行事風景

信仰のセンス

長年、教会でお付き合いのある方で、いつかゆっくりお話ししてみたい、と思っている方がいました。
毎週のようにミサの時に言葉を交わしてはきたものの、お互いのことを知っているような知らないような関係でした。

コロナ禍になってから、ご家庭の事情でなかなかお目にかかれなくなっていたので、先日お宅を訪問してお話してきました。

 

自分はこれまで、こういう風に生きてきました

今は、こんな風に生きています

将来は、こういう風に生きたいと思っています

 

その方は、ご自分の人生を話してくださいました。

人に、これまで・今・これからの自分について語ることができますか?

「こうありたい」という理想を語ることはできても、「こういう風に生きよう」という決意を心に持つことは素晴らしい、羨ましい、わたしにはまだ出来てない、と思ったのです。

 

「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ。」
(ヨハネ5・17)

以前書いたことがありますが、ある神父様が、亡くなられたお父様の葬儀ミサがきっかけで、それまで教会から離れていた兄弟がまたミサに足を運ぶようになったこと、「父は今もなお働いている」と感じた、とお話しくださいました。

そして、わたしも、仕事などで困難にぶつかり、それが良い方向に変化していくのを感じる度に「母が今もなお働いている」と強く感じるのです。

 

わたしは自分では何もできない。
ただ、父から聞くままに裁く。
わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
(ヨハネ5・30)

困難な状況を克服した時、いつも思います。

「わたしが解決に導いたのではない。
神様が言われることを聞いて、そのように行おうと努めることができた。」

神様と母ばかりを働かせて、わたし自身の働きが弱いのかもしれない、と冒頭の方と話していて感じたのです。
「神頼み」「母頼み」になりすぎています。

わたしが今日あるのは神の恵みによることであり、そして、わたしに対する神の恵みは無駄にはなりませんでした。
それどころか、わたしは使徒の誰よりも多くほねをおって働きました。
わたしが、というより、神の恵みがわたしとともにあって働いていたのですが・・・・。
(1コリント15・10)

その方は、年齢的には大先輩であり、当然わたしよりもずっと色々な経験をされ、今も決して楽な日々ではないはずなのに、ご自分のこれまで・今・将来について話されるときの表情はイキイキと輝いていました。

だから、わたしも働く
神様の御心を行う

その方のお話の中には、この2つの言葉が散りばめられていたと感じました。

「信仰のセンス」と言う言葉について、以前、聖書研究会で教わりました。

◆聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力
◆神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力
◆日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力

こうした意味を持つ言葉で、信者個人の生き方で表されるものです。

その方は、抜群の信仰のセンスを持ち合わせた方だ、と、初めてじっくりとお話を伺ってわかりました。


決勝点への邁進
わたしは、そこへ、すでに到達したわけでも、自分がすでに完全なものになったわけでもないので、目指すものをしっかり捕えようと、ひたすら努めています。
このために、わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです。
ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め、キリスト・イエスに結ばせることによって、神が、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
ですから、わたしたち信仰に成熟した者はみな、このことを念頭に置きましょう。
何はともあれ、ここまでたどりついた道を歩み続けましょう。
(フィリピ3・12~16)

「ただ一つのこと」は、新共同訳では「なすべきことはただ一つ」となっています。

前に書いたキーワードのように、「信仰はいつも発展途上」ですから、わたしたちはどんなに熱心に祈り、毎週ミサに与っていても、完全なものではありません。

目指すもの、とは、この世での生活においても必要なものです。

信仰のセンスを磨き、この世での目指す目標、神様が与えてくださる賞を目指して、自分の生き方を人に話すことのできるキリスト者になりたい、そう思った週でした。

 

キリストを知り、その復活の力を知り、また、キリストの苦しみにあずかることを知って、ますます、キリストの死に様を身に帯び、何とかして、死者の中から復活するまでに漕ぎつけたいものです。
(フィリピ3・10~11)

 

 

神様はゆるす方

ウクライナのことを思わない日はありません。
「ロシアによるウクライナ侵攻」ではなく、戦況はロシアvs西側諸国の様相に変わったかのようです。
ウクライナの街が破壊され多くの市民が亡くなっていることは、惨く、信じられないことですが、ロシアの戦艦が破壊されて激しく燃え盛る様子を見て、良かった、とは決して思えません。

教皇様は、3月25日のお告げの日にバチカンでミサをささげられました。
そしてその中で、ウクライナとロシアを聖母マリアに奉献されたのです。

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
(ホセア6・1~3)

 

