行事風景

混沌から平安

今年はとても早い梅雨の季節となりました。
自然の営みには驚かされます。
我が家でも、はやくも紫陽花がとても美しい。
(知ってたのか?!もう自分の季節が来たことを!と思わず口にしたわたし。)

.

.

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(創世記1・1~2 新共同訳)

聖書のこの有名な出だしの一文は、地の混沌とした状態は神の創造行為の後にできたように理解されています。

しかし、現在のヘブライ聖書学者たちは「神が天地を創造され始めた時、世界は混沌であった」という訳を支持しているそうです。
つまり、『混沌からの創造』であり、全ての物事は神に抗うことのできる自由意思を持つのだ、と言うのです。

たしかに、なるほどだからこんなに人間とは成長しない愚かな存在なのだ、、、とも思えてきます。

良きものとして創造されたのに、自由意思をはき違えてしまう歴史を繰り返す生きものです。

先月からのイスラエルの、まさに混沌とした、戦争ともいえる民族間の争いに心が苦しくなります。

.

聖書学者の本多峰子さんによると、プロセス神義論では「この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って共に苦しんでいると考える」のだそうです。

神義論とは、簡単に言うと「神が全能であるならなぜこの世に悪や悲惨な出来事があるのか」ということを突き詰めて、神の義を証しするものです。
とても興味のある問題であり、本多峰子さんの論文などをいろいろと読んでみましたが、結局「結論の出ない学問」であると言えるものです。

少し乱暴な言い方になりますが、「悪や災害、苦難の責任が神にあるのか?!」という問いには「とんでもない」と、信仰のある者であればそう思えるのではないでしょうか。

それでも、あまりにも悲惨な体験をしたりやり場のない感情に押しつぶされると、「どうしてですか?」「神はいないのか!」という気持ちになるのは当然でしょう。

神様のせいにしたら、少しは気が晴れるでしょうか。
そうですね。
神様はわたしたちの気持ちに応えて寄り添ってくださるので、少しは気が晴れます。

ですが、誰かのせいにしたら、気持ちが軽く楽になるでしょうか。
誰かを非難したら、問題が解決したり前進するでしょうか。

そういう気持ちになりそうになった時はいつも、混沌とした世の中の安易な波にのみ込まれないように、心の平安を求めて周囲にも良い香りを漂わせたいと思うようにしています。

先日お話したあるご高齢の神父様がおっしゃっていました。

「わたしたちは、こんなに愚かな国民性ではなかったはずだ。
今のニュースを見聞きしていると悲しくなる。」

.

「神様、どうか混沌とした現在の世の中と人々の心を静めてください。

わたしたちの今日が、他者を非難することではなく、聖霊のとりなしを願う1日となるようお導きください。

世界中が一致協力してひとつの問題解決に取り組めるよう、指導者たちにより良い英知をお与えください。」

フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。
その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。
フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます。
ナタナエルは行って、見ます。
そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。
伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます。

この時代においても、社会生活のあらゆる場面で、商業においても政治においても、いかに中身のない弁舌が氾濫しているかを考えてみましょう。

主よ、教えてください。
自分の内から出ること、
真理を求めて歩き出すことを。
来て、見るよう教えてください。

聞くこと、
偏見を深めぬこと、
結論を急がぬことを、教えてください。

だれも行きたがらないところへ行くこと、
理解するために時間をかけること、
本質的なものに目を向けること、
うわべだけのものに惑わされぬこと、
真理とそれと見まごうものとを識別することを、教えてください。

あなたがこの世におられることに気づけるよう、恵みを注いでください。
見たことを人に伝えるために欠かせない、誠実さをお与えください。

教皇フランシスコ 5/9世界広報の日のメッセージより抜粋

 

わたしがお伝えしたいと思っていることを、いつも明確なメッセージとして発してくださる教皇様です。

今日も心に平安を。
わたしたちに平和と一致をお与えください。

 

気にかけてくれる存在

久留米市の感染状況の増減に一喜一憂していたのですが、とうとう3回目の緊急事態宣言が発令されることになりました。

久留米市もワクチン接種の予約が始まっています。

ウィルスが消えてなくなることはないでしょうが、各人が自分にできる対策をとることはできます。

またミサが再開される日まで、静かにロザリオの祈りと共に心穏やかに過ごしましょう。

++++++++++++++

皆さんは普段から「気にかけている人」がいらっしゃいますか?

