行事風景

遠い国

傍島神父様の初ミサには、通常よりはるかに多い、300名ほどの参列がありました。

初ミサの様子は、こちらでご覧ください。

1994年、ルワンダで多数派のフツ族が、少数派で政権を担っていたツチ族を大量虐殺する、という事件が起こりました。
正確には、3か月間にわたって100万人とも言われる人々が虐殺されたのです。

『ハム仮設』という考え方について、初めて知りました。
現代では到底受け入れられないものですが、19世紀のヨーロッパで主流だった思想で、創世記のノアのエピソードを元に、ハム系の民族をカナン(ノアの息子)の末裔とみなして、全ての民族をセム系、ハム系、ヤフェト系などノアの息子たち因んだ名前で人種を分けていました。

中世の時代、ユダヤ人とキリスト教徒はハムをすべてのアフリカ人の祖先であると考えていました。
創世記にあるカナンに対するノアの呪いは、一部の神学者によって、ハムのすべての子孫に黒い肌という人種的特徴を引き起こしたと解釈されていました。
その後、西洋とイスラムの商人、奴隷所有者は、アフリカ人の奴隷化を正当化するために「ハムの呪い」の概念を使用しました。

もともと、フツ族とツチ族は宗教、言語、文化に差異がなく、婚姻も普通に行われていた民族でした。
ベルギーの植民地時代に、フツ族とツチ族が異なった民族として分け隔てられたことが起源と言われています。
また、カトリック教会の運営する学校ではツチ族が優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチ族に対してのみ行われたこと、べルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会が、第二次世界大戦後には一転して公式にフツ族の支持を表明したこと、など、さまざまな要因があるようです。

こうした、ヨーロッパ(キリスト教)の大きな影響下にあったルワンダ(他のアフリカ諸国においても同じ)で起こった悲劇が、民族間の殺戮でした。

2017年3月、教皇フランシスコは、ルワンダ共和国のポ-ル・カガメ大統領をバチカン宮殿での個人謁見に招き、「近年の慈しみとあわれみの特別聖年と、ルワンダの司教たちにより結論として出された報告により、不幸にもカトリック教会の体面を損なった過ちを謙虚に認めることが、過去の記憶の浄化の助けとなり、人間の尊厳と、共通の利益をきっぱりと中心に据え、共に生き、ともに働いてゆくことを証言し、平和な未来、信頼の回復を願います」と述べられました。
「福音伝道の使命を裏切り、憎しみと暴力に屈した司祭や教会関係者を含むカトリック教会の罪と過ちの許し」を神に改めて嘆願した、ともおっしゃっています。

この、複雑で難しい、そして辛い問題を取り扱ったネットフリックスのドラマを観た直後に、傍島神父様のことを知りました。

43歳になられる傍島神父様は、社会人経験を経て司祭を志されました。
そして、最初の赴任地としてアフリカのザンビアを選ばれています。

神言会の機関紙のインタビューでは、神学校時代に出会った神父がザンビアで働いたことがあった方だったこと、一緒に英語の勉強をした宣教師がこれからザンビアに行くと言っていたこと、ザンビアでは神言会の宣教の歴史が新しいことや会員数が少ないこと、研修でガーナに行ったときにお世話になった方がザンビアで修練長をしていること、が選んだ理由だとおっしゃっています。

召命。

これがお導きなのだ、と強く思います。

アフリカは遠い国ですが、今週はずっとルワンダのことについて考えていた矢先に、傍島神父様に実際にお目にかかってお話しさせていただき、とても興味が湧いています。

ウクライナの穀物輸出がストップしそうな情勢がアフリカに及ぼす影響についても、これからも注視していきたいと思っています。

 

実際に起きた、当時のルワンダのカトリック教会に逃げ込んだ1万人ものツチ族の人々が司祭の手引きによってフツ族に虐殺されたことも、このドラマのなかで描かれています。
ご興味のある方は、是非ご覧になってみてください。
(なお、このドラマの中では残虐なシーンは一切描かれていません。)

 

 

傍島神父様による初ミサ

23日は、神言会の傍島神父様による初ミサでした。

宮﨑神父様が東京の吉祥寺教会に赴任されていた時に、「司祭になりたい」と相談を受け神言会を紹介したという経緯があり、今回の初ミサのお申し出となったそうです。

小神学校に行かれていたのですが、そこが閉鎖されることになり、そのまま一度神学校をお辞めになったそうです。
美大を卒業後、美術教師として働いておられましたが、やはり「司祭になりたい」との思いから、再度挑戦されたのだそうです。

