行事風景
信じるものの力
皆さんとともに与るミサが再開されました。
昨年以来の経験がありますので混乱も戸惑いもなく、消毒をして検温、座席表に氏名と連絡先を記入、マスクを着用しての人数制限のミサがまた始まったのです。
花壇の植物もお花も、以前と同様に有志のおばさま方によって季節を感じさせてくれる美しい姿に手入れが続けられていました。
信仰は、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
(ヘブライ11・1)
ヘブライ語の修辞法である同義的並行法という書き方で、「望んでいる事、希望していること」と「見えない事実、見えなないもの」は同じなのだそうです。
「目に見えない永遠の事柄」を保証させ、確信させる、それが信仰だというのです。
わたしたちは、「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの代限りものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(フランシスコ会訳)
(2コリント4・18)
あなた方は、イエスを見たことはありませんが、愛し合っています。
今、見ていませんが、信じて、言い尽くせない輝かしい喜びに溢れています。
それは、あなた方が、信仰の実りである魂の救いを手にしているからです。
(フランシスコ会訳)
(1ペトロ1・8~9)
信仰とは、毎日曜日にミサに与ることではない。
そう分かっています。
特にこの2年の間に教会が2度閉鎖になるという経験をしている間に、いろいろと考え、本を読み、神父様方にお話を伺い、ミサがすべてではないとよく分かりました。
ですがやはり、日曜日に同じ信仰を持つ方々とお会いして言葉を交わす時間は、何ものにも代えがたい、心の喜びを感じさせてくれます。
お説教で宮﨑神父様がおっしゃいました。
「日曜ごとにミサに与り、イエス様のご聖体をいただく。
これは、カトリック信者の信仰の中枢です。」
教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿のバチカンで四旬節の説教の一節をご紹介します。
カンタラメッサ枢機卿は、マルコ福音書の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1,15)という、今日も響くイエスの呼びかけを観想するよう招かれました。
イエス以前は、悔い改めるとは「後に戻る」、つまり道をはずれた者が律法と神の契約に再び入ることを意味したが、イエスの到来によってその意味は変わった、と枢機卿は強調されました。
「時は満ち、神の国は近づいた」この時、悔い改めるとは、後ろに、すなわち古い契約と律法の順守に戻ることではなく、むしろ、神の国に入るために前に跳躍すること、そして神が王としての自由な意思によって人々に無償で与える救いをしっかりつかみ取ることを意味する。
「悔い改めて福音を信じる」とは、連続する二つの行為ではなく、同じ本質を持つ一つの行為であり、「悔い改めよ」とは「信じなさい」と同義である。
見えない神を信じるわたしたちの確信。
そのことを同じ空間で同じ方向を向いて各々が確認し、喜びを分かち合う時間、それがミサではないでしょうか。
久留米教会出身のMr.癒し神父の声でリラックスしてください。
(ホントに癒されます!!)
苦難の折の祈りのことば
10年前の3月11日、どこで何をしていたか覚えていますか?
わたしは知り合いからの電話でテレビをつけ、大きな地震が起きたことを知りました。
個人的に2011年は、苦難の毎日でした。
どうやって生活(食事や掃除洗濯など)していたか全く記憶がないほど全てのことが大変で、それ以前もそれ以後もあれほど苦しい年はありません。
東日本大震災で被災された方々は計り知れない苦難の日々を送られていたことと思います。
苦難の大小は比較できるものではありませんが、あの2011年はいまのコロナ禍とは全く違った苦しみの日々を送った大勢の方がおられました。
わたしは、あの日々があったからこそ今がある、と確信しています。
10年経った今は自信を持って「乗り越えた」と言える心境です。
2011年を何年もかけて乗り越えられたのは、間違いなく神様がずっとそばにいてくださったからです。
福音宣教3月号の中から、聖書学者の本多峰子さんの連載の要点を書き出してみます。
◆苦しみが本当に無効にされるには、その苦しみがより大きな善のひとつの原因となって、その苦しみがあったからこそもたらされるよいことが成就しなければならない。
◆つらい経験の後では、いままでは当たり前と思っていた幸せを何倍も強く、大切に感じることができるようになるということもある。
けれども、それは苦しみの目的ではなくて、結果だ。
神様はそのようなことのために苦難をお与えになるのではなく、むしろ、そのような苦難の中からさえも幸せをもたらしてくださる、ということ。
◆神様はわたしたちに、苦難を乗り越える力や助け合う力を与えて、助け合って成長してゆくことさえも可能にしてくださっている、ということが恵み。
◆苦難があるから至福があるのではなく、苦難があっても至福がある。
◆神様はわたしたちの成長のために苦難を与えるのだと考えるよりも、苦難の最中にあって神様はわたしたちを助け、わたしたちを成長させてくれる。
眠れないほどの苦難の最中にできることは、その現状に抗うことではなく、神様へのクレーム(「どうしてですか!?」「どうしたらいいのですか!?「なにをお望みですか!?」など)とともに祈ることしかできない、というのがわたしの経験です。
苦難の折に聖ヨセフへとりなしを願ってみることを勧めます。
聖ヨセフへの祈り
以前ご紹介したとおり、今年の12/8まで聖ヨセフ年となっています。
それに伴って新しい祈りのことばが発表されました。
聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。
あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。
イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに
