行事風景

死者への愛

死者の月、皆さんも天に召された大切な人を想って過ごしておられるのでしょうか。

毎晩、寝る前の祈りの際に、「天国のみなさんを安らかに過ごさせてあげてください」ということばを唱えます。
わたしが神様にお願いしなくても全く大丈夫なことではあるのですが、母をはじめとする、周囲の大切だった人たちが天国でどのように過ごしているのかを想像するのです。
その人たちは、いまでもわたしにとって大切な人々なのです。

デンマークの哲学者、宗教思想家に、実存主義の創始者と言われるキェルケゴールという人がいます。(1813~1855年)
実存という言葉を、「今ここに私がいる」という意味で初めて用いました。

熱心なキリスト教徒でしたが、同時に、形式にこだわりすぎる当時のデンマーク教会への批判もしています。
彼は、人間の自己生成の段階を3つの段階によって説明したことでも知られています。
実存は深化してゆき、人間は最終的に宗教的実存に至る、と。
「宗教的実存」とは、神と一対一で向き合うことで本来の自分を取り戻す、ということです。

彼は、その著書『愛の業』のなかで、隣人には死者まで含めなければならないと言っています。

なぜなら、死者に対してわたしたちは明らかに義務をまた負っているからである。
もしわたしたちが現に見ている人々を愛するべきであるならば、わたしたちが見たことはあるが、死によって奪い去られたゆえに今はもう見ることのできない人々をもおそらくまた愛すべきであろう。
ひとは死者を嘆きやわめきによって煩わせてはならない。

義務を負う、とは、わたしたちは死者からの愛によって生きているということです。

さらに、こう言っています。

わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも無私なる愛の行為である
わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも自由な愛の行為である
わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも信実な愛の行為である

キェルケゴールの思想は、一見かなり難解に思いますが、この文章は心にスッと入ってくる気がします。

毎年この季節には、マカバイ記のこの箇所を読みます。
ユダヤ人とアラビア人の戦いによって亡くなった戦死者が、罪の故に犠牲になったと知り、弔う場面です。

彼がこのように、最も善良で、崇高な心を持って行ったのは、復活について思い巡らしたからである。
もし彼が戦死者の復活することを希望しなかったら、死者のために祈るのは余計なことであり、愚かしいことであったろう。
だが、彼は敬虔な心をもって眠りに就いた人々のために備えられた、素晴らしい報いについて思い巡らしていた。
その思いは清く、敬虔であった。
彼が、死者のためにこの贖罪の捧げ物をささげたのは、彼らが罪から解かれるためであった
(2マカバイ12・44〜46)

死者のために祈るということが無駄なことではない、という言葉は、母を亡くして悲しみに暮れていたわたしにとって大きな救いとなりました。

この箇所では、死者のために祈ることは彼らの罪を解くためですが、わたしが死者のために祈るのは、わたしの罪を赦してもらうためです。

天国で安らかに過ごしてほしい、そして、生前わたしが足りなかったところを赦してほしい、そう思って祈っています。

キェルケゴールの言うように、「ひとは死者を嘆きやわめきによって煩わせてはならない」というのはもっともです。
悲しみ続けることは、天に召された人々を心配させるだけです。 

 

 

23日木曜日の朗読箇所は、まさに今のことを言い当てたかのようでした。

都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、「もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知っていさえいたら・・・・・・。
しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。
それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである」。
(ルカ19・41〜44)

聖書で「イエス様が泣いた」と記述されているのはここだけ、と以前教わりました。 

西日本新聞11/20の朝刊に、姜尚中さん(東大名誉教教授)のコラムが掲載されていました。

パレスチナ人もユダヤ人も平和的に共存していた地で建国されたイスラエルは、事実上核武装する、サムエル記に登場するペリシテ人の巨人兵士ゴリアテのような国家になってしまった。
イスラエルの占領地に対するパレスチナ人の抵抗運動は、投石も含めた「石の闘い」と呼ばれた。
しかし、イスラエルの苛斂誅求から「石の闘い」の無力さが浮き彫りになり、やがてテロをいとわない過激な民族運動が台頭したとすれば、それは憎しみをエンジンとする暴力の連鎖を生み出したと言える。