離れて暮らす子ども
コロナ禍でしばらく会えないでいる親兄弟
大切な友人

お正月に家族が一堂に会し、たまに孫たちが訪ねてきて、仲間たちと集まって飲み会をする。
いまでは懐かしい過去の習慣ですね。。。

コミュニケーションの遮断ともいえる日常が当たり前のようになって、もう1年以上になりました。

わたしの場合、人との交わりの機会が8割は減ったように思います。

いまではすっかり、人との距離間が変わってしまいました。
例えば、スーパーなどで後ろに並ぶ方との距離が近いとそわそわしてしまいます。

 

そんな、人との距離が離れてしまった現在だからこそ、誰かのことを気にかけること、人との繋がりを大切にしたい、と考えるようになりました。

若松英輔さんがおっしゃっていたように、「交わりと繋がり」は違うものですね。

妹たち家族にはずっと会えていませんが、彼女たちとはテレビ電話でしょっちゅう連絡を取ることができます。
交わることはできないけれど、いつも繋がっていることを感じます。

 

気にかけている人が元気に過ごしているか。

もしも思い当たる方がいらっしゃれば、このあと電話してみてください。

わたしたちと気にかけている人を結びつけているのは聖霊の働きです。
わたしたちと神様を結びつけているのと同じ聖霊の働きです。 

心身ともに健康であるために必要なことは、規則正しい生活と誰かに必要とされていると感じること、あるいは、誰かに気にかけてもらえていると実感すること、そう思うのです。

イエス様とマリア様、もちろんヨセフ様がいつもわたしたちを気にかけてくださっているように、聖霊の導きに従って周囲の人を気にかけることはすなわち、誰かが自分をいつも気にかけてくれているということなのです。

 

 

5月の聖母月の間、「祈りのマラソン」として世界五大陸の30聖堂にわたりロザリオの祈りが中継されています。
これは教皇様の希望で、すでに一年以上世界を苦しめているパンデミックの収束を願って繋げる目的で行われているものです。

5月1日のバチカンでの教皇様によるロザリオの祈りから始まり、21日(金)には長崎の浦上教会の被爆マリア像を前に祈りの中継が行われる予定です。

 

 

https://youtu.be/4Rb7_WdNlZY

 

 

ひとつのメッセージ

久留米でも感染者が大幅に増加しています。
皆様も十分にお気をつけになっているかと思いますが、どうぞ外出の際の手洗い、手指の消毒といった基本的なことをしっかりとお守りください。

世界のワクチン接種状況、というニュースを見ました。
「日本は〇〇か国中最下位」といった報道は、見ていて悲しくなります。
こうしたネガティブな情報は取り入れてもあまり良いことはないと思うのですが、このニュースをみていてある映画を思い出し、久しぶりに観ました。

ARRIVAL(邦題は「メッセージ」)
2016年のアメリカ映画です。

宇宙から謎の物体が世界の12都市に現れ、エイリアンが何の目的で地球に来たのかを12か国がそれぞれのやり方で探ります。
最初は、zoomのようなシステムで12か国が連携して情報をやり取りしながら協力関係を構築しつつありました。
しかし次第に、それぞれの思惑や価値観の違いでお互いが情報を出し渋るようになり、ある国は武力行使を決定したりとその協力関係が壊れていきます。

最終的には、主人公である言語学者のある言動をきっかけに、12か国の連帯が再度生まれ、エイリアンの目的を解読します。
その目的は「地球人(地球全体)の連帯」だったです。
(その目的には理由があるのですが。)

主人公はエイリアンの言葉を解読し、「Universal Language / 世界共通言語」として確立させ、地球共通の言葉として広めていきます。

まさに、いまわたしたちの生きている現在の地球のことを表現しているような映画なのです。
ネタバレを書いてしまったのですが、音楽も映像も本当に美しく、わたしの拙い文章では伝わらない感動的な映画です。
ぜひご覧いただきたい作品です。

わたしたちの生きる今の世界は、自然(神様)からのこの(パンデミックという)メッセージを読み誤っていないでしょうか。

世界が連帯してこの現実に向き合っていけているでしょうか。

わたしたちは聖書というUniversal Languageを持っています。

いつの間にか自分たち(国、人種、宗派など)に都合のいいように解釈し、同じ聖書を読みながらもバラバラの言葉を話し意思疎通が出来なくなっているかのようです。

.

