行事風景
人としての成長
気持ちの良い秋の朝のごミサに与り、今週も良い一週間になりそうな気がしています。
とっても素敵な映画を観ました。
『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(Guillermo del Toro's Pinocchio)は、2022年のアメリカ合衆国のファンタジー映画です。
第80回ゴールデングローブ賞ではアニメ映画賞を、第95回アカデミー賞では長編アニメ映画賞を受賞しています。
物語の舞台はムッソリーニが支配するファシズム時代のイタリア。
「市民が従順な操り人形として生きる世界」にピノッキオが生まれますが、ピノッキオは大人たちとは異なり自由奔放に振る舞います。
行儀の良かった息子カルロの代わりを求めるゼペットと自由奔放なピノッキオ
ムッソリーニや死の精霊といった相手に対しても、規則や権威に服従しないピノッキオ
キリギリスのセバスチャンは、木の精霊から「ピノッキオの良心として成長を手助けすれば、一つだけ願いを叶える」と告げられ、提案を受け入れます。
なんだって叶えられるのに、セバスチャンが最後に頼んだ願いは、、、。
わたしたちは、どういう時に成長するでしょうか。
楽しい、嬉しい経験から得るものもありますが、やはり、失敗や苦い経験から学び、それを素直に反省して受け入れることによって成長するものだと思います。
今の時代の人々を何に喩えようか。
何に似ているのだろうか。
それは広場に座り、互いに呼びかけ合う子供に似ている。
『ぼくらが笛を吹いたのに、君たちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』
というのは、洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないと、あなた方は『あれは悪霊に憑かれている』と言う。
また人の子が来て食べたり飲んだりすると、『見よ、あれは大食漢、大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、知恵のすべての子らによって証明される。
(ルカ7・31~35)
「笛吹けど踊らず」ということわざは、ここから来ているのだそうです。
あれこれと手を尽くして準備をしても、それに応じようとする人がいない、という意味です。
サラメシ出演でも有名になった大西司祭が、インスタの投稿にこう書いていらっしゃいました。
「その場所に人はいるか、選曲は間違っていないか、いまそのタイミングか。
どうして人々が踊ってくれなかったか。
おそらくそれには理由がある。
僕たちの日常も同じ。
誰かになにかを伝えたい時、相手の態度を嘆くのではなく、こちらの伝え方を改めたい。」
おっしゃる通りだと、心にしっかりと受け止めました。
成長は自分で公言することではなく、他者が感じてくれなければただの勘違いになりそうですが、母が亡くなってこの12年、我ながらよく頑張ってきたものだ、と思っています。
ですが、常々わたしは「自分は頑張っている」と自認しすぎる傾向があり、相手のリアクションがこちらの予想に反する場合に過剰に反応してしまいます。
大西司祭のおっしゃるように、相手の態度を非難することは解決にはならないとわかっていたのですが、先日、ある方からこう言われてハッとしました。
「もう少し頼み上手になってくれたら、あなたがもっと輝くような気がします。」
なんて素敵な注意の仕方だろう、、、と感激したのです。
その方に強い口調で「どうしてわかってくれないの!?」と言ってしまったわたしを、こう諭してくださったのです。
ゼペットおじいさんもキリギリスのセバスチャンも、ピノッキオの成長を見守っているようでいて、自分たちも大きく成長していきます。
お互いが高め合える関係性は、人が成長していく上で最も素晴らしいものですね。
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18日に、筑後地区の6つの教会のレクレーション大会が開催されました。
二日市、小郡、久留米、今村、本郷、大牟田の司祭と信徒、総勢160名の参加による4年ぶりの集まりでした。
(私服だと、神父様方の様子が全く違って、それぞれの個性も出ていて、それも面白い。
宮﨑神父様はやっぱり学校シューズだし、まじめな大牟田のT神父様は暑いのに司祭の襟のカラーを付けたシャツにチノパンだったし、二日市のT神父様はいつだってスポーツウェアだし!)
参加者全員でのレクリエーション、子どもたちだけのアクティビティ、敬老のお祝いなどがあり、まだ残暑の厳しい日でしたが、大盛り上がりの会となりました。
ご準備された宣教司牧評議会の皆さまには、本当に心から感謝です。
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連帯の気持ち
自宅から高校まで、バス電車バスを乗り継いで90分かかりました。
元より、読書家の母の影響で本を読むことは好きでしたが、この90分をいかに有効に使うかは、当時のわたしには大切な問題でした。
電車の中では、とにかく本を読むか英単語を覚えるか!