力強い助けをお与えください。
聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。
愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。
力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。
かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。
わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。
あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。
アーメン。
(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)
次にご紹介する祈りは、教皇フランシスコが40年以上毎日唱えられている、イエズス・マリア修道会の19世紀の祈祷書の中の聖ヨセフへの祈りです。
栄光に満ちた父祖、聖ヨセフ。
あなたは不可能なことを可能にできる力のあるかたです。
苦悩と困難にある今この時に、どうか助けに来てください。
深刻で困難な状況を、わたしはあなたにゆだねます。
あなたの保護のもとに引き受けてください。
そうして、よい解決策を得ることができますように。
愛する父よ。あなたを心から信頼します。
あなたにむなしく祈った、そうなることのないように。
あなたはすべてのことを、イエス、マリアとともに行われるのですから、あなたからの恵みが、あなたの力ほどに大いなるものであることを示してください。
アーメン
この祈りは、先ほど発行された新しい使徒的書簡「父の心で」に紹介されていました。
あの震災から10年。
心の傷が完全に癒えたとは感じられない方もまだ多くいらっしゃることでしょう。
コロナ禍の様々な規制によって苦難の最中にある方も多い今、「沈黙の聖人」と言われる聖ヨセフへの祈りが心の支えとなりますように。
自らのありようを選ぶ
四旬節が始まって聖堂が解放されているのと、宮﨑神父様のお顔も見たかったので、久しぶりに教会に行ってみました。
やはり、お御堂でお祈りすると心が落ち着き、一種のリフレッシュの効果があります。
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有名人であれば、言ったこと(たとえそれが過去の発言でも)、行動(何十年前のことでも)が「現代の規範からすると間違っている」と誰かが判断したら、瞬く間に世界中に広まり、見知らぬ多くの人から非難され、謝罪を要求され、精神的にも追い詰められ、仕事を失う。
それが現代社会です。
「過去であろうと過ちは絶対に許されない」のが今の世の中です。
たとえば、昨年のアカデミー賞授賞式の司会に決まっていた人は、何年も前にツイッターで人種差別的な発言をしていたことを掘り起こされ、司会者を辞退するまでに追い込まれました。
「今の自分は変わった。過去の失言を恥ずかしく思う。」そう謝罪しても時すでに遅し、でした。
周囲の人にしょっちゅう失言したり失礼な態度をとってしまうわたしは、その基準からすれば誰からも許してもらえなくなるのでは、、、。
「裁くな」「おが屑と丸太」「自分の量る秤」
1500年前からのこの教えは、今もまだ有効です。
キリスト者にだけ効力があるのではなく、これらのことが書いてある聖書の箇所を読んでみれば、聖書を初めて聞く人だれにでも分かり易い、至極当然のこととして理解してもらえると思います。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイ7・1~5)
どうして人は、こんなにも他の人に厳しいのでしょうか。
最近のSNSでの他者へのバッシングや誹謗中傷の問題を見聞きするたびに、この疑問が渦巻きます。
今年から、福音宣教を定期購読し始めました。
こうした疑問を解消したい、自分はどうあるべきか、そういう目的で読んでいると閃きのような文章が目に留まります。
(一番のお目当ては、聖書学者の本多峰子さんの神義論の連載を読むためです。
その内容についてはいつかゆっくり書いてみたいと思っています。)
3月号のシスター加藤美紀さんの文章にあったことを少しご紹介します。
著作「夜と霧」などで有名なヴィクトール・E・フランクルの考え方を紹介していらっしゃいます。
フランクルによると、ラテン語で「人格」を表すペルソナは、ラテン語の「響き渡る」を意味する単語に由来しています。
人間とは常に自らの良心の内に神の声が響き渡っている存在であり、その神からの呼びかけに応答して初めて、人間は実存の本質を生きることができるのだと、フランクルは主張しています。
その前提として、人間は根本的に自由な存在だからこそ、自らの意思で決断しながら責任をもって神様に応答できるのだ、と言います。
☆人生の意味への問いに対しては詮索や口先ではなく、正しい行為によって応答しなければならない。
☆この場合の「行為」とは、ある状況においてとる態度のこと、生き方をもって示すことを含意してる。
☆精神的な態度も含め、自らの行為によって意味を闘い取って人生の意味を実現させる。
他の誰も代わることのできないその人固有の生の意味は、本人が決断して選んだ行為(ありよう)によって初めて実現されることになるのです。
このフランクルの生き方のありようについての考え方にはとても心打たれました。
必要以上に人に厳しくしてしまう気持ちが渦巻いてしまったら、「正しい行為の選択」と「自らの人生の意味を実現する過程に集中する」ことに心をシフトしたいと思います。
四旬節の間、わたしたちは「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」(回勅『Fratelli tutti』223)、いっそう気をつけなければなりません。
これは、パパ様の四旬節メッセージの一節です。
心に刻んでおきたい大切なことばです。