3/11付けで発表された日本カトリック司教団のメッセージです。

今、コロナ禍にあって、世界は『すべてのいのちを守るため』に連帯しています。
教皇フランシスコは対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、助けを必要としている人、孤立し、いのちの危機に直面している人のもとへ出向いていこうと呼びかけます。
あの未曾有の災害に襲われたとき、わたしたちは、人間の知恵と知識の限界を感じました。
自然の力を前に、どれほどわたしたちが弱いものであるかを知りました。
そのときわたしたちは、互いに助け合うことの大切さ、いのちを守るために連帯することの大切さ、いたわりの心の大切さを、心に刻み込みました。
大震災 10 年の今、世界はまさしくその大切さを思うことを必要としています。
(カトリック中央協議会 会報4月号掲載)

 

4/22のEarth Dayに教皇さまが出されたメッセージです。

「今日、地球全体で共有している新型コロナウイルスによるパンデミック問題もまた、わたしたちの相互依存関係を明らかにすることになった。」

環境保全そしてパンデミックへの対応という二つの大きな急務の課題に、皆が一体となって努力する必要があることをあらためて強調されました。

同じ一つの星に生きていることを思い知らされたパンデミックという現実。
「皆=地球全体で取り組まねばならない」と、自然界がわたしたちにひとつのメッセージを寄せている気がしてなりません。 

 

子どもたちへの福音

昨年、宮﨑神父様は毎月第4日曜日を「子どもたちと共に捧げるミサにする」とお決めになり、準備をされていました。
感染症対策でごミサが中止になったり、いろいろな制約で子どもたちの参列が減ってしまったこともあり延期になっている子どもミサ。

.

今月こそは開催できる!と日曜学校の先生方と、誰に聖書朗読をお願いする?とワクワクしていたのですが、久留米でのコロナウィルス感染者が急増してきたことで、今月も中止になってしまいました。

久留米教会は子どもたちのミサへの参列が多く、それが自慢の一つでもありました。

しかし昨年からのこの事態の中で、仕事上の影響を考えてミサへの参列を控えていらっしゃるご家庭も少なくないため、子どもたちも少なくなっていることはとても寂しい状況です。

日常が以前のような状態に戻るとは思いませんが、教会に子どもたちが戻ってきてくれることだけは願いたいと思います。
大人たちがもっとしっかりしなくては。

 

お中元・お歳暮などでいただいたけど食べないもの
まとめ買いしてしまったけど余っているもの
そうした食品などを持ち寄り、必要としている方々に届ける活動が、フードドライブです。

 

1960年代にフードドライブが盛んになったアメリカでは、食品以外にも「Paper Drive(古紙回収)」や「Book Drive(本の寄付)」「Toy Drive(おもちゃの寄付)」「Clothing Drive(衣類の寄付)」「Uniform Drive(着なくなった制服の寄付)」「Blood Drive(献血)」など様々な「ドライブ」、つまり寄付活動があるそうです。

フードバンクという言葉もご存知かもしれません。
フードドライブの違いは、参加対象です。
フードバンクは、例えばエフコープなど、企業が食品ロス削減のためにも食品などを提供します。
一方、フードドライブはわたしたち一般個人が家庭のものなどを提供します。

久留米でもフードドライブの活動が数年前から行われており、久留米教会には毎月第4土曜日にメンバーが集って受け付けています。

食品だけではなく、タオルや粉ミルク洗剤といった日用品も持ち込まれていました。

カトリック久留米教会、久留米と鳥栖のプロテスタントの教会と仏教のお寺に持ち寄られた品を一箇所に集めて仕分けし、毎月必要とされている個人にお届けされています。

 

 

