行事風景
「復活」による変化
信者ではない友人から「クリスマスよりもイースターのほうが重要って、どうして?」と質問されました。
ご復活の意味について説明するのは難しいですね。
旧約聖書の預言者たちは「主に立ち返れ」と繰り返し人々を諭している。
それでも、主を忘れ、主に背き、罪から逃れられないのが人の常である。
その救い主として生まれ、十字架につけられ、死んで復活したイエス様。
救い主が生まれたことがめでたいのではなく、死んで復活してくださったことが救いなのだ。
この説明は間違っていないと思うのですが、こう言っても友人は「?」という顔をしていました。
復活したイエスは、何度か弟子たちの前に現れ、忍耐強く彼らの不信を解くことで、いわば「弟子たちの復活」を行い、こうしてイエスによって再び引き上げられた弟子たちは、これまでと違う人生を歩み始めることになった。
弟子たちは、これまで主の多くの教えに耳を傾け、多くの模範を目撃したにもかかわらず、自分を変えることはできなかった。
しかし、イエスの復活は彼らに新しい何かをもたらし、彼らを変えた。
それはいつくしみのしるしのもとに起きたことであった。
イエスは弟子たちをいつくしみによって引き上げ、「いつくしみを与えられた者」になった彼らは、今度は「いつくしみを与える者」に変容された。
4/11「神のいつくしみの主日」の教皇様のお説教より
教皇様のこのお説教はとても分かり易く、なるほどと深くうなずけます。
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先週書いた、マグダラのマリアの感動的な復活体験。
マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のこと。
(ヨハネ20・11〜18)
「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
イエス様は、死の後に「生き返った」のではありません。
写真にとれば一緒に写るような、身体の蘇りをなさったのではないのです。
「私は主を見ました」
そうマリアは弟子たちに告げますが、幽霊を見たのではなく、イエス様は自ら「現れ」て弟子たちに「ご自分を見せられた」のです。
ご復活の出来事は、イエス様が弟子たちに現れてくださったという、弟子たちの復活体験に基づいているのです。
弟子たちはイエス様を裏切り、逃げて、十字架の足元にいたのは女性たちとヨハネだけでした。
それでもご自分を現わしてくださった主の愛と赦しを身に受ける弟子たち。
彼ら自身がその復活体験を通して、命をかけて福音を宣べ伝える人に造り変えられます。
自分の惨めさ、醜さを直視させられ、しかもそういう自分を圧倒的な愛で包んでくださる主を体感した弟子たちは、もう畏れるものはなにもありませんでした。
これが、キリスト教の信仰の根源です。
復活体験によって造り変えられた弟子たちの信仰がなければ、2000年以上もこうして福音が宣べ伝えられ続けることはなかったのです。
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わたし個人としては、20歳で洗礼を受けましたが、今思い返せばそれは復活体験ではありませんでした。
確かに洗礼で生まれ変わりましたが、わたしに神様が現れてくださったのは、20年後、母が亡くなった後でした。
自分の罪を直視し、我に返ったのです。
マリアが名前を呼ばれた時のように。
それからは、問題が起きて迷ったり困っているときなどに、神様と母がわたしに何を望んでいてどう歩んでいくべきかをさし示してくれているのを感じ取ることができるようになりました。
どなたにも、キリスト者としての復活体験がおありだと思います。
その時のお気持ちを、どうか思い返してみてください。
復活とは、「立ち上がる」「起き上がる」ということなのです。
神様との間にあった障壁のような、さえぎっていたものが取り払われる体験のことです。
わたしたちには、いつでも神の愛によって立ち上がることができる機会が与えられています。
それが信仰なのではないでしょうか。
わたしたちは、このことの証人です。
(使徒3・15)