行事風景

貧しいこと、幸いなこと

久留米教会の秋の風景です。

 

 

『心の貧しい人は幸いである』
このことばにはかなり深く広く解釈できるために、正しく理解されていない場合があるように思います。

わたしも、以前書いたように、ガリラヤ湖畔で自分のこととして捉えるまでその真意を誤解していました。

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旧約のなかにも「幸い」という単語は多く使われています。
ヘブライ語で「アシュレー」と言い、本当に幸いに生きている人に感動した時の言葉として、8割近くが詩編と箴言に使われているそうです。
「アシュレー」だと呼ばれている人は、神のとの関わりの中にある人を表現しています。

 

いかに幸いなことでしょう
背きを赦され
罪を覆っていただいた者は。
(詩編32)

心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである
Blessed are the poor in spirit,for theirs is the kingdom of heaven.
(マタイ5・3)

心の貧しい、という箇所は直訳すると「霊において貧しい」となるそうです。
フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸いである。」となっています。

「霊を用いて、貧しく生きている」と言う意味にも解釈できるそうです。
例えば、アッシジのフランチェスコにように、神の霊によって貧しい生活を選んで行く生き方を見出すことのように。

イエス様はアラマイ語で語られていたのですが、福音書はギリシャ語で書かれています。
貧しいと訳されている単語「プトーコイ」と同意義で使われている旧約の単語は、有力者に圧迫されて貧しい、と言う意味なのだとか。

 

わたしが目を留めるのは何か。
それは貧しい人、心砕かれた人であり、わたしの言葉を畏れ敬う人。
(イザヤ66・2)


貧しい人々は幸いである
神の国はあなたがたのものである
Blessed are you who are poor,for the kingdom of God is yours.
(ルカ6・20)

 

マタイでは「心の」貧しい人々、そしてマタイは「神」という言葉を避ける傾向が強いので「天の国」となっています。

ルカでは「あなた方のもの」と二人称になっているのに対し、マタイは旧約の流れを汲んで「その人たち」という三人称を使っています。

マタイとルカの違いは、イエス様をどう見ていたのか、つまり「わたしにとってのイエス様とは誰なのか」を書いている点にある、と雨宮神父様のお話にありました。

「霊において貧しい者」とも「物質的に貧しい者」とも解釈できる、イエス様の言葉の広さと深みの表れなのだ、と。

 

現代社会において「心の貧しい人々」は幸いでしょうか。

幸いであると神様から言われたいけど、心が貧しい人ではありたくない、と思うのが普通の感覚かもしれません。
ですが、自分が心の貧しい者である、と気づくことが出来ることは大切なことなのだと思うのです。

自らの足りないところ、人への接し方、信仰生活の乏しい結果としての言動など、ガリラヤ湖畔で風に吹かれながらわたしが感じたのはそういう「自分の貧しさ」でした。

もちろん、それらは克服できていなくて、いまでもしょっちゅう「あ~、わたしって心が貧しい、、、」と反省することばかりです。。。

そして、気づけて良かった、気づけて幸いだった、と。
その繰り返しです。