬉しい気持ちになります。

 

宮﨑神父さまがよくおっしゃいます、「聖書を読みなさい」と。
前主任司祭の森山神父様は、「毎週日曜日のミサに聖書を持ってきてください!」とおっしゃっていました。

聖書はいつも、ダイニングに置いています。
信仰に関連した本を読むのが好きなので、気になる箇所があれば聖書を開きます。


ルネサンス期に印刷技術を発明したグーテンベルク、
彼が最初に印刷したのは聖書でした。

カトリックでは旧約聖書46巻と新約聖書27巻をまとめて「聖書」の正典としていますが、
ご存知のように、ユダヤ教では「聖書」といえば旧約(わたし達がそう呼ぶところの)のみを指しています。
そして、その旧約聖書には原本というものは存在せず、
10世紀ごろに筆写された『レニングラード写本』というものが最古の写本とされていました。

ところが、1947~1956年にかけて死海近くのクムラン洞窟で発見された旧約聖書などの宗教書は、
BC200年からAD68年ごろにかけて作られた写本だったのです!
クムラン以外から発見されたものも含め、死海文書と呼ばれる写本の断片は800以上もあります。

この写本は述べ数百人のユダヤ教エッセネ派の人々によって書かれた(諸説あり)、
との研究結果もあり、ほぼ誤字もないそうです。
その時代にこれほどの知性と能力のあった人々が祈りながら共同生活をしていたのかと思うと、
驚きを通り越し、畏敬の念しかありません。

それらはほとんどすべて、イエス様とその弟子たちが生きていた時代に、
彼らが生きていた地の近くで書き写されたものなのです。

 

http://dss.collections.imj.org.il/

Googleとイスラエル博物館(IMJ)が、デジタル版「死海文書」のオンライン公開をしています。
(サイトは、英語、アラビア語、スペイン語、そして中国語で読むことができます。)

写真は、イザヤ書の一部です。
子どものころから考古学に興味があったわたしにとっては、興奮の映像です。

「デジタル死海文書」は、ユダヤ・キリスト教関連の貴重な考古学的資料として著名な死海文書 (dead sea scrolls) を
高解像度カメラでスキャンし、誰でもアクセスできる形でオンライン公開するプロジェクトです。

https://japanese.engadget.com/2011/09/26/google/

もちろん、わたしもヘブライ語は読めません。
ですが、イエス様が生きていた時代に書かれた文字、
聖書の写本の筆跡を目に刻むだけでも、
4000年以上もの間受け継がれてきた信仰者たちの思いを感じることができると思います。

 

森山神父様に薦めていただいた、和田神父様の著書からの記事でした。

面白くて、一気に読みました。
とてもお薦めです!!

 

 

落穂拾いにみる憐れみ

ミレーの落穂拾いという絵をご存知でしょう。

 

刈り入れが終わった後の畑に残った麦の穂を拾い集める3人の貧しい農婦が描かれており、背景には穀物がうず高く積まれ、豊かな地主が馬に乗って監督するもとでのにぎやかな収穫風景と対比して描いている。(wikipediaより)

レビ記19・9~にはこう書かれています。

お前たちが自分の土地の刈り入れをするとき、お前は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
またお前の刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。
お前のぶどう畑の実を取り尽くしてならない。
お前のぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
それらは貧しい人や他国の者のために、残して置かなければならない。
わたしはお前たちの神、主である。

去年の刈り入れの時期に、我が家の近くの田んぼの一角に、
刈り取られないまま残された束がありました。
もしかして、聖書の教えを守ってるの?!ととても気になり、
作業されている方に聞いてみました。
「特に意味はありません」と言われ、一人で笑ってしまいましたが。。。

 

miserere nobis

【我らをあわれみたまえ】

 

ミレーは同時期に、ルツ記2・6~に由来する『刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』も描いています。

 

 

レビ記19・33~

もし他国の者がお前とともに、お前たちの土地に在留するなら、その人を虐げてはならない。
お前たちのもとに在留している他国の者を、お前たちの国に生まれた者と同じようにみなし、お前自身のように愛さなければならない。
お前たちもエジプトの地において他国の者であったからである。
わたしはお前たちの神、主である。

 

miserere nobis

【我らをあわれみたまえ】

 

われらが主にあわれみを受けたように、貧しい人、他国の者をあわれみなさい。

ユダヤ教の人々は、モーセ五書のなかでも特にこのレビ記を規範としています。

モーセ五書のなかには、落穂拾いの原則、ユダヤ人がエジプトで他国の者であったことを忘れるな、という記述が何か所もあります。
ユダヤ教徒でなくても、こうした考え方を世界中の人々が心に留めているなら、難民や国境の壁といった問題は現在のようにこじれることはないのに、と思ってしまいます。

 

自己愛について

昨日のごミサの時間の時点でもう30℃超えの久留米です!