*苛斂誅求(カレンチュウキュウ)=税などを容赦なく取り立てること。また、そのような酷い政治のこと。

イエス様が今生きておられたら、この現状に涙されるのではないかと想像しています。

わたしたち、人というのは、何千年経っても同じ過ちを繰り返しています。
他者を犠牲にして自分の主義主張を満たそうとする。
神様が嘆き、涙されている様子が浮かぶようです。

この死者の月の間は特に、イスラエルの紛争によって犠牲になった方々のためにも祈りましょう。

 

改革の精神

冬は大好きな季節です。
空気が澄んでいて、高い空がキレイ。
朝一番の神様へのご挨拶も、息が白いくらいの方が気持ちがシャキッとします!

以前から、もっと詳しく知りたいと思っていることがあります。

それは、①なぜキリスト教が西ヨーロッパで受け入れられたのか。②初期の時代からどのように組織化(教父、聖職者、教皇などの階層)が進んだのか。
といったこと。

①の疑問については、概ね、「内乱で国が混乱に陥っていた末期のローマ帝国に利用されたから」
②は、分裂したあとの西ローマ帝国は混乱の末に滅びたが、東ローマ帝国はビザンツ帝国としてコンスタンティノープル教会の権威が増していたため、ローマの権威を取り戻すためキリスト教総本山として地位を確立していった。
ということのようです。

わたしがもっと知りたいのは、①利用価値があるほど信者がローマ帝国全土に急速に広がったのはなぜか。②分裂してできたギリシャ正教会、東方教会よりも、十字軍の失敗によって権威が失墜したはずのローマカトリック教会が、現在に至るまで世界的な地位を保っているのはなぜか。

信仰とは直接あまり関係のないことかもしれません。
ですが、この2つについてはもっと掘り下げて知りたい、といろいろな本を読んでみています。

(知りたい好奇心が湧くと、どんどん調べたくなる性分です。)

大抵の本では、強大な権力を握った教皇がいて、時には複数の教皇が同時に存在して反目し合い、政治に関わり、影響を及ぼす力を持っているところから始まっています。

教皇が堕落していた時代が長くあり、十字軍という歴史的失敗、ユダヤ人排斥の根幹、などの黒歴史があるにも関わらず、2000年以上も組織として発展し続けていることの意義、そのスタートについて、わたしなりに確認したいのです。

 

 

教皇フランシスコは、任期中にカトリック教会をより改革しようと、大きな動きを見せている。
ヴァチカンは11月9日、トランスジェンダーの人々について、スキャンダルや「混乱」を招かない限りはカトリック教会で洗礼を受けられると発表した。
10月には、カトリック教会が同性カップルを祝福することに前向きな姿勢を表明。
この件について質問した枢機卿らに対し、「私たちは、ただ否定し、拒絶し、排除することしかしない、そのような裁判官であってはならない」と述べた。

8月のカトリック教会の「世界青年の日」にポルトガル・リスボンを訪れた際には、教皇は一部の人の後ろ向きな姿勢は「役に立たない」と述べた。
「後ろ向きになることで真の伝統を失い、イデオロギーに頼ってしまう。
つまり、イデオロギーが信仰に取って代わってしまう

https://www.bbc.com/japanese/67400362
(BBCニュースより抜粋)

フランシスコ教皇は、着座当時から、それまでの教皇とは違って革新的な新しい感覚を発信してこられています。
当然、それには反発があるでしょう。

映画「2人のローマ教皇」では、超保守的な感覚の持ち主であるベネディクト16世が、ベルゴリオ枢機卿が後継者として相応しいのか見極めようと対話を続けますが、あまりにも感覚が違うことに戸惑います。

