行事風景
神と人の仲介役
今日11月30日は聖アンデレの記念日(聖名祝日)です。
マタイは英語でマシュー、マルコはマーク、ルカはルーク、ヨハネはジョン
そして、アンデレはアンドリュー!
(わたしの好きな映画俳優やシンガーは、決まってこの辺の名前です。)
マルコによる福音書では弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目の位置にあります。
わたしのイメージでは兄ペトロに比べあまり目立たない地味な弟子のような気がしていましたが、アンデレに焦点を絞って聖書を読むと、見えてきたのは彼の存在の深い意味でした。
ヨハネによる福音書ではペトロにイエス様を紹介したのはアンデレです。
ヨハネから聞いて、イエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟のアンデレであった。
アンデレは兄弟シモンをまず見つけて、「わたしたちは、メシアを見つけた」と言った。
アンデレはシモンをイエスの所に連れて行った。
(ヨハネ1・40~42)
ガリラヤ湖畔でパンと魚を持った1人の少年を連れてきてイエスに紹介したのもアンデレです。(6・8~9)
また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介しています。(12・20~22)
つまり、アンデレはいつも重要な仲介役の役割を果たしていたのだ、とヨハネには書かれているのです。
聖アンデレ Josepe de Ribera
一番弟子の兄ペトロの陰にかくれて、アンデレの話はあまりのこっていない。
”側近”はペトロとヤコブ&ヨハネ兄弟であり、アンデレはその3人とごく近しかったのにそこに入っていない。
兄のペトロにイエスのすばらしさを話し、であうきっかけをつくったのもアンデレである。功績は大きい。
でも側近にはなれなかった。ヨハネとともに”最初の弟子”のひとりでありながら、ずっと「あのペトロの弟」で過ごした。
きっとアンデレはそんなことどうでもよかったのだろう。不平ひとついわない。
なにかにつけてだれがいちばんえらいかを口論する弟子たちのなかで、彼はめずらしくおだやかで控えめな男だった。
ちなみにアンデレとは”男らしい”という意味である。
主役ではないが渋いヤツという感じだったのだろう。
(遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 より)
アンデレが兄とイエス様を繋いだ「間を結ぶ者」であったように、イエス様は人々と神様を結ぶ「仲介者」でした。
今、遥かに優れた務めが、キリストに与えられました。
それは、キリストが、この上もなく優れた約束に基づいて制定され、この上もなく優れた契約の仲介者となられたからです。
(ヘブライ人への手紙8・6)
イエスは単に神と人間との間に立つのではない。その身を捧げて永遠に途切れない関係を保つ者だった。
「見るがよい。神の子羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉によって、イエスを見たあと、戦慄にも似た畏れと共にイエスに従ったアンデレは、彼の意志とは別なところで、小さな「仲保」の役割を分有されている。
聖書を読む限り、アンデレはそのことを自覚していない。だが、それゆえにこそ、彼の働きは不朽なのだともいえる。
(「イエス伝」 若松英輔 著より)
成人洗礼の場合、信仰を持つに至るには運命的な出会いがあったという方が多いと思います。
教会に連れて行ってくれたり聖書講座に誘ってくれた人、つまり、神様との仲介役の存在が大きいのです。
代父、代母の存在もその一端でしょう。
わたしの場合は高校の担任の先生だったシスター。
母の場合は旅行先で訪れた教会で出会った神父様。
神様とわたしを繋いでくださったシスターは、いまでもとても大切な大切な存在です。
そしてわたしも、その体験を生かしてどなたかがわたしの言動で神様を感じてくれる存在になれますようにという希望を心に留め、生きていきたいと思います。
久しぶりに、犬養道子さんの「聖書を旅する 3」を読み進めていたら、こんな箇所を見つけました。
充満の生のよろこびから遠くはなれて、死という大制限の方に行ってしまった人類をつれ戻す橋わたし役(救い主とはこれも意味する)は、去って行った者たちの中からは出て来っこない、のである。
去って行った人類の中の男と女の結合は、橋わたし役をゆめ生み出せない。
永劫の充満の者自らが創造の息吹き(創世記)によって、汚れ(原罪)を前以てとりのぞいた乙女の胎に入り、そこで胎児となりひいては誕生し、人間のひとりとなって人間史に介入しない限り。
橋わたし役と言ってもよいし、歪んだ方向に向かってしまった人間性を、元来の方向に向けて逆転させる事業と呼んでもよい。
さぁ、待降節が始まりました。
わたしたちと神様の仲介役、人類を生のよろこびにつれ戻してくださる橋わたし役であるイエス様の御生誕をお祝いするために、わたしたち個々が目を覚ましてこの4週間を過ごしましょう。
↓ 今年は紫色を基調として、こんな感じに作りました!