行事風景

知的好奇心

以前書いた、聖書とキリスト教の教えについて学び始めた友人と、先日LINEでやりとりをしていました。

先週の記事を読んでもらい、意見交換をしていて、わたしが「この世はテンポラリーなもので、永遠の命のためにわたしたちはこの世を旅しているのよ」と伝えたところ、こう質問されました。

「永遠の命、とはどういうこと?」

皆さんは、そう尋ねられたらどうお答えになりますか?

昔、「マラナタ、ってどういう意味ですか?」と、年配の信者さんに質問したことがあります。
その時のお答えは、「心で理解していることなので、そういう風に聞かれたらうまく言葉にできない」と。

使徒信条は、このように締めくくられます。

聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます

二ケア・コンスタンチノープル信条では、

わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。

この文章を使って友人に説明してもおそらく理解してもらえないでしょうし、わたし自身もいまいちピンとこないというのが正直なところです。

聖霊、聖徒の交わり、こうしたことは「信じています」と簡単に言えますが、「永遠のいのちを信じます」とは何を信じているということなのでしょうか。

「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。
生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。
このことをあなたは信じるか」。
(ヨハネ11・25〜26)

愛していたラザロが墓に葬られ、嘆き悲しむ姉妹のマルタに対してイエス様はこうおっしゃいました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、「イエスが死者を復活させる力をもち、永遠の命の源であることを意味する。イエスを信じるものは、この世の命に死んでも、永遠の命に生き続けることを意味する。」とあります。

うっすらと、疑問の霧が晴れてきたような気がします。

逮捕される直前、イエス様は数々の祈りをされます。
ヨハネ17章では、まずご自分のために祈りを捧げます。

あなたは、すべての人を治める権能を子にお与えになりました。
子が、あなたから与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(1〜3)

続けて、弟子たちのために祈りを捧げます。

あなたが世から選んでわたしにお与えになった人々に、わたしはあなたの名を現しました。
彼らはあなたの言葉を守りました。
あなたがわたしにお与えになったものはすべて、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
なぜなら、あなたがわたしにお与えになった言葉を、わたしが彼らに与え、そして、彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたの元から出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
(6〜8)

だいぶん視界が開けてきました。

以前ご紹介した、わたしの愛読書を開いて、さらなる答えを探してみました。

第3巻第47章は、タイトルが「永遠の命を受けるために、すべての労苦を忍ぶべきこと」となっており、その2節にはこう書いてあります。

あなたの為すべきことを忠実に行いなさい。
『わたしのぶどう園に行って働きなさい』(マタイ21・28)、そうすれば『わたしはお前の報い』(創15・1)となるだろう。

読み、書き、歌い、願い、沈黙し、祈り、勇気をもって苦しみを受け入れなさい。
永遠の命は、このような苦悩、いやそれ以上の苦悩に値するものである。

第49章「永遠の命への憧れと、そのために戦う人に約束された大いなる報いについて」の3、4節には、

あなたは、『神の子供の栄光の自由』(ローマ8・21)に入りたがっている。
またあなたは、永遠の住居と喜びに満ちた天の国を望んでいる。
しかしその時はまだあなたの上には来ていない。
今は、まだその時ではなく、戦いの時、苦労と試練の時だからである。

あなたはまだこの世で試され、さまざまに鍛えられなければならない。
たびたび慰めも与えられるが、しかしこの世に完全な慰めはない。

「キリストを生きる」トマス・ア・ケンピス(翻訳:山内清海)

深い霧が少しづつ晴れてきて、心が軽くなるような気持ちになります。 

わたしたちのこの世での日々は、信仰があったとしても苦悩や試練の連続です。
それらに打ち勝ち、内的成長のための糧と捉えて前に進むことができるのは、イエス様の教えを「知って、理解して、信じている」からです。 

現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。
わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。
目に見える望みは望みではありません。
目に見えるものを誰が望むでしょうか。
わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。
(ローマ8・18、24〜25)

と、ここまで書いたところで28日のごミサに与り、宮﨑神父様のお説教で目を見開かされました。

「永遠の命を得るということは、イエス様の求める生き方を追求して自分の人生を全うすること、とも言えるでしょう。」

わたしがこの記事を書いていることは、もちろん神父様がご存知なはずはないのに。
思わず、「今日のお説教素晴らしかったです!」とお伝えしました。
(「いつも、やろ」と返されました。) 

 

「 永遠の命とは」と、こうして聖書の言葉などを紐解きながら、友人がもっと「教えを知りたい」という好奇心を掻き立ててくれることは、わたしにとっても喜びです。

  

内なる旅

「The Book」といえば、「聖書」を意味します。

2010年の映画「ザ・ウォーカー」(デンゼル・ワシントン主演)は、原題「The Book」です。
それが聖書とは知らずに、「本を西へ運べ」という心の声に導かれ、目的地も分からぬまま30年間アメリカを西に歩き続ける男の話しです。

