カテゴリ:巡礼
乙女峠への旅
津和野の乙女峠には、毎年5月3日に全国から巡礼者が集まります。
聖母月にあたり、聖母マリアと殉教者たちを讃えるお祝いのこの日は、コロナ禍も巡礼者が途絶えることはなく、今年も(おそらく)2500名ほどが津和野教会から乙女峠までの聖母行列、峠の記念聖堂でのごミサに与りました。
地元の方は「知っている限り、今までで1番多いような気がします」とおっしゃっていました。
このような、苔むした急な坂道を登ったところに記念聖堂と広場があります。
わたしは、この坂を登り降りることは難しかったので、麓でYouTubeの生配信をみながらごミサに与りました。
乙女峠のこと、ご存知でしょうか。
1867年、明治政府による浦上村の隠れキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」では、およそ3400名ほどのキリシタンたちが見知らぬ土地に流刑されました。
全国22ヵ所に流された人々のうち、153名は津和野に辿り着きました。
激しい責苦を受け、37名が乙女峠で殉教しました。
1892年に、ビリオン神父が殉教者たちの遺骨を一つの墓に収めました。
1948年には、ネーベル神父が地域の方々の支援を受けて乙女峠に記念聖堂を建て、その周りの殉教地が祈りの場所にふさわしいものとなるように整備したのです。
彼が始めたのが、5/3の乙女峠まつりです。
今年の司式は、森山司教様
司教様は、お説教でこのようにおっしゃいました。
「今のわたしたちの信仰は、殉教したキリシタンの方々に負うところが大きいのです。
彼らは、自分たちを根底から生かしておられる方を信じました。
そして、見えないものにこそ真理が宿ることをも信じたのです。
わたしたちは「信仰を守る」という言い方をしますが、彼らは「信仰を生きた」人々です。
誰のために、どのように生きるべきかを知っていた人々です。
教皇様はこうおっしゃっています。
『何のために生きるか、ではなく、誰のために生きているか、が大事』だと。」
全国から多くの巡礼者が集まっていたことには、本当に驚きました。
特に印象的だったのは、津和野教会の副主任司祭である大西神父様が大勢の子どもたちを引き連れて、隣町から巡礼団として(徒歩で3時間半!)参列されていたことです。
今回の巡礼では、これまでにない感覚が生まれました。
巡礼地と言われる様々なところへ行ったことがありますが、今回のように、教会から峠までの道のりを大勢の信徒がロザリオを唱えながら歩き、全員でミサに与る、という巡礼は、とても特別なものでした。
久留米教会の子どもたちにもこのような体験をしてもらいたい、そして、今回わたしたちが経験できたように、楽しみながら信仰を分かち合うことができたら、と思うのです。
*乙女峠の聖母への祈り*
キリストの母マリアよ
あなたは乙女峠の証し人をはげましてくださいました。
神のみ旨に従って生きることができるようあなたの子供である私を助けてください。
私がなにを必要としているかは、母であるあなたがよく知っておられます。
神のみ前にあなたの取り次ぎは必ず聞き入れられると信じ特に今お願いします。
(あなたの願い)
聖母よ、私の母、取り次ぎ者としてあなたを慕う幸せを深く悟らせてください。
アーメン
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津和野教会
山口ザビエル記念聖堂
お二人の司教様と
(このお店、俵種苗店の先先代が、乙女峠の聖堂を作るための資金を出されました。
今は子孫であるお嬢さんが経営され、とても素敵なインテリアや食器のお店「SHIKINOKA」になっています。)
来年は、久留米教会の巡礼団として参加できたらいいな、と心から思いました。
マリア行列、峠への坂道の様子など、↓ こちらの記事でご覧いただけます。
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/569322
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静かな津和野の街が賑わう乙女峠まつりだけでなく、5/3に復活したSL蒸気機関車を見に、これまた全国から人が集まっていました。
信仰の歴史と遺産
先週お越しになったアベイヤ司教様が「久留米は歴史ある教会です。この遺産を守りながら将来をしっかり見極めて進んでください。」とおっしゃった言葉が心に響き、そのことをずっと考えています。
【共同訳】
“霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
【フランシスコ会訳】
霊を消してはなりません。
預言を侮らないようにしなさい。
しかし、そのすべてをよく吟味しなさい。
そのうえで道理にかなったことを大切に保ち、
悪いことならどんなことであっても、それに近づいてはなりません。
(1テサロニケ5・19~22)
この「霊」とは、「霊の特別な恵み(カリスマ)」のことを言っています。
日本の先人たちが初めてイエス様の教えを聞いたとき、どのように感じ、どのくらいの驚きと喜びを胸に躍らせたのでしょうか。そのことをずっと想像しています。
イエズス会の記録によると、慶長5年(1600)前半に久留米に伝道所が開設されレモウラ神父と修道士が駐在し、久留米城下に薩摩から運んだ材木で住院のついた天主堂が建設されました。
このほかにも、町のキリシタン達がもう一つの教会を建てていたそうです。
久留米城主 毛利秀包の熱意に支えられて布教は最盛期を迎え、久留米とその周辺のキリスト教信者は7,000人いたと言われています。
久留米教会が1978年に宣教再開100周年を記念して作成した記念誌に載っている、当時の平田司教様の文章をご紹介します。
1601年にスペインで出版された東方伝道史の中に、
「1595年、26聖人の殉教2年前に神父と修道士は久留米という筑後の城下町に到着した。ここには古い二人のキリシタンがいた。この二人のキリシタンは、日曜・祭日に自分の家にあった礼拝所に信者を集め、皆が一緒に祈り終わると、聖教に関する数種の本を朗読した。300名ほどのキリシタンがいるが、神父はこれらの人の告白を聞き、修道士は教えに関する一般の話をした。」と記録されている。
この時点で、久留米での宣教は400年ぐらい前に始められたと思われる。
その後、迫害の火の手が全土に及ぶにつれ、久留米の信者も苦難の道を歩くようになった。
信仰の火種は消えてなくなったかのように見える状態が250年も続いた。
1878年にはソーレ神父様が久留米に正式に赴任して宣教を再開した。
旧筑後久留米藩領の三井郡大刀洗町(今村周辺)が、江戸時代禁教期の潜伏キリシタン(かくれキリシタン)集住地区であったことは良く知られています。
幕末~明治時代初頭に久留米藩による今村キリシタンの一斉検挙拘束があり、殉教者を出しています。
大刀洗町にある殉教跡地に建てられた祭壇です。
イクトゥスとは、ギリシャ語で魚を意味します。
そして、同時に「イエス」「キリスト」「神の子」「救世主」の頭文字を並べた単語でもあるそうです。
偶像崇拝を禁止していたユダヤ教の勢力が強い時代の初期のキリスト教徒が、隠れシンボルとして用いていた、と言われ、それがこの今村・大刀洗のキリシタンたちにも伝わっていたのでしょうか。
戦国時代末期に秋月にはキリシタンに寛大な秋月種実などの武将がおり、末次興善(コメス)という、博多、長崎、堺などで活躍していた豪商のキリシタンがいました。
永禄12年(1569)に興善は、医師でもあるアルメイダ修道士を紹介して武将など30人に洗礼を授けました。
末次コメスの屋敷裏には小さな教会があって、宣教師達は博多から時々秋月の教会を訪れたようです。
秋月の美しい紅葉の小川に沿った道の奥に、ひっそりとその天主堂の跡地はありました。
昨年11月に訪日されたフランシスコ教皇様がおっしゃったことです。
「この数日間に、何世紀にもわたる歴史の中ではぐくまれ、大切にされてきた日本のすばらしい文化遺産と、日本古来の文化を特徴づける宗教的、倫理的な優れた価値に、あらためて感銘を受けました。
異なる宗教間のよい関係は、平和な未来のために不可欠なだけでなく、現在と未来の世代が、真に公正で人間らしい社会の基盤となる道徳規範の大切さを認められるよう導くために重要なのです。」
(政府および外交団との懇談、同年11月25日)
歴史は語り継いでいかなければ、いつか忘れ去られます。
遺産は管理していく人がいなければ、朽ち果ててしまいます。
ですが信仰は、歴史のなかに埋もれた遺産であってはいけません。
先月ここに書いた墓地のように、たとえそこにご遺骨がもう眠っていないとしても、管理し、祈りを捧げている信徒の姿がある限り、霊は働き、信仰の火は灯っています。
そして、アベイヤ司教様が仰ったとても大切なこと。
彼らは教会の「未来」ではありません。
彼らは「現在」の教会の仲間です。
ツリーの飾りつけと、馬小屋セットを出す役割を担ってくれました!