そんな中で、初めて買ったカトリックの本は森 一弘名誉司教の著書でした。
当時は洗礼を受けることに興味を持っていたわけではなく、担任だったシスターがとても魅力的な人だったこと、毎週月曜にある司祭による集会で、信者だけがステージにあがってご聖体をいただいていたことへの憧れがあったこと、から、カトリック関係の本をたくさん読んだ記憶があります。
先日帰天されたというニュースに、とても寂しさを感じています。
神様の横で、安らかにお過ごしください。
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この動画をご存じでしょうか。(↓動画のスクリーンショット)
これは癌で闘病中のお客さんが、抗がん剤で抜ける髪をあらかじめ剃るために来店し、落ち込んでいる彼女に連帯の気持ちを表そうと、担当した美容師さんだけでなく、その場にいた他の美容師さんもみんな、自分の頭を剃ったのです。
Barber shaves his head in solidarity with his client fighting cancer and then his friends do the same.
皆さん、 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
(コロサイ2・6~)
失敗をしてしまい、ちょっと落ち込んだ日々を過ごしました。
友人たちが、わたしに連帯の気持ちを表してくれたのにもかかわらず、何日も引きずってしまいました。
そんな中この箇所を読んで、わたしがいかに「世を支配する霊に従って」いたかを思い知らされた気がしました。
あなた方も、霊の賜物を熱心に求めているからには、教会を造りあげるために、賜物を豊かにいただくように努めなさい。
(1コリント14・12)
そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
(ルカ6・43~)
隣人から受けた不正を赦せ。
そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
(シラ28・1~5)
今週の聖書朗読も、素晴らしい教えがちりばめられていました。
先日、友人がこう言っていました。
「日曜日のミサで読む聖書の箇所は前から決まっているはずなのに、『今の自分へのメッセージ?!』と思うことが多くあり、心にビンビン響く時がある。
誰を通して神様が自分たちに伝えてくるのか分からないけど、常に心を開いておかなければ気づかないのかもしれない。」
あなた方が、すべての善い行いを通して実を結び、神を深く知ることによって大きく成長しますように。
そして、あなた方が神の栄光に伴うあらゆる力をもって強められ、いかなる場合にも忍耐強く寛大でありますように。
(コロサイ1・10~11)
来週24日の日曜日のミサのあと、信徒集会を開催します。
活動報告、今後の予定、昨年度の決算報告、今年度の予算計画について、信徒の皆さまと共有したいと考えています。
集会では、委員会活動以外にも、いろいろな活動をされている皆さまのご紹介もしますが、やり取りをしていてとても感激したことがあります。
「久留米教会が好きなので、少しでも役に立ちたいと思っている」という言葉が何度も聞かれたのです。
キリストに根を下ろして造り上げられるわたしたち信徒は、だれもが教会共同体の役に立つことが出来ます。
久留米教会は昨年秋に委員会(役員)メンバーが交代し、それまで永年いろいろな役割を担ってこられた先輩方にご指導いただきながら、この1年、若い(?!)わたしたちなりに、丁寧に一生懸命努めてきました。
そして、集会で皆さまにお伝えしたいことを、丁寧に準備してきました。
久留米教会をわたしたちの共同体として維持していくために大切なことのひとつが、お金の管理の問題です。
どのようにお金が使われたのか、これから何に使おうとしているのか。
是非皆さまに知っておいていただきたいと思っています。
何のために集会を開いてまでお伝えするのか。
久留米教会の連帯、一致の一助になると考えているからです。
ご参加をよろしくお願いいたします。
女性らしく
ようやく、気持ちの良い秋が久留米にも訪れました。
ベツレヘム、エフラタ、ユダの氏族の中で、最も小さな者よ、わたしたちのために、お前の中からイスラエルの統治者となる者が出る。
その起こりは、永遠の昔からのもの。
それ故、主は、身籠った女が子を産む時まで、彼らを敵の手に委ねる。
そして残りの兄弟たちは、イスラエルの子らのもとに帰ってくる。
統治者は立ち、主の力と自分の神、主の名の威厳をもって牧する。