4月から久留米教会で司牧実習に来てくれている、笑顔が素敵な池田裕輝神学生(神学科の1年生!)です。

29日には、久留米教会に司牧実習に来てくださっていた古市助祭の司祭叙階式が東京のカテドラルで執り行われます。

近しくしてくださっていた神学生の召命による叙階。

大人たちのフードドライブの活動。

若い神学生と過ごし、学ぶ日曜学校。

そうしたこと全てが子どもたちの信仰生活へのよい励みになるはずです。

・・・・・・・・・・・・・・・

教皇様は25日にバチカンでローマ教区の司祭の叙階式をとり行われました。
出身や経歴も様々な9人の助祭が司祭に叙階されました。
バチカンニュースに掲載されていた、9人の召命について書かれていた記事がとても興味深かったのでご紹介します。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-04/il-papa-ordinera-sacerdoti-per-la-diocesi-di-roma.html

 

「復活」による変化

信者ではない友人から「クリスマスよりもイースターのほうが重要って、どうして?」と質問されました。

ご復活の意味について説明するのは難しいですね。

旧約聖書の預言者たちは「主に立ち返れ」と繰り返し人々を諭している。
それでも、主を忘れ、主に背き、罪から逃れられないのが人の常である。
その救い主として生まれ、十字架につけられ、死んで復活したイエス様。
救い主が生まれたことがめでたいのではなく、死んで復活してくださったことが救いなのだ。

この説明は間違っていないと思うのですが、こう言っても友人は「?」という顔をしていました。

 

復活したイエスは、何度か弟子たちの前に現れ、忍耐強く彼らの不信を解くことで、いわば「弟子たちの復活」を行い、こうしてイエスによって再び引き上げられた弟子たちは、これまでと違う人生を歩み始めることになった。

弟子たちは、これまで主の多くの教えに耳を傾け、多くの模範を目撃したにもかかわらず、自分を変えることはできなかった。

しかし、イエスの復活は彼らに新しい何かをもたらし、彼らを変えた
それはいつくしみのしるしのもとに起きたことであった。

イエスは弟子たちをいつくしみによって引き上げ、「いつくしみを与えられた者」になった彼らは、今度は「いつくしみを与える者」に変容された。

4/11「神のいつくしみの主日」の教皇様のお説教より

教皇様のこのお説教はとても分かり易く、なるほどと深くうなずけます。

.

先週書いた、マグダラのマリアの感動的な復活体験。

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のこと。
(ヨハネ20・11〜18)

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。

イエス様は、死の後に「生き返った」のではありません。
写真にとれば一緒に写るような、身体の蘇りをなさったのではないのです。

「私は主を見ました」

そうマリアは弟子たちに告げますが、幽霊を見たのではなく、イエス様は自ら「現れ」て弟子たちに「ご自分を見せられた」のです。

ご復活の出来事は、イエス様が弟子たちに現れてくださったという、弟子たちの復活体験に基づいているのです。

弟子たちはイエス様を裏切り、逃げて、十字架の足元にいたのは女性たちとヨハネだけでした。
それでもご自分を現わしてくださった主の愛と赦しを身に受ける弟子たち。

彼ら自身がその復活体験を通して、命をかけて福音を宣べ伝える人に造り変えられます。
自分の惨めさ、醜さを直視させられ、しかもそういう自分を圧倒的な愛で包んでくださる主を体感した弟子たちは、もう畏れるものはなにもありませんでした。

これが、キリスト教の信仰の根源です。

復活体験によって造り変えられた弟子たちの信仰がなければ、2000年以上もこうして福音が宣べ伝えられ続けることはなかったのです。

.

わたし個人としては、20歳で洗礼を受けましたが、今思い返せばそれは復活体験ではありませんでした。
確かに洗礼で生まれ変わりましたが、わたしに神様が現れてくださったのは、20年後、母が亡くなった後でした。

自分の罪を直視し、我に返ったのです。
マリアが名前を呼ばれた時のように。
それからは、問題が起きて迷ったり困っているときなどに、神様と母がわたしに何を望んでいてどう歩んでいくべきかをさし示してくれているのを感じ取ることができるようになりました。

どなたにも、キリスト者としての復活体験がおありだと思います。
その時のお気持ちを、どうか思い返してみてください。 

復活とは、「立ち上がる」「起き上がる」ということなのです。
神様との間にあった障壁のような、さえぎっていたものが取り払われる体験のことです。

わたしたちには、いつでも神の愛によって立ち上がることができる機会が与えられています。

それが信仰なのではないでしょうか。

わたしたちは、このことの証人です。
(使徒3・15)

