カテゴリ:教会行事
先輩方のお祝い
10日は、先輩方のご健康を祝福するミサと、ささやかなお祝いの場が設けられました。
64名のご参加があり、癒しの秘蹟が神父様から与えられました。
最高齢は91歳の方で、久しぶりにミサに来られた方も数名いらっしゃいました。
息子嫁と揃って参加された方、ご夫婦で参加された方、中には、老人ホームに入居されていて、この日のために体調を整えて久しぶりに教会に来た、と言う方も!
お手伝いをさせてもらったわたしたちも、とても素敵な時間を過ごすことができました。
この紙でできた十字架は、お一人の信徒の方の手作りです。
心のこもった、素敵な贈り物になりました。
ある方がおっしゃった言葉が印象的な、とても盛り上がった楽しいお祝いの会でした。
「亡くなった主人が言っていました。
教会は楽しいところ。祈るばかりのところじゃないよ!」
先輩方のご健康と穏やかな日々を、心からお祈りいたします。
納涼祭2023!!
宮﨑神父様のお祈りで始まった、4年ぶりの納涼祭でした。
裏では、朝から多くの皆さんのご準備があり、たくさんの皆さんのご協力があり、本当に楽しい有意義な交流の時間でした。
ダンディな神父様のショットから、ダイジェストでご覧ください。
本当に楽しい納涼祭でした!
皆さん、よく食べて、よく飲みました!!
また、来年も開催しましょう⭐︎
実行委員の皆様、お疲れ様でした。
ありがとうございました。
模範となる人
12日土曜日は、宮﨑神父様の71歳のお誕生日でした。
夜ミサで、花束をお渡ししてお祝いしました。
久留米教会に赴任して来られて6年です。
ちょっとコワモテですが、意外とチャーミングで素敵な神父様、まだまだよろしくお願いします!
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七五三のお祝いを、13日のミサのなかで行いました。
無邪気なこどもたちの様子を見ていると、いつも思います。
「教会で出会うわたしたち大人が、この子たちの模範となる存在でいたいな。」と。
愛する者よ、あなたは健全な教えに適うことを語りなさい。
年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。
これは、神の言葉が汚されないためです。
同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。
教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。
そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
(テトス2・1~8)新共同訳
あなたは、健全な教えにかなうことを語りなさい。
年老いた男性には、節制し、謹厳で、思慮深く、信仰と、愛と、忍耐においても健全なものであるように勧めなさい。
同じく、年老いた女性には、敬虔な生活を送る者にふさわしく振る舞い、人を謗ることも、酒におぼれることもなく、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、年老いた女性は、若い女性に、夫を愛し、子供を慈しみ、慎み深く、貞潔で、家事に勤しみ、親切で、夫に従うようにと、教え導くことができます。
これは神の言葉が謗られることのないためです。
若い男性も同じく、すべてにおいて慎み深くあるように勧めなさい。
あなた自身を善行の手本として示しなさい。
教える場合には、誠実で謹厳で、非の打ち所のない、健全な言葉を用いなさい。
そうすれば、反対する者は、一言も悪口を言うことができず、恥をかくことになります。
(同)フランシスコ会訳
新共同訳よりフランシスコ会訳の方が柔らかい書き方ですが、年老いた男、年老いた女、若い女、若い男、という分け方がストレートで分かりやすい!
現代人には多少、抵抗がある表現かもしれませんが、ストライクに正論ではないでしょうか。
年配の男性=忍耐深くあるように
年配の女性=善いことを教える者となるように
若い女性=家族を愛するように
若い男性=思慮深くふるまうように
(ストレスの多い女性にお酒の注意を促し、男性に忍耐を求める。昔からそうなのですね、、、。)
信者の場合、自分の信仰の模範となる人が代父、代母であることも多いかと思います。
わたしも、自分の代母をとても尊敬しています。
現代社会のさまざまな問題のなかでも、わたしが特に気になっているのがこどもの不登校です。
11日の西日本新聞朝刊の社説に、9年連続で不登校の小中学生の数が増加している、と書いてありました。
2021年度は24万4940人で、コロナ禍にあって臨時休校や活動制限もあり、学校を休むことへの抵抗感が薄れたことも影響している、とのことでした。
そして、3人に1人が誰にも相談せず、支援を受けていない現状なのだそうです。
久留米教会も、コロナ前のミサはこどもの参列がとても多かったのですが、家族の仕事の都合や感染のリスクを考えて、などの事情があり、最近はこどもたちの姿がめっきり減ってしまっています。
もしかしたら、教会のこどもたちにも不登校の問題を抱えている子がいるのでは、と心配になります。
このことを友人と話していたら、「うちの娘も小学校の時、5ヶ月不登校だったよ。弟の息子も不登校になって、転校したよ。」と、当時の話を聞かせてくれました。
あたらめて、この問題が身近なことなのだと痛感させられました。
そのとき、 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカ17・20)
こどもが必要としているのは、必ずしも「模範となる大人」ではないかもしれません。
優しい親、素敵な家族であっても、大人もこどもも生きづらさを感じる世の中です。
それでも、わたしたち大人が担う役割は小さくはありません。
せめて姪たちには、模範、お手本となる存在であるよう、善いことを教えることができるように、わたし自身が生き方を見せることができるようにならなければ。
今、このことを強く感じながら過ごしています。
それぞれの家庭の中に、そして久留米教会の中に、神の国がありますように。
みなさんの役割
美しい空、澄んだ空気、可憐な草花、美味しい果物、秋は本当に素晴らしい季節です!