「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」
四旬節の始まりに、よい気づきを得られた気がします。
世界の諸問題を考える
聖ジュゼッピーナ・バキータの日、2月8日「人身取引反対のための祈りと考察の日」のパパ様のインスタグラムです。
フランシスコ教皇のインスタグラム、ツイッター、ヴァチカンニュースを毎日チェックしています。
信仰生活に役立つことばを探すためだけではなく、パパ様の発言・発信されることは世界の問題に目を向けさせてくれるからです。
以前からラウダート・シなどで警鐘を鳴らし続けてこられている環境破壊の問題についても、インド北部で発生した氷河崩壊によって川の氾濫が起きたという衝撃的なニュースはわたしたちに恐怖を感じさせます。
(北極の話ではないのです。わたしはインドで氷河が崩壊するなど想像できませんでした。)
一方で、人身売買や人種差別、キリスト教徒の迫害。
こうした問題は、日本人にとってはあまり現実的なこととして捉えられないのではないでしょうか。
コロナウィルスの感染についても「身近にいないから」という理由で現実味を感じないという日本人が多いと聞きます。
2月12日の統計では世界で1億750万人以上が感染し、236万人以上の方がこのウィルスによって亡くなっています。
ワクチンを開発した欧米ではワクチン接種が進んでいますが、「輸出制限」といったニュースも耳に入ってきており、世界の隅々にまで本当に行き渡るのかという懸念も生じています。
これらは実際にいま、この現代社会において起きている重大な問題です。
竹下節子さんのブログに書いてあったことを2つご紹介します。
①人身売買、臓器売買という問題
ヨハネ・パウロ二世の友人で臨終にも立ち会っていたというポーランド人の女性ワンダ・プウタスフカさんについてです。
彼女はいま100歳でご存命ですが、18歳の時にカトリックのナチスへのレジスタンス運動をしたことによって人体実験のための収容所に連行されました。
ある日、次の日に実験室に呼び出される2人の名が知らされました。その一人がワンダさんでした。
呼び出されるということは死を意味します。
その夜、60歳の女性が、同じく呼ばれたもう一人の20歳の女性に「あなたは若いのだから、明日名前を呼ばれたら私が代わりに返事して連行される」とコルベ神父さまのように身代わりを申し出ます。
ワンダさんにも同じように身代わりを申し出る人がいたそうですが、彼女は断ります。
年齢によって命の軽重はないと思ったからです。
翌朝最初の1人の名が呼ばれ、身代わりの女性が立ち上がります。
そして、2人目のワンダさんの名は呼ばれなかったというのです。
彼女は奇跡的に助かりました。
②キリスト教徒の迫害
世界の人口は今や80億人に近づいていますが、60億人とした時の統計では、その3分の1である20億人がなんらかのキリスト教の「洗礼」を受けていて、10億人がイスラム教徒、30億人がそれ以外(無宗教も含む)。
中国でも、6千万人が洗礼を受けていると言われています。
中近東などアジアのキリスト教徒の4割が、キリスト教徒であるということで迫害を受けているというのです。
アブラハムの出身地イラク、パウロの回心の地シリア、これらの地域には20世紀には400万人のキリスト教徒がいたのに、今は90万人を切っているそうです。
なぜなら裕福な人は外国に移住し、残っているのは最も貧しいキリスト教徒たちなのです。
イラクやシリアでは、キリスト教以前のアッシリアなどの文化遺産も破壊され続けています。
今のイランには100-500万人の隠れキリシタンがいるとも言われています。
エジプトのコプト・キリスト教徒は生まれると手に十字架のタトゥを入れられるそうですが、そのことで差別があったり、逆にラマダンを強制されるといいます。
地球環境の崩壊、コロナウィルスの蔓延、ワクチンの囲い込み、人身・臓器売買もキリスト教徒の迫害も、今現実に起こっています。
パパ様がよくおっしゃいます。
無関心が一番罪である、と。
日本に住んでいるわたしに実際に何ができるのかと、ももどかしく感じます。
☆今年の「人身取引反対のための祈りと考察の日」の目標は、この恥ずべき取引を直接的また間接的にも広げることのない経済のために努力することである。
それは、すなわち人間を決して商品のように扱い、搾取することなく、それとは反対に、人間に寄与する経済をめざすことである。
☆「ケアの権利」、貧しい人や疎外された人を救う責任、医療福祉とケアの分野において利益の論理に引きずられることがないように。
☆ワクチンが、貧しい人々をはじめすべての人に行き渡るよう、その平等な配給のための国際レベルの取り組みを。
こうした世界の問題に目を向けて知ること・考えることはとても大事なことだと思います。
家庭でのゴミの削減、日常生活においてフェアトレードのものを優先すること、支援活動している組織への寄付など、具体的な行動をとっていくことは、わたしたち個人が出来る最低限のことではないでしょうか。
文字にして残すということ
パソコンで仕事をし、スマホでやり取りをする日常。
実際に字を書くことは本当に少なくなりました。
わたしの場合、『お恵みノート』と自分で呼んでいるノートに、今日感じたお恵みを書き記す習慣を長く続けていて、字を書くのはそれくらいかも。
この教会のホームページにこうして書いていることにはわたしなりの意味があります。
学んだこと、知ったこと、お伝えしたいことを多くの方にご紹介したい。
信仰を深める一助となれば。
教会に感心を持っていただけるきっかけになれば。
久留米教会の出来事を記録として残し、またいつでもどなたでも読んでいただけるものとして。
宮﨑神父様が「自由に書いていいよ」と言ってくださるので、お言葉に甘えて色々なことを。
なぜ文字ができたのでしょうか。
世界最古の文明発祥の地、古代メソポタミアで楔形文字が考案されたのはBC3000ごろとされています。
今から5000年以上も前、メソポタミアではシュメール文化が起こり、少し後にはインド・パキスタンでインダス文明が起こり、その後にはエジプトでは古代王国が栄えてギザには大ピラミッドが建設されました。
同時期の日本は縄文時代後期!