「一度挫折したわたしのことを、神様は諦めてなかったんだと思います。」

少しはにかんだような笑顔で、そうおっしゃっていました。

 

全免償が与えられるとされている、新司祭の初ミサでの赦しをいただくことができました。

「ミサ後に、個別に免償を授けますので、ご希望の方はどうぞ」

そうおっしゃってくださり、ほぼ全員が並びました。(笑)

9月から、ザンビアに赴任されます。

日本ではなく外国を最初の赴任地に選ばれたのはなぜ?と質問しましたら、「日本での宣教はいつかできるでしょう。だから、最初から選択肢にはありませんでした。」とのお答え。

傍島神父様の実り豊かな宣教を、ご縁をいただいたわたしたちは心から祈りたいと思います。

美大ご出身の神父様の作品を、カードにされました。

 

心が折れそうなとき

日常の耳納連山の景色です。
美しい、地域に愛される風景です。

久留米市は、7/10の大雨で街の至る所が泥水に覆われ、大変な被害が出ました。

10日の未明から恐ろしい雷雨が続き、夜も眠れないほどでした。

幸い、教会の敷地に被害はありませんでしたが、老朽化した部分からの雨漏りがひどくなってきました。
信徒会館も同様です。

被災された方に、心からお見舞いの気持ちを表します。

わたしの住む地域では、ほぼ毎年この時期の大雨で浸水被害が出ます。
毎年床上浸水し、「もうここから引っ越すことを考えている」とおっしゃる方。
会社の機械類が全て水没し、「もう再建する気力も資金もない。」と肩を落としていた方。

何もできない無力感に苛まれますが、わたしに今できるのは、そうした心が折れそうになっている方々のことを気遣い、お声をかけることだと思っています。

新聞記者の友人と話していて、「山間部や川のすぐそばに住む人だけが会う被害ではないということ、心が折れそうになっている地域の零細企業の現状なども書いてほしい」と伝え、「自分にできるのは、記事にして多くの人に伝えることだ。お互い、できることをやって行こう!」と言ってくれました。

田主丸町の友人は、会社が浸水して大変な被害だったにも関わらず、「片付けが一段落したらすぐにボランティアに参加して他の人の手伝いをするつもり」と話していました。

 

まことに、天から雨や雪が降れば、地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに天に戻ることはないように、わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・10〜11)

わたしの神、主よ、わたしを顧みて、わたしに答え、目に光を与えてください。
わたしは、あなたの慈しみに寄り頼み、わたしの心は、あなたの救いを喜びます。
(詩編13・4、6)

涙のうちに種蒔く者は、喜びのうちに刈り取る。
種を携え、泣きながら出ていく者は、
束を携え、喜びながら帰ってくる。
(詩編126・5〜6)

あなたは地を訪れて、潤わせ、それを大いに豊かにされました。
天の水路には水が満ちています。
あなたは彼らに麦を用意されました。
あなたはこのように大地を整えられました。
畝間を豊かに潤し、土塊をならし、芽生えたものを祝福されました。
あなたは年に実りの冠をかぶらせ、あなたの通った跡には豊かさが滴っています。
(詩編65・10〜12)

 

神様が天から降らせてくださる雨は、わたしたちを養うための恵みであることを忘れないようにしたいものです。
自分が実際に被害にあっていないから、そう言えるのだと分かっています。
このことを伝えるのは、わたしの使命だと感じています。

自分に出来ることをする。
気にかけている気持ちを素直に伝える。

実際に出来ることは少ないのですが、心が折れそうになっているときに、自分のことを心に思い浮かべてくれる人がいるということは本当に嬉しいことです。

人の心は自分の道を思い巡らす。
しかし、その歩みを導くのは主である。
(箴言16・9)

 

国際カリタスは「総合的エコロジー」に関するキャンペーン『TOGETHER WE』 (ともに私たちは の意)に取り組んでいます。

過去半世紀にわたり、世界は力強い経済成長を遂げてきました。
しかし、その代償として、気候変動、森林伐採、海洋酸性化、大気・水質汚染などの環境悪化が広がっています。
また、最近の新型コロナウイルス感染症の蔓延は、社会的疎外などの分断を生み、移動や自由の制限、雇用や自立の喪失など、多くの人々の尊厳を奪ってきました。
これらの環境の変化によって最も被害を受けるのは、弱い立場においやられた人々、最も貧しい人々です。
現に、極度の貧困、過疎化、移民など、弱い立場の人々のいのちを脅かし、尊厳を踏みにじる事態をも生み出してきました。