 

生きていくちから

池江璃花子さんのことを検索すると、「池江璃花子の名言集」というサイトがたくさん設けられているのがわかります。
病気を公表した18歳からこの2年間に彼女が発した「名言」がたくさん紹介されています。
その中でも有名なのは、次のことばでしょう。

私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

彼女がクリスチャンなのかは分かりませんが、こういうことばが身に染みていて、それが染み出してきたのでしょうか。
彼女は神様に選ばれたのだと思えて仕方ありません。


ヴィクトール・フランクル博士の本を読みました。

『それでも人生にイエスと言う』

 

 

1946年の講演の内容をもとにしてまとめられた本です。
1946年とはつまり、彼がナチスの強制収容所から解放された翌年のことです。

自殺する一番いい方法はなにかという問題に考えが向くと言っても不思議に思う人はいないでしょう。
実際、このような状況ではたぶんだれだって、一瞬であっても、「鉄線に飛び込む」ことを、つまり自殺を考えてみるでしょう。
しかし、わざわざ自殺を決意する必要がないことがわかります。
遅かれ早かれ、「ガス室に入れられ」ないですむ平均的確率がきわめて低いという状況では、自殺しようとすることはむだなことだからです。

「もう生きていたくない」と言う知り合いを励ましたことがあります。
心の中では「どう励ましたらいいのか見当がつかない」と思っていたのですが、口では「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と。

2人の息子を相次いで癌で失ったその方は、生きている意味が分からないと、涙さえ出ないほど憔悴されていました。

実際にわたしが彼女を励ますことができるはずもなく、ただただ寄り添い、家族を亡くした方に言うわたしの言葉「天国の先輩であるうちのママがお世話してくれるから安心して」と伝え、たわいもない話をしに行く。

そうすることしかできませんでした。

ですが、次第に自然と、彼女は生きるちからを取り戻されたのでした。

わたしもそういう経験をしたからわかるのですが、生きていくちからは内面で育まれていくのです。
誰かに励まされたから、素晴らしいお話を聞いたから、そういうことから突然みなぎるものではありません。

自ら染み出してくるまで待つのです。

 .

「死は生きる意味の一部である」

◆苦難と死は、人生を無意味なものにするものではなく、むしろ、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのだ。
◆人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのだ。

◆生き延びたことを、身に余る恩寵としか考えられなかった。
◆その恩寵にふさわしいものになり、すこしでもそれに見合うようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われた。

こう、フランクル博士はおっしゃっています。

最初にご紹介したように、この内容は強制収容所での体験からそう月日が経っていない時に語られたお話なのです。

この本のタイトルである「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、収容所時代に囚人たちが作って歌っていた歌の歌詞なのだそうです。

.

池江璃花子さんの様子をみて感動し、フランクル博士のことばに深くうなずく。
それらが糧となり、生きていくちからの肥やしとなります。

生きるということは人生を楽しむことではない、とここのところよく感じます。
池江さん、フランクル博士ほどの体験をしていなくても、生きていくことは時には困難が伴います。

 

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のことです。
(ヨハネ20・11〜18)
泣いていた彼女に
主の使いが「なぜ泣いているのですか」
イエス様が「なぜ泣いているのか」
そう尋ねられます。

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。

これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
一度復活を体験した人は、強い。

 

生きていくちからを耕して耕して、陽の光と水を得て、心と身体を健やかに整えましょう。

生きていくちからを内面で育てていく毎日を、生きることを楽しみましょう。

人間の犯す罪

主の御復活、おめでとうございます。

.