考案したのはシュメール人で、彼らは最初は例えば、物々交換の記録といった実用的な使い方をしていました。
時代が下るにつれ、文字は神聖化されていき、BC2000年後半以降のメソポタミアでは「文字には過去の英知が宿っている」といった神秘的な考え方が生まれていたそうです。
西アジアの楔形文字文化圏では、文字文化が発達するBC3000年以降のおもな都市遺跡からはほぼ例外なく文書庫や図書館が発見されています!
例えば最大規模の図書館としてはBC1114~1076年のティグラト・ピレセル1世のものが有名で、2万枚を超える粘土板文書が出土しています。
内容は、「ギルガメッシュ叙事詩」「エヌマ・エリシュ(創世神話)」などの文学作品、諸王の年代記、天文書、医学書、法学書、シュメル語をアッカド語に訳した語彙集など、多岐にわたっています。
先ほど書いたように、最初に文字が考案されたときは(発見されている粘土板によると)実用的な使い方をしていました。
その後、街の都市計画や戦闘の記録にも使われていきます。
都市が整備されていくにつれ、人々の生活にはさまざまな決め事やルールが必要となってきました。
つまり、人々が生活するうえで文字として約束事を残していく必要が生じたことが文字の発達の意味であるようです。
ですが、王ですら必ず文字の読み書きができたわけではなく、専門の役人が粘土板に掘って焼いて、それを手紙として他国の王に送ったりなど、必ずしも実用品ではありませんでした。
文字の始まりはおよそBC3000年ですが、旧約聖書が書かれたのはバビロン捕囚後のBC500年以降です。
聖書が文字として書かれた意味はなんでしょうか。
後世に残すために書いた、とは思えません。
当時の人々が、2500年後のわたしたちが読むことを想定して、期待して文字に残したわけではないと思います。
バビロン捕囚とは、精神的支柱であった王を失い、神からの嗣業であった土地を奪われ、ユダヤ人の誇りであったソロモンの神殿を破壊されるという、ユダヤ民族そのものが消滅する危機だったのです。
神と交わした約束を捉えなおしどこに基を置いて国を立て直すか、そうしたことを深く考えて民族の誇りを忘れないように、取り戻すために(旧約)聖書を書いたのです。
聖書に書かれているのは「神のことば」ではなく、人間とは何者なのか、何であり得るのか。
神とは誰か、というより人間とは何かということ。
どうしたら人間は天国に行けるかが書いてあるのではなく、どうしたら人間が人間らしく生きていけるか、どうしたら人間は神の望むように生きていけるかが書いてあるのが聖書である。
人間は自らの罪や限界にぶつかったとき失望し、またある場合は絶望する。
その限界をどのように乗り越えるか。
そこに無限の永遠の存在=神が必要となる。
その意味で、苦難や苦悩は人が神に出会うきっかけとなる。
そう、ある神父様がおっしゃっていました。
前回ここに書いたように、数千年に一度の歴史の転換点に生きるわたしたちです。
聖書と神様について子どもたちにどう伝えていくか、深く考える必要に迫られていると思います。
丘を登る勇気
先日、ある神父様といろいろなお話をしました。
その中でも、多くの方と共有したいと思ったテーマは、「エジプトに戻ることばかりを考えちゃいかん!」ということです。
現在の世界の状況をよく見て、考え、理解するならば、「元の世界に戻る」ことが幻想であると気づくはずです。
「元の世界」とはすなわち、ウィルスの感染に怯えることなく、自由に、計画したとおりに、楽しみを追い求め、安定した、そうした生き方ができることです。
わたしたちは知っています。
自由を求めて、労働の代わりに食事に事欠くことのなかったエジプトから脱出した民が、荒野での生活に嫌気がさし「エジプトの方が良かった、エジプトに戻りたい、元の生活に戻りたい」と訴えていたことを。
王に隷属させられ自由がなかったエジプトでの生活から出て、安定を捨てても神に仕えることを選んだことを忘れてしまった民のことを。
わたしたちは分かっています。
苦難は「40年」続くことを。
40年とは数字通りの年数ではなく、長い時間がかかるという意味だと。
長い年数をかけて、苦難を噛みしめて乗り越えていかなければ得られないことがあることを。
数年で元に戻したい、そういう感覚で生きていく時代ではないのではないでしょうか。
『よく聞け、しかし、理解するな。
よく見よ、しかし、悟るな』。
この民の心を鈍くし、その耳をふさぎ、その目を閉ざせ。
自分の目でみることなく、
自分の耳で聞くことなく、
自分の心で悟ることなく、
悔い改めて癒されることのないために。
(イザヤ6・10)
よく考えてみましょう。
自分の目と耳と心を研ぎ澄まして、よく考えるのです。
今の時代は、地球全体の歴史の上に於いて、数千年に一度訪れる大きな大きな変革の時である。
そのことをもっとみんなが理解して行動し、生き方を変えていく必要があるのではないか。
こんなことを、神父様と盛り上がってお話しました。
アメリカの大統領就任式で詩を朗読した若い女性、アマンダ・ゴーマンさんの『The Hill We Climb (私たちがのぼる丘)』をお聞きになりましたか?