国家元首、会社の社長、リーダーが大きなルールを作ったり変えようとすれば、必ず賛否が起こります。

4000年以上前からの教えが、2000年前のイエスというひとりの人によって軌道修正され、それから2000年以上「頑なに」守り続けられているわけではありません。

迫害を受け、時には中世のような乱世の中で国家元首に利用され、または逆に国家を利用し、分裂した教会よりも権威を上に誇示するために多くの新しいルールを作り、、、、。

時代の流れにうまく乗り・逆らいながら、そうして守られてきたのでしょう。
そして、その守られてきたものというのは「信仰」ではなく、「カトリック教会」という組織なのかもしれません。

信仰はわたしたちひとりひとりが守るものであり、同時に、ひとりきりでは信仰は保たれないものではないでしょうか。

「教会」という大きな家があるから安心して信仰を分かち合えるのだとしたら、やはり組織も守られ続けなければならないと思います。

総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かっていった、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。
律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。
民はみな行って、食べたり飲んだりし、持たない者と分け合って、大いに喜び祝った。自分たちに告げられたことを理解したからである。
捕囚から帰ってきた全会衆は仮庵を造って、そこに留まった。
ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの子らがこのように祝ったことはなかった。その喜びは非常に大きかった。
(ネヘミヤ8・9〜12、17)

捕囚が解かれ、数十年ぶりに律法を聞いて喜び泣く民の姿です。
彼らは、捕囚の間もそれぞれが信仰を守り続けていたのですが、こうして集い、律法を分かち合い、仮庵(わたしたちにとっての教会)で信仰を喜びあったのです。

わたしたちの信仰は、ひとりで祈ることだけでなく、集い、分かち合い、喜び合うことによって意味が深まるものです。

そして、ルールが変わっても、わたしたちひとりひとりの信仰心が変わるわけではありません。

昨今のLGBTQの人々への対応については、カトリック教会だけではなく、さまざまな場面や組織において対応の変化が求められてきています。

フランシスコ教皇の進められる時代に合った信仰の新しいカタチが、どのように展開して受け入れられていくのか、注視したいと思います。

上に紹介したInstagramのメッセージで教皇様がおっしゃっています。
「この世界、社会のためにわたしたちは何ができるでしょうか。
どのような未来を子どもたちのために準備できるでしょうか。」

七五三のお祝いをした、この子たちの将来のためにも。

 

 

誠実な実行

12日はアベイヤ司教様の司式のミサで、16名の堅信式が執り行われました。

堅信は、聖霊によってさらに信仰が強められる秘跡です。
これでようやく、信者として独り立ちのような身になります。

「聖霊とは、イエス様の心に満ちている愛といつくしみの力のことです。」

アベイヤ司教様が、受堅者をはじめ、わたしたちにそう話してくださいました。

言うことと、行動との間にある距離について考えよう。
イスラエルのこれらの師たちは、神の言葉を人々に教え、神殿の権威として尊敬を集めようとしていた。
しかし、イエスは、言動の一致しない彼らの二面性を批判する。
イエスのこの言葉は、特にイザヤ預言者の「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29,13)という言葉を思い出させる。
わたしたちが注意深く見張るべきもの、それは表裏ある心である。
二面性ある心は、人間として、キリスト者としての証しと信頼性を失わせる。
言動一致しない生き方は、「内的なことより外見を優先させる」ことにつながる。
イエスのこれらの忠告を受け入れつつ、わたしたちも自問しよう。
自分が他人に説くことを、自ら実行するようにしているだろうか。
それとも二重の生き方をしているのか。
外側だけの完璧さに気を遣っていないだろうか。
誠実な心のうちに内的生活を大切にしているだろうか。
(教皇フランシスコ11/5バチカンでの正午の祈りの集いのお説教より)