自分が正しい。
わたしは間違っていない。
あの人の考え方はおかしい。

よく言えば正義感が強くもあり、わたしの欠点である「自分の主張を押し付ける言い方」をして、また人を傷つけてしまいました。
「あんな風に言われて、残念な気持ちになりました。」とメッセージが来るまで、そのことに気づかなかった自分が嫌になりました。
この一週間、その罪の意識がわたしを覆い、ずっと後悔の念に苛まれて過ごしてしまいました。 

 

わたしたちは、言葉をとおして偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。
わたしたちが日ごろ使っている言葉について、問い直してみましょう。
その言葉は、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものでしょうか、それとも自分をひけらかすためのものでしょうか。
柔和さを持って話していますか?
それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのでしょうか。
神がその謙虚さを顧みたおとめマリアが、わたしたちが眼差しと話し方を清められるよう助けてくださいますように。
2/27教皇フランシスコ お告げの祈りでの説教より

 

そんな時に、この教皇様のお説教の言葉を読み、ますます落ち込んだまま日曜日のミサに与りました。

 

「素直に、心から悔い改め、感謝して正直に信仰に生きましょう。
神様は罰する、怒る神ではありません。
ゆるす神です。
両手を広げて、父の愛、母の愛でわたしたちを受け入れ、 ゆるしてくださいます。」

宮﨑神父様がお説教でこう言われ、わたしの心も救われました。

 

 

そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ18・9~14)

時々、わたしはファリサイ派の人のようです。
「わたしは熱心な信者です。
わたしは一生懸命に役割に取り組んでいます。
褒めてください!」
そういう気持ちが湧き上がってきて、自己満足している自分が嫌になることがあります。

でも今日は、徴税人のように素直になって、正直に信仰に生きるものとなるよう努めよう!
そう、決意を新たにできた気分です。

わたしの罪は赦された、と(勝手に)感じた日曜日でした!

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「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。
あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。
この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。
わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。
「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。
あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。
わたしたちはあなたに信頼を寄せています。
とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/


 

信じて生きてみる

教会は古くから舟に例えられてきました。
教会とはわたしたちであり、舟はイエス様でもあります。
そして同時に、イエス様は、荒波の中を舟に揺られ続けるわたしたちのための錨でもあるのです。


わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの
(ヘブライ6・19)

 

この写真は、イスラエルのマグダラにある教会です。
祭壇が船の形をしているので、船の教会と呼ばれています。

奥に見えるのはガリラヤ湖です。
聖堂でミサをしていただいたときの写真です。

 

 

先日、久留米の聖マリア学院の公開講座で久留米出身の船津亮太神父様(小倉教会)の講演があり、わたしもzoomで参加しました。

福岡司教区の主日の音声説教でも、船津神父様はいつも「誰にでも分かり易く」を心がけてお話されている、と伺ったことがあります。

公開講座のテーマは「コロナ禍をよりよく生きる」

聖書のことばだけでなく、映像を使って具体的にイメージできるように工夫してくださっていて、神父様の考えていらっしゃることがよく理解できる講演でした。

特に印象に残っているのが、選び取るのは「生活」か「人生」か、というくだりです。

生活を重視するならば、安穏で波風の立たないように日々を生きることを重視しながらも、あくせくと自分の毎日を切り盛りして過ごすことになる。
人生を重視するならば、情熱を持って理想へと日々邁進し、超越者(神)がわたしを動かし生かしているのだと理解することができる。

主体を自分に置くか、神に置くか。

コロナ禍、「生活」を失ってその大切さを誰もが痛感したが、わたしたちが選び取るべきは「人生」である。

大きな時間軸の中で今を捉えること。

束の間の「生活」のなかに与えられた神の賜物に感謝し、
神の導きに応える「人生」を選び取っていく。

生活を大切に生きることは当たり前のことであり、わたしたちは信じて生きる「人生」を歩まねばならないのだ、ということなのでしょう。

船津神父様は、臨床心理士として働かれていた時に運命的な出会いにより召命を受けられました。

「今だったら、このまま働いていたい気持ちと、神学校に入りたい気持ちが半々です」と迷われていたそうです。
「半々なら、神学校に入ろう」と背中を押され、司祭を目指す道へと入られました。

信仰をもつわたしたちの人生は、自分以外の誰かに突き動かされて生かされていく日々です。

神様への信頼に根差したこの人生は、神様の呼びかけに応える「召命」の道と呼応するものだ、と船津神父様のお話にありました。

 

わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
(イザヤ44・3~4)