(カリタスジャパンホームページより)

ケアの文化をともにはぐくむ祈り 
-“Together We” キャンペーン推進のために-

わたしたちの父である神よ、
あなたはすべてを良いものとして造られました。
わたしたちはあなたの似姿とされ、
ともに創造のわざを大切にする使命を受けています。
神よ、ともに暮らす家である地球を
傷つけてしまったわたしたちをあわれんでください。
あなたとともにケアの文化をはぐくむことができますように
御子イエスの貧しさによって、
創造のたまものを分かち合い、豊かになることができますように。
あなたの愛によって隔たりを乗り越え、
人類が一つの家族になれますように。
神よ、聖霊を遣わしてください。
わたしたちが無関心にならないよう愛の火によって強めてください。
あなたの愛と正義によって
わたしたちを新たな連帯へと向かわせてください。
いのちが聖なるものであることをすべての人と理解し合い、
抑圧から平和に向かう、新しい生き方へと導かれますように。
あなたの愛といつくしみの道を歩むわたしたちが、
より良い明日のために、貧しい人々の叫びと地球の叫びを聞き、
ともに今日、行動することができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

 

『TOGETHER WE』については↓

https://www.caritas.jp/2022/09/01/5902/

信仰の誇り

1998年公開の『プリンス・オブ・エジプト』(The Prince of Egypt)を久しぶりに観ました。

出エジプト記の、モーセ率いるイスラエル人のエジプト脱出を描いた、ミュージカルアニメーション映画です。
『十戒』『ベン・ハー』『パッション』などの作品と並んで、聖書の映画化としては史上最高の作品と評価されています。

25年前の作品ですが、その映像と音楽の素晴らしさは全く色褪せていません。
ひとつには、ストーリーが旧約聖書のとおりであり、余計な脚色がない、わたしたちがよく知っている、あのモーセの物語だからです。

わたしが一番好きな曲であると言っても過言ではない、テーマソング「When you beleive」は、ホイットニー・ヒューストンとマライア・キャリーによる美しいデュエットソングです。

イスラエル人の脱出、と先ほど書きましたが、映画の中のセリフでは「わたしはヘブライ人だ」とモーセが言っていました。

イスラエル人、ヘブライ人、そしてユダヤ人。

ヘブル(ヘブライ)人(Hebrew) 
➡︎他民族からの呼び名。
特にエジプトの奴隷時代にそう呼ばれた。
「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」の意味。
イスラエル人が異民族に自分を紹介する際に用いた言葉。

ファラオは自分の民全体に命じて言った、「ヘブライ人に男の子が生まれたなら、みなナイル川へ投げ込め。しかし女の子はみな生かしておけ」。
(出エジプト1・22)

イスラエル人(Israeli)
➡︎神から与えられた自らの呼び名。
現在のイスラエル人国家の市民を指す。

「お前の名はもはやヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。
お前は神と闘い、人と闘って勝ったからである」。
(創世記32・29)

ユダヤ人(Jew)
➡︎“バビロン捕囚”以降の呼び名。

いずれの呼び方にしても、自らの民族性に誇りを持っていることが感じられます。

この映画を観て強く感じるのは、「このストーリーを4000年以上言い伝えられて来たユダヤ人が、自分たちのルーツや信仰に誇りを持つのは当然のことだ」ということです。

実際の出来事かどうかは問題ではなく、言い伝えが書き残され、『自分たちの先祖は選ばれた民として神から導かれたのだ』と聖書に記されているということは、疑いようのない事実です。

アメリカに住む友人は「わたしはユダヤ人」と言いますが、映画ワンダーウーマンの主演俳優であるガル・ガドットは「わたしはイスラエル人です」と言っていました。

わたしは、生後八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民、しかも、ベニヤミン族の出身で、生粋のヘブライ人です。
(フィリピ3・5)

パウロも、自分を説明するときにこのように使い分けています。

 

しかし現実には、今の混沌とした、国家としてのイスラエルを見ると複雑な気持ちになります。
民族としての、国際的に認められた国としての誇りが、裏目に出ているのかもしれません。

西日本新聞7/6の朝刊の記事によると、1948年のイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ人が難民となって移り住んでいるジェニンという街がパレスチナ武装勢力の拠点となっており、イスラエルによる大規模な軍事作戦で多数の死傷者が出ました。
昨年末に誕生した、対パレスチナ強硬派のネタニヤフ政権の政策により、反発するパレスチナ人のユダヤ人襲撃も増えています。

