自分の心で

今の期間は、カトリック教会の平和旬間(8/6~15)となっています。

平和の祭典でもあるオリンピックの期間中も、戦闘は止まず、ネット上では身勝手な正義感を振りかざす誹謗中傷がエスカレートしています。 

根拠がなく真偽が定かではないのに言いふらされる、無責任なうわさのことを、「流言(りゅうげん)」と言います。

今回のオリンピックでは、ボクシングの女性選手2名は「性転換して女性になった男性」という流言が広まりました。

イングランド全土と北アイルランドの町や都市で現在も続く暴力事件は、7月末に起きたダンス教室で幼い子ども3人が殺された事件に端を発しました。
容疑者は小型ボートでイギリスに到着したイスラム教徒の亡命希望者だ、という間違った憶測と間違った名前がSNSで拡散されたことで、大きな移民排斥運動へと繋がったのです。

第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章のほぼ全部が読まれます。

「福音書のある一章を5回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。
ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。」

と、来住 英俊 神父様がnoteに書いていらっしゃいました。

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸へ行かれた。
大勢の群衆がついて行った。
イエスが病人たちに行われた徴を見たからである。

よくよく言っておく、あなた方がわたしを探し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。
(ヨハネ6・1~2,26)

イエス様の時代にも、もちろん貧困はありました。
ですが、現代のほうが世界には大いなる貧困が存在し、富の格差は遥かに大きいのです。

パンと魚を食べて物質的に満足した群衆は、現代のわたしたちとも通ずるものがあるように思います。

今日食べるものに困っているわけではない人の方が、現状への不満や不安を大きく抱えているようにも思えるのが今の時代です。

イエス様を追い求めて付いて行った群衆は、イエス様の業の噂を聞き、実際に自分で確かめたかったのです。
少なくとも彼らは、自分の目で確信を得ようとしたのです。
貧困とローマの圧政から救ってくれると信じられていたメシアを、自分で。

流言などというものはなかったのでしょう。
インターネットがない時代は、可能であれば自分の目と耳で確認する、出向いて会って話す、これしかなかったのですから。

なぜ、ヨハネの6章がカトリック教会で重視されてきたのでしょうか。

改めて読み返してみて、今のわたしにはこの箇所が1番心に響きました。

弟子たちのうちの多くの者はこれを聞いて、「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」と言った。
イエスは、弟子たちがこのことについて不平を言っているのに気づいて、仰せになった、「わたしの話があなた方をつまずかせるのか。
それでは、人の子が元いた所に上って行くのを見るなら・・・・・

しかし、あなた方の中には信じない者もいる」。
このことがあって、弟子の多くはイエスに背を向けて去り、もはやイエスと行動をともにしなくなった。
(6・60〜66)

ここで書かれた「弟子」は、12使徒ではなく、イエス様の行われた徴を見てイエス様に付き従った群衆を意味しています。

わたしたちの多くは、この群衆と同じです。
自分の求めていたものとは違う
自分はこの人を間違っていると思う
自分のために何もしてくれない

目先の利益(ここでは満腹すること)が優先され、イエス様の伝えたかったメッセージを「とうてい受け入れられない」と拒絶する。

聖書とは素晴らしいことばかりを書いている書物ではない、とつくづく思います。

人の心の中をつぶさに表現し、「あぁ、わたしも同じだ」と身につまされるエピソードが散りばめられています。

それに気づくことができる信仰、それが、自分の心の中で行われる神様の業、徴なのです。

 

来年1月1日に記念される「第58回世界平和の日」のために教皇フランシスコが選んだテーマは、
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちに平和をお与えください」。

平和旬間の今こそ、そう祈りたいと思います。

いつも、不安、不満を探し出してばかりいるわたしたちをお赦しください。
すべての人々の周りに平和をお与えください。