 

時折吹く風が心地よい中、幼稚園の園庭のマリア様を囲んでロザリオを唱えました。

 

福音書には、愛についてのイエスさまのお言葉が多く書かれています。

26日のごミサの第2朗読のヨハネによる福音書の箇所を、フランシスコ会訳で引用します。

 


 

「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。

わたしの父はその人をお愛しになり、

わたしたちはその人の所に行き、

ともにそこに住む。」

ヨハネ14•23


注釈には、イエスは自分を愛する者の内に父(神)とともに来て居を定める、とあります。


カトリック信者の哲学者の山本芳久さんによると、

「神が私に愛を注いでくれるということは、この世界の根源である神が私自身を肯定してくれていることに他ならない。

そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、自己を自分自身によって肯定することができる。

これが自己愛の出発点になる。」


自己愛

なかなか難しい問題だと思っています。

トマス•アクィナスは、自己愛が基盤にあってはじめて他者への愛も成り立つのだと言っています。


自己愛、つまり

自分を愛する

自己を大事にする

この愛が基盤にあってはじめて隣人愛が成り立つというのです。


約450年前のキリシタンたちは、宣教師からカリタス(神の愛)というラテン語を「御大切」と訳して教わりました。

愛とは大切にすること、というのはわたしたち日本人にはしっくりくる表現ではないでしょうか。

自己愛、というと自己本位なニュアンスを感じてしまうし、自分を愛する、自分自身を肯定するというのはなかなか出来ないと思ってしまいます。

ですが、自分を大切にするという教えだと捉えれば受け入れやすい気がします。 


「わたしを大切に想う者は、わたしの言葉を守る。」


そう読んで、自己愛の大切さについて深く考えた日曜日でした。

 

Thank

 

 

「聖書に全て書いてある。」

今日は、本をご紹介します。
世界的なベストセラーなので、ご存知の方が多いかと思いますが、
わたしは最近知って買い求め、没頭して一気に読みました。

 

 

1923年に英語で出版されたこの詩集、30数か国語に翻訳されているそうです。
文が美しい。
この携帯サイズの小さな本の中に、カトリックの教えが美しい散文になって凝縮されている気がします。
愛、結婚、自由についてなど26個のテーマに沿って預言者が語る、という設定になっています。

美智子皇后さまもご愛読されているようです。

「レバノンの詩人・哲学者・画家である著者のカリール・ジブラン。
20世紀のウィリアム・ブレイクとも称され、多くの詩人・思想家・政治家のみならず、
サブカルチャーにも影響を及ぼした偉人が、人間の普遍的テーマ…愛、労働、喜びと悲しみ、友情など
26の項目について深く語りかける詩集。」
(amazonの内容紹介より)

本の装丁も美しく、いつもバッグの中に入れて持ち歩くことにしました。
いつでも人に勧められるように。

箴言
好きなのです。
この本を読んでいて、箴言を深く掘り下げて咀嚼されているような気がしたのです。
箴言は、読んでいて心に刺さる言葉が多いし、
何よりも読みやすい。


心を尽くして主に寄り頼み、
自分の聡明さに頼るな(3・5)

口数が多ければ罪は避けられない
しかし、口を慎むものは賢い人(10・19)

寛大な人は満たされる
人を潤すものは自分も潤される(11・25)

心が楽しいと、顔色も晴れやかになり、
心に憂いがあると、気も沈む(15・13)

率直な戒めは、ひそかな愛に勝る(27・5)


『ソロモンの箴言』と言われる10章~22章、25章~29章は
さらりと読めるこうした名言ばかりでお勧めです。

曽野綾子さんの本に書いてありました。

「人生に必要なことは、聖書に全て書いてある。」

本当にそうなのです。

もう一か所、聖書の好きな箇所を。

ぶどう酒は程よく飲めば人にとって命に等しい。
ぶどう酒のない人生とは何であろうか。
時に応じて程よく飲むぶどう酒は、
心の楽しみであり、魂の喜びである。

シラ書31・27~28

 

佐久間神父様の翻訳の『預言者』の中から、一部ご紹介します。

愛があなたがたをさし招いたなら、愛に従いなさい。
たとえ、その道がどんなに厳しく険しくても。
愛があなたがたに語りかけたなら、愛を信じなさい。
たとえ、その声が、庭を荒らす北風のように、あなたがたの夢を打ち砕いても。
なぜなら、愛は、あなたがたに栄冠を与えると同様に、あなたがたを十字架につけるのです。
愛はあなたがたを育て、また刈り込みます。

夜明けに目覚め、飛び立つ思いで、愛のあたらしい一日のために感謝をささげること。
昼下がりには静かに休らい、愛の恍惚を思い出して味わうこと。
夕暮れには、感謝に満ちて家路をたどること。
そして、心では愛するひとのために祈り、
唇では賛美の歌を歌いながら眠りにつくこと。

とてもとてもお勧めの本です。