行事風景
人の痛み
いつも、ここに書くことの基礎は、その週に起こった出来事や考えたことを信仰に結びつけています。
皆様は、今週はどのような日々でしたか?
何か、考えさせられることや、気になることはありましたか?
わたしは、「病気」についてずっと思いを巡らせていました。
以前から何度か書いたことのある、ある神父様から依頼を受けて支援を続けている方のことです。
彼に何かあると、決まって『虫の知らせ』があり、心に引っ掛かるものが湧き、連絡を入れるのです。
また、負のスパイラルに陥っていました。
いくつかの身体的な病気を患っているのですが、根本的な問題は、アルコール依存症です。
身体に不調があると入院し、病院にいる間はお酒が抜けることで精神的に軽やかになります。
信仰を持っていること・神父様とわたしに気にかけてもらっていることへの感謝に満ち、お電話をくださり、優しい言葉で会話をすることができます。
家に戻ると、そのうちまたお酒に浸るようになり、生かされていることの意味を問うようになり、自暴自棄になってしまうのです。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。
この人ですか。それともこの人の両親ですか」。
イエスはお答えになった、「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。
むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。
わたしをお遣わしになった方の業を、
わたしたちはまだ日のあるうちに行わなければならない。
誰も働くことのできない夜が来る。
世にいる間、わたしは世の光である」。
(ヨハネ8・2〜5)
その方が、わたしにこれまで何度もおっしゃいました。
「どうしてわたしを見捨てないんですか。」
わたしは、「神父様から頼まれているからよ。わたしはあなたのことを見捨てませんよ。」とお答えします。
彼のために働くこと、それはわたしに神様がお与えくださった、一つの使命だと思っています。
彼の痛みが、なんとなくですが、わかるのです。
恐らく、わたしたちは誰も、同じような罪を繰り返し犯しているのではないでしょうか。
アルコール依存症は病気です。
それは、罪ではありません。
生かされている意味を疑うこと、それが罪だと思うのです。
病気、それも、本人に治す気があれば治る病気なのに、、、、とずっと考えています。
以前、その神父様から教わったことの一つに、「ある宗教的な体験によって自分が変えられた、という誰かとの出会い。その時を持っていることは幸いだ」というものがあります。
イエス様が十字架の死を予告される場面でおっしゃる言葉があります。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
(ヨハネ12・27)
「この時」
誰かとの出会いがその人を救う、そのことはイエス様にとっての「この時」である、と教えてもらいました。
その方が、わたしとの出会いをきっかけに変わってくれるのを何年も待っているのです。
旧約の「難解さ」が好きなので、いつも好んで旧約を読むのですが、今回はこの記事を書くにあたって、書簡を読み返してみました。
書簡はストレートに心に入ってくる文章が多く、読んでいてワクワクします。
律法全体は、「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守ることによって果たされます。
わたしたちは霊の導きに従って、生きているとするなら、また、霊の導きに従って前進しましょう。
機会あるごとに、すべての人に、特に、信仰によっていわば家族となった人々に対して、善を行いましょう。
(ガラテヤ5・14、23、6・10)
聖霊が言っておられるように、「今日、もしあなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」。
あなた方のうち誰一人罪にまどわされて、頑なになる者がないように、むしろ、「今日」という日が過ぎ去らないうちに、毎日、互いに励まし合いなさい。
「今日、もし、あなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない、神に背いた時のように」。
(ヘブライ3・7、13〜15)
「この時」
「今日」
いずれも、神様がわたしたちに語りかけ、働きかけてくださる瞬間です。
人の痛みを感じるならば、神様が「働きなさい」と背中を押しているのだ、ということを忘れないように。
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2年間、久留米教会で司牧実習をしてくれた神学生のホンくん。
28日が最後のミサでした。
いよいよ、3/20に長崎で助祭に叙階されます。
久留米教会からも、バスを借りてみんなで叙階式に参列させていただこうと計画しています。
ホンくんは、韓国から来て日本で神学校に行き、長崎教区で叙階されます。
彼のために祈りましょう。
(彼の送別会を兼ねたバーベキューだったのに、彼が1番働かされていました!)