エジプトから逃れて荒野を40年にわたってさまよったヘブライ人は、その経験から他国の寄留者や弱い立場の人を虐げてはならないと教えられてきた、と聖書で学んだわたしは、こうしたイスラエルのニュースをいつも注視しています。

 

イスラエルに巡礼した2019年は、エルサレムにいても危険が迫っているような状況ではありませんでしたが、最近は旧市街(神殿のあたり)でも砲撃が起きています。
巡礼の間、バスを運転してくださったのはイスラエルに住むアラブ人の男性でした。
アラブ人とはアラビア語を話す人のことで、そのうち、パレスチナ自治区に住む人をパレスチナ人と言います。

複雑です。
ユダヤ人vsパレスチナ人の問題は、とても複雑なのです。
おそらく、解決することはないのでしょう。
それぞれが、民族と信仰に誇りを持っているのです。

娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、歓呼せよ。
見よ、お前の王がお前の所に来られる。
またお前についても、お前と血で結んだ契約の故に、わたしは囚われ人となっているお前の民を、水のない穴から助け出そう。
囚われの身にあっても希望を持つ人々よ、砦に帰れ。
わたしはユダをわたしの弓として引き絞り、エフライムをその矢としてつがえる。
(ゼカリヤ9・9、11〜13)

出エジプト記24・6〜8にあるとおり、主はモーセを通してイスラエルと「契約の血」を結ばれたのです。

 

『プリンス・オブ・エジプト』はネットフリックス」でご覧いただけます。
テーマソングもyoutubeでぜひお聴きください。

 

疑いと信頼

「それは本当に当たり前か」

時には疑ってみることも必要です。

金曜日の大きなニュース、アメリカで長年採用されてきた「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)が憲法違反であるとの判決がでました。
これは、1960年代に導入された、大学入学選考に際して黒人やヒスパニックの学生が一定の割合で優遇されるというものです。
「公正な入学選考を求める学生たち」の主張が認められた形です。

性的マイノリティーLGBTQに関して、性的指向や性自認についての特定の議論を学校の授業で行わないよう規定する法案、いわゆる「ゲイと言ってはいけない法」は、アメリカのマイアミ州で成立し施行されています。

昨年は、女性の中絶の権利を認めた1973年の「ロー対ウェイド」判決が覆されました。

アメリカは保守派が主流になってきた、と言えるでしょう。

黒人差別を禁止する流れでできたアファーマティブ・アクションが「白人差別だ」「不公平だ」とされ、性的マイノリティーの権利擁護が叫ばれる一方で「言ってはいけない」となり、、、、。

「人種や性的嗜好で人を差別してはいけないのは当たり前」と言われる一方で、他方の権利がこういった形で主張されるのも、また「当たり前」なのかもしれません。

 

サラは心の中で笑って言った。
主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」
(創世記18・12〜15)

サラは主のことばを信じず、疑っていました。

この後に続く話では、ソドムとゴモラの全住民を土地もろとも滅ぼされた、厳しい神です。
同性愛が「ソドムの罪」と言われる所以となっています。
続いて、主の使いによってソドムから脱出させてもらったロトと、その二人の娘の近親相姦による家系存続のエピソード。
38章にある、ユダとその息子嫁のタマルの同様のエピソード。

聖書の注釈には、「家系を存続しようとする意欲は理解できるが、許されることではない。キリストの系図にはタマルが入っている。」と書いてあります。

マタイ1章のイエス様の系図を見ると、確かにこのタマルや、娼婦であったラハブの名前があります。

神であるイエス・キリストは、由緒正しい家系のおぼっちゃまではありません。
いわゆる罪人や当時嫌われていた異邦人をルーツに持ち、しかもそのことを聖書に書き記されている、「人」なのです。

あなた方によく言っておく。イエスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。
あなた方に言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。
しかし、み国の子らは外の闇に投げ出される。
そこには嘆きと歯ぎしりがある。
(マタイ8・10〜12)

この「信仰」の意味は、その人を全面的に信頼して全てをその人に任せるという態度の現れのことです。
百人隊長は、イエス様に全幅の信頼を寄せました。

罪人であったとしても、その罪のためにその人の全てを疑ってはいけません。

あなた方によく言っておく。
徴税人や娼婦が、あなた方より先に神の国に入る。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた方は彼を信じなかったが、徴税人や娼婦は彼を信じたからである。
あなた方はそれを見てもなお、悔い改めてヨハネを信じようとしなかった。
(マタイ21・31〜32)

