2020年11月の記事一覧

死者への祈り

久留米には2か所の教会墓地があるのをご存じでしょうか。
新しいお墓の設置が中止され、教会内に納骨堂が増設されたこともあり、今は皆さま納骨堂をお選びになっています。

久留米教会の宣教100年を記念して作られた本によると、歴代宣教師のうち初代のソーレ神父様(1917年没)、3代目のフレスノン神父様(1936年没)、チリ司教様が眠っておられたのです。
(現在は和田墓地に移されていらっしゃいます。)

 

 

野中町の墓地の様子です。
遺骨はすべて納骨堂に移設されています。ほとんどのお墓は傾き、訪問者もほとんどないそうですが、こうしてお花を添えに通われているかたもいらっしゃいます。

次は、鳥飼にあるもう一か所の墓地です。
(墓地跡、というほうが正確かも。)

 

 

マリアの墓、と墓石にはありました。
こちらは、もうどなたも通ってこられている気配はありません。
それでも2か所とも久留米教会の有志の信者さんが定期的に草を刈り、除草剤をまき、通路を整備し、清掃してくださっていることで管理されているのが実情です。

 

みなさんはご自分の死後、遺骨をどうしてほしいか、ご家族などにお伝えになっていますか?

亡くなった母は生前、「教会の納骨堂に入れてほしい」と言っていましたが、実際には(仏教のお寺にある)我が家のお墓に眠っています。

理由は「父の希望」です。

父は毎朝、愛犬を連れてお墓にお線香を上げに行っています。
カトリック信者ではない父が「母に手を合わせる場所が欲しいから」として、お寺のお墓に納骨したのです。
(罪滅ぼしです)

この場合、母の希望よりも残された父の気持ちを優先したことは間違っていないと思っています。

長年連れ添った愛する妻サラを葬るために、アブラハムがお墓を造るための土地を買った話があります。

私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。
あなたがたが所有している墓地を譲っていただきたいのです。
そうすればこのなきがらを移して葬ることができます。
(創世記23・4)

残された者の義務として、私有の墓地にこだわったアブラハムの気持ちがよくわかります。

ローマ教皇庁では「遺骨を親族などで分骨してはならない」としているのですが、日本のカトリック協議会では風習も勘案して許可しているようです。
(注:最下段にリンク)

わたしは、NYと横浜に住んでいる妹たちに少し分骨して渡してあります。
彼女たちも「毎朝お茶を供えて祈る対象として」の分骨を希望したのです。

死者への祈りは、生者の務めであると同時にわたしたちの希望する追悼の形でもある気がします。

死者はそこにはいない、いつもわたしたちとともにいるとわかっていても、わたしたちはどこか定位置を決めて手を合わせることで心が落ち着くのを感じることが出来るし、死者を「追悼している雰囲気」を大切にしているのです。

遺骨のないお墓、聖墳墓教会では毎日ものすごい数の巡礼者が『お墓参り』に来て祈っていました。
(今は閑散としているのでしょうか。)

 

毎日、それぞれの宗派が決められた時間にミサや礼拝を捧げています。
(ほとんど一日中、次々と、です!)
カトリック、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会の複数教派による共同管理の「イエス様のお墓」なのです。

お墓(納骨堂)という場所は、死者のためではなく残された生者のために必要なものであることが実感できます。

草が生い茂って苔が生えたまま放置されている墓石では、眠っている死者に失礼だ、というよりも、わたしたちがいたたまれない、落ち着かない気持ちになります。

こうして教会の墓地を管理してくださっているボランティアの方がいらっしゃること、心に留め於いてくださいませ。

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*現在、久留米教会の納骨堂は、ご入場いただける時間と人数が決まっています。
 蜜をさけるため土日はお入りいただけません。
 平日の開館時間に、一度に2人まで(もしくはひと家族のみ)でお祈りをお願いしています。

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参考:教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針 (Ad resurgendum cum Christo)』の日本の教会での適応について
https://www.cbcj.catholic.jp/2017/07/20/14105/