洗礼、堅信という秘跡を受けたわたしたち信者は、立派な内的生活を送っていると誇れるかどうか、年に一度のこの機会に自問してみるのもいいかもしれません。

堅信式で受堅者は、5つの質問に答えます。

①「あなたがたは悪霊と、そのすべてのわざと、誘惑を退けますか。」
受堅者は「退けます」と答えます。
これで、洗礼の約束が更新されるのです。
②「あなたがたは、天地の創造主、全能の、神である父を信じますか。」
③「父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じますか。」
④「50日祭の日、十二使徒に与えられた聖霊、きょう同じように、堅信の秘跡によってあなたがたに注がれる神のいぶき、いのちの与え主である聖霊を信じますか。」
⑤「聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じますか。」

司教様は、わたしたちにも質問されます。

「皆さん、これから堅信の秘跡を受けられるかたがたとともに、信仰をあかしする決意を新たにいたしましょう。
あなたがたは教会の信仰を固く守り、力強くあかしすること約束しますか。」

どうでしょうか。

パパ様のおっしゃるように、「自分が他人に説くことを、自ら実行するようにしているだろうか。」「外側だけの完璧さに気を遣っていないだろうか。」ということと重なります。

水は神殿の南側、祭壇の南の下から流れ出ていた。その方は、北の門を通ってわたしを連れ出し、外をまわって東の外の門へ連れて行った。そこでも南側から水が湧き出ていた。
その方はわたしに水の中を歩かせた。彼がまた千アンマ測ると、水は川となり、もはや渡ることはできない川となった。

川岸に戻ると、一方の岸にもまた他方の岸にも、見事なほどの木々が生い茂っていた。
その方がわたしに言った、「この水は東の地域へと流れてアラバに下り、すなわち汚れたに流れ込む。するとその水は浄化される。川が流れゆく所、生き物の群れはすべて生気に溢れ、おびただしい魚が繁殖するようになる。
エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、岸辺には漁師たちが連なり、それらの場所は網干し場となる。そして、大海同様、豊富な種類の魚に恵まれる。
しかし、沼地や湿地は塩を採取するためによどんだままにしておかれる。川辺では両岸にあらゆる果樹が生長する。その葉は枯れず果実も絶えず、月ごとにみずみずしい実を結ぶ。
それが、聖所から流れ出る水だからである。その果実は食用に、その葉は薬用になる」。

(エゼキエル47・2~12)

海=死海のことです。
生き物が生息できない塩分濃度の死海でさえ、神殿から流れる水で浄化され生気溢れるものとなる、とエゼキエルは喩えています。

私はお前たちに清い水を注ぐ。そうすれば、お前たちは清くなる。
お前たちに新しい心を与え、新しい霊をお前たちの内に置く。
お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
(エゼキエル36・25〜26)

肉の心、とは内的刷新を指しています。
正確には、この肉の心の授与は捕囚からの解放の約束を意味しているのですが、エゼキエルの喩えはわたしたちの洗礼と堅信の秘蹟について述べているようにも感じませんか?

わたしたちは洗礼を受け、その水によって生気に溢れたものとなり、内的に刷新されました。
つまり、周囲の人々へも生き生きとした良い影響を与えることができる、そんな力を帯びているのです。

わたしが初めて告解したときに神父様からいただいた言葉が、わたしの座右の銘です。

「あなたはキリストの良いかおり」
(2コリント2・14~16)

その自覚を持って人に誠実に接し、思い遣りの言葉をかけ、善い行いを行動で表し、神殿から溢れる水のような生気溢れる流れを周囲に及ぼす存在でありたい。

(難しー)

堅信を受けた方々の姿をみて、今日はそんなことを考えた日でした。

11/3はアベイヤ司教様の74歳のお誕生日、そして12日は宮﨑神父様の72歳のお誕生日でした。

手作りのお料理とケーキで準備をしてくださったフィリピンコミュニティの皆様。
本当に感謝で胸がいっぱいになる日曜日でした。

 

学ぶ喜び

勉強は何歳からでも始められる、とはよく言われますが、時間はあっても、気力とタイミングが必要です。

以前、わたしが大学の学部を選ぶときは「就職に有利かで決めた」、と書きました。

今、もしまた大学で学ぶ機会があったら、迷わず「神学部」を選びます!

