行事風景

人のいのち

主のご復活、おめでとうございます。
みなさまにとって、今年2023年の聖週間と御復活祭はどのようなものだったでしょうか。

聖木曜日

聖金曜日

聖土曜日

復活徹夜祭のミサでは、3名の方の洗礼式が行われました。

御復活祭

御復活祭のミサでは、4人の子どもたちの洗礼式が行われました。

 

坂本龍一さんが天に召されました。
所属事務所が訃報を伝えた文書に、坂本さんが好んだラテン語の一節が添えられていました。

「Ars longa,vita brevis」

(芸術は長く、人生は短し)

「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」ということわざだそうです。

わたしたちの信仰も、同じ価値観を備えています。
この世でのいのちには限りがありますが、御復活くださったイエス様の恩恵を受けるわたしたちは、絶えることのないいのちを授かっています。

宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

「亡くなられた方々のことを思い起こす時、いつも思います。
この方は、信仰の完成として永遠のいのちに旅立たれたのだろう、と。
人生には、この世のいのちには最期がある。
しかし、わたしたちの信仰は違うのだ。復活の信仰という希望を持っているのだ。」

あなたがたは知らないのですか。
洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちはみな、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。
わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストとともに葬られたのです。
それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです。
(ローマ6・3~4)

まことに、天が地よりも高くあるように、
わたしの道はお前たちの道より、
わたしの思いはお前たちの思いより高い。
まことに、天から雨や雪が降れば、
地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、
わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずに
むなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・9〜11)

神よ、あなたの計らいは何と悟りがたく、
その数は何と多大なことか。
それを数えれば、砂よりもおびただしい。
数え終えても、あなたはわたしとともにおられる。
(詩編139・17〜18)

 

地上を旅するわたしたちの教会が、これからもますます強められますように。

 

 

アイデンティティ

桜と菜の花が同時に美しく咲きほこり、1年で1番日本の素晴らしさを満喫できる時期ですね。

外国からの観光客の姿をあちらこちらで多く見かけるようになりました。

私ごとですが、我が家にもニューヨークから家族と友人が滞在していました。

皆さんは、ご自分のアイデンティティを明確に意識していらっしゃいますか?

わたしは、自分が日本人であるという誇りや愛国心といったものを、あまり感じずに生きているということを思い知った日々でした。

というのも、二人の姪(父親はアメリカ人)はニューヨーク生まれのニューヨーク育ちにも関わらず、「わたしは日本人だ」という明確な意識を持っていることを知ったのです。

そして、うちに滞在していた二人の友人は、共に「わたしはユダヤ人です」と熱く語ってくれたのです。

一人は、イスラエル生まれ育ちで、父親はオランダ人、母親がユダヤ人です。
もう一人はアメリカ生まれ育ちで、父親がユダヤ人、母親はアメリカ人(カトリック教徒)です。

二人とも、ユダヤ人として教育され、ユダヤ民族であることに誇りを持っていました。
ですが、二人とも食事の規定もさほど気にせず(豚肉は食べませんが)、シナゴークに通うこともなく、安息日にも「仕事」をしていて、「わたしはユダヤ教徒ではない」というのです。

 

外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、また、体に施された外面的な割礼がほんとうの割礼でもありません。
ユダヤ人を真のユダヤ人とするのは、内面的なものであり、また、真の割礼は、文字によらず、霊によって心に施されるものです。
そのようなユダヤ人は、人間からではなく神から誉れを受けます。
(ローマ2・28〜29) 

聖書のこの箇所を見つけ、「なぜ?!」と混乱していた気持ちがスーッと落ち着きました。

自分の在り方への確信、自負を強く抱くこと、内面的な価値観を持つことの素晴らしさを、彼ら二人から学びました。

 

日本では、日本人であることに誇りを持つような教育はあまり行われていないように思います。
外国人の友人たちは口を揃えて、日本の素晴らしさ、日本人のおもてなしの心地良さを褒め称えてくれます。

少なくとも、これからわたしは「キリスト者であることを誇りに思っている」ということをもっと明確に意識しよう、と心に誓いました。

わたしたちの「内なる人間」は日に日に新しくされています。
わたしたちは「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの世限りのものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(2コリント4・16〜18)