信じる、というのは、信じて生きてみること。
そして、信仰というものはすでに完成したものとして持つものではなく、いつも発展途上にあるもの。

これは、手帳に走り書きしていたのでどなたのお言葉だったか分からないのですが、「信じて生きてみる」「信仰はいつも発展途上」というキーワードが気に入っています。

信じて生きる人生とは、イエス様を信じて皆で共に同じ舟に乗る、ということでしょう。

 

春の乾いた土地が、雨で潤されて新芽が芽吹くように。
茶色だった大地が、いつの間にか生い茂る草に覆われ緑に変わっていくように。

わたしたちの信仰は、特にこの春の四旬節の間に大きく育つように思います。
信じて生きてみよう、とこの季節は気持ちを新たにするよい機会です。

御復活祭の時に洗礼式が執り行われるのは、確かに最高のタイミングです。


船津神父様に続く召命が、久留米の少年たちにいつか降りてきますように。

 

 

 

行う人

311について思いを馳せる日々でした。

西日本新聞の3/10の朝刊には、当時の釜石の子どもたちが11年後の今、当時を振り返って取材に答えた特集が組まれていました。

お読みになっていない方は、ぜひ読んでみてください。

心にずっと刺さった、棘のような「後悔」や「罪の意識」のような気持ちを吐き出すように語った、20代になった人たちの声にいろいろなことを考えさせられました。

地震や津波での被害だけではなく、まだ苦しんでいる人が多くいる現実を再認識することができました。

 

以前ここに書いたことのある、ある支援している方に久しぶりに電話をしてみました。
久しぶりだったからか、溜まっていたのであろう言いたいことや現状への不満を爆発させて、ガチャっと電話を切られてしまいました。
施設の方に再度電話してお話を伺ったら「自分のことをかまってくれる、気にかけてくれる人がいて、本当は嬉しかったのだと思いますよ。」と言っていただきました。

この方も、釜石の方々も、 自分の中に溜め込んでいる思いを思いっきり伝え、聞いてもらえる人がいる、と言うことがどれほどの救いになるか。

わたしもその相手になることができれば、と思うのです。

 

ヤコブの手紙は、短い中にも深く、理解しやすいことばでわたしたちの心に迫ってくるものがあり、とても好きな書簡です。

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
(ヤコブ1・12~27)

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブ2・26)

 

「行う人」でありたい。

役割をいただいているので、毎週ミサに参列させていただいています。
ミサに与ることそのものではなく、教会で出会うすべての皆さんとあいさつを交わすことが、わたしの一週間で一番の喜びになっています。

わたしにとって「行い」は、自分の至らないところを補うように物事を実践し、人に関わることで実現しています。
少なくとも、そう思っています。
良く行えているかどうかはわかりませんが、人付き合いが得意ではないわたしが、こうしてミサ前に聖堂入り口で毎週皆さんをお迎えする役割をいただけていることで、行おうと努めています。

今朝は、先週転勤してこられたばかりというシスターを、満席だったのに偶然空いたお席にご案内することができました。
「初めて久留米教会に来たのに席がなくて、それなのにあなたに案内してもらえて嬉しかったわ!」
そう言ってくださり、少し色々とお話しさせていただく機会となりました。

清々しい、嬉しい日曜日の朝を過ごすことができました。

 

キリスト教の最もすばらしいところのひとつは、神が私達に、過去が何であっても常に、新しい人生をやり直させてくださることだと思います。
神さまが私たちを罪に定めないでいるのに、私たちが自分をもうだめだと、罪に定める理由はないでしょう。
友達や隣人を罪に定めるのは、もっといけないのではないでしょうか。
希望と愛を持って、いつも、助け合い、前を向いて生きていきたいと思います。

聖書学者・本多峰子さんの福音宣教3月号の記事に、このように書いてありました。

この視点は、当たり前のことのようであって、当然のこととして現実に認識できていないことのように思います。

改めて文章で読み、心が救われた気がしました。

 

カリタスジャパンでは、「ウクライナ危機人道支援」緊急募金の受付が行われています。
郵便局、銀行、クレジットカード決済のいずれかを選択できます。

ぜひ、ご検討ください。

https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

亡くなられたウクライナの市民、軍人、そしてロシアの軍人たちのために、魂の平安を祈ります。

 

いつも「ここにいる」

黄砂や花粉が飛び始めても、久留米の空はエルサレムのように澄み渡っています。

新緑の力強さが感じられる四旬節が始まりました。

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イエス様は、神から『わたしの愛する子、わたしのこころに叶うもの』と言われたのちすぐに悪魔の試みにあわれました。