先日、「星の旅人たち」という映画を観ました。
原題は「The Way」

The Bookが聖書であるように、The Wayは聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のことです。

旅の途中で出会ったジプシーの男が主人公に告げた、「息子の遺灰をムシーアの海に撒け」との言葉に従って、目的の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着いた後も旅を続ける、父親の物語です。
父親役はマーティン・シーン、息子役はエミリオ・エステべス、2人は実の親子であり、息子のエミリオがこの作品の監督です。
(AmazonPrimeでご覧になれます。)

 

イスラエル、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステーラが、キリスト教の3大巡礼地と言われています。

スペイン語でEl Camino de Santiago(サンティアゴの道)と呼ばれ、El Camino(その道)、つまりThe Wayといえば、この巡礼のことを指します。

エルサレム、ローマと比べ、800キロ以上もの道のりを1か月ほど歩き続ける行程は、かなりハードルが高いものです。
そして、イスラエル、ローマへの巡礼とはかなり様子が違うのです。

つまり、「純粋なカトリックの信仰の故に歩く」のではない人の方が多いようなのです。

この映画の主人公もそうです。
旅を共にすることになる3人の仲間も、それぞれに「歩く理由」を持っていました。

巡礼者の中には、理由・目的をはっきりと自覚している人もいれば、それを捜すために歩く人もいます。
歩く理由、あるいは、生きる理由とも言えると思います。

わたしがイスラエル巡礼をした理由は、イエス様たちが生きた土地を自分で体感したいから、でした。

(実際には、足の不自由なわたしにとって灼熱のイスラエルを歩き回るのはかなり大変で、イエス様たちの生きた証を体感するなどという素敵な目的は、ほとんど忘れていましたが。。。)

歩く理由、生きる理由は本当に必要でしょうか。 

男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。
ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
(申命記16・16)

旧約時代の人々、熱心なユダヤ教徒たちは、この3つの祭りを厳格に祝うことを今で言う「巡礼」、と考えていました。

理由は、「主がエジプトからあなたを導き出されたから。エジプトで奴隷であったことを思い起こすため。すべての収穫、すべての働きの実を祝福してもらうため。」でした。

巡礼者であるとはどういう意味でしょう。
巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭につねに置いています。
ですが同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません。
このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にあるさまざまな道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。
疲労や困難はあっても、それによってつねに新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。

キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。
わたしたちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。
内なる旅とはいえそれは、多様なかかわりに刺激され続けるものです。
つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。
神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。
ですから、この地上におけるわたしたちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。

その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。
わたしたちは希望の巡礼者です。
よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。

「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージより

記事を書くために色々と読んだり調べたりしていたら、この、教皇様のメッセージに出会いました。
現代のわたしたちが巡礼する意味が、明確に述べられています。

イスラエルやローマなどに行かずとも、わたしたちは巡礼者、旅人なのです。

内なる旅を続けながら、自分自身を見出す人生、それが巡礼なのでしょう。

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この映画、とてもお勧めです。

 

歴史の評価

ローマに滞在中の聖書の師匠が、カラバッジョの作品の写真を送ってくださいました。

サンタゴスティーノ聖堂(ローマ)にある、カラヴァッジョの『ロレートの聖母(巡礼者の聖母)』

貧しい農民であろう老夫婦が、聖母子を拝む様子が描かれています。

聖母マリアは、33歳のカラヴァッジョが当時の公証人パスクアローネを襲撃し、大怪我を負わせる原因となった娼婦マッダレーナ・アトニエッティがモデルと言われています。

崇敬の対象である聖母マリアが普通の人々と同じように素足で描かれ、肩を出した露出の高い服、しかも巡礼者とかなり近い距離であることから、不敬だとしてライバルの画家に訴えられて裁判にかけられ、実際に投獄されています。

マリアの母性は、わたしたちを神の御父としての優しさに出会わせてくださる、もっとも直接的で、容易な道です。
聖母が、信仰の始まりとその中心へ導いてくださるのです。
それは、計り知れない賜物で、わたしたちを神に愛される子どもとし、御父の愛のうちに住まわせてくださるのです。

(教皇様の4/10のX)

 

そして、今観ているネットフリックスのドラマに登場したのが、次の作品です。

この『ゴリアテの首を持つダビデ』は、カラヴァッジョ最晩年の代表作です。

旧約聖書に登場する巨人兵士ゴリアテを倒し、斬り落とした首を持っている、羊飼いダビデの姿を描いた作品です。

彼は、このタイトルで3枚の絵を描きました。
マドリードのプラド美術館に所蔵されている絵は、初期の作品とされています。
他の2つのバージョンは、ウィーンの美術史美術館とローマのボルゲーゼ美術館にあり、これはローマにある作品です。


若きダビデと手に掴まれたゴリアテの首は、カラヴァッジョの若い頃と晩年の自画像だと言われています。
同情と愛を秘めた目でゴリアテの首を見つめているダビデの表情は、人間の複雑な心理描写であるように感じます。