ミャンマーで起きていることを、皆様はどうご覧になり、どういう思いを抱き、どんな風に考えていらっしゃるでしょうか。

教皇様の発表されている談話をすべて追えているわけではないのですが、ヴァチカンニュースにはこの1か月、教皇様からミャンマー情勢についてのご発言は紹介されていません。

ミャンマーのヤンゴン大司教のボ枢機卿は2月4日付で公式なメッセージを出されています。

ボ枢機卿は3/23には、治安部隊による弾圧について「暴力を使った抑圧には非暴力で応えていくように」と、抗議デモに参加する若者たちに呼びかけられました。

アジア出身の12人の枢機卿は連名で、クーデターを起こした国軍、ミャンマーの政治指導者、抗議デモの参加者、全ての宗教指導者、カトリック教会に対して、「平和」の重要性を訴える声明文を公表されています。

しかし、現実は悪化の一途を辿っています。

教皇や枢機卿のメッセージは葬られたかのように、暴力はエスカレートするばかりです。
国際社会は、経済制裁しか打つ手がないかのように、非難はすれど無力を露呈しています。

なぜ人間はここまでの悪を犯すのでしょうか。

他国と戦争しているわけでも、民族間の紛争でもなく、軍が自国の国民を殺戮しつづけるというこの事態をニュースで追うたびにこみ上げる無力感。

ヘイトクライム(憎悪犯罪)も多発しています。
ショッキングだったのは先週起きたNYでの事件。
この前まで黒人への暴力が社会問題だったのに、黒人男性がアジア人女性を蹴り飛ばし、目撃していた誰も止めることも助けることも、通報すらしなかったのです。

ミャンマー軍の暴挙、ヘイトクライム、見て見ぬふり、無関心、これらは人間が犯す愚かな罪なのです。

何もできないもどかしさ。
ですが、ここに書かずにはいられませんでした。

せめて、無関心という罪を犯さないように。

.

ミャンマーと姉妹教会の関係にある東京教区は、積極的に情報を発信されています。

*とりなしの祈り*
祖国の危機の中にあるミャンマーの兄弟姉妹のために祈りましょう。
正義と対話が、今ミャンマーを覆っている暗闇と分断に打ち勝つことができますように。
希望と平和に満ちた、真の和解の共同体を築くために、すべての人が協力することができますように。
主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください。
(東京教区ホームページより)

.

イエスが人類の傷と死をご自身に引き受けられた時から、神の愛はわたしたちの荒れ野を潤し、わたしたちの闇を照らしました。
なぜなら世は闇の中にあるからです。
今起きているすべての紛争、飢餓で亡くなる子どもたち、教育を受けられない児童、戦争やテロで破壊的打撃を受けた人々を考えてみましょう。
麻薬産業の犠牲となる人々、キリスト教や他の宗教を信じる一部の人々で自分が一番でありたいと思う人たち…、これが現実です。

この死のカルワリオで、イエスはご自身の弟子たちの中で苦しんでおられます。
(3/31教皇水曜恒例の一般謁見のお説教より)

.

日々たどる十字架の道行を通して、困難な状況にある多くの兄弟姉妹たちの顔に出会います。
見て見ぬふりをして通り過ぎるのではなく、こころを思いやりで満たし、近づいて寄り添いましょう。
(3/30教皇様のツイッター)

神の子羊
世の罪を除きたもう主よ
我らを憐れみたまえ
我らに平安を与えたまえ

.

ボ枢機卿のメッセージ
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41301/

3/31ケルン大司教区プレスリリース「ミャンマーの民主化と平和のための祈りの日」
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41776/

応えていく信仰

受難の主日からのこの聖なる一週間、どのような祈りの日々にするか決意したところです。

枝の主日には、一昨年までは聖堂の前に信徒が大勢集まり、共に聖書を朗読し、枝を掲げて祝福を受けて行進して入場していました。

今年は静かに、前もって祝福していただいていた枝をいただきました。

 

 

女性の会、ヨゼフ会の皆さんがこうして毎年準備をされているのをご存知でしたか?

木から枝を落として一本ずつ洗い、トゲを落とします。
拭きあげてから皆さんが持ちやすいサイズにし、持ち手の部分の葉を落とします。
茶色に変色している葉先は一枚ずつハサミでカット。
こうして手間暇かけて準備され、枝の主日の朝には当然のように聖堂入り口に置いてあるのです。

持ち帰った枝は、来年の灰の水曜日前まで大切になさってください。

 

第一朗読のイザヤ書はわたしが好きな箇所でした。

4つある「僕の歌」のうち、3つ目の「主に応える僕」です。

主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉によって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4〜5)

 