教会の前庭も、いつもの季節を知らせる香りが漂い始めています。
むせ返るような香り!(だそうです!!)
こんな気持ちの良い気候の中、自宅で療養生活を送っていますが、妹が家事をしに来てくれているので本当に助かっています。
やはり、こう言う時に頼りになるのは姉妹ですね。
家族にはそれぞれの役割があり、いつどんな時にも助け合える関係を日頃から築いておくのはとても大切なことだ、と、こういう時にしみじみと感じます。
ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられました。
そして、この方ご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を教師または牧者として与えてくださいました。
それは、聖なる人々を奉仕の働きができるように準備させ、キリストの体を築きあげるためです。
(エフェソ4・7、11〜12)
お知らせでご案内した通り、10月から久留米教会の各種役割を担う委員会が新体制となりました。
当然のことながら、教会はミサを行うだけではなく、様々な裏方さんたちの役割分担があって維持されています。
今回の新体制では、
■典礼奉仕(毎週の典礼、侍者、オルガン体制の調整)
■各種行事(復活祭、初聖体、冠婚葬祭など)
■渉外・広報(宣教司牧委員会、外国籍の方々との連携)
■営繕(教会、信徒会館、駐車場、墓地の管理)
■財務(毎週の献金・予算決算の管理)
大きく分けてこの5つの役割に、8人の委員が割り振られました。
このキリストによって体全体は、必要なものをもたらす互いのあらゆる触れ合いを通して、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築きあげていくのです。
(エフェソ4・16)
フランシスコ会訳聖書の注釈には、「ここで強調されているのは、ご自分の体の異なった各部分の相互の触れ合いと愛の交流を通して、キリストは教会を成長させるという点である。」と書いてあります。
これらの役割を担う人の働きと、それをサポートする共同体の皆さんの助けがあってはじめて、わたしたちの教会が築き上げられていくのです。
5つの仕事以外にも、
■女性の会
■ヨゼフ会
■納骨堂維持管理
■日曜学校
■手話の会
■フードドライブなどの福祉活動
■正義と平和を考える会
といった活動が活発に行われているのが久留米教会です。
わたしたちはこのわざに参与することが、恵みとして、キリストの賜物の量りに従って与えられます。
わたしたちが、それを復活された方から絶えまなく与えられる恵みであり、賜物であると認めている限り、この御父とキリストのわざへの参与は、重荷や苦しみとしてではなく、むしろ情熱と創意の泉としてわたしたちのうちに、新鮮で湧き出るような自由なものとしてとどまるのです。
わたしたちを刺激して、自らの立場を本当に見直し、再考し、機会あるごとに新しい目で眺め、わたしたちがしていることの意義と理由、および、どうしたらいっそうよく実行できるかを問うように刺激します。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)
久留米教会は登録信徒が1000人近く、毎週のごミサには延べ400人ほどが参列する大きな共同体です。
当然ながら、8人の委員だけでは維持管理は困難です。
教会という共同体をより良く築きあげるためには、信徒の皆さんのご協力、アドバイス、ご指導が欠かせないのです。
かつて、あなた方は闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。
「光の子」として歩みなさい。
ー 実に、光が結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実を備えたものです。ー
主に喜んでいただけることは何か見極めなさい。
(エフェソ5・8〜10)
霊に満たされ、互いに詩編や、賛美の歌、霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心から歌い、琴を奏でなさい。
わたしたちの主イエス・キリストの名において、いつも、父である神にすべてのことを感謝し、キリストを畏れ敬う心をもって互いに従いなさい。
(エフェソ5・19〜21)
新しく任命された委員は、平均年齢50歳ほどのメンバーです。
知らないこと、気づかないこと、見落としていること、足りないことが多々あるかと思います。
どうぞ、遠慮なくご指摘いただきたいと思います。
共により良い久留米教会共同体を築きあげていきましょう。
よろしくお願いいたします。
大切に想うこと
先週の日曜日は、月に一度のベトナム語のミサの日でした。
アベイヤ司教様が司式してくださり、ローマ留学に旅立たれるピーター神父様の通訳で、盛大なミサとなりました。
ピーター神父様の右は、福岡教区に新しく着任されたベトナム人司祭のトゥエン神父様です。
(カッコイイ!)
