お知らせ

福岡教区創立100周年に向けて

2024年7月14日(日)、教区100周年に向けての記念ミサから、
2027年7月16日の教区創立100周年までの間、3年間かけてお祝いの時を祈りのうちに過ごすこととなりました。

福岡教区創立100周年・開催のミサにあたっての、アベイヤ司教様からのメッセージです。

兄弟姉妹の皆さん、
今日、喜びをもって、2027年7月16日に記念する福岡教区創立100周年を祝うための歩みを始めます。
一人ひとりにとって、信仰を深めるときとなり、福岡教区にとってこの地域に派遣された教会として福音を証し、宣べ伝える決意を新たにするときになるように祈ります。
福岡教区宣教司牧方針のことばを借りて、わたしたちの教区としての歩みの始まりを思い起こしたいと思います。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)との主のみことばを受け止めた聖フランシスコ・ザビエルは1549(天文18)年、日本に主の救いの福音を伝えました。
1557(弘治3)年には博多にも聖堂が建てられたといわれています。

聖フランシスコ・ザビエルは日本宣教の保護者とされています。
その後の450年の間、潜伏キリシタンの時期や明治初年の奇跡の再開を経て、イエス・キリストの福音は今のわたしたちのところに届いています。
その間、わたしたちの何人もの兄弟姉妹は殉教を通して信仰を証ししました。
殉教者の証を忘れることができません。
わたしたちの教区の確かな土台になっているからです。
約250年にわたるキリスト教弾圧の後、1854(安政元)年の開国に伴い、フランスからパリ外国宣教会の司祭が日本に派遣されるようになりました。
1865(慶応元)年長崎大浦天主堂での「信徒発見」と呼ばれる出来事の2年後1867年(慶応3)年に、浦上教会の信徒により今村の潜伏キリシタンが発見されました。
明治に入って1873(明治6)年に禁教が解かれると、パリ外国宣教会の宣教師たちによって今村、天草、馬渡島の教会は発展し、福岡、小倉、久留米、佐賀、熊本、人吉などにも教会が生まれ、成長していきました。

1889(明治22)年頃からはショファイユの幼きイエズス修道会、マリアの宣教者フランシスコ修道会、シャルトル聖パウロ修道女会などのシスターたちも教区に派遣され、福祉事業や教育に貢献しました。
1927(昭和2)年7月16日付けで布教聖省(現在の福音宣教省)は福岡司教区(福岡・佐賀・大分・宮崎・熊本の5県)を創立しました。初代の教区長はフェルディナンド・チリー司教(パリ外国宣教会)でした。
当時の信者数は約7900人といわれています。
翌年1928(昭和3)年に、宮崎と大分両県は福岡教区から分離されました。

そこから、97年も経ちました。
その間、福岡教区で、信徒、修道者、司祭、司教の働きによって、教会は成長し、この地域において福音の光が燈されてきたのです。
皆さんの心には、様々な体験がよみがえってくることに違いないと思います。
貴い遺産を受け継いでいます。
今まで福岡教区を担ってくださった皆さんに心から感謝しなければなりません。
教区の宣教司牧方針に書いてあるように、「福岡教区の共同体が今まで歩んできた道を振り返って感謝します。
また、福音に触れるときに伝わってくる情熱に促されて歩み続けようとしています。
それによって、希望をもって将来に向かって行くことができると確信しています。

『感謝』『情熱』『希望』はわたしたちの歩みを導く光です。」
この三年間心に留めていただきたいことばです。
今日朗読されたみことばは心に強く響きます。
わたしたちに向けられたイエスのことばとして素直に受け止めたいのです。
イエスは弟子たちを派遣されます。
すべての福音書に出てくる場面です。
弟子たちの心に深く刻まれたことばだったと思います。
福音書が書かれたときの初代教会の体験もその中で表れています。
教会は派遣された共同体です。
イエスはそのために弟子たちに権能を授けるが、それは、人々を支配する権能ではなく、「汚れた霊」から人々を解放する権能です。そのために物が必要ではありません。
そのために必要なのは、神に対する信頼と人々に対する愛です。
イエスのこのことばが大事にされたからこそ、教会は世界に広がって成長してこれたのです。
宣教師たちをはじめ、洗礼を受けた者は、福音を告げるために、イエスのように人々の間に入って共に生活し、人々の喜びと苦しみを分かち合ってきました。
それによって多くの人々は、神の愛のうちに癒しと希望をみいだし、共同体の中でそれらをともに感謝し、人生の歩みを支える兄弟姉妹を見つけたのです。
パウロが書いているように、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」。
しかし、長い歩みの中で教会は、福音の光を見失って自分中心にものを見たり、自分の都合だけですべきことを決めたり、排除されている人々に目を向けなかったり、また、人の心を傷つけたりしたこともあります。
歩みを振り返るときに、これらの事実も見えてきます。
神と人々にゆるしを求め、福音に立ち返る恵みを祈らなければなりません。
教区創立100周年の記念日までの三年間は償いと回心のときでもあるはずです。

イエスとの出会いに恵まれたわたしたちは、これからも福音に従って歩んで行きましょう。
そして、多くの人々と、イエスとの出会いの中で与えられる喜びと希望を分かち合いましょう。
自分にはできないと考える人もいるかも知れません。
今日最初に読まれたアモスのことばを思い出してください。
アモスは、自分の活動を止めようとする祭司アマツヤにこう答えます。
「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ。ところが、主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」
わたしたちも、主に呼ばれ、派遣されています。
それぞれの召し出しに応えて、イエスの弟子として生き、福音を知らせる使命を与えられています。
お互いに支え合いながら歩んで行きましょう。
今年は特に、宣教司牧方針の第二の柱である「互いに支え合う『交わりの教会』となる」ということを心に留めて、具体的な取り組みを、各自、各小教区、各地区で考えていただきたいと思います。

今日は、各小教区の兄弟姉妹とともに、福岡教区100周年のための祈りを唱えます。
心を合わせて天の父に感謝し、これからの歩みの上に豊かな祝福を祈ります。
「天の父よ、
福岡教区のこれまでの歩みを
支えてくださったことに感謝します。
これからも、あなたの愛にとどまりながら、聖霊に導かれて
福音の光をともしていくことができるように
わたしたちを見守ってください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」

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福岡教区創立100周年のための祈り

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