彼らは平穏に住まう。
今や、彼の威力は地の果てまで及ぶからだ。
彼こそ平和をもたらす者。
(ミカ5・1~4)
9月8日は聖マリアの誕生の祝日でした。
カトリック信者であるわたしたちは、マリア様を崇拝することは普通のことであり、「理想の女性として」「理想の母親像として」尊敬している、ということを特別にではなく、当たり前のこととして受け止めています。
「男らしさ」「女らしさ」という表現の仕方は、現代的にはアウトだとされる場面が多く、ちょっと戸惑ってしまうことがあります。
今年はスポーツのワールドカップ当たり年ですが、先日、ラグビー日本代表の稲垣啓太選手がインタビューでこう言っていらっしゃいました。
「日本中のラグビーファンが応援して期待してくれているのを感じる。
男としてはその期待に応えたい。」
わたしは、「かっこいい〜!!」と思いましたが、男らしく、女らしく、と発言することはどんな場面であれ現代では禁句のようにになっている感じがちょっとヤです、、、。
『ウーマン・トーキング』を観ました。
この映画は、ある新興プロテスタントの女性たちが、自分たちの意思で、自分たちの女性としての生き方を模索していくお話です。
実際に2000年台初頭にボリビアで起こった事件を元に描かれています。
この村(コミュニティ全体がこの新興宗教の信者)では、女性は家事全般を担い、男性の世話をするため、男性の性欲を満たすため、子供を産むために存在しているかのような扱いを受けています。
若い娘たちが次々とそうした男性の欲求の犠牲となっていく中、母親たち、娘たちが、自分たちの生き方を自分たちで決めるための話し合いを続けるのです。
罪を赦さなければ天国へ行けない、そう教えられてきた彼女たちは、対話を続けながら葛藤します。
イエス様の教えとして心に刻まれたことと現実とのギャップに、もがき苦しみます。
対話がヒートアップして紛糾すると、 誦じた聖書の言葉を祈りとして唱え、聖歌を歌うのです。
特に印象に残っているのが、以下のフィリピの教会への手紙を唱えるシーンでした。
わたしは、こう祈っています。
神への深い知識と、研ぎ澄まされた感覚を身につけることによって、あなた方の愛がますますいっそう豊かになり、大切なことを識別できるようになりますように。
キリストの日に備えて、あなた方が純粋で、非難されるところのない者となり、イエス・キリストによってもたらされる義の実を豊かに結んで、神の栄光を讃えることになりますように。
(フィリピ1・9~11)
彼女たちは本当に純粋に、心から丁寧に信仰を守ろうとしています。
決して「面白い映画」ではありませんが、女性として生きていくために、女性らしく対話を尽くし、自分たちの未来を自らの意思で決定する彼女たちの姿には感動しかありません。
架空の話ではない、実際につい最近起きたことです。
「自分なりに女性らしく生きたい」と願い考えることは、いつの時代であれ決して間違ったことではないとわたしは考えます。
先輩方のお祝い
10日は、先輩方のご健康を祝福するミサと、ささやかなお祝いの場が設けられました。
64名のご参加があり、癒しの秘蹟が神父様から与えられました。
最高齢は91歳の方で、久しぶりにミサに来られた方も数名いらっしゃいました。
息子嫁と揃って参加された方、ご夫婦で参加された方、中には、老人ホームに入居されていて、この日のために体調を整えて久しぶりに教会に来た、と言う方も!
お手伝いをさせてもらったわたしたちも、とても素敵な時間を過ごすことができました。
この紙でできた十字架は、お一人の信徒の方の手作りです。
心のこもった、素敵な贈り物になりました。
ある方がおっしゃった言葉が印象的な、とても盛り上がった楽しいお祝いの会でした。
「亡くなった主人が言っていました。
教会は楽しいところ。祈るばかりのところじゃないよ!」
先輩方のご健康と穏やかな日々を、心からお祈りいたします。
神様への文句
空はすっかり秋です。
猛暑日も、きっとこの日曜日が最後でしょう。(希望)
今週は、ちょっと痛いお話しを。
事故や病気で手足を切断、もしくは神経を損傷して感覚を失った人が、以前と変わらず存在するかのように感じている手足を「幻肢」と呼びます。
そして、幻肢を経験している方の約5〜8割は「幻肢が痛い」ことに悩まされています。
この痛みが「幻肢痛」と呼ばれるものです。
幻肢痛は、無いはずの手足が刃物で裂かれるような、電気が走るような、しみるような、痙攣するような、こむら返りするような、ねじれるような、など、感じる(幻の)痛みは様々です。
わたしは、20歳で右足を離断しました。
つまり、20年間は脳が右足のことを記憶していたのです。