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福岡の神学院が閉鎖となり、最後の神学院祭でした。

このホームページにこうして記事を書くようになって、6年ほどになりました。
宮﨑神父さまが「あなたの好きなように書いていい」と言ってくださり、聖書のこと、神父様方に教わったことなどを「好きなように」書いてきました。

学びながら、書きながら、聖書の奥深さの魅力にどんどんハマり、たくさんの本を読むようになりました。
「もっと学びたい!」
18歳の自分は絶対に選ばなかった神学部に、今は興味津々です。

現在、ローマで神学を勉強をされている船津神父様は、最近Facebookで発信してくださっています。
イタリア語、ヘブライ語、ドイツ語だけでなく、ギリシャ語、ラテン語でも聖書と神学を深く学ばれている様子に、わたしもワクワクさせられています。

 

福岡の神学院で神学を学ばれた、たくさんの神父様方とお目にかかることができました。

 

 

 

久留米教会の彼ら二人が、侍者を務めてくれました。

久しぶりに久留米の信者たちと交流してくださった森山司教様に、みんな大喜びでした。

 

わたしは見張り場に立ち、砦にしっかりと立って見張りをしよう。
主がわたしに何を語られ、わたしの訴えに何と答えられるかを見るために。
主がわたしに答えておおせになった、「啓示を書き記せ。それを読む者が容易に読めるように、板の上にはっきりと書きつけよ。
この啓示は定められた時までのもの、終わりの時について告げるもので、偽りはない。
もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。
それは必ず来る。
それは遅れることはない。

見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る。
しかし、正しい人はその誠実さによって生きる」。
(ハバクク2・1〜4)

ここでいう誠実とは、「信仰」「アーメン」と同じ語源です。
主の日にも、神への不動の信頼を持つ人は「生きる」と書かれています。

この聖書の箇所を文字通りに信じるかどうか、それが神学ではなく、神様の導きを信じること、信じて待つことの意味、そうしたことを考えさせらるのが聖書の面白さだとわたしは思っています。

わたしは福音を恥としません。
福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人の上に救いをもたらす神の力だからです。
人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に現われています。
正しい人は信仰によって生きる」と記されているとおりです。
(ローマ1・16〜17)

こうして新約聖書を紐解くと、必ず旧約の箇所と結びつきます。
神の義、つまり神の愛・優しさはイエス様が来られて最高潮に達しましたが、旧約の時代からもともとユダヤ人の間では理解され、大切な教えとして信じられていました。

ハバクク書は紀元前600年ごろに書かれたとされています。
2600年前に書かれたことを、2000年前の人々が守り継ぎ、それを現代のわたしたちがまた読んでいるのです。

そのように学びました。
このような読み方、旧約と新約を同時に読むことを学びました。

読書の対象としても、聖書は本当に面白いのです!

わたしの聖書の師匠の教えです。

 

信仰と所属

福音宣教11月号は「カルトとどう向き合うか」というテーマでした。

いろいろと考えるところがありましたが、その中でも、宗教を論じる際には「信仰・実践・所属」の3つの要素が大切な視点であるとおっしゃる、岡本亮輔さんの文章がとても興味深い内容でした。

書かれていたこととは本質的に違いますが、わたしはこの「所属」というキーワードに関心を持ちました。

というのも最近、ある教会の会議で、「教会維持費を納めていない外国籍の信徒について、懸念を感じている」という発言があったからなのです。
また、別の方からは、「自分の教会には外国籍の信徒がいないので、考えたことがない」とも。