彼女の詩は、この4年で分断され暗く陰ったこの国をわたしたちが立て直すのだという、強く勇気溢れる気持ち、鮮やかな希望が表現されています。
わたしは、今世界が置かれている変革のチャンスの時とその丘に勇気をもって登っていくのだ、という風にも読むことができると感じました。
少し抜粋してご紹介します。
日が昇ると、私たちは自問する──どこに光を見いだせようか、この果てなき陰のなかに。
私たちが引きずる喪失、歩いて渡らねばならない海。
私たちは果敢に、窮地に立ち向かった。
平穏が平和とは限らず、「正しさ」の規範や概念が正義とは限らないことを学んだ。
それでもその夜明けは、いつのまにか私たちのものだ。
私たちは、完全なる一致を形作ることを目指しているわけではない。
私たちが目指しているのは、意義ある一致を築くことだ。
聖書は私たちにこう幻を抱くようにと語りかける──
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」
(ミカ書4:4)
私たちがこの時代に応えようとするのであれば、勝利は刃ではなく、私たちの作ったあらゆる橋にあるのだ。
それが、木立ちのなかの空き地、私たちがのぼる丘の約束だ──ただし私たちが果敢にのぼりさえすれば。
この信仰に、私たちはより頼む。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはその始まりにあって、恐れた。
そんな恐ろしい時の後継ぎになる備えができているとは思えなかった。
それでもその内側で私たちは見出した──新しい章を著す力を、自分たちに希望と笑いを与える力を。
かつて私たちは問うた──「私たちはいったいどうしたら破滅に勝りえようか」
いま私たちは断言する──「破滅はいったいどうしたら私たちに勝りえようか」
私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。
私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
だが、ひとつ確かなことがある。
私たちが慈悲と力を、力と正しさを解け合わせるなら、
そのとき愛が私たちの遺産となり、変革が私たちの子供たちの生得権となる。
(クーリエジャパンのHPより引用 全文は以下のアドレスでご覧になれます。)
https://courrier.jp/amp/229523/?utm_source=yahoonews&utm_medium=related
いかがですか。
アメリカだけの話ではない、そう感じませんか。
繰り返しになりますが、ここだけでも暗記したいと思った箇所です。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。
私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
次の数千年の幕開けのために、エジプト(元の暮らし)を忘れて果敢に丘(新しい生き方)にのぼっていく。
それは、おそらく将来の歴史の記録に刻まれることになるであろう今を生きているわたしたちの責任なのです。
信仰のモチベーション、教会の在り方、教会へのコミットの仕方も同様です。
いま、ありし日々を懐かしむばかりで何もしないこと
-----早く元の生活が戻りますようにとばかり祈ること
-----自粛するだけで次を見据えて行動しないこと
は、子どもや孫の世代に対して無責任なのだ、と若い詩人が教えてくれました。
自己を見つめなおす時間
カトリック生活を定期購読しています。
2月号は『映画の中のカトリック』が特集されており、たくさんの映画が紹介されています。
日曜日の午前中は教会で過ごすことが習慣でしたので、ぽっかり空いた時間に、以前から観たいと思っていた映画「修道士は沈黙する」をようやく鑑賞しました。
正直に告白しますが、とても難解な内容でした。
タイトルのとおりに「告解」と観想修道会の修道士であるサルス神父が重要なキーなのですが、想像とは違い、世界経済を動かす強欲で権力主義の人間の心の闇がテーマでした。
映像と音楽が美しく、無駄な描写は一切なく、洗練されたリゾートホテルの中だけでストーリーが展開していきます。
告解の内容を教えるように迫られますが、戒律を理由にサルス神父は沈黙を貫きます。
「沈黙こそがいかに雄弁であるか」が根底に流れるもう一つのテーマのようです。
サルス神父はカルトジオ修道会所属の修道士という設定です。
映画「大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院」で世界的に知られるようになったあの修道会です。
カトリック教会の中でも最も戒律が厳しく、現在は約200人の修行僧が「沈黙」「孤独」「清貧」を重んじた生活を送っているそうです。
この映画の(わたしが考える)最大の見どころは、ラスト5分でサルス神父が登場人物全員を前にして語るお説教です。
「自らを見つめなおしなさい」「自己を律するのです」と言われている気がしたのです。
権力欲、金銭欲、物欲に支配されている現代社会(登場人物たち)への戒めのお説教が、まるで自分に対して語られているかのような錯覚に陥りました。
それまでの100分以上、ずっと重苦しい空気が流れているストーリー展開だったのが、雲が晴れたようにラスト5分ですがすがしい爽快感に包まれる、圧巻のお説教です。
あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように地や空の模様を見分けることは知っているのに、どうして、今の時を見分けることを知らないのか。
(ルカ12・54~56)
福音書のこの箇所を思い出しました。
わたしの愛読書、カール・ヒルティの言葉も浮かびました。
神の霊がしばしば思いがけない仕方で訪れてきて、その生命と喜びをもってわれわれの全存在を満たし、一瞬のうちにすべての重荷をわれわれの心から取り去ることがありうる。
(「眠られぬ夜のために」より抜粋)
今の時に与えられた重荷とはなんでしょうか。