「カラヴァッジョはこの作品を枢機卿に贈答することで、自らの罪を改悛している姿勢を示し、恩赦を得ることを画策した」
「ダビデの持っている剣に「H-AS OS」という文字が刻まれていおり、これはラテン語の「humilitas occidit superbiam(謙虚さは誇りを殺す)」の略語」
「旧約聖書の英雄ダビデをイエス・キリストに重ね合わせ、巨人ゴリアテを悪魔になぞらえて、イエスによって悪魔は葬られることを指す。」
「イエスは謙虚さであり、ゴリアテは誇りを意味する。」
などと説明されているサイトもありました。

https://note.com/ryuishi/n/nf836e5bb9e20

カラバッジョは、いわゆる「キレやすい」人物だったことはよく知られています。
頻繁に問題を起こし、人を切りつけ、絵画のモデルとして死体や娼婦を使っていたことも有名です。

彼が生きていた時は、作品よりも彼の問題行動や人間性の方が評判だったのかもしれません。
しかし今となっては、彼の作品は最高級の芸術品として崇め奉られています。

死がその評価を変える例としては、ゴッホなどとも通ずるものがあります。

イエスのご復活によって、悪は力を失いました。
失敗も、わたしたちがやり直すのを阻むことはできません。
死さえも、新たないのちの始まりへの通過点となったのです。

(教皇様の4/8のX)

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:余談1:

教皇様のX(旧ツイッター)のアカウント名は、@Pontifexです。
ラテン語で、pontifex maximus は教皇を意味します。

元々は、「最高神祇官」(古代ローマの公式な宗教行事を司る神官団に属する人)を指す言葉でした。
今では、pontifexはカトリックの司教を意味していて、英語のpontificate(尊大に話す、横柄な態度で話す)の語源になっています。(笑)

 

バチカンへの定期訪問のためローマを訪れた日本の司教らは、4月8日(月)より、教皇庁の各省・各機関を精力的に訪問し、日本のカトリック教会の現在の情勢を報告すると共に、具体的な情報の交換とより緊密な関係構築に努めた。

アド・リミナ(ad limina )とよばれるこの定期訪問では、「使徒たちの墓所へ」を意味するその言葉のとおり、初代教会を支え、宣教に尽くし、ローマで殉教した2人の使徒、聖ペトロと聖パウロの墓参りが行われる。

バチカンニュースより

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:余談2:

「ゴリアテの首を持つダビデ」の絵が出てきたのは、ネットフリックスの「リプリー」というドラマです。
アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』(1960)が新たにドラマ化され、先週から配信されています。

イタリアの美しい風景があえて全編白黒なところが、かえって美しさを際立たせているように感じました。

この作品もまた、何度もこうして映像化され、歴史に残る名作となっています。

 

行動する女性たち

4月の教皇様の祈りの意向は、「女性の役割」のために、とされています。

「女性の尊厳と価値があらゆる文化で認められ、さまざまな差別に終止符が打たれますように」。

ビヨンセ(アメリカの世界的アーティスト)の楽曲に、「Who run the world? Girls!」というのがあります。

誰が世界を動かしてる?女性たちよ!!

日本では女性管理職の数が少ない、議員になる女性が少ない、などと言われていますが、世界を見渡せば、女性たちがまだ旧約聖書の時代のような扱いを受けている国もあるのです。

聖書が書かれたのは、古くは今から4000年以上前であるにも関わらず、そして、当時は当然の如く女性蔑視(人数を数える際にはカウントされないですし)の時代であったにも関わらず、旧約にも新約にも、歴史を動かす女性や男性に怯まず行動する女性たちが描かれています。

イエス様が亡くなった時とその直後、すぐに行動したのは女性たちでした。

イエス様が息を引き取られた時に、百人隊長が「まことに、この方は神の子であった」。と言い、その様子を婦人たちが遠くから見守っていました。(マルコ15・40)

 

ジェームズ・ティソ(James Tissot)
『十字架上から見たキリストの磔刑』 1890年頃

 

この人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って、仕えていた婦人たちである。
なお、このほかにもイエスと一緒にエルサレムに上って来た多くの婦人たちがいた。
(マルコ15・41)

マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスが納められた場所を見ておいた。
(15・47)

安息日が終わるとすぐに、3人の女性たちは香料を買って墓に向かいます。

彼女たちは、遺体の腐敗が始まっているであろうことには気にも留めず、イエス様への献身の故に、最後の奉仕をしようと行動するのです。

十字架につけられたイエス様と一緒にいた彼女たちの誠実さは、その不在が際立っているペトロをはじめとする十二人の弟子たちの不誠実さとは対照的です。

「日が昇るとすぐ」(16・2)彼女たちは墓に向かいます。

マルコがわざわざ日の出を記したのは、旧約の最後の預言にあたるマラキ書の言葉を指し示しているのかもしれません。

わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)