「神様から愛され、我が子とまで呼ばれたのに、なぜ試されたのでしょうか。」
森山神父さまに質問してみました。

「イエス様もひとりの人間です。
わたしたちと同じように、苦しんだり悲しんだりする存在です。
人間とは、とかく独りよがり、自己中心に陥りがちで、神への信頼を忘れてしまいます。
旧約の民がそうであったように、イエス様でさえ、神にイニシアティブがあることを徹底的に教えられたのです。
わたしたち人間への徴として、イエス様にも試練が与えられたのです。」

6日のごミサのお説教では、宮﨑神父様がこうおっしゃいました。

「四旬節の四十日、四十年といった数字は、永遠の命への準備期間の象徴であり、わたしたちの人生そのものを指しているとも言えるでしょう。
人生では当然、試されたり試練に遭うこともあります。
イエス様も霊によって守られたのですから、どのような時も聖霊の導きに委ねるのです。」

 

わたしたちは、何か困難に遭った時にそれを「神からの試練」とはすぐに捉えられないものです。
苦しい時間を過ごし、神様に祈りながら(時には神様に文句も言いながら)時間の経過を耐え、物事が好転したり気持ちが落ち着いて後、「あぁ、あれは与えられた試練だったのだ」と振り返ることができるものでしょう。

その時のために、あらためて常に心に刻んでおかなければならないと、気持ちが引き締まりました。

今のわたしは、本当の永遠の命を得るために多くの試練を乗り越える必要があること、聖霊がいつもともにいてくださること。

 

悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた。
(ルカ4・13)

フランシスコ会訳聖書の注釈にはこうあります。

[「定められた時」はイエスの受難の時を指す。
その時には、悪魔はユダヤ祭司長や長老たちを使って、イエスに対して最後の攻撃を行う。]

マタイとマルコの並行箇所は、次のように書かれています。

そこで、悪魔はイエスから離れた。
すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた。
(マタイ4・11)

イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・13)

答唱詩編の詩編91・11〜12がこの箇所の根拠です。

神があなたのために使いに命じ、
あなたの進むすべての道を守られる。
神の使いは手であなたを支える。

「あなた」とは、わたしたちのことであると捉えると、とても心強く響いてきます。

 

お前たちの中の誰が、主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。
明かりを持たずに暗闇を歩いて、
なお主の名に信頼し、自分の神に頼るのか。
(イザヤ50・10)

まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、
唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
彼らの働きは不正な働き、手にあるのは暴力。
彼らの足は悪に走り、罪なき者の血を流そうと急ぐ。
彼らの思いは不正の思い、その行く道にあるのは荒廃と破壊。
平和の道を彼らは知らず、巡りゆくその道筋に公正はない。
彼らは自分の行く道を曲げ、その道を歩む者は誰も平和を知らない。
(イザヤ59・3~8)

去年の今ごろは何が起きていただろう、と思い、気になった記事などをファイリングしているものを開いてみました。

ちょうどこの頃、パパ様はイラクを訪問されていました。
過激派組織によって長年苦しみ、宗教的にも政治的にも混乱が続くイラクへの教皇の歴史的な訪問は、冷ややかな姿勢で報道されました。

一昨年のこの頃には、イタリアで新型コロナウィルスが猛威を震い、多くの司祭・修道者が感染者に寄り添うために出かけて行き、命を落としました。

いつも世界のどこかで、想像を絶する苦難や試練に遭っている人がいるのです。

ローマ教皇というお立場は、平和の象徴でもあると思っています。
わたしたちは、いつも困難に遭っている人々に寄り添われる教皇様を信頼し、その言動から神様がいつもそばにいてくださることを感じることができます。

 

 この四旬節の間、食を断つ意味ではなく、本来の「断食」を続けましょう。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ10・8~13) 

わたしは、わたしを尋ね求めなかった者にわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者にわたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った。
(イザヤ65・1)

いないのは神様ではなく、人の心なのだ、ということです。

神様はいつも「ここにいるよ」と寄り添ってくださっていることを、誰もが忘れないように。

 

「断食」という言葉の本来の意味は、次のイザヤ書の言葉の通りである、と以前教わりました。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、
虐げられた人を開放して自由の身にし、
軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、
家のない貧しい人々に宿を与え、
裸を見れば、着物を着せ、
お前の同胞に対して見て見ぬふりをしないこと。

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

2022年の四旬節を、断食の祈りと共に過ごしましょう。