主に応える生き方ができているか。
よく自問自答します。

楽しみを求めることに執着していたり、金銭欲に囚われてしまったり、わたしたちは弱い存在です。
そのような迷いから目覚めることを表現した詩があります。

わたしは眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
わたしは目覚め気づく、
生きることは義務だと。
わたしは働くーーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。

これは、1931年のノーベル賞を受賞したインドの哲学者であり詩人でもある、タゴールの詩です。

生きるということはある意味で義務である、とタゴールは言います。
生きることこそが、たった一つの重大な責務である、と。

よろこびは、得ようとして努めることはできない、
よろこびは、自ずと湧いてくるもの。
しあわせは目標ではなく、目標であってはならない、
しあわせは義務を果たした結果に過ぎないのだ。

厳しいような、難しいような価値観だと最初は思いましたが、この詩を繰り返し噛み締めているうちにスーッと「そうかもしれないな」と考えるようになりました。

朝ごとに耳を澄まして神様からの呼びかけに応える生き方は、わたしの理想とする義務のかたちです。

この聖週間の間、誰のためになんのために祈るのか、神様からのメッセージがわたしの内面に降りてきた受難の主日のミサでした。
こういう瞬間は本当に嬉しいよろこびです。

 

日曜学校の子どもたちの十字架の道行の様子です。

 

 

過去との対話

わたしたちはそれぞれに『神様との歩みの歴史』を持っています。

わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
(詩編143・5~6)

フランシスコ会訳はまたニュアンスが違います。

わたしは過ぎし日をしのび、
あなたの行われたことをすべて思い巡らし、
あなたの手の業に思いを潜めます。
わたしはあなたに手を差し伸べ、
わたしの魂は乾ききった地のように
あなたを慕います。

5節を直訳すると
わたしはわたしの前にある日々を思い出し、あなたのすべてのみ業を思う
となるそうです。


21(日)四旬節第5の主日の第一朗読はエレミヤ31・31~34でした。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

神を「主」とあおいでいたイスラエルの民は、主との契約を反故にして周囲の大国と同じように「王」を望んだため主から見放されます。
その結果としてバビロン捕囚で神殿と王と土地を失った、エレミヤはそう嘆きます。
エレミヤは実際にバビロン捕囚の時代に生きた預言者です。

前週、第4の主日の第一朗読の歴代誌です。

神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。
剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。
こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。
その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。
(歴代誌下36・19~21)

神殿が破壊されバビロン捕囚で主だった人々が連れ去られたのに、「地は安息を得た」という表現がなされています。


歴代誌はエルサレムがバビロニア軍に破壊されたBC587年より140年ほど後に書かれたとされています。
こうしたイスラエルの過去の歴史を基礎としてユダヤ人が聖書を編纂していくわけですが、その過程においてもっとも重要なのは「後ろを振り返って過去を見ている」のではないという点です。

普通わたしたちは、自分の過去を記録に残そうとする際、たどってきた歴史を都合の良いように頭の中で編集してしまうものです。
しかし聖書を記したユダヤ人たちは、過去は神が導いてきた歩みとして自分の目の前に置いて、その意味を思い巡らしながら目標に達するべく人生の舵を取っているのです。

それが、冒頭の詩編に表れています。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。」

 

3.11を過去の歴史に埋もれさせてはならない、次世代に語り継いでいきたい、そういう思いで語り部として活動している若い世代の方々をテレビで観ました。

彼らの深い思いを簡単に理解したふりはできませんし、ここに表現することもできませんが、単に辛い経験を話していらっしゃるのが語り部ではないと思います。

前を向いて、未来のために過去と対話しながらその意味を深く考える。

わたしたちそれぞれの『神様との歩みの歴史』についても同じです。

宮崎神父様がおっしゃったように、四旬節は自らの信仰生活を振り返る時です。

自分のこれまでの人生、信仰生活を後ろに振り返るのでなはく、神様がお示しになったひとつひとつの意味と対話することが大切です。
自分のいたらなかった振る舞いも、忘れ去りたい嫌なこと辛いこともすべて、神様が共にいてくださった歴史だということを忘れずに前を向いて生きたいのです。

 