正義の太陽とはまさにメシアを指しています。
そして、週の初めの日は、神が光を創造した日、つまり新しい創造の始まりを意味します。

7日のごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、週の初めの日、つまり日曜日から始まるわたしたちの日常は、イエス様の復活を記念して集うミサごとに新しくされます。 

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何度か紹介している画家、ジェームズ・ティソ(James Tissot、1836~1902)
晩年は、フランス東部のドゥー県シュヌセ=ビュイヨンにある修道院で聖書の挿絵に取り組みました。

先日のNY滞在の折、JewishMuseumで彼の連作を見てきました。

旧約聖書の物語を描いた作品は、どれも生き生きと描かれており、画集を買ったので今も時々開いて見ています。

「十字架上から見たキリストの磔刑」という作品は、BrooklynMuseumにありますが、次にご紹介する作品はJewishMuseumに収蔵されています。

 

旧約の中で主人公として描かれている女性は何人もいますが、このエステルはわたしのお気に入りです。

ユダヤ人であることを隠してクセルクセス王の妃となったエステルは、王の家臣であるハマンがユダヤ人の虐殺を計画していることを知り、機転を効かせて行動し、それを阻止するという物語がエステル記です。

この絵は、エステル記に書かれている豪奢な王宮の様子をよく表しています。

銀の輪と大理石の柱には、白い木綿の織物と緋色の幔幕が良質の亜麻布と紫色の織物でできた紐で結ばれていた。
また、まだら石や大理石、真珠貝やいろいろな宝石でモザイクを施した床の上には、金や銀の長椅子が置かれていた。
(エステル記1・6)

信念を持って行動する女性の姿は、いつの時代も鮮烈な印象を残します。
男性には武勇伝的なものが多いのに比べ、知恵と機転を効かせた女性の行動力は、あっぱれとしか言いようがないと思いませんか?

男性と女性は同じ、ではなく、女性にしかできない役割、能力というものがあると思っています。

教皇様のご意向のように、全ての女性たちの尊厳と価値が守られますよう、祈りましょう。

 

 

受難物語

聖週間は、わたしたちの信仰の基礎をなしています。

聖木曜日は洗足式が行われました。

聖金曜日、一年に一度この日だけ祭壇の布が取り外され、日中の祭壇にはステンドグラスが映り込みます。

聖土曜日、新しいロウソクが準備され、新しい一年が始まりました。

そして、御復活を祝う日曜日には、記憶にある限りこれほどまでに多くの参列があったのは初めてでは?というほどの人々が、ごミサに集いました。

5人の幼児洗礼式が執り行われ、お祝いは頂点に達した日曜日でした。

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4つの複音書で、受難物語の中の言い回しや出来事の順序が互いによく似ていることは、初代教会がイエスの受難の細部にどのような重要性を見ていたかを示しています。

その受難を、特にイザヤ書の苦しむ僕の歌を、苦しむ義人の詩編の観点から解釈しています。
受難の苦悩を言い繕うことはせずに、物語全体を復活の光で満たしているのです。
特にマルコは、読者にこの神秘の重要性をより深く理解してもらおうという点に集中しています。

つまり、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられて死んだこの男は誰なのか、そしてこの男の死はわたしとどのような関係があるのか、という点です。


この日々の中でわたしがいつも特に気にかかるのは、イスカリオテのユダの心情です。

彼は自ら率先して、イエスを裏切ろうとして祭司長たちのところへ出掛けていきます。

ユダがイエスを「引き渡す」という言い表し方は、受難物語の中で大変重要な表現です。

かつてイエスがやがて自ら経験することになると言っていた(9・31、10・33)、一連の裏切りを表しています。
ユダは、弟子の一人でありながら、イエスをユダヤ人指導者たちに「引き渡し」、彼らはイエスを異邦人支配者に「引き渡し」、そして彼はイエスを十字架刑に「引き渡す」のです。

同時に、こう表現することもできます。

イエスはユダによって引き渡されます。
しかし、神の計り知れない計画で、神はご自分の御子を罪人たちに引き渡されましたが、それは彼らへの愛の故でした。

わたしたちすべてのために、ご自分の子をさえ惜しまずに死に渡された神が、どうして御子に添えてすべてのものをわたしたちにくださらないこちがありましょうか。
(ローマ8・32)

そして、イエスは同じ愛を持って自らを自由に引き渡しました。 


マルコは、ユダが「十二人のうちの一人」であり(14・10、20、43)、イエスが特別な親しい関係をご自分と結ぶため、また自らの権能を分かち合うために選んだ一人であった(3・14〜15)ことを特に繰り返し記すことで、裏切ることがいかに痛みを伴うのかを強調しているのです。

マルコの中でのイエスは、自分を裏切ることになる者が誰なのか明確にしていません。
これには二つの理由が考えられます。

一つは、彼が告げたことは、他の弟子たちに落ち着いて語られた戒めであり、各人に自分たちの心を調べさせ、そのような行為をする何か冷酷な心の本質が内面にあるかどうかを識別させるためです。

