カテゴリ:御ミサ
わたしたちの『おきて』
季節は秋へと移ろい始めました。
13日から教会学校が再開され、子どもたちが教会に戻ってきてくれました。
侍者もいないごミサが続いていますので、子どもたちの姿に目頭が熱くなる思いがしたのはわたしだけでしょうか。
教会共同体が未来に繋がっていく実感が持てるのは、子どもたちの教会での様子を目にできるからだと思うのです。
13日の第一朗読のシラ書です。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
(シラ28・6~7)
2200年前に語られたこの『おきて』は、当時の社会に起きていた様々な問題を正面から捉えて、それを踏まえての生き方を説いています。
いまの混迷の時代の最中にあるわたしたちにも迫ってくることばが多く、たくさんアンダーラインを引いているお気に入りの聖書の文書のひとつです。
預言書を除いて、旧約聖書のなかで著者の名前が判明している唯一のものです。
教父たちはシラ書のことを「パナレトス(最も優れた本)」や「パナレトス・ソフィア(最も優れた知恵)」と呼んでいました。
3世紀以降は「エクレジアスティクス(教会の本)」と呼ばれ、教理の教科書として用いられていたのです。
オリジナルのヘブライ語版が19世紀に入って発見され、カトリックでは正典として位置づけられます。
1964年にはイスラエルのマサダの城壁発掘の際に、ほぼ5つの章を含む巻物の写本が発見されています。
これが、マサダの城壁です。
この写真を撮影しているとき、携帯の気温計は46℃でした!
主は彼らに判断力と舌と、目と耳を与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主はご自分と同じ力を彼らに帯びさせ、
彼ら一人ひとりに、隣人についての掟をお与えになった。
(シラ17・3~14抜粋)
先週ご紹介した、教皇様の説教集からのお話です。
感謝の心を持ち、自由で偽りなく、祝福する心を持った責任ある大人という存在であること
忠実で寛大で裏表なく、いのちを守り愛する者であること
教皇様は説教の中で「十戒で語られる生き方」について、こう語られています。
暗記したい、いや、これは暗記すべき『おきて』です。
キリスト者に限らず、この生き方を全ての大人が心がけるならば、若者や子どもたちに良い影響を与えることができるはずです。
また、「祈り」について語られたことにも触れておきたいと思います。
わたしたちの祈りの多くは、かなえられていないようだからです。
求めても得られなかったことがどれだけあったか。だれもが経験しています。
扉をたたいても、開かれなかった経験をどれだけ重ねたことか。
そうしたときにも、しつこく、決してあきらめてはならないと、イエスは忠告しています。
祈りによって必ず現実は変わります。必ずです。
たとえ周囲の状況が変わらなくとも、少なくともわたしたち自身が、わたしたちの心が変わります。
神はこたえてくださる、それは確信出来ます。
唯一不確かなのはその時期ですが、それでも神がこたえてくださることを疑ってはいけません。
もしかすると、生きている間ずっと待ち続けなければならないかもしれません。
それでも神はこたえてくださいます。
生きている間ずっと待ち続ける、という表現にはハッとさせられました。
聞き入れられないのではなく、待つことに意味があるとは。
これも、心に刻んでおくべき現代の『おきて』です。
わたしを始め、現代人はせっかちで、不安定で、脆い心を持った人が多いからです。
祈ってください。祈りは現実を変えます。
事態を変えるか、わたしたちの心を変えるか、どちらにしても必ず変えます。
パパ様がそうおっしゃるのです。
なんと心強いおことばでしょう。
わたしたちに与えられた十戒も、現代において教皇様が示してくださる新しいおきても、決してわたしたちをしばるものではありません。
これは、神様が与えてくださる『ことば』なのです。
神様はこれらのことばを通してご自身を伝えてくださり、わたしたちがそれに応えて生きていくことを望まれています。