あなた方は、信仰を生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。
それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられることを自覚していないのですか?
(2コリント13・5)

枝の主日を迎えました。

聖週間であるこれからの日々を、わたしたち一人ひとりがどのように過ごすかで、キリスト者としてのアイデンティティへの自負をさらに高めることができるでしょう。

 

 

「わたしの全て」

3月30日で叙階60周年を迎えられるジュゼッペ神父様のお祝いをしました。


いつも明るくユーモアがあり、とてもチャーミングなジュゼッペ神父様は、久留米教会の人気者です。

全身全霊の愛で、わたしたち信徒に接してくださいます。

お若い!!
40年ほど前のお写真です。
鳥栖教会にいらした時代に、イタリア語を教わっていたという信徒の方から見せていただきました。

ジュゼッペ・ピアッツィニ神父様は、26歳の時、イタリア・ミラノのドゥオモ(ミラノ大聖堂)で叙階されました。

当時のモンティーニ枢機卿(1ヶ月後に、パウロ6世となられた)の司式で一緒に100名を超す司祭が叙階され、同じミラノ外国宣教会からは21名が共に叙階されたとのこと。
その21名のうち9名の司祭が、今でもご活躍されているそうです。

花束贈呈の後、ご挨拶でこうおっしゃいました。

「これからも、わたしの全てをかけて神を信じます。」

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。
自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。
(マルコ8・34〜35)

「このことばでわたしは悟りを開きました。」

そうおっしゃっていたジュゼッペ神父様です。

教区報3月号では、こうお話されていました。

「出会う人々が笑顔になるように、その人の中に眠っている良さを引き出して周りの人々の恵みとなるように、皆が少しでも今日という日に喜びを味わいながら過ごせるように。これが、小さい頃から今に続く私のささやかな務めです。」

まだまだお元気で、久留米教会の信徒の愛を全身に受け続け、これからもご活躍くださいますように。

 

正してくださる神

春爛漫!花粉も黄砂も!

見ていたのに見えていなかった。
聞いていたのに聞こえていなかった。

そう気づかされる体験、ありませんか?

助けを求めるシグナルを、分かっていたはずなのに理解してあげることができていなかった。
話しを聞いてほしいという気持ちを、知っていたはずなのに足が向かないままだった。

最近、そう気づかされた出来事があり、気持ちが落ち着かない日々を過ごしました。

自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。
(ルカ18・9~)

そうした思いは無い、と断言できないかもしれない。
もしかすると、わたしは自惚れがすぎたかも。
人を見下した態度をとっていたのかも。 

今週は、こういう思いが断ち切れずに、気分が上がらない日々を過ごしました。

主はサムエルに言われた。
「容姿や背丈にとらわれるな。わたしはその者を退けた。
人間が見るようには見ないのだ。
人間は外観を見るが、主は心を見る。」
(サムエル上16・6~7)

確かに、わたしは、人を外観で捉えていることがある。
わたしのことを内面で評価してもらえるように望むのなら、相手のことを判断するときに心をよく見るようにしなければ。

毎日、たくさんのことを考えています。
少し考えすぎているくらい、最近はいろいろなことを思い巡らせています。
そして、立ち止まって聖書を開くのです。

19日のミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。
「四旬節は、自分の在り方を見つめ直す時です。
自分の弱い面を反省し、克服する機会にしてください。」

生活しながら、日々を生きていく中で、ちょっとずつ前に進んでいきたいと思います。

主よ、わたしは知っています。
人間は自分の道を選ぶ者ではなく、
歩む者が自分の足取りを定めるのではないことを。
わたしを正してください、ただ、あなたの怒りによらず、公正によって。
さもなければ、わたしは無に帰してしまうでしょう。
(エレミヤ10・23〜24)

今週も、思い煩いを神様に問いかけて、明け渡し、自分にできることを実行し、一歩前に進むことができた気がします。

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アメリカ・フィラデルフィアの『聖ペテロと聖パウロの大聖堂』という名前のカテドラルを訪れた際に撮影した写真です。
世界中のカトリック教会には、こうした貴重な美術品や文化財が数多くあります。