もう一つは、イエスが告げたことが、誰にも知られることなく悪意ある計画を悔い改めて断念する機会をユダに与えるためです。

人の子であるイエスは苦しむメシアであって、彼の受難は神によってあらかじめ定められ、聖書の中で預言されてきました。イエスが述べているのは、ユダの裏切りが彼自身に引き寄せている酷な運命に、苦悩を表す警告なのです

主よ、どうかわたしを憐れみ、再びわたしを起き上がらせてください。
(詩編41・11)

 

イエス様が使徒たちに自らを顧みるチャンスを与えてくださったように、わたしたちにも、日々の生活の中でその機会が与えられています。

御復活の喜びに浸ったわたしたちは、この呼び覚まされた気持ちを忘れないように明日からの日々を生きていかねばなりません。

 

 

心の支え

枝の主日、あいにくの雨でしたが、大切な日を祝うことができました。

この枝は、久留米教会の敷地に育っているもので、有志の皆さんが丁寧に洗い、棘をとり、枝の主日のために準備してくださったものです。

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わたしたちカトリック信者は、占いやおまじないと言ったものを信じてはいません。

全ては神様の御旨の通り、お導きを信じていますから。

ですが、京都でお寺を巡ったり、神社でおみくじを引いたり、といったことは、日本人の習慣として楽しむことはあります。

占いやおみくじに書かれていることは、時には(都合のいい時には)わたしたちの心の支えとなります。

言葉に心を留める人は喜びを見出す。
主に寄り頼む人は幸い。
(箴言16・20)

心地よい言葉は蜂蜜のよう、
舌に甘く、体を健やかにする。
(箴言16・24)

人の歩みは主によって導かれる。
人間は、どうして自分の道を悟り得ようか。
(箴言20・24)

NYの妹が、仕事で東京に来ています。

彼女は、父と変わらない年齢の世界的アーティストのプロデューサー的な仕事をしており、その方の作品を昔売った方から買い戻す、外国の美術館で個展を開催する、など、大きなミッションを幾つも抱えています。

洗礼を受けている妹が今日引いたおみくじには。

 

わがおもう
港も近く なりにけり
ふくや 追手のかぜのままに 

災自ら去り福徳集まり目上の人の助けを受けて喜事があります
行先利徳あり

売物買物損はなし 
相場は好機です

 

プレッシャーのかかる案件を抱えた妹にとって、とても大きな心の支えになっているようです。

(おみくじの文面を考えている方のセンスに感動しました。)

自分の今の状況に応じた言葉を得ることができると、わたしたちは都合のいいもので、「『神様』がわかってくださっている!」と実感することができます。

よく宮﨑神父様がおっしゃるのが、「プロテスタントの方に比べて、カトリック信者はあまり聖書を読みません。もっと聖書に親しんでください。」

聖書を開くと(特に、わたしがいつもやるように、目をつぶって適当に開くと)、必ずと言っていいほど、目が開かれるような聖句に出会うことができます。

神がわたしを助けて、思いのままに語らせ、授かった恵みにふさわしい考えを起こさせてくださるように。
神こそ知恵の案内者であり、知恵ある者の指導者でもあるのだから。
わたしたちもわたしたちの言葉も、あらゆる分別と仕事の知識も神の手にある。
存在するものについての誤りないい知識をわたしに授けたのは神である。
(知恵の書7・15〜17)

わたしたちカトリック信者も、もっと聖書に心の支えを求めるべきでしょう。

ここを読んでくださっている方は、こうして毎週紹介している聖書の箇所を開いてくださっているのでしょうか。

ぜひ、この四旬節の間、それぞれにとっての心の支えとなる聖句を見つけてみてください。

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NYから来た姪が、「カトリックの教会素敵!」と宮﨑神父様と英語で話していた様子が、わたしにとっての今日のお恵みでした。

仕事と子育てを頑張っている妹たちと、4人の姪甥、そして、聖書に見出す言葉が、わたしの心の支えです。

 

 

 

天国とは

天国はどのようなところだろう、と思ったことはありませんか?

「天の国」はわたしたちが永遠に安らぐ場所、という感覚で理解していますが、「天国」は、大切な人々が旅立ったところ、というイメージです。

わたしはいつも、母が天国で後から来た後輩たちのお世話を焼いている姿を想像しています。

何度か書いたことのある、支援していた方が天国へ旅立たれました。

どうしてわたしが神に答えられようか。
言葉を選んで神と論議することができようか。
たとえ、わたしが正しくても、わたしは答えることができない。
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけである。
たとえ、わたしが呼んで、神がお答えになっても、神がわたしの言い分をお聞きになるとは思えない。
わたしに息つく暇も与えず、苦痛でわたしを満たされる。
わたしはもう自分のことはどうでもよい。
わたしは生きることをいとう。
神でなければ、これは誰の仕業か。
(ヨブ記9・14~18、23、24)