幻肢痛は、この「脳の記憶」が消えないために起こると考えられていますので、治療法はないと聞いていました。
術後数日はこの痛みに悩まされた記憶がありますが、わたしのようにスパッと諦めがついた人は、あまり長い期間痛みは続かないようです。
ところが、今頃になってこの痛みが襲いかかり、眠れない夜を過ごしたのです。
幻の痛みであるとはいえ、雷に打たれたような(打たれた経験はありませんが・・・)、のたうち回るほどの痛みでした。
わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜ、わたしを見捨てられたのですか。
なぜ、あなたは遠く離れてわたしを助けようとせず、叫び声を聞こうとされないのですか。
わたしの神よ、昼、わたしが叫んでも、あなたは答えられません。
夜、叫んでも、心の憩いが得られません。
(詩編22・2〜3)
大袈裟ではなく、本当にこのような心境でした。
願う時も、祈る時も、感謝する時も、文句を言う時も、やはり相手は神様なのです。
わたしの神、主よ、わたしが救いを求めたとき、あなたはわたしを癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げてくださいました。
わたしが穴に落ちかかったとき、命を新たにしてくださいました。
主の怒りはほんの一瞬、その厚意は一生。
夜は嘆きに包まれ、朝は喜びに明ける。
(詩編29・3〜6)
主はわたしの求めに応えて、あらゆる恐れから助けてくださった。
主を仰ぎ見る者は輝き、恥じて顔を赤らめることはない。
主は哀れな者が叫び求めたとき、耳を傾け、あらゆる悩みから救われた。
主を畏れる者の周りには、み使いが陣を敷き、彼らを助け出す。
(詩編34・5〜8)
以前、『詩編で祈る』という小さな本をいただきました。
それ以来、辛いことがあったり、心が落ち着かなくなると、詩編を開く習慣ができました。
幻肢痛が起きた初日は、聖書を開く余裕はありませんでした。
2日目の夜、どうにか心の平安を得たくて、詩編を読みました。
もちろん、全く頭に入ってきませんでしたが。
ダメ元で病院に行き、主治医に相談したところ、なんと!今は緩和するお薬があったのです。
医学の進歩はすごいですね!
あまりに神様に文句を言ったので、「まぁそう言わずに、病院に行ってみなさい」と言われた気がしました。
子よ、主のもとで仕えたいのであれば、お前の心を試練に備えよ。
心を正し、耐え忍び、艱難の時に慌てふためくな。
主に寄りすがって離れるな。
身に降りかかるすべてのことを甘んじて受けよ。
主に寄り頼め。
主はお前を助けてくださるだろう。
お前の道をまっすぐにし、主に希望せよ。
主を畏れる人々よ、主の慈しみを待ち望め。
道をそれるな。倒れるかもしれないから。
主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。
お前たちの報いは、失われることはない。
(シラ書2・1〜8)
シラ書2章のタイトルは、『試練についての心得』となっています。
ちょっと痛かったくらいで大袈裟な、という気が自分でもしますが、わたしなりに色々な艱難を経験して生きてきましたので、そのような時に「聞きたかったのはこれ!」と言う聖書の言葉に出会うのは、至福の時です。
こうした時、いつも思うのです。
世の中には、悩みや痛みを抱えている人がたくさんいるのだ、と。
3日のお説教で宮﨑神父様がおっしゃったことは、まさに今のわたしが求めていたものでした。
「自分の苦しみの時に、イエス様の御受難を重ねてみてください。
宗教が重んじられない今の時代だからこそ、より一層しっかりと自分の信仰を生きなければならないのです。」
皆さんは、どういう時に聖書を開きますか?
友人は、こうしてわたしがここに紹介する聖句をきっかけに、その箇所を読むようになった、と言ってくれました。
以前も書きましたが、「無人島に何か持って行けるとしたら?」と聞かれたら、わたしは迷わず「聖書とワイン」と答えます。
キリスト「教」
先週は、秋はそこまで来ているように感じたのに、猛暑再来!
この夏はあまり読書ができていなかったので、この秋はたくさん読もうと思っています。
今日は、春に買ったのに眠らせていて、ようやく読み進めている、この本をご紹介します。
坂口ふみさんは、1933年生まれ(現在90歳)の宗教・哲学研究者でいらっしゃいます。
この本は、1996年の著作ですが、今年になって岩波現代文庫から再出版されたものです。
彼女のことは存じ上げなかったのですが、タイトルと解説が山本芳久さんだということに惹かれて買ってみました。
とても面白いのです!