とても気になるニュースがありました。

教皇庁は、バチカン美術館に2世紀にわたり保管されてきたパルテノン神殿の断片をギリシャ側へ返還することを決意したと発表しました。

近年、文化財返還の問題がクローズアップされていることが気になっていましたので、このニュースは驚きでした。
報道では「返還」、バチカンサイドは「寄贈」、という両方の表現がニュースに混在していました。

戦争中に略奪されたり、(正当に)購入したと主張されている美術品や文化財を元の国へ返還すべきだとの機運が、ここ数年で高まってきています。

ニューヨークのメトロポリタン美術館、パリのルーブル美術館で、古代エジプト・アジアの美術品を見て、確かに「なぜこんなにたくさん、なぜここに?」と思ったことを思い返しました。

ロシアのエルミタージュ美術館に行ったときに、ガイドの方が「地下の保管庫には、山積みになったままの美術品がまだまだたくさんあります。」というようなことをおっしゃっていたことを思い出しました。

ルカ20・20の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」が心に浮かびます。

これはわたしのものだ。
これは我が国の領土・領海である。
人間の歴史は、現在に至るまでいつもこの主張の繰り返しです。

パンダのように、対価を払って期間限定で借りることが合理的で分かり易く思えます。
今、世界中に散らばっている美術品・文化財を元の国に戻すことがスタンダードになれば、混乱、反発、主張、争い、、、が世界にはびこってしまうような気がします。

みなさまは、とう思われますか?

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バチカン美術館からギリシャへの返還について

https://news.yahoo.co.jp/articles/d32704b6969176f899b79ca3b205faf50e9d2a2b

文化財返還問題について

https://www.cnn.co.jp/style/arts/35148855.html

https://www.theheadline.jp/articles/772

 

真の「主の平和」

12日のミサでは、ご復活祭に洗礼を受ける2名の方の洗礼志願式が行われました。

大人になってから自分の意思で勉強し、受洗を決められたお二人は、今どのような心境でしょうか。

わたしは20歳の時に受洗しましたが、今でもあの時の清々しい気持ちは忘れることがありません。
あれから32年、母が亡くなって12年。
わたしにとっては、この日々は長い長い年月でした。

東日本大震災から12年、コロナの蔓延から3年、ロシアのウクライナ侵攻から1年、トルコ・シリアの地震から1か月。

被災された方がインタビューで「あっという間の12年でした。」と仰っていました。
「もう12年も経ったのか、、、」と感じていらっしゃる方もおられるでしょう。

強い向かい風の中を前進し続けているような、わたしには想像もつかないほどの辛い苦しみの中を生きている人が世界中にいるのだと思うと、胸が締め付けられます。

12年前の5月に、宮城県の亘理町にボランティアに行きました。
一緒に行った友人から「今、追悼式に出てきました。」と3/11の午後、連絡がありました。
海沿いに新しい家が立ち並び、公園もいくつも整備され、見違えるような町になっていた、と知らせてくれました。

ハード面の復興はかなり進んでいるようです。

災害や戦争で被害に遭う方々にとって、それよりも大切なのは心の復興だ、とよく言われるのを耳にします。

9歳の時に被災した佐々木朗希投手がWBCで活躍する姿は、きっと故郷の陸前高田市を始め、被災地の多くの方々にとって心の励みになったのではないでしょうか。

 

毎年この時期になると考えるのは、神義論についてです。

2021年の一年間、福音宣教において連載された、本多峰子さんの神義論について考察を読み返してみました。

一般的に知られている考え方は、いわゆるアウグスティヌス神義論であり、それは、「悪はそれ自体が存在するのではなく、善の欠乏である。神は人間に自由意思を与え、人間がそれを乱用した結果が悪である。」というものです。

一方で、本多さんが紹介されたプロセス神学の考え方では、「この世になぜ悪があるのかと神の責任を問うのではなく、この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って苦しんでくださっていると考え、そこに大きな意味をみる。」というものだそうです。

カトリックの教義とは相容れない部分が多いプロセス神学ですが、この考え方は頭に入れておきたいと思います。

◆神がわたしたちの苦しみをすべて分かち合ってくれているという確信
◆なぜこの世に悪があるのかだけを考えるのではなく、神はともに苦しんでくださり、善に導こうとしてくださっている。