なぜ、あなたはわたしを母の胎から引き出されたのですか。
わたしは誰の目にも触れずに息絶えていたらよかったものを。
あたかもこの世にいなかった者のように、母の胎から墓場へと運ばれていればよかったものを。
わたしの余命はいくばくもないではありませんか。
今、わたしから離れて、少しでもわたしを楽にさせてください。
わたしが、二度と帰って来られない所に、闇と死の影の国に行く前に。
暗黒のように真っ暗な国、秩序のない死の陰の国、そこでは、光すら暗黒のようです。
(ヨブ記10・18~22)

その方は、強い信仰のなかで、自分がなぜこれほどの苦しみの中を生かされているのか、いつもその意味を捜していました。

まさに、現代のヨブでした。

ヨブ記の著者は、苦しみの起源と意義について問題提起しています。
当時の因果応報的な世の中にあって、そのことに強い疑念を抱き、この物語で神がヨブに現れて語りかける様子を描きました。

MARC CHAGALL 'Job Praying'(シャガール:祈りを捧げるヨブ)

なぜこのような苦しみをお与えになるのですか。
どうしてわたしをこれほど辛い目にあわせるのですか。

その方も、病気で苦しみ続けたこの10数年は、自分に与えられた苦悩についてもがいていました。
それでも、彼のことを見放さずに支援してくださったある神父様の存在が、彼の希望の光でした。

家族の中でも孤立し、あまりうまく行っていなかったようです。
ですが、臨終には家族が立ち会い、最期を見送られたそうです。

「語りかけるが、苦しみの意義は明らかにされない。
それは神秘のまま留まる。
だが、重要なのはヨブが苦しんでいるときに神が現れたことである。
これによって、人は苦しんでいるときも、孤独ではなく、自分の傍らには神が常におられることを強く感じるのである。」

フランシスコ会訳聖書には、こう説明がありました。

「孤独ではない」

きっと彼も、ヨブの言葉を理解されたのではないか、そう思ってわたしは自分を慰めています。

わたしはあなたのことを耳にしていました。
しかし、今や、この目であなたを見ています。
それ故、わたしは塵と灰の上に座り、わたしの言葉を忌み、悔い改めます。
(42・5~6)

天の国は、このようなところではないか。

ヨブ記を読み返していて、そう強く感じました。 

地上での自分の人生は決して孤独ではなかった、いつも、隣に神様がいてくださったのだ、そう強く理解できる場所、それが天の国なのかもしれません。

 

主はこう言われる。
わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して、荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。
彼らは飢えることなく、渇くこともない。
太陽も熱風も彼らを打つことはない。
憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。
見よ、遠くから来る、見よ、人々が北から、西から、また、シニムの地から来る。
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
山々よ、歓声をあげよ。
主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。
(イザヤ49・8~15)

目に浮かぶようなこの光景。

天国がこのような場所であったら。
見送った大切な人たちがここで過ごしてくれていたら。

彼が、安らかな穏やかな顔で、「神様、ようやくお会いできましたね」と天の国で幸せに過ごしている様子を想像しています。

 

癒しの力

レコンキスタという言葉、ご存じでしょうか。
「失地回復」を意味するスペイン語です。

718年から1492年まで、イスラム教徒から南欧イベリア半島を奪還するために、ヨーロッパのキリスト教勢力が起こした戦争のことです。
当時、イスラム教徒だけではなく、多くのユダヤ人もスペインから追放されました。

最近は、プーチン大統領によるウクライナ侵攻は「レコンキスタ」であると表現されています。

1198年に選出されたローマ教皇インノケンティウス3世。
悪名高き行いや政策で、カトリック界のみならず、歴史に名を遺した教皇です。

カトリックの威信の発揚とイスラムの撃退を目指した教皇は、キリスト教諸国間の争いを停止し、対ムスリムで結束するように呼びかけます。
これに応えて、ヨーロッパでは第4回十字軍が結成されました。
これも、当時の彼らの意図としては「レコンキスタ」です。

イベリア半島でも、アルフォンソ8世を中心としたキリスト教連合軍が結成されることになり、ピレネー山脈を越えて多くの十字軍騎士が来援し、連合軍は総数6万を超えました。

レコンキスタは、「再征服」という言い方もされるようです。
取り戻す、ということでしょうか。

 

先日、テレビのインタビューでこうおっしゃっていた方が。

「東日本大震災の被災者もそうだったと思うが、能登地震で被害に遭った自分も、元の生活に完全に戻るということはあり得ないと思っている。
新しい生活を一から作っていかなければならないんだ。」

13年経ってようやく下水道工事が始まる、という福島の方は、こうおっしゃっていました。

「これから新しい街を作っていくのだから、いろんな夢がある。」

元々は自分たちの土地だとして「取り戻す」戦争は、現代の世界では容認できないものです。

自然災害などによって荒廃した故郷を、新しく「取り戻す」という、力強く前を向いた方々の姿には、敬意を表すことしかできません。

シャガールが故郷への愛をもっとも詩的に描いた作品「村と私」を、NYのMoMA(近代美術館)で見てきました。

「これは単なる風景画ではなく、親しんだ習慣に対するノスタルジーを反映した大きな世界を表現したものである。自身を緑色で描いているが、これは彼にとって、復活と喜びを象徴するものであった。」と解説されているサイトがありました。