日本らしい、少し恥ずかしい問題提起のような気がしました。

先日ご紹介した、韓国からの巡礼団についての記事でも書いように、日本のカトリック信徒数は人口の0.35パーセントほどです。

そして、先日の記事にも書きましたが、わたしたちは「日本人」か「外国人」という、2種類の分け方をしてしまいがちです。

数で言えば、わたしたちは信仰マイノリティなのです。
それなのに、日本という島国におけるマイノリティ(外国人)を別の人種として見てしまうのです。

 

久留米教会では、多くの外国籍の信徒がミサに参列しています。

教会維持費を納めている方もいらっしゃいますが、3年の期限付きで技能実習生として来日している方々の中には、日本語のミサだけではなく、月に一度の英語、ベトナム語のミサにも与り、きちんと献金をしてくださっています。

「維持費を納めていない外国籍の信徒は久留米教会所属の信徒ではない、という考え方は間違っている。」

先日の教会委員会の会議で、わたしたちはこのことを改めて確認しました。

 

皆さん、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。
そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソ2・19~22)


冒頭に書いた、福音宣教の岡本亮輔さんの記事には、今ニュースになっている旧統一教会についても書かれていました。

世界基督教統一神霊協会(当時の名称)がキリスト教ではなく、ましてやカトリックでもないことを示し、キリスト教一致運動としてのエキュメニズムの対象にもなり得ないことを明確に宣言したいと思います。
その教義は、世界基督教統一神霊協会の『原理講論』にありますが、そこにあらわれる教えは、カトリックの最も基本的な教えである、キリストによる啓示の完成・キリストの神性・十字架によるあがないを否定しております。
1985年6月22日(定例司教総会において)日本カトリック司教団

これは、カトリック中央協議会のホームページにある文書の一部です。

わたしたちカトリック信者の根底は、信仰、つまり「信じること」です。
信仰を基準に、わたしたちと彼らの違いを「正しい」か「間違っているか」で客観的に明示したのが、上の司教団のメッセージです。

「わたしたち」が、彼らを「カルト」である、と決定することについて不安な気持ちになるのも、正直な感想です。

「わたしたち(キリスト者)とは違う」=「異端である」=「カルト」と、信じていることを基準に判断しているのですが、世間一般の人々からみれば、その価値判断はかなり理解が難しいものではないでしょうか。
(実際、旧統一教会の問題で一般に「間違っている」とされているのは、その教義内容ではなく、献金額とその方法です。)

日本人は、お正月には神社で手を合わせ、結婚式ではキリスト教風に誓い、葬儀は仏式でお数珠を手に架ける、という、世界でも稀な文化を持っています。
このような習慣を多くの人が持っていますので、どの宗教の問題についても、その本質的な部分について理解してもらうことは困難なことかもしれません。

どんな宗教も、始まりはカリスマ指導者を中心とするカルトだ。
指導者はたいてい放浪の聖者で、多くは男性だが、女性もいないわけではない。
既存宗教内の派閥争いの結果、新しい宗教が誕生することもある。
そうでなければ、孤独な黙想の日々を過ごし、人生と神学について新たな着想を得た者に感化された人たちによってカルトが出来上がる。

だがその違いは取るに足らないものだ。 
カルトは例外なく、自分たちが身を置いている宗教的景観のどこかに反発して始まる。
そのため、多くの既存宗教はカルトに対して相反する感情を抱き、十分に確立して注目されるようになったカルトに対して何らかの圧力をかけようとする。
「『宗教の起源』私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか」より

著者のロビン・ダンバーはオックスフォード大学の名誉教授であり、世界的にその研究で権威のある方です。
彼は、どんな新しい宗教の創始者であっても、すでにある信念や習慣を新たな方法で、あるいはそれに反発しながら発展させただけであり、始まりはカルトなのだ、と言います。

以前書いたように、2000年以上前にイスラエルの地に現れたイエスさまは、「律法命!」の日々に疑いを持たずに暮らしていた当時のユダヤ人たちに、「胡散臭いやつだ」と思われていたことは想像できます。

まだ、読み進めている途中ですが、とても明快な文章で、読みやすく、読書の秋にお薦めの新刊です。