ヒルティの言う「神の霊が思いがけない仕方で」ある日訪れて「満たし」「重荷を心から取り去る」という経験はわたしもあります。
それは、素晴らしい映画を観たとき、心を揺さぶる本を読んだとき、音楽に涙するときにも訪れます。
アメリカの新大統領就任式で、コロナウィルスによって亡くなられたすべての方へ黙祷が捧げられたのを見たとき、そこに神の霊が訪れたのを感じました。
祝賀会の最後を飾った、歌手のケイティ・ペリーの感動的な歌と打ちあがる無数の花火に涙が出ました。
わたしも、やはりこのコロナ禍の生活でストレスがかなり溜まっていたようです。
素晴らしい映画と、就任式の黙祷、歌手たちの素晴らしい歌声に涙し、心の重荷が少し軽くなったような気がします。
困難に直面したときには、泣いておられるイエスを思い浮かべるとよいでしょう。
少なくともわたしには効き目があります。
エルサレムを見て泣いておられるイエス、ラザロの墓の前で泣いておられるイエスです。
神はわたしたちのために泣いてくださいました。神は泣いておられます。
わたしの苦しみのために泣いておられます。
神は泣けるようになるために――ある神秘家によれば――、自ら人間になろうとされたのですから。
自分と一緒にイエスが苦しんで泣いておられる姿を思い浮かべることは、慰めとなり、さらに前に進む助けとなります。
イエスとのきずなを保ち続けるなら、たとえ人生から苦しみが無くなることはなくても、幸福に向けた素晴らしい地平が開け、その充満に向けて進むことができるでしょう。
勇気をもって、祈りながら進みましょう。
イエスはいつもわたしたちのそばにおられます。
(教皇フランシスコ、2020年10月14日一般謁見演説より)
神が、イエス様がいつもわたしたちのそばにおられることを決して忘れてはいけない、改めてそう心に刻み、自己を見つめなおす毎日です。
役割とその担い手
久留米教会も、福岡県の緊急事態宣言が終わるまでミサは中止となっています。
各人が引き続き感染防止に努め、一日も早く事態が収まるように行動自粛を心がけましょう。
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教皇フランシスコは、自発教令の形をとった使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」をもって、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性のみならず、女性も正式に選任することができるよう、教会法を改定した。
今日の教会において、男性・女性共に、信徒がみことばと祭壇への奉仕に委託を受けて参加することは、認可のもとに、世界中に定着している。
このように状況に応じて「臨時の委託」を受ける奉仕者に対し、正式な儀式をもって朗読奉仕者ならび祭壇奉仕者に「選任」される者は、伝統的に男性に限られていた。
教皇フランシスコは、このたびの自発教令を通し、教会法230条1項を改定、司教協議会の規則が定める年齢と素質をもった信徒を、正式な典礼によって、選任の朗読奉仕者と祭壇奉仕者とする道を女性にも開いた。
このニュースを読んだときの率直な気持ちは、
「知らなかったけど、今頃なの?!」
久留米教会は、昨年6月から主日のミサを4回行ってきました。
(宮﨑神父様、本当にありがとうございます!!)
土曜日19:00,日曜日6:30,9:00,11:00
このうち、日曜日の9時と11時のミサの聖書朗読をしてくださる方2名ずつ、つまり毎週4人の方に依頼する役割を担わせていただいています。
去年まで、日曜日9時のミサで聖書を朗読される方、答唱詩編を歌われる方は、同じようなメンバーでした。
典礼の担当者に「もっといろいろな方に読んだり歌ったりしていただいてはどうですか?」
と、ご苦労されていたことも知らずに言ってしまったことがあります。
「皆さん、断られるのよ」
去年の6月にミサが再開されてから、毎週4人の朗読者を捜して依頼するのは確かに結構大変でした。
「恥ずかしい」
「まだ無理」
そうおっしゃる方に、優しくしつこくお願いするようにしてきました。
「一度やってみてください」
「練習してきてください」
「ご自宅で聖書を開いて読んでみてください」
ベトナム、フィリピンの方には「フリガナがふってあるからよく練習してきたらできる!」と励ましながら。
初めての朗読を終えた方のほとんどが
「またやってみたい」
そうおっしゃるのです。
最近は立候補してくれる方もたまに。
とにかく、やったことがない方にできるだけお声をかけるように。
冒頭にご紹介したニュース、なぜ今まで男性に限られていたのか、その理由は十分に理解しています。
ただ、「いまごろ?!」と思ったのは、司祭の召命が世界中で激減している現代、任せられる役割はどんどん振り分けてよいはず(女性に、ではなく誰にでも)と感じているからです。
聖書朗読、第一朗読(預言書など旧約)と第二朗読(書簡)はその簡単な例でしょう。
第一は女性、第二は男性、という習慣?慣例?も、宮﨑神父様は「気にしなくてよい。」と言ってくださいます。
読みたい人、読める人がちゃんと練習してから読めばよい、と。
今まで円形のアドベントクランツを準備してきたのですが、去年は初めて長方形にして横一列にロウソクを並べてみたいと計画しました。
インスタグラムなどで素敵だと思ったし、円形よりもスクエアの方が作りやすいのです。
その時も宮﨑神父様は、「厳格な決まりがあるわけじゃない。作りやすいようにやっていいよ。」と。
つまり、そうやって「任せてくれる」とハードルが下がり、誰にでもできる役割が増えるのです。
これは、教会のことに限ったお話ではありません。
家庭での子どものお手伝い、会社での若い社員への仕事の割り振り、地域の行事など、どの場面でも同じようなことが考えられます。
いつまでもすべての家事をお母さんがこなし、自分がやったほうが確実で早いからと中堅社員がなんでも引き受け、伝統行事を知り尽くしている年配の方だけが地域を取り仕切る。
そんなことでは世の中は全く回らなくなる。
実感された経験をお持ちではありませんか?