その話は、そのニュースは本当か?!と疑ってみることは、ときには必要です。

そして、信じられないようなことでも、信仰によって全幅の信頼を持って受け入れた聖書の人々を自分に重ねてみることも、ときには大切でしょう。

アファーマティブ・アクションに関するニュース
https://www.yomiuri.co.jp/world/20230630-OYT1T50001/

ゲイと言ってはいけない法に関するニュース
https://lgbter.jp/noise/0155/

 

大事な掟

先週の父の日、友人男性たちは様々だったようです。
娘からプレゼントをもらえた人、「お父さんいつもありがとう」と息子から言ってもらった人、あと数時間で父の日が終わるのに何も起こる気配がない、、、と嘆いていた人。

我が家の場合は、父の一番のお気に入りの妹が帰ってきていたので、それが贈り物でした。

先日、ある神父様から「十戒の第4の掟はなんでしたか?」と突然質問されました。

「『あなたの父母を敬え』という、当たり前のことがわざわざ十戒に入っているのはどうしてだと思いますか?」と続けて質問されました。

答えは、カトリック教会のカテキズムにありました。

2005年に『カトリック教会のカテキズム綱要』編纂委員会委員長だったヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(故ベネディクト16世)は、以下のように述べられています。

カトリック教会のカテキズムは、「カトリックの教え全般についての正当な説明を行うことによって、教会が何を宣言し、どのような祭儀を執り行い、どのような生き方をし、日々どのような生活方針をもって祈るべきかをすべての人に知らせること」を目的としています。
これは、あらゆる年齢と境遇のキリスト信者の真理への渇きと、信仰をもたない人々の真理と正義への渇きとを満たすための、新たな源泉となるものです。

カテキズムは、(信仰を持たない人にも)わたしたちは人生をどう生きるべきか、何がわたしたちとこの世界に生きるに値する将来を与え得るのかといったことを教えてくれるものです。

 

第4の掟は、直接的にはこどもたちの父母との関係に関するものです。
この関係がもっとも普遍的なものだからです。
同じように、これは近親者との関係にも当てはまります。
(カテキズム2199)

父母と子どもたちの関係に留まらず、例えば教師に対する生徒の、上司に対する部下の、祖国に対する国民の義務にも及んで当てはめることができる、と書いてあります。

神の父性が人間の父性の源泉です。
両親が敬われる根拠はここにあります。
子どもたちの父母への尊敬は相互を結ぶきずなから生まれる自然の愛情によって培われます。
これこそ、神のおきてによって命じられているものなのです。
(2214)

「神様の父性が源泉、父なる神、わたしたちは神様のこども」、こうして紐解いて考えてみると、両親を尊敬し、感謝することは強いられるものではなく、自然と湧きあがるものだとわかってきます。

両親は、神の写しなのです。
地上を旅するわたしたちを、神様は「両親」に託したのです。

両親への尊敬(孝行心)は両親に対する感謝の心から生じるものです。
(2215)

心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。
両親のおかげで今のお前があることを銘記せよ。
お前は両親にどんな恩返しができるのか。
(シラ7・27~28)

わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。
(箴言6・20~21)

両親へ従順の義務は子どもが後見から解除されるときに終わりますが、尊敬の義務のほうはいつまでたってもなくなるものではありません。というのは、その根拠が、聖霊のたまものの一つである神への畏敬にあるからです。
(2217)

イエス様は、世の中で最も弱い立場の人々を心に留め、癒し、導かれました。
そのことは、この第4の掟に繋がっていると言えます。

両親の老後や、病気・孤独・悲しみなどに際して、できる限りの物的・精神的援助の手を差し伸べなければなりません。
イエスはこの感謝の義務について語っておられます。
(2218)

モーセは、『お前の父と母を敬え』と言っている。
(マルコ7・10)

イエス様は、ファリサイ派の人々との問答でこうおっしゃり、神の掟を蔑ろにしていることを責められました。

 

この第4の掟に関するカテキズムを読んでいて、一番心に響いたのはこの箇所です。

孝行心は家庭生活全体の調和を生み出し、兄弟姉妹の関係にも影響を与えます。
両親への尊敬は家庭環境を明るくします。
(2219)

カテキズムではこの後、両親の子どもたちへの義務について述べています。
ここまで読んでみても、信仰の有無にかかわる書ではないことが伝わると思います。

わたしたちが大切にしなければならない掟、十戒のうち4から10は「当たり前のこと」なのです。
ですが、とても難しいのがこの第4の掟です。

この記事でお伝えしたかったことは、この2つです。

①神の父性が人間の父性の源泉である。

②両親への尊敬は家庭環境を明るくする。

今週も、心に刻みたい教えをいただきました。
カテキズムは、要約版もあります。

 

どう生きるか

梅雨の中休み、一足早い夏がやってきたかのようです。

父の日でしたね。
テレビで「母の日よりも世間では意識が低い」と言っていましたが、世のお父様方はなにかプレゼントがありましたか?