難しい内容でもありますが、彼女のエッセイのような始まりで、引き込まれていくうちに難解なテーマが分かり易く解きほぐされていく、という構成です。
山本さんの解説には、「キリスト教教理という特殊なテーマを取り扱った書物で、この書物ほど多くの読者の関心を呼び起こし、キリスト教の信仰の有無を超えて広く読み継がれてきた書物は他にないと言っても過言ではない」、「本書を類書のない名著としているのは、よい意味でのエッセイ的な筆致である」とありました。
以前、「なぜパウロはローマに宣教に行ったのか」と、聖書の師匠に質問した話を書いたことがあります。
この本には、「なぜローマでキリスト教が確立されていったのか」という、これまたわたしの疑問だったことが解き明かされています。
まず、イエス様は「隣人愛」について単純なことばで語ったということ、これが始まりであるということ。
「隣人」とは何だろう。
そこには何の条件もない。
あらゆる属性、地位、身分、能力、等の区別は捨象されている。
おそらく、目がみえること、耳が聞こえること、四肢が揃っていること、また、伝統的に人間の本質だとされている理性さえも、それがもし単なる論議や計測の能力ならば、条件とはされていない。
隣人の唯一の条件は、私に近いということ、私が関わるということである。
唯一そこで現実的で重要なのは、その関わり、愛と規定された関わりである。
(本文より抜粋)
イエス様は、隣人への愛を説き、あるがままの人間の愛について教えられました。
そしてそれが、キリストの教えとして、また、「仲介者キリスト」「贖罪者キリスト」「神人キリスト」というかたちで表現し、現代のものの考え方の基礎を作ったのは歴史の成せる業なのだ、と坂口さんは書いておられます。
イエス様には当然、こんな考え方はなかったのだ、と。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大切な掟はない。
(マルコ12・30〜31)
キリストの教えが、キリスト「教」として確立されたのには、歴史の必然がありました。
*何人かの天才的な人々が、決定的な方向づけを与えたこと。
*古代の理想に反旗をひるがえす、世界に対する新しい基本的態度を表したのがイエスの教えだったこと。
*ヨーロッパとアラブを併せた、文明世界全体の様相を呈した末期のローマ帝国にとって、帝国統一の組織造りためにキリスト教は利用価値があったこと。
この宗教はもともと自然宗教と違って、宣教によって伝播する宗教であったから、人的組織を頼りとするところが大きい。
この(ローマ帝国末期までの)300年の間に階層、行政、地域、税制などの秩序をある程度備えた、一つの共和制国家であった。
聖職者と俗人の区別と、聖職者による俗人の統制法、そして聖職者の職掌と階層は精密の度を増していた。
政治家コンスタンチヌスが、これに着目したとしても意外ではない。
しかし、皇帝がキリスト教に価値を認めたのに数倍して、教会の方が、コンスタンチヌスに利用価値を認めたことはいうに及ばないことである。
(本文より抜粋)
つまり、ウィンウィンの関係による、いわゆる「オトナの事情」があったというのです。
わたしたちが日常において信仰生活を送るにあたり、こうした事情は直接には関係のないことかもしれません。
ですが、日本の天皇制が脈々と紀元前660年の神武天皇即位から守り続けられているということを、日本人として誇らしく知っておく必要があるように、わたしたちキリスト者は、キリストの教えがキリスト「教」として2000年以上も続くことになった根っこの部分について、知っておいた方が良いのではないかと考えます。
この本からは、まだまだたくさんのことを学べると思いますので、追って皆様にそのアウトプットをお伝えしたいと思います。
来週には、また、秋の足音を感じることができますように。
考えるちから
日中は35℃を超える日もありますが、朝晩の風、空気が少しずつ変わってきているのを感じます。
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このお盆休みに、姪の大学選びについて一緒に考えていて、色々な驚きと発見がありました。
