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神への信頼

大相撲を観てきました。
毎場所テレビで楽しみに観ていますし、九州場所に観戦に行くのも年に一度の楽しみです。

驚いたのは、わたしが取った升席の前後左右は外国人ばかりだったこと。

お相撲の世界にも神様がいます。
「相撲の神様」と奉られているのは、野見宿禰(のみすくね)という日本書紀に書かれている人物です。
東京での大相撲本場所開催前には、日本相撲協会の理事長・審判部長らが出席して例祭が行われ、その新横綱の奉納土俵入りをニュースなどでご覧になったことがあるかと思います。

ここを読んでくださっている方は、洗礼を受けていらっしゃらなくても、信じる「神」を持っているか、「何か」信じるものを模索していらっしゃるのではないでしょうか。

結論から言うと、「信じている『神』がいることは、人間の究極の心の支えではないか」と言うこと。

わたしが望むのは犠牲ではなく、愛である。
わたしが望むのは焼き尽くす捧げものよりも、
人が神を知ることである。
(ホセア書6・6)

アメリカの精神分析の権威カール・メニンガー博士は、
「ユダヤ教の指導者、プロテスタントの牧師、カトリックの司祭は、大まかな原則で言えば、理論上の違いを一致させることが可能だが、ひとたび永遠の命に到達するための方法や決まりについて議論を始めると、絶望的なほど意見が相容れない。ここまでは問題ない。しかし方法や決まりとは何か、確実に知らないと、すべてが茶番になってしまう。」
と書いています。

一方で、ヒンズー教の聖者ラーマクリシュナは、
「神は、大志を抱く者一人ひとりに合わせて、時代や国に合わせて、異なる宗教をつくった。すべての教理は多くの道にすぎず、そのうちの一本が神そのものであることはない。たしかに、どれかの道を心から信じて進めば、神にたどり着くだろう・・・。アイシングをかけた歌詞は、縦から食べても横から食べてもいい。どちらから食べてもおいしいのだから。」
とおっしゃったそうです。

三笠宮妃百合子様がお亡くなりになりました。
101歳でした。

18歳で皇室に嫁がれ、5人のお子様に恵まれました。
三男の高円宮様は、2002年にスカッシュのプレー中に突然倒れ、47歳でお亡くなりになりました。
長男の寛仁親王は2012年に癌で、次男の桂宮は1988年に急性硬膜下血腫で倒れ、闘病を続けて2014年にお亡くなりになりました。

3人の息子と三笠宮様に先立たれた百合子様は、「お孫さんたちのことを気にかけていた」と新聞に書いてありましたが、「何か」を強く信じて、心の支えにされていたのではないか、と勝手に想像してしまいます。

先ほど書いた、お二人の見解は、現代にもそのまま当てはまります。

色々な信仰、信じる対象、確固たる信念があっても、わたしたちの心はいつも揺れ動きます。
いざというとき、困難に直面した時に、信じている「神様」「何か」を信頼し、身を委ねることができなければ、それは(メニンガー博士の言うように)茶番になってしまうでしょう。

先日お亡くなりになった詩人の谷川俊太郎さんは、直前まで朝日新聞に詩を連載されていました。

最後の詩は、こう編まれています。

感謝

目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きてるんだ

今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない

どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?

神に?
世界に?宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る

最期の時に、「何か」に感謝する気持ちを抱きながら過ごせる。
谷川さんが信じていらっしゃったものがなにかは存じませんが、この最後の詩を読めば、彼の人生が素晴らしい締めくくりであったであろう、と想像できます。

人よ、何が善いことか、
主が何を求めていられるかは、
お前に告げたはずだ。
正義を行い、慈しみを愛すること、
へりくだって神とともに歩むこと、これである。
(ミカ書6・8)

ここで言う「正義を行う」とは、公正な裁きと正しい人間関係を保つこと、を意味しています。

人との関りを正しく保ち
隣人への慈しみをいつも心に留め
へりくだる心を忘れずに
神への感謝のうちに
信頼して全てを委ねる

この箇所は、印刷して寝室の枕元に貼っておくことにします!