 

ヨブ記を読みました。

ヨブ記は、どうすれば苦悩の状態を信仰のうちに生きることができるか、を考えさせてくれます。

故カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿は、自信の著書の中でこのように書いておられます。

(31章の「ヨブの潔白の証言」について)ヨブは自分の人生のさまざまなときに、正しく行動したということを確かめ得ました。
このような人間はけっして実在しなかったのです。
明らかに架空の人物、極限例、すべてのことを常にただ立派にだけ行う楽園のアダムの投影です。
なぜ、自分はかつて誰に対しても、いかなる悪も犯さなかった、瞬時の過失の自覚さえないと宣言して、全世界を告発するこの男を理解しようと試みる必要があるのでしょうか。
それは、たとえヨブのような人間が存在するとしても、30章に描かれている悲劇的な試練を免除されることはなかったということを確信するためです。
試練は神対人間の関係にはつきものです。
試練は、人間と神とのかかわりがどれほど真実であるか、この関係がどれほど無私無償のものであるかということと関連しています。
そして人間と神とのかかわりが真実であるかどうかは、報いが止むときにはっきりとあらわれます。
ヨブ記の著者は、単に罪からの清めという意味を超えるような試練を与える神という、神の秘儀の一側面を追求しています。
(『ヨブ記の黙想 試練と恵み』より)

 

わたしたちの状態は、正しいヨブとは全く違います。

日々の生活のなかで、人間関係において、義務についての取り組みにおいて、わたしたちはどのような生き方をしているでしょうか。

週刊誌報道で追い込まれる有名人のニュース、事件を起こした人とその家族について執拗に繰り返される報道、自分の気に入らない人へのSNSでの誹謗中傷など、自分のことは棚に上げて人には非常に厳しい、というのが最近の傾向のように思います。

つまり、現代は「不寛容の時代」だと感じられて仕方ありません。

イエス様がおっしゃった「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に、まず石を投げなさい」という言葉を身に染みて理解しているわたしたちは、自分が日常で犯している罪がいかに多く、人を裁くことはできない、ということをわかっています。

わたしの聖書には、聖書100週間で教わったことがあちこちに記してあります。

知恵はどこで見出されるのか。
悟りのある所はどこか。
人はそこに行く道を知らない。
また、それは生ける者の地では見出せない。
深淵は『それはわたしの中にない』と言い、海も、『それはわたしの所にもない』と言う。

知恵はどこから来るのか。
悟りのある所はどこか。
それは、すべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。
しかし、神はそこに至る道を弁えておられ、それが在る所を知っておられる。

神が風の強さを定め、
水の量を量り、
雨に限度を、雷に道を設けられたとき、
神は知恵を見つめ、それをほめたたえ、それを確かめ、それを調べ上げられた。
そして神は人に仰せになった。
『主を畏れること、これこそ知恵であり、悪を離れることは悟りである』と。
(ヨブ28・12~28抜粋)

神父様から教わったことを、聖書に書き入れていました。

「知恵」とは、「どう生きるか」ということ。
人生の真実を悟り、物事の本質を理解するには、経験だけでは足りず、神から来る知識が必要。

こう、教わりました。

どう生きるか。

人生の真実も物事の本質も、生きていく限り追い求めるものでしょう。

ヨハネ23世の『魂の日記』からの抜粋です。
「年を重ね経験を積みながら成熟していくに従い、自分自身の聖化と奉仕において成功するための一番確実な道は、一切のことを最高に簡素で穏やかなものにすることだと思う。
そのためには自分のぶどう園のむだな葉っぱやつるを注意深く剪定し、真理・正義・愛を大切にすることである。
これこそ、この世の知恵を恥じ入らせる確かな知恵である。」

深いお言葉です。

洪水のようにメディアから流れてくる情報に飲み込まれないように。
人のことを気にしすぎて余計なストレスを抱えないように。
自分の見た目を過度に気にせずに。
無駄をそぎ落とした穏やかな生活を。

どう生きるか。
こう生きたいものです。

初聖体の喜び

世界各地の教会でも、この日曜日は初聖体の子どもたちを祝福するミサが行われたことでしょう。

久留米教会でも、3人の子どもたちの記念すべき日をお祝いしました。

彼女たちの晴れやかな顔を見て、喜びに溢れた幸せな日曜日となりました。

 

初めて聖体拝領した日のこと、覚えていらっしゃいますか? 