年明けのごミサの時、神学生の吉浦君が冬休みで来ておらず、祭壇のロウソクの灯がともっていませんでした。
それに気づいた高校生の男の子が、誰に指示されたわけでもなくロウソクを灯してくれました。
遠くからその様子を見ていて、とても嬉しい気持ちになったのです。
「プレゼピオを片付けなきゃ」と佇んでいたら、「手伝いましょうか?」と集まってきてくれた子どもたちやベトナムの若者たち。
何も言わなくても気づいて動いてくれる若い人がいます。
久留米教会っていいな、と2021年の始めはそんなミサが続いていました。
気を引き締めなおしましょう。
国が、政府が、行政が、と言っている場合でもそういう問題でもありません。
わたしたち一人ひとりの行動がまず第一です。
今年は御復活をお祝い出来ますように。
まずはそこに目標に置いて、静かに暮らしましょう。
2021をよりよく生きるために
聖堂の横の庭園スペースに、新しく石碑が据え置かれたことにお気づきになりましたか?
イエスのみこころにささげられた久留米教会
教会を訪れる人がそのことをいつも思い起こせますように。
キリスト教は3世紀前半まで、まったく政治利用、権力利用されていませんでした。
エルサレムの神殿が起源70年に壊されてほとんどのユダヤ人のディアスポラが始まるまでは、宗教とさえ認められていません。
なぜならローマ帝国は「新宗教」を認めていなかったからです。
キリスト教はユダヤ教の分派と理解されていました。
それからの歴史のいろいろな経緯で、西欧キリスト教文化という今の「近代世界」のベースができたのです。
これは、竹下節子さんのブログに書いてあったことばです。
今では欧米のほとんどの国が、何らかの形でキリスト教の歴史の上に形成されているのは、そう考えると不思議なことにも思えます。
そう。
現在わたしたちが信じていること、生きているこの世の中は、長い長い歴史と葛藤と不思議なことの積み重ねでできているのです。
いまから何年経ったら、コロナウィルスの蔓延とアメリカ大統領選挙の混乱がもたらしている現状が歴史に意味をもたらすでしょうか。
そう考えずにはいられない、2021年の始まりです。
わたしたちの歴史に刻まれるであろうこの2つの出来事にも、政治的、宗教的な権力闘争、利害の対立があります。
示されているはずの教訓を人々(わたし)が実際に受け止めるのはずっと先のことのように感じています。
理想とする連帯、実際には分断
思いやりと希望、現実には批判と非難と不安
わたしたち人間の弱さと愚かさを毎日見聞きし、実際に自らがその悪魔にとり憑かれることを体感する日々。
なぜ協力できないのか。
なぜ批判ばかりするのか。
そう言いながら、他者を非難する。
この悪循環を今年は断ち切りたい。
わたし自身のこと、わたしの決意ではありますが、多くの方も思い当たることはないでしょうか。
何事にも意味があります。
歴史上、人間は多くの過ちをおかしてきました。
その都度、もとに戻すのではなく軌道を変え、価値観を新たにし、示された意味を理解しようと努めてきたはずです。
洗礼を受けている、というお恵みを忘れてはいけないときです。
2020年は良いことがなかった、と感じている方が多いかと思います。
2021年はよりよく生きていきたい、そう思っています。
聖書に落ち着きを見出したい。
そう思って、無作為にページを開いて読むことにしました。
(昔からそうしています。
今週の朗読箇所を読む、読み方ではなく、あえて無作為に開いてみるのです。
そうして開いて読んでいくうちに、求めていた言葉に出会えた時の喜びは格別です。)
嵐における主の栄光
神の子らよ、主に帰せよ、
栄光と力を主に帰せよ、
み名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
主を拝め、聖なる方の現れる時。
主の声は水の上。
栄光の神は雷鳴をとどろかされる。
主は果てしない水の上。
主の声には力があり、
主の声には威厳がある。
主の声は杉の木を砕き、
主はレバノンの杉を打ち砕く。
主はレバノンを子牛のように、
シルヨンを若い野牛のように躍らせる。
主の声は火の炎をひらめかす。
主の声は荒れ野を震わせ、
主はカデシュの荒れ野を打ち震わせる。
主の声は雌鹿をのた打ち回らせ、
森を裸にする。
その神殿ですべてのものは「栄光あれ」と言う。
主は洪水の上に座し、
主は王としてとこしえに座られる。
主はご自分の民に力を与え、
主はご自分の民を祝福し平安を与えてくださる。
(詩編29)
荒れ野と乾いた土地は歓喜し、
荒地は喜び、花を咲かせる。
水仙のように花を咲かせ、
まさに喜びに喜んで歓呼し、
レバノンの栄光とカルメルとシャロンの威光がこれに与えられる。
彼らは、主の栄光、
わたしたちの神の威光を見る。
弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
実よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。」
その時、見えない人の目は開かれ、
聞こえない人の耳は開けられる。
その時、足の不自由な人が鹿のように跳ね、
口のきけない人の舌が喜び叫ぶ。
荒れ野には水が、
荒地にも流れが湧き出る。
焼けつく砂地は池に、
乾いた土地は泉となり、
かつて山犬が伏した棲処に葦やパピルスが生える。
永遠の喜びが彼らの冠となり、
喜びと楽しみが彼らに追いつき、