ベトナムコミュニティのみんなは、ほとんどが20代前半です。
多くは、技能実習生として久留米近郊で様々な業種に従事しています。
そして、3年から5年でベトナムへ戻ってしまいます(制度上仕方ないのですが)。
日曜日にこうして集うことの意味、みんなにとっての久留米教会の存在、共同体の仲間であること。
そうしたことを、次号のみこころレターに寄稿してもらう予定です!
そして、11日のミサでは敬老祝福式が執り行われ、班分けの都合で会う機会の少なくなった方々が集い、久しぶりの教会行事となりました。
ジュゼッペ神父様も、無事にイタリアへの里帰りからお戻りになりました。
「久留米教会はいい共同体だよね!」
わたしはそう思っていて、ミサで会う方にも時々そう伝えます。
共同体とは、メンバーが人格的に参加し、分に応じた役割を果たすことを通して、一人ひとりが生かされ成長してゆく仲間を意味する。
教会は単なる無名の大衆ではない。
それは、宣教によって呼び集められ、信仰と洗礼によってキリストに結ばれ、聖霊に生かされる共同体であって、「彼らの中には一人も乏しい者はなかった」(使徒言行録4・34)と言われるように、霊的面だけでなく、毎日の生活面でも互いに思いやり、分かち合いながら、天の国目指して地上を「旅する神の民」(教会憲章第7章参照)なのだ。
小教区とは、キリストを信じる地域の信者全員が参加し、主任司祭を中心として責任を共有する共同体である。
鹿児島教区の司教だった、故 糸永真一司教様のブログに、このような記述を見つけました。
「共同体主義」という言葉をご存じでしょうか。
民主主義、社会主義のように、政治的なスタンスを表すものですが、普遍的、単一的な価値観ではなく、文化的な共同体(国家、地域、家族など)の中で培われる価値観を重視する政治哲学の立場を、共同体主義(コミュニタリアニズム/communitarianism)と言います。
共同体主義の考え方では、コミュニティを、共通の歴史を通じて発展した興味、伝統、道徳的価値を共有する、単一の場所または異なる場所に住む人々のグループと見なします。
たとえば、世界中に散らばっているユダヤ人(ディアスポラ)は、強い共同体意識を共有し続けています。
進化論的にも、社会進化論的にも、自己中心主義や、自分の属する共同体中心主義という本能、圧力、誘惑は強大だ。
核兵器使用の決定など、権力者の自己中心主義がたとえ「類的破滅」につながっても暴走する可能性だってあるのだ。
(竹下節子さんのブログより)
このように、この単語はあまり良い意味で使われるものではないようです。
でもいいのです。
わたしは自分を「共同体主義」の信者だなぁ、と思っています。
久留米教会という共同体が好きです。
大先輩方と語らうのも、若いベトナムコミュニティのみんなと言葉を交わすのも、「初めて来ました」という方をご案内するのも、こうして広報のお仕事を任せていただけていることも。
同じ信仰、道徳的価値感を持ち、大切に想っていることを共有できる人々との交わりは、わたしの心の支えです。
ベトナムコミュニティのみんなのように、教会に集うことをもっと楽しんでくれる若い人たち、子どもたちが増えるように働きたい、という希望を持っています。
夏休みにベトナムに帰省したメンバーが、アベイヤ司教様へのプレゼントを買ってきてくれたそうで、司教様は大変お喜びになっていました。
敬老祝福式では、詩篇1章が読まれました。
幸せな人、神のおきてを喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。
流れのほとりに植えられた木が、
季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、
この人の行いも実を結ぶ。
神に従う人の集いは神のもとにあり、
神に逆らう者の道は滅びへと続く。