行事風景

ミサ、信徒の役割

イエズス会の英(はなふさ)神父様の本に、こういうくだりがありました。

日本の教会はすでにイエスの口から吐き出されてしまったのだろうか。
主任司祭が不在になっている教会は多い。
そのとき、信者さんの心配はただ一つだけである。

日曜日のミサはどうなるのか。

もちろんそれは大きな問題だが、日曜日のミサさえあれば、それで教会と言えるだろうか。
もちろん日曜日のミサは中心的なものだが、それだけで教会が成り立っているわけではない。

今こそ、教会のメンバーすべてが目を覚ますように、主から望まれているのではないだろうか。
イエスは次のように語っている。

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
(黙示録3,19)

四旬節という、わたしたちキリスト者にとって最も大事なシーズンに入った途端にミサができない事態となりました。

この本は、今のコロナウィルスによる影響について書かれているわけではなく、カトリック教会全体の今置かれている危機的状況について書かれたものです。

ですが、今のわたしたちへのメッセージとも受け取れないでしょうか。

 

前イエズス会総長のアドルフォ・ニコラス神父様は、上智大学の講演で以下のように話されています。

「キリストの体の秘跡とは、聖櫃の中に安置されている聖体のことではありません。
キリストの体の秘跡とは、ホスチアだけではなく、ともに食べ、ともに飲む「おこない」としての感謝の祭儀です。

教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を作るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識していなければなりません。

ここに私たちのアイデンティティがかかっています。」


弟子たちとともにする食事のなかに、イエス様はその生涯の究極の意味を表現されています。

愛する弟子たちに、これまでのご自分の生き方を集約し、これからの十字架の死を先取りする表現として、この食事を祝っています。

最後の晩餐に限らず、イエス様は何度も何度も貧しい人々とともに食事をした姿が福音書に描かれています。
特に、罪びと、徴税人など社会の中でつまはじきにされていた人たちとともに食事をし、神の国の宴への招きを示したのです。

また、どこに座るか、だれを招くか、どのようにふるまうかなど、イエス様の大切な教えの場でもありました。


あなたがたのうちで一番偉い者は年下の者のようになりなさい。
上に立つ者は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く者と給仕する者とでは、どちらが偉いか。食卓に着く者ではないか。
しかし、わたしはあなた方の中で、給仕する者のようになっている。
(ルカ22・26~27)

さらにペトロは説教の中で、イエス様の復活の証人を、
「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活したあと、ご一緒に食事をした私たち」
(使徒言行録10・41)
と呼んでいます。
キリストとしてのイエス様を証しするのは、ペトロたちだけではなく、キリストともに食事をするすべての人々です。

現代のわたしたちも、その証しする人々なのではないでしょうか。

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、
その人もまたわたしとともに食事をする。
(黙4・20)

ニコラス神父様によると、ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す表現です。
つまり、教会の自己表現、教会の生きる場である、というのです。

ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにしてるのです。

 

お二人の神父様のお言葉から、ミサの意義、そのなかでの信徒の担う役割と責任について、とても考えさせられました。

久留米教会のお二人の神父様、「Mr.なごみ神父」と「Mr.癒し助祭」です。