彼らと共に教会の歴史を創っていきたい、と心から思った日曜日でした。
「今月の本」はこちら。↓
表裏の帯に書いてあることばを読むだけで心が震えました。
キリシタンの信仰の小説ですが、ノンフィクションかと思われるほどのリアリティです。
江戸時代を通じて、ひっそりと潜教し続けた福岡県「今村信徒」の慟哭の歴史(Amazonの説明より)
イエス様の涙
最近、泣きましたか?
どういう時に泣きますか?
悲しみ
呻き
傷ついた心
アメリカの旧約聖書学の第一人者であるブルッゲマンによると、
帝国主義的な意識は、呻きを黙らせる能力と、傷ついている人や呻いている人がまるで存在していないかのように、いつものように日々を過ごす能力を用いて生きている、と言います。
もしその呻きが街のあちこちで誰の耳にも聞こえるるような状況になったら、それはもう取り返しのつかないほど追い込まれているのだ、と。
エジプトでの呻きが社会革新の先駆けであり、黙らされた呻きや痛みの代弁者となったのがイエス様でした。
都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった。
「もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら・・・・。
しかし今は、それがお前の目には隠されている。」
(ルカ19・41~42)
去年の今日、2019年8月23日に訪問した、エルサレムの『主泣きたもう教会』から旧市街の神殿にある岩のドームを望む写真です。
(この教会はオリーブ山の中腹にあり、上から急勾配の山を下りるのに必死でしたので、ここでほっと一息休憩できた時は本当に泣きそうになりました。)
この場所でイエス様が涙を流されたとされています。
人々に愛された神の都、エルサレム。
イエス様がエルサレムのために涙したのは、ラザロについて涙したのと同様に、死への苦悩を共有されたからです。
ほとんどの人がエルサレムはいのちに満ちた聖地だと考えていた中で、イエス様はその都の死を悲しまれたのです。
これは、去年の8月24日に歩いたビアドロローサ(エルサレムの十字架の道行き)の途中にある、『茨の教会』の内部です。
茨の冠をかぶらされ、ゴルゴタまで歩かれたイエス様を思いながら、去年の今頃、酷暑のエルサレムを毎日歩いていました。
(そのあとの行程、荒野のさらなる酷暑のことを思い出すと、久留米の40℃近い夏などなんてことありません!)