聖書には、バビロン捕囚からの帰還後、エルサレムを復興する希望を書いた美しい文章がたくさんあります。

すでに捕囚から帰還し、なお苦しい生活をしている人々を奮い立たせようとする神の姿です。

わたしは囚われ人となっているお前の民を、水のない穴から助け出そう。
囚われの身にあっても希望を持つ人々よ、砦に帰れ。
(ゼカリヤ9・11~12)

万軍の主は子自分の羊の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場で栄えある軍馬のようにされる。
この群れから隅の石が、
この群れから天幕の杭が、
この群れから戦いの弓が、
この群れからすべての指揮者が出る。
わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。
わたしは彼らを憐れむが故に、彼らを連れ戻す。
彼らは、わたしが見捨てたことのなかった者のようになる。
(ゼカリヤ10・3~6)

東日本大震災から13年
能登地震から3か月です。

同様に聞かれるのが、避難先から人々が戻らず、故郷が失われる不安や寂しさです。

そして同じように、故郷の再建のために隅の石となって指揮をされる人々の存在があります。

今なお、苦しい思いを抱えている方々に、少しでも癒しの時間がありますように。
復興への長い道のりを、諦めずに前進し続ける方々に、勇気と知恵、導きが絶えず与えられますように。

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マイケル・ジャクソンの名曲のひとつ、「ヒール・ザ・ワールド」は、直訳すると「世界を癒そう」という意味です。
歌の内容は「人間同士の争いで傷ついた世界を、愛で治癒しよう」というものです。

時代が変わっても、同じ行い、過ちを犯し、変わらぬ理想を持ち、癒しを求めるのが、わたしたち人間なのです。

Heal the world
Make it a better place
For you and for me and the entire human race
There are people dying
If you care enough for the living
Make a better place for you and for me

世界を癒そう
もっと素晴らしい世界にしよう
君にも僕にも、そして人類すべてにとって
死にかけている人々もいるんだ
君が命にちゃんと思いやりをもてば
君にも僕にも、より良い世界になる

 

 

 

新しい楽しみ

NYに聖書を持って行ったことを書きましたが、妹は友だちが来たとき、「姉は毎日聖書を読んでいる」と驚いた様子で話していました。
(毎日読んでいた訳ではないのですが、、、、)

その彼女から、「ボーイフレンドがプロテスタントの熱心な信者で、聖書を勉強してほしいと言われたの。Aki(わたしの妹)に聖書を借りて読んでるけど、眠くなるだけで全然意味がわからない。どうしたらいい?」と聞かれました。

「一人で家で聖書を読んでも、理解は難しいよ、、、。」
その時は、そう答えました。

『信仰が先か、聖書が先か。』その時は、そう思ったのです。

聖書をどこから読むかによっても、「面白くない」「意味がわからない」という感想だけに終わってしまいます。

福音宣教の3月号、高橋洋成さんのコラムに、
「マルコの福音書はせわしなく場面が切り替わる。導入部分のイエスの出現と洗礼、荒野の試練、宣教の開始、使徒たちとの出会いに至るまでの経緯を、マタイとルカでは4〜5章を費やしているのに、マルコはたったの1章で駆け抜ける。」
と書いてありました。

今では1番最初に書かれた福音書はマルコである、とわたしたちは認識していますが、実はこの福音書は他の3つの福音書に比べて軽視されていたという歴史があります。
マルコに関する注解書は、中世のはじめまで何一つ世に出ることはなかったのです。

マルコの661節のうち、90%がマタイの中に複製され、55%はルカにあります。 

マルコは使徒たちの幾つもの欠点を赤裸々に描写しているのに、マタイとルカはそれを柔軟に扱っています。
そして、イエスのかなり人間臭いさまざまな活動と感情を描いているのに、マタイとルカはそれを削除しています。 

そのような細かな研究が進む中で、20世紀になってようやく「マルコが最初に書かれた福音書である」と学者たちは結論づけるに至ったのです。

 

 

冒頭に書いた妹の友人に、この本を薦めようと思います。 

この本は、聖書の師匠から「素晴らしいから、ぜひ読んで!」と教えてもらった、今年の1冊目です。

マルコを1章1節から、1節ずつ、様々な解説文を添えながら深く、それでいて分かりやすく解きほぐしていきます。

例えば、イエスの洗礼についての箇所
1・9の解説
「彼自らが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けるために、悔い改める謙遜な人物の役目を担って現れるというのは驚くべきこと」
「キリストが洗礼を受けたのは、ご自分が水で聖化されるためではなく、水を聖化するためであり、ご自分が水で洗われることによって、ご自身が触れた川の水を清めるためだった。」