わたしが大学を選んだ時は、もちろん実際に見学にも行きましたが、「偏差値」と「就職に有利か」だけがポイントだった記憶があります。
歴史や考古学に興味があったわたしが史学科を選んで先生に相談したら、「史学科に行っても学校の先生にしかなれないよ」と言われ、無難な経済学科を選択したのです。
「リベラルアーツ」という学問をご存知でしょうか。
現代社会のさまざまな問題に立ち向かうための「総合力」を養う教育のことです。
単に知識を身につけるだけでなく、実践的な知性や創造力を養うための学問です。
リベラルアーツの起源は、古代ギリシャ・ローマ時代の「自由七科(じゆうしちか)」にあります。
自由七科とは、「文法」「弁証」「修辞」「算術」「幾何」「天文」「音楽」の7つを指します。
当時、リベラルアーツは、人間が自由に生きていくため、束縛から解放されるための素養とされていました。
時代の変化によって、近年日本でもリベラルアーツ教育が注目され、大学教育で取り入れられています。
学部・科目横断的に幅広い分野を学び、問題発見・課題解決型の実践的な学習スタイルが採用されているのが特徴です。
テクノロジーの発展やグローバル化によって複雑化する社会における「答えのない難問」を解決するには、幅広い知識を持ち、さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考が必要とされています。
時々ご紹介する随筆家の若松英輔さんは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授でもいらっしゃいました。
富が人生において望ましい宝であるなら、どんなことにも万能な知恵に勝る富があるだろうか。
賢慮がものを作り出すとすれば、万物の中で、知恵に勝る作り手がいるだろうか。
人がもし義を愛するなら、知恵の働きの実りこそ徳である。
知恵は節制と賢明、正義と剛毅を教える。
人生において、これらよりも人に益するものはない。
また、もし人が広い体験を得ようと望むなら、知恵こそが昔を知り、未来を推し量り、言葉のあやを悟り、謎を解き、徴と不思議、季節と時代の移り変わりを予見する。
(知恵の書8・5〜8)
知恵の書は、ユダヤ教、プロテスタントでは聖書と認められていません。
しかし、道徳生活においての考察がわかりやすく書かれたこの書物は、現代のわたしたちにも色褪せることなく、自ら考えるちからを「知恵」によって養う必要性を説いていると考えます。
「知恵」すなわち、わたしたちが神様から生まれながらに授けられた能力は、生かすも殺すもわたしたち次第です。
わたしのように勉強=暗記力が求められた時代の学び方では、リベラルアーツという実践的な知性や創造力を養うことはできません。
ハワイで起きた山火事では、住民に危険を知らせる警報サイレンを作動させなかったことが被害の拡大を招いた、と問題になっているようです。
サイレンが「津波用」だったから、という理由のようですが、「もしもサイレンが鳴っていたら」という議論には、双方の言い分に違和感を覚えました。
サイレンが鳴っていたら、火の手のある山の方に避難することになり、さらに被害者が増えていた。
サイレンが鳴っていたら、もっと早く危険を察知することができ、被害は抑えられたはず。
事後になって「もしも」と争うことは、本来神からわたしたちに与えられた考えるちからを養う妨げにしかならないように思うのです。
20日のミサの福音書朗読は、マタイ15章のカナンの女のエピソードでした。
わたしは、彼女が大好きです。
賢く、熱意を持った、立派な信仰の持ち主であり、パレスチナの先住民といういわゆる『異邦人』の彼女は、弟子たちだけでなくイエス様からも冷たくあしらわれます。
イスラエル民族の救いのために遣わされていると自負していたイエス様は、乞い願う彼女にこう言い放ちます。
わたしはイスラエルの家の失われた羊のためにしか遣わされていない。
(マタイ15・24)
まず子供たちに満腹するまで食べさせよう。
子供たちのパンを取って子犬に投げ与えるのはよくないことだ。
(マルコ7・27)
並行箇所であるマルコに書かれたこの言い方は、ちょっと冷たすぎると思いませんか?