わたしは、うっすらとした記憶ですが、「嬉しい!」と感じた気持ちを思い出しました。

生きておられる父が、
わたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
これは天から降ってきたパンである。
先祖は食べたが、
それでも死んでしまったようなものではない。
このパンを食べる者は、永遠に生きる。
(ヨハネ6・57〜58)

コロナ禍は、ご聖体をいただくことが出来なかった日々がありました。
そして今、以前の教会の姿に戻りつつあります。

間違いなく、以前いただいていたご聖体と、今日いただいたご聖体は、違った意味合いを持っているような気がしています。

習慣的に口にしていたご聖体が、今はまるで、話しかけてくるような存在になったのです。

「いただいているお恵みに感謝します。
いただいている役割に感謝します。
お導きくださっていることに感謝します。」

そう心の中で唱えながらご聖体を味わうことが、一週間の始まりの記念として、ようやくわたしの中で定着してきました。

当たり前のことだ、と思われるかもしれませんが、今日の子どもたちの様子を見ていて改めてそう感じています。

今日からの一週間も、神様のお導きを信じて、穏やかに、優しい気持ちで過ごしたいと思います。

 

 

不完全なわたしたち

梅雨とはいえ、朝晩は空気が澄んでいて日中はカラッと暑く、とても気持ちの良い初夏の久留米です。

先週ご紹介した本には、星野富弘さんについて書かれている箇所があります。

星野さんは、大学を卒業してすぐに体育教師となり、24歳の時に授業中のケガが原因で頚髄損傷を負います。
首から下が完全にマヒしますが、2年後、口にくわえたペンで字を書く練習を始めます。
初めは、紙に点を書くだけで精いっぱいだったそうですが、「口で字を書くことをあきらめるのはただ一つの望みを棄てることであり、生きるのをあきらめることのような気がした」と。

次第にキリスト教に惹かれていくのですが、すぐに全てを信じることはできなかったといいます。
ですが、同じ病室で、病気の治る日に備えて懸命に努力している人をみて、少しずつ考えが変わっていったのです。

「いつかは分からないが、神様が用意していてくれるほんとうの私の死の時まで、胸を張って一生懸命生きようと思った」のです。

ケガから3年半後、病室で洗礼を受けます。
「私のいまの苦しみは洗礼を受けたからといって少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、許せなかったり、そういうみにくい自分を、忍耐強く許してくれる神の前にひざまずきたかった」と述べています。

 

主のすべての業は何と慕わしいものであろう、見ることのできるのは火の粉にすぎなくとも。
これらすべてのものは生き、永久に残り、すべての用を果たし、もろもろの必要に応じる。
万物はことごとく対をなし、一つは他の一つに対応する。
主が造られたもので不完全なものは何一つなかった。
一つのものは他のものの長所をさらに強める。
誰が、主の栄光を見飽きる者があろうか。
(シラ42・22~25)

 

わたしは、以前も書いた通り、20歳で大病をしたことをきっかけに洗礼を受けました。
後に、ある方から「成人洗礼の人は、病老苦死が洗礼の理由になる場合が多いよね」と言われたことがあります。

まるで、病気の苦しみから逃れるために受洗したと言われた気がして、若かったわたしは傷ついたものです。

ご紹介している本の著者は、星野さんについてこう書いています。

彼は、自分の状況について神を恨むとか、神を疑うとか、そのようなことは一切口にしていません。
彼は、むしろ神に惹かれていったのです。
決して神にすがりはじめたのではありません。
そうではなく、神に感謝する気持ちを持ち始めたのです。
(石川明人 著『宗教を「信じる」とはどういうことか』より)

星野さんやわたしのように、ケガや病気をきっかけに信仰に惹かれていった方は、おそらく多くの場合、同じ気持ちだと思います。

ケガや病気が治ったことへの感謝、ではなく、「与えられた、新しい自分の人生を生きることを受け入れることができた」ということへの感謝です。

シラ書には「主が造られたもので不完全なものは何一つなかった。」とありますが、わたしなりの解釈では、「ひとりでは完全ではなく、互いに補い合い、神を信じることで完全なものになれるよう造られた」と考えます。

