行事風景

神様はゆるす方

ウクライナのことを思わない日はありません。
「ロシアによるウクライナ侵攻」ではなく、戦況はロシアvs西側諸国の様相に変わったかのようです。
ウクライナの街が破壊され多くの市民が亡くなっていることは、惨く、信じられないことですが、ロシアの戦艦が破壊されて激しく燃え盛る様子を見て、良かった、とは決して思えません。

教皇様は、3月25日のお告げの日にバチカンでミサをささげられました。
そしてその中で、ウクライナとロシアを聖母マリアに奉献されたのです。

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
(ホセア6・1~3)

 

自分が正しい。
わたしは間違っていない。
あの人の考え方はおかしい。

よく言えば正義感が強くもあり、わたしの欠点である「自分の主張を押し付ける言い方」をして、また人を傷つけてしまいました。
「あんな風に言われて、残念な気持ちになりました。」とメッセージが来るまで、そのことに気づかなかった自分が嫌になりました。
この一週間、その罪の意識がわたしを覆い、ずっと後悔の念に苛まれて過ごしてしまいました。 

 

わたしたちは、言葉をとおして偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。
わたしたちが日ごろ使っている言葉について、問い直してみましょう。
その言葉は、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものでしょうか、それとも自分をひけらかすためのものでしょうか。
柔和さを持って話していますか?
それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのでしょうか。
神がその謙虚さを顧みたおとめマリアが、わたしたちが眼差しと話し方を清められるよう助けてくださいますように。
2/27教皇フランシスコ お告げの祈りでの説教より

 

そんな時に、この教皇様のお説教の言葉を読み、ますます落ち込んだまま日曜日のミサに与りました。

 

「素直に、心から悔い改め、感謝して正直に信仰に生きましょう。
神様は罰する、怒る神ではありません。
ゆるす神です。
両手を広げて、父の愛、母の愛でわたしたちを受け入れ、 ゆるしてくださいます。」

宮﨑神父様がお説教でこう言われ、わたしの心も救われました。

 

 

そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ18・9~14)

時々、わたしはファリサイ派の人のようです。
「わたしは熱心な信者です。
わたしは一生懸命に役割に取り組んでいます。
褒めてください!」
そういう気持ちが湧き上がってきて、自己満足している自分が嫌になることがあります。

でも今日は、徴税人のように素直になって、正直に信仰に生きるものとなるよう努めよう!
そう、決意を新たにできた気分です。

わたしの罪は赦された、と(勝手に)感じた日曜日でした!

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「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。
あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。
この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。
わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。
「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。
あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。
わたしたちはあなたに信頼を寄せています。
とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/