悲しみと溜息は去る。
(イザヤ35)
聖書を開きましょう。
宮﨑神父様がいつもおっしゃっています。
もっと聖書を身近な存在にしてみるのです。
難しく考えなくてもよいのです。
聖書にもっと親しむことによって、自分に与えられているお恵みに気づき、抱えている不安の解決の助けとし、今本当に必要なことを見極める知恵を呼び覚ましましょう。
☆神の音楽の音を出してくれるハーモニーである聖書
☆相違なる音から一つの救いの音声を放つ聖書
☆一面に花の咲く平原である聖書
☆神からの手紙
☆人間の故郷である天国からの手紙である聖書
初代教会の教父たちは、聖書をこう表現したそうです。
聖書を読んだことのある人はほとんど例外なく、この書物の中に何か大切なことがあると言います。
ある人は判断や行動の基準となるものを見出し、
ある人は人生を精神的に豊かにするものを求め、
病んだ心を癒してくれることば、正しく導いてくれることばを探し出す。
優れた文学や偉大な哲学書として読む人もいるでしょう。
人々は聖書にいろいろな仕方で近づいており、そのいろいろな読者の関心に幅広く答える不思議な書物である、と和田幹男先生はおっしゃっています。
2021年はいつも聖書をそばに。
『成人』することの意味
皆さま、2021年あけましておめでとうございます。
今年も、毎日のお恵みを見逃さず、各々が置かれている立場と与えられた責任に忠実に、思いやりと感謝に溢れた日々を生きていけますように。
3日のごミサでは、今年20歳の成人となる信徒のお祝いがありました。
日本では『成人』というと、「お酒が飲める年齢になった」というイメージが強いのですが、本来の成人するという意味は「社会的責任を持つことを認められた」ということではないでしょうか。
ユダヤ教では、男子は13歳で成人となるバル・ミツバ(女子は12歳バト・ミツバ)という儀式がエルサレムで盛大に行われます。
(ユダヤ教では祈りの場は厳格に男女が分けられています。
嘆きの壁も左半分が男性用、右半分が女性用です。
このバル・ミツバの儀式も男子と父親や男性親族だけで行われ、母親や女性親族は仕切りからのぞき込む形です。)
これは、(ウィキペディアによると)中世以降にできたしきたりで、キリスト教の堅信式の影響を受けて始まったと言われています。
つまり、イエス様の時代には無かったのです。
ユダヤ教の戒律を守ることができる年齢が成人である、とされています。
自分の行為で許されることと許されないことを認識し、自分の行動に責任を持てる年齢に達したことを、成人式という形で祝うのです。
ヨセフ様、マリア様が3日も探し回ってようやく見つけた12歳になった我が子イエスが神殿で学者たちと知的なやり取りをしていた、というあの出来事を思い出します。
どうして、わたしをお捜しになったのですか。
わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか。
(ルカ2・49)
イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された。
(ルカ2・52)
イエス様の少年時代(お生まれになったこと、そしてヨハネから洗礼を受けるまでの間の)唯一のエピソードであるこの箇所は、わたしにはイエス様の成人した記念の出来事に思えるのです。
他にイエス様の少年期、青年期の記述がないので想像にすぎませんが、この日、マリア様は悟られたのではないでしょうか。
幼かった我が子はもう母の手元から離れ、成人として、いつの日か何かを担う存在となるということを。
「これらのことをことごとく心に留めていた」という短い記述がその覚悟を秘めていると感じます。
教皇フランシスコ講和集7に「よい羊飼い」というお説教があります。
少し抜粋してご紹介します。
よい羊飼い(イエスのことです)は、わたしたち一人ひとりに目を配り、わたしたちを探し、わたしたちを愛し、ご自分のことばを伝え、わたしたちの心の奥底、願望、希望、そしてわたしたちの失敗や失望を知っておられます。
イエスはわたしたち一人ひとりに終わることのない、全きいのちを生きる可能性を与えてくださいます。
さらにイエスは、愛をもってわたしたちを守り抜き、人生で向き合うことになる険しい道や、時に危険な道をくぐり抜けるのを助けてくださいます。
イエスに倣って、兄弟愛と自己奉献という新しい道を歩むために、自分勝手な行いをやめ、誤った道の迷路から離れるのです。
次は、2019年のワールドユースデーで語られたお説教の一説です。
皆さんの自分に与えられた使命は遠い未来の約束ではありません。
青年期は待合室ではありません。
今日のあなたの人生は、今日しかありません。
危険を冒すなら、それは今日です。あなたの出番は今日なのです。
「皆さんは未来です」とよく言いますが、皆さんは未来ではありません。
皆さんは「いま」です。
皆さんこそ「神のいま」なのです。
神と神から与えられた使命に、待ち時間はありません。
それは、いまなのです。
単純な言い方ですが、この教皇様のおことばを理解できる、実行するように努めようとできる、それが『成人』なのではないかと考えます。
コロナ禍にあって、学業も就職もままならない、困難な時代を生きる若者を思うと、自分が20歳だった時代がうそのようです。
今年『成人』となる若者たちが、これからも直面するであろう困難に立ち向かうための強さと優しさを身にまとうことができますように。