旅をした人は多くのことを知っており、
経験豊かな人は知識をもって語る。
試練に遭ったことのない人は僅かなことしか知らない。
しかし、旅をした人は賢さを増す。
(シラ34・9〜10)

星野さんは教会に通えないので、ザアカイを思っていちじくの木の下までお散歩をして考える、と詩にされています。
彼は自分で動けないのですが、日々、旅をされているのだ、と詩画集を見ていて感じるのです。

わたしも入院中に、母校の修道会のシスター方が代わるがわるお見舞いに来てくださっていました。
その際にいただいた星野さんの詩画集は、今でも大切にしています。

福音書、という詩画があります。

毎日見ていた
空が変った
涙を流し 友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変った
空が私を
見つめるようになった 

不完全な存在だからこそ感じ取ることができる、素直に信じる気持ち。
星野さんの詩から、そのような、忘れてはいけないものを感じます。


 

信じるとは

二日市教会の献堂式に参列しました。
新しい教会のスタートに立ち会える機会はなかなかないことですので、素晴らしい体験でした。

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わたしは、この人々のためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです。
また、わたしはあなたからいただいた栄光を彼らに与えました。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
あなたがわたしをお遣わしになったこと、そしてあなたがわたしを愛してくださったように、
彼らも愛してくださったことを、世が知るようになるためです。
(ヨハネ17・20〜23)

イエス様が捕えられる直前に、「自分のため」「弟子たちのため」そして「信者のため」に祈られた言葉がまとめられているのが、ヨハネ17章です。

この20〜26は、信者のために祈りを捧げられたものです。

わたしたちは、何を信じているのでしょうか。
カトリック信者である、とは、何を信じているということなのでしょうか。

先日、ジュセッペ神父様がお説教でおっしゃいました。

「信仰とは、大理石の柱のようなものではありません。
病気や困難が起きた時、疑うことがあるのは当然のことです。」

 

 

今、この本を読んでいます。

中身を少しご紹介しますと、著者の石川さんによると、イエス様が十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶叫したのは、神に対する抗議だったのだ、と。
わたしは、旧約聖書を大切にされていたイエス様が最後に詩編の祈りを口にしたことは神への信頼の証である、という教えを納得して理解していましたので、石川さんの「無理のあるこじつけだ。激痛の中での壮絶な人生の今際の際に、本当に言いたいことをズバリと言うのが自然なことだ。」という論調には疑問を感じました。

ですが、その後にこう書いてありました。

イエスのこうした言葉は、「信じる」と矛盾するものではないと言うべきかもしれません。
本当に全く神を信じていなかったら、神に対する抗議や疑いが口から出てくるはずがありません。
神に対する文句は、神の存在が前提とされていなければ不可能です。
本当に神を「信じ」ていて、本当に「神は我とともにある」と考えているからこそ、抗議や疑いを含めて、神に対して何かを言うことができるわけです。

苦しいときには神に文句を言ってもいいし、その存在を疑う言葉を口に出しても構わないでしょう。
ちっぽけで愚かな人間が、その狭い視野であれこれ文句を言ったり疑ったりしても、それにも関わらず常に我とともにいてくださるものを「神」と呼んでいるはずだからです。

確かに、イエス様は神である前に、わたしたちと同じ「人」であられました。

イエス様でさえ、神様に抗議され、神様の全能性を疑うような言葉を口にされたのだから、わたしたちもそのような弱い存在であることを恥ずかしく思うことはない、と思えます。

マザーテレサの死後に刊行された彼女の書簡とその解説の書「マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!」の中には、彼女がある神父様に宛てた手紙が紹介されています。

「わたくしの魂のなかで神の場は白紙です。
わたくしの内に神は存在されません。
神を欲する痛みが非常に強いので、わたくしはただただ神を求めるのですが、わたくしが感じるのは、神がわたくしを望まれないことです。神は不在です。」

マザーテレサでさえ、このような心境になられたことがあるのです。
このように、むしろ「信じることができません」と素直に告白することこそ、真の意味で信仰的なのかもしれない、と本の著者は言います。

ヨハネの福音書にあるように、

「あなたがわたしをお遣わしになったこと」
「あなたがわたしを愛してくださったように、彼らも愛してくださったこと」

わたしたちは、このことを信じているのです。
神様は全能であり、祈ればなんでも叶えてくださるのだ、といった都合のいいことだけを信じるのが信仰ではありません。

今週の聖書朗読と読書から、改めて良い気づきが得られました。

 

世界遺産の姫路城、またの名を白鷺城に行ってきました。
(今日の記事とは関係ないのですが、あまりにも美しかったので。)