教皇様の巡礼の旅

教皇フランシスコが2019年11月の日本以来の海外訪問としてイラクを訪れたことは、メディアでも大きく取り上げられました。
わたしが読んだ新聞の記事は「ISの元支配地で紛争犠牲者に祈りをささげ宗教融和を演出」「カディミ政権の教皇受け入れは単なるプロパガンダ」などと、あまり好意的なものではありませんでした。
メディアリテラシーを発動すべき時ですね。

教皇様がどのような思いで、何のためにイラクを訪問されたのか、わたしたちはきちんと正しく理解しておく必要があると思います。

これまでローマ教皇がイラクを訪れたことはなく、今回の訪問が初となりました。
教皇の訪問の目的は、「イラクのキリスト教徒らを励まし、同国の復興と平和を祈り、諸宗教間の対話を育むことにある」とバチカンニュースは報じています。

 

 

2日目に、聖書にも記載のある古代都市、ウルを訪問されました。

ウルは、かつてメソポタミア南部に位置した古代都市。
旧約聖書の「創世記」には「カルデアのウル」と記され、父祖アブラハムの生誕の地とされています。

教皇様は、「アブラハムが生まれ、神の声に従い旅立ったこの場所から、共にアブラハムを父祖として尊ぶ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして他の宗教の人々が、互いを兄弟姉妹として、アブラハムと同じように天の星を見つめながら、平和の道を共に歩んでいけるように」と挨拶で話されました。

 

3日目にはモスルを訪問されました。

 

モスルは、2014年から2017年にかけて過激派組織ISに占領された街です。
占領から解放までの激動の期間、人命はもとより、家屋、市民生活、社会・経済機能、文化遺産など、膨大な犠牲をはらいました。

占領されている期間に、2004年に人口およそ185万人だったモスルから、キリスト教徒12万人以上を含む、約50万人の住民が他地域や国外に避難しました。

解放後の現在、モスル市民は国際社会の協力を得ながら復興という大きな挑戦に立ち向かい、難民となった人々の帰還のために努力しているのです。

(青字はVATICAN NEWSより参考)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-incontro-interreligioso-ad-ur-20210306.html
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-mosul-preghiera-per-le-vittime-della-guerra-20210307.html

 

 

「真の宗教性とは、神を礼拝し、隣人を愛すること」
教皇様はおっしゃいました。

「人間は宗教によって兄弟であるか、あるいは創造によって平等である」
イラクのイスラム教シーア派最高権威、シスタニ師のおことばです。

84歳と90歳のお二人の2つのことばに、今回の訪問の目的の真実が表れていると思います。

教皇様は『演出』するために他宗教を持ち上げたりなされないことを、わたしたちは理解しています。
なぜなら、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人愛を重んじていることは不変の事実だからです。


ここで起きた非常に多くの破壊と残虐行為を悔やむ者として、天と兄弟姉妹にゆるしを請いに、そして平和の君、キリストの名において平和の巡礼のためにイラクに来ました。
どれほどイラクの平和を祈ったことでしょう!
神は聞いてくださっています。
神の道を歩むかどうかは、私たち次第なのです。

教皇様のツイッターです。
これが、教皇様の思いです。

 

帰国の際の機内でのインタビューで「今回の訪問は他の訪問より疲れた。84歳という年齢の波は、一気に来るのではなく、後から少しずつやってくる。」と語られたそうです。
帰りの飛行機の中でさえお働きになるのです。

教皇様はまだ訪れていない多くの国への訪問の希望を語られています。
そのひとつは、祖国アルゼンチンです。

今回のイラク訪問は、教皇様の側近もヴァティカン政府もみなが反対していたそうです。
テロの可能性、年齢的なこと、体力の問題、そしてコロナ禍でもあるからです。
「反対を押しての今回の訪問は、決して我がままではなく長い間に考え抜いたものだ」と語られていました。

聖霊に使命感を与えられているとこうもパワーがみなぎるものか、と驚くばかりです。

『ローマ教皇は最強の平和の使徒』なのだ、と単純な安易な言い方をするつもりはありませんが、パパ様の笑顔をまじかで見て力を得た信徒の一人としては、他宗教の方々も含めもっと多くのひとを勇気づけに ApostolicJourney 教皇様の平和の巡礼の旅に出かけていただきたいと願います。