子供たち=ユダヤ人、子犬=異邦人を指しています。
主よ、ごもっともです。
でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパン屑を食べます。
(マルコ7・28)
あっぱれ!と言いたくなる彼女の名回答です。
彼女には、立派な信仰だけではなく、考えるちからが備わっていたのだと感じます。
宮﨑神父様は、この箇所についてお説教でおっしゃいました。
「苦しい時の神頼み、という人も多いが、この話では、彼女の日頃からの信仰の姿をイエス様が見抜かれたのだ。」
さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考を磨き、自分がどうすべきかを考えるちからを養い、賢い信仰を生きたいものです。
誠実に向き合う
福岡教区で平和に関する作文が募集され、久留米教会の3人が筑後地区の代表に選出されました。
11日の平和の集いでの司教様の前での発表会に、3人が出席してくれました。
彼女たちの作文は、提出された時点で「キレイな字で丁寧に書いてある!」と、読む前から感激したものです。
日曜学校で課題として「平和への思い」というテーマで、たくさんの子どもたちに作文を書いてもらいました。
思い思いに感じていることを書いてくれたのですが、今回の代表に選ばれた中学3年の女の子の作文は、感動しただけではなく、とても考えさせられました。
彼女は、「平和な世界を造るためには、まずはわたしたちが日常のなかで意見の食い違いによるケンカをしないことが大切だと思います」と始まります。
「ふたつめに大切なのは、意見が違うと思っても、相手を責め立てず、穏やかにわかりやすく伝えること」
「さらに大切なのは、助け合うこと、当たり前のことにも感謝する、自分が悪いときは素直にすぐに謝ること」
「私もあまりできていないな、と書きながら思いました。
全部をすぐにできるようにならなくても、ひとつめをできるようになったら、ふたつめを、と心がけてみてください。
平和は案外すぐに訪れるかもしれませんよ。」と締めくくられています。
汚れのない、誠実な想いに触れ、忘れそうになることを思い起こさせてくれました。
教皇様は、ワールドユースデイのためポルトガルを訪問されていました。
帰りの飛行機のなかで、記者の質問に答えられた一部をご紹介します。
ポルトガル滞在中、フランシスコ教皇はファティマを訪問し、「出現の礼拝堂」において沈黙のうちに祈りを捧げた。
これについて、一人の記者から、かつて聖母が戦争の終結を祈るようにと願った場所で、今日の戦争を前に、教皇が平和の祈りを公の場で新たにすることを人々は期待していたが、なぜそれをしなかったのか、という問いがあった。
これに対して、教皇は、「わたしは聖母に祈り、平和を祈ったが、ひけらかすことはしなかった。
しかし、わたしは祈った。
われわれはこの平和のための祈りを続けなければならない。聖母は第一次世界大戦の中で平和を祈るよう願ったが、今回はわたしが聖母にそれをお願いした」と答えた。
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6・6)、という聖句をこの記者は知らなかったのでしょうか。
教皇がリスボンで「教会にはすべての人に居場所がある」と強調したことに対し、教会はすべての人に開かれている一方で、すべての人が同じ権利を持っているわけではない、たとえば、同性愛者や女性はすべての秘跡を受けられない、という問いかけがなされた。
この問いに教皇は、教会はすべての人に開かれており、その教会の中には教会生活を秩序づける決まりがあると語り、「すべての秘跡を受けられないから(教会は皆に開かれていない)」という解釈は一種の単純化であり、それだからといって、教会が閉ざされていることにはならない、と指摘。
「教会は一人ひとりが自分の道を見出すために神に出会う場所であり、教会はそのための母であり導き手である。一人ひとりが祈りや、内的対話、あるいは司牧者との対話を通して、前へと進む方法を見出していく」と話し、そのためにも教会は、同性愛者はもとより、すべての人に開かれている、と説明した。
今年9月教皇がマルセイユを訪問することについて、フランスの記者から、なぜあなたはフランス(そのもの)を訪問しないのか、という質問があった。
「わたしは以前ストラスブールに行き、今度はマルセイユに行くが、フランス訪問はまだである」と述べた教皇は、地中海における問題、移民の搾取という犯罪が目下憂慮される事項であり、そのために地中海地域の司教たちが開く会議に出席するためにマルセイユに行く、と話された。
そして、教皇はフランスをまだ(公式に)訪問していないのは、これまでヨーロッパの小さな国々を訪問してきたためであり、スペイン、フランス、イギリスなどの大国は最後のために残してある、と語った。
教皇様はいつも、どのような問いかけに対しても誠実にお答えになっています。
これらの質問をした記者は、それぞれのお答えに対して、どのように受け止めたでしょうか。
足りないところを突き詰めたつもりの問いでも、教皇様の(想像するに)穏やかで丁寧な、誠実な態度と口調に心がほぐされたのではないか、と感じます。
わたしは、自分の考えや行動を少しでも否定されたような気がすると、ついついカッとしてしまい、顔に出てしまいます。
冒頭の女の子の作文を読んで、心から反省しています。。。
8月前半はテレビで連日、(日本の)終戦にまつわる番組が流れています。
1989年〜2022年の間に、世界では336万人以上が紛争や内戦などで亡くなっているそうです。
特に昨年1年間だけでも、23万人以上がロシアによるウクライナ侵攻とエチオピアの内戦などによって犠牲者が出ています。
殺戮を止める術はないかもしれませんが、作文に書かれていたように、わたしたち一人ひとりが他者に対して穏やかに思いやりを持って接することを心がけていけば、少なくとも身近なところには平和が保たれるのでしょう。
「司教様とのランチはどうだった!」と質問したら、「とっても楽しかったです!!」と答えてくれました。
大人になると、そういう場面では緊張してしまい、楽しむなんて畏れ多い、となってしまうものですよね。
やはり、素直に誠実に置かれた状況と向き合える、こどもたちにからも学ぶことが多くあります。
彼女たちの夏休みの、素敵な時間となっていたら嬉しいです。
積み重ねる経験
4年ぶりの納涼祭でした!