カトリック生活9月号の李神父様のコラムからのお話です。
感染が疑われる人を入国後2週間、空港近くのホテルなどで待機させる、といった検疫のことをquarantine(クアランティン)と言います。
この言葉は、中世にペストが流行した際、ベネチア共和国が外国からの船の入港を40日間(quaranta)留め置いたことに由来するのだそうです。
40と言う数字が聖書では度々登場する大切なキーワードであることに関係しているのでしょうか。
イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に至るまで40年
モーセがシナイ山に登って十戒を受けるまで40日
エリアがホレブ山の逃れて神と出会うまで40日
イエス様が荒野で誘惑を受けたのも40日間
お前たちの最後の屍が荒れ野で朽ち果てるまで、子供たちはお前たちの不忠実を背負って、40年間、荒れ野で羊飼いとなるであろう。
お前たちがあの土地を偵察した40日の1日を1年と数えて、40年間、お前たちは自分の背きの罪を負う。
こうしてお前たちは、わたしに反抗するとどうなるかを知るであろう。
(民数記14・33~34)
この場合の40年という数は、文字通りの数字ではなく、次のステップに行くための準備に必要な年数を表現しているのだと教わりました。
神に反抗し続けた結果が今の世界の状況であるとしたら、わたしたちが新しい生活環境を手に入れるまで40か月?40年?、つまり結構長い時間を要するということになります...。
先祖たちの信仰
先月のごミサは、第二朗読でヘブライ人への手紙が読まれました。
わたしは、11章の出だしの一文が大好きで、カードに書いて手帳に挟んで持ち歩いているくらいです。
「信仰は、希望していることを保証し
見えないものを確信させるものです。」(フランシスコ会訳)
「信仰とは、望んでいることを確信し、
見えない事実を確証することです。」(新共同訳)
この11章のサブタイトルが『先祖たちの信仰』です。
聖墳墓教会
11.2 昔の人々は、この信仰の故に称賛されました。
信仰によって生きた旧約時代の人々を思い起こすのが11章です。
11.13 これらの人々はみな、信仰を抱いて死にました。
彼らは、約束されたものを受けませんでしたが、
遥かにそれを望み見て歓呼の声をあげ、
自分たちが、この世では異邦人であり、
旅人にすぎないことを表明しました。
11.39 これらの人々はみな、その信仰のために称賛されましたが、
神が約束されたものを受けませんでした。
神は、さらに善い計画を、わたしたちのために、あらかじめ立てておられました。
そして12章には、
イエス様が『信仰の導き手であり、その完成者』であると書かれています。
アルケゴス、導き手であり草分けであるイエス様がこの地上において神への信頼を持ち、我々の先頭に立ってくださったのです。
ガリラヤ湖畔の風景です。
ここを実際にイエス様が歩かれたのです。
公生活を始められたイエス様が初めて大衆の前で、しかも、体の不自由な人ややもめ、虐げられている人々が多く集まったと思われるあの日、この山の上で山上の垂訓と言われるお話をされたのです。
この場所であの言葉が語られたのだ、と実感しました。
本当に声が聞こえた気がしたのです。
ゲッセマネの園の教会でごミサに与りました。
創始者であり導き手であるイエス様の生きた地を見たい、と思い、イスラエルに行きました。
わたしたちキリスト者に先立って固い信仰に生きた先人たちの思いを感じ取ることが少しはできた、そんな旅でした。
信仰を旅する。
わたしには受けなければならない洗礼がある。
それが成し遂げられるまでは、
わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。
ルカ12.50
とても心を打たれる箇所です。
「エルサレムはイエスにとって受難と死が与えられる壁です。
しかし神の栄光のためにイエスはその壁を引き受けます。
それは弟子たちに復活を示し、愛の知らせを延べ伝えるためです。」
8/18のごミサの聖書と典礼の最終ページに寄稿されていた、
松村神父様の文章の一部です。
働く(生きていく)上で様々な壁が与えられるけれど、
それを喜ん引き受けて行かねばならない、というようなお話でした。
わたしが初めて聖書を読んだ思春期の頃、強烈に印象に残り、
最初に聖書にマーカーを引いた箇所があります。
「狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、
そこから入る人は多い。
しかし、命に至る門は何と狭く、その道は細いことか。
そして、それを見出す人は少ない。」
マタイ7.13~14
アンドレ・ジイドの「 狭き門」を買い求め、
この聖書の箇所を理解したいと思い、何度も読み返したりもしました。
当時のエルサレムの神殿には城壁が張り巡らされ、
いくつもの門がありました。
大きくて立派な門は、祭司や裕福なものだけが出入りに利用でき、
貧しい人や体の不自由な人は、小さな目立たない門から入ることを強いられていました。
現在の修復された城壁にも、いくつかの門があります。
今日も明日も、その次の日も、わたしは旅を続けなければならない。
預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ないからである。
ルカ13.33
狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
ルカ13.23
久留米教会の仲間たちとイスラエル巡礼の旅に来ています。
ここに来て強く感じています。信仰とは、人生の旅のような気がしてなりません。