1・10の解説
「イエスが水から上がってくることに応えて、上から聖霊が降っています。神は恐らく、その民が不浄から清められた後に初めて、彼らのもとに降って来るのでしょう。イエスの上に霊が降るということは、十字架によって罪が取り除かれた後、聖霊降臨の時に教会にその霊が降ることを予示しています。」

11章のイエスのエルサレム到着の場面についての解説
「イエスの時代に、神殿は改修され、エルサレムはほとんど地上に存在する壮麗さの頂点を極めていました。
ユダヤ教の三大祝祭、過越祭、五旬祭、仮庵祭がそれぞれ祝われる頃になると、その町は巡礼者であふれ、通常4万人いる人口が三倍以上にもなりました。
さらに、イエスの言葉と預言的行為が明らかになるにつれ、その聖都は頽廃と宗教的偽善によって損なわれていきました。
この都が著しく荒廃することを彼は警告しましたが、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって徹底的に破壊されたときに、それは悲劇的にも成就しました。(マルコ13・1〜30)」

とても具体的で深く、そしてわたしにとっては時折、とても新しい視点で解説されていて、読んでいて多くの発見があります。

マタイ、ルカ、ヨハネについても書かれているようですので、翻訳されるのが楽しみです。

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先日の記事で「日本人には知らない人に挨拶をする習慣はない」ということを書きましたが、飛行機を降りる時に「これが日本人」と思ったことがありました。

わたしはいつも、空港内は車椅子でのサポートを頼むため、一番最後に飛行機を降ります。

そのため、全員が下りるまで座席で待つのですが、乗客一人ひとりに「ご搭乗ありがとうございました」と挨拶するCAさんに対して、ほぼ全員の日本人乗客が頭を下げていたのです。

おそらく、皆さんは「礼節を重んじた」というような感覚ではなく、自然とそうされたのではないでしょうか。

心と身体に染みついた、そうした自然な振る舞いが、日常生活の中でもっと表現されれば、と思うのです。

 

 

普通のこと

今回の滞在は長かったため、いろいろなことをじっくりと考える時間がありました。

先日、クロイスターズ美術館に行ってきました。
ここはメトロポリタン美術館の別館になっていますが、セントラルパークの中央あたりにある本館からはかなり遠く、マンハッタンの上の方にあります。

 

1934年から1938年にかけて、ヨーロッパの4つの修道院と3つの礼拝堂が、石材のままニューヨークへ運ばれ、再建され、ひとつの建物として生まれ変わりました。

それが、このクロイスターズ美術館です。

クロイスターとは、修道院の内部にある回廊のことです。

9歳の姪、シャーロットは、父親が入学させたかった学校に入るために、0歳の頃から一緒にクエーカーのミーティングに行っていました。
(わたしたちが日曜日に集まるのをミサ、という代わりに、彼らは日曜日の集まりをミーティングと呼んでいます。)

今回、クロイスターズ美術館でカトリックの美術品に囲まれて圧倒されたようで、「わたしも大きくなったらカトリックになりたい!」と言っていました。

「ミーティングではいつも何をしてるの?」
「ただ静かにみんなでお祈りをするのよ。」
「どんなことを祈ってるの?」
「みんなが幸せに、平和に暮らせますように、って祈ってる。」
「今度から、家族それぞれの幸せについてもお祈りしてみて!」

 そんな会話をしました。

カトリック学校に配布されている『よき家庭』という季刊誌の昨年12月号に、森山司教様が寄稿されており、こう書いてありました。

何を中心にし、どこに生活の基盤を据えるのかはとても重要な課題です。
グローバリゼーション、さらにコロナの影響により、その場にいなくとも、オンラインで会議ができ、必ずしも対面で話す必要はなく、自室にいて世界中の人々と交信できることは、一昔前からすれば驚くべきことです。
しかしながら人は、やはり直に相手の顔や表情を見、その声を聴いて安心したり、より互いの理解を深め合ったりします。
「家庭は社会生活の第一の細胞」(カテキズム2207番)なのですから、今一度、家庭からすべてが始まり、生まれることを再確認してみてはどうでしょうか。

こうして外国に暮らす家族を訪ね、それぞれがどのような価値観のもとで生活しているかを実際に確認し、来て良かったと心から思います。

四旬節にあたり、改めて家族の大切さ、普通のことですが、これが1番大切なことなのだと再確認できました。

主よ、あなたはわたしの心を調べ、わたしを知り尽くしておられる。
あなたはわたしが座るのも立つのも知り、遠くからでも、わたしの思いを見通される。
あなたはわたしが歩くのも休むのも見守り、わたしの道をことごとく知っておられる。
わたしの舌に言葉が上る前に、
主よ、あなたはすべてを察しておられる。
あなたは後ろからも前からもわたしを庇い、
その手をわたしの上に置かれる。
(詩編139・1〜5)

 

もしニューヨークに行く機会がありましたら、クロイスターズ美術館にぜひ行ってみてください。

個人的な旅の中で感じた、信仰にまつわることを書いてきた1ヶ月でした。
お読みくださって、ありがとうございます。