台風接近のため、そして参加した多くのみなさんの熱気のため、熱くて暑い、お恵みに満ちた時間でした。
ヨゼフ会の男性陣の頼もしさ、女性の会のおば様方のおもてなし、青年会のみんなの楽しそうな様子、フィリピンコミュニティのお姉様方の明るい笑顔、ベトナムコミュニティの若者たちのエネルギー!!!
久留米教会共同体の良さを改めて実感できた、楽しいひとときを過ごすことができました。
納涼祭のダイジェスト←こちら。
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以前ご紹介したことのある月刊誌、『致知』の8月号に、古巣馨神父様の対談記事が掲載されました。
内容を少しかいつまんでご紹介したいと思います。
古巣神父様は、「生きていく上で大切なのは、一度きりの人生で誰かから受け取ったものを正しく伝えていくことだ」とおっしゃっています。
わたしもいつも感じながら生きています。
これまでの人生、今日があるのは、出会ってきた人々から受け取った素晴らしいもののおかげだ、と。
古巣神父様は、多くの人との出会いから3つの大切なことを受け取った、と言います。
①「にもかかわらず、まだ笑う」
ユーモアは持って生まれた性格ではなく、人生の中で何度も困難を乗り越え、それでも潰されずに歩む中で得るものだ、というのです。
確かに、わたしの周囲で「素敵なユーモアの持ち主だわ」と思う方は大抵、大きな試練に遭った経験をお持ちです。
順風満帆に生きてきた、と言える人は少ないと思います。
やはり乗り越えたものがある人は、人として魅力的だと思います。
②「非常識」
世間から見たら非常識かもしれないとしても、「わたしはそうするように親から教わりました。
それが 正しいと思うから、同じように生きています。」と言える自分の物差し、価値観を持って生きることは大切だ、と。
頑固に生きるということではなく、ある程度の年齢(=色々な経験を積んできた)であれば、ブレない自分の物差しを持っていなければ、真っ直ぐに生きることはできないと思います。
③「賜物になる」
ただでいただいた、なくてはならないお恵み。
賜物に出会うと、人生の意味がわかります。
そして、自分も誰かのためになろうとします。
わたし自身、大病と洗礼で生まれ変わった、と思って生きてきました。
病気もお恵み、洗礼もお恵み、賜物です。
「誰かの役に立つかもしれないから、受け取ったものを伝えていく」
これは、わたしも努めて心がけるようにしています。
ただで受け取った賜物は、学びに限らず、自分の存在そのもののことも指していると思います。
おこがましい言い方かもしれませんが、自分自身が「神様の子」のひとりとして周囲に良い香りを振りまきたい、そう思っています。
古巣神父様は、長崎刑務所の教誨師を務められています。
おそらく、受刑者からも大きな影響をお受けになっているのだと推察します。
罪を犯した受刑者の心の中を受け取る、というお仕事については、想像することしかできません。
苦しみや反省、後悔の気持ちに寄り添う中で、神父様もまた、何かを受け取られているのでしょう。
日常において罪を重ねてしまうわたしたちもまた、神様、司祭、そして信徒仲間からの導きが必要です。
雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。
雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。
旅路にあるときはいつもそうした。
雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
(出エジプト40・34~38)
小学生のとき、いつも空を見上げながら家路に着くのが好きでした。
無意識でしたが、雲の流れを追いながら、神様の存在を想っていたような気がします。
その習慣は今も変わらず、毎日、ふとした時にいつも空を見上げます。
わたしをいつも導いてくださっている神様を思いながら。
ビバルディの四季より、『夏』の音色で涼んでください。
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致知は書店では販売していませんので、興味がおありの方は、お貸しいたします。
納涼祭2023!!
宮﨑神父様のお祈りで始まった、4年ぶりの納涼祭でした。
裏では、朝から多くの皆さんのご準備があり、たくさんの皆さんのご協力があり、本当に楽しい有意義な交流の時間でした。
ダンディな神父様のショットから、ダイジェストでご覧ください。
本当に楽しい納涼祭でした!
皆さん、よく食べて、よく飲みました!!
また、来年も開催しましょう⭐︎
実行委員の皆様、お疲れ様でした。
ありがとうございました。