さらに、本多さんの連載のなかで、わたしなりにこれが結論だと感じたのは、次のような記述でした。

イエスは、「なぜ全能の神が造ったこの世に悪があるのか」「なぜ私たち人間はこのように苦しまなければならないのか」というような問いは、ご自身も問わず、答えもなさっていません。
けれども、そのような問いの答えを模索するより前に、苦しんでいる人たちを救うことに力を尽くしてくださっています。
私たちは、悪のない世界を実現する力を与えられ、そうすることを求められている---これがイエス様の示してくださった悪の問題への答えではないでしょうか。

 

『You Raise Me Up』という曲の歌詞です。

気持ちが沈んで、心も疲れ果てた時
困難に見舞われ、心に重荷を負った時
わたしは静かに、静寂の中で待つ
あなたが隣に来て一緒に座ってくれるまで

あなたがわたしを力づけてくれる
だから、高い山にも登れる
あなたがわたしを力づけてくれる
だから、嵐の海も歩ける

あなたの肩に身を預けることで
わたしは強められる
あなたがわたしを強め
今以上の自分になれる

 

「主の平和」「シャローム」とわたしたちは口にしますが、これは、精神的な心の平安だけではなく、心身共に満たされた状態を意味するものです。
旧約聖書には、シャロームに相応する箇所が「元気」「喜び」「繁栄」などの表現で表されています。

災害や戦争で避難生活をされている方々は、寝る場所と温かい食事があっても、精神的には落ち着かない日々を過ごされています。

ミサの際に「主の平和」と挨拶する時、前後左右の方のことではなく、四旬節の間だけでもこうした方々の真の平和のために祈りたいと思います。

 

 

 

心を尽くす

イタリアの画家、ガエターノ・プレヴィアーティの作品をインスタグラムで見て、とても惹きつけられました。

四旬節の間、彼の作品である十字架の道行きの連作が、サンピエトロ寺院で特別に展示されているそうです。

イエス様、(おそらく)マリア様の表情が、わたしたちに語りかけてくるような気がします。
悲壮感というよりも、イエス様の強い意志のようなものを感じます。

こちらは、『ゆりの聖母』というタイトルの作品です。
同じ画家の作品ですが、先ほどの絵とは対照的に、幸せな母子のあたたかな雰囲気が伝わってきます。

マリア様が母親として、全身全霊で愛を注いで育てる覚悟をされていたのだろう、と想像します。

 

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(申命記6・5)

今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。
あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。
(申命記26・16)

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。
(ルカ10・27)


ルカもマルコも、ユダヤ教の伝統で最も重要な戒めであるこの掟を引用しています。

福音宣教3月号の本多峰子さんの記事に、この箇所についての解説がありました。
福音記者が、申命記の「心、魂、力」を「心、精神、力、思い」の4つに増やしたというよりも、ヘブライ語の「心」をより分かり易くギリシャ語にした際に2つに分かれたのだ、ということです。

本来の意味では、ものを感じ取ったりする「心」だけでなく、「意志」「意図」といった意味も含まれている。
「魂」は、「息」の意味もあり、命そのものをも表す。
「力」は、富や資力なども含めた個人の持つあらゆる力を意味する。

つまり、心の中に分裂なく、命を尽くして、資力を尽くして、恐れからではなく愛から、全身全霊で神の律法を守りなさい、という掟なのです。

改めて、ユダヤ教の教えの深さ、厳しさを痛感します。

毎日毎日「心、魂、力」を尽くすことは難しいですが、「志を持ち」「心をこめて」「できる限り」生きるように、とは意識しているつもりです。

人付き合い、家族との生活、仕事への姿勢も、つまるところは「心、魂、力」をどれだけ注ぐかではないでしょうか。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」とは、まさに的を得た言葉です。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
(レビ記19・18)

神を愛する以前に、まずはこちらの方が大事だと思うのです。
家族や周囲の人へ「志を持ち」「心をこめて」「できる限り」愛を持って接することができなければ、神様を全身全霊で心を尽くして愛することはできないでしょう。

わたしの掟と定めを守れ、人はそれを行うことによって生きる。
(レビ記18・5)

それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。
(ルカ10・28)

「行いが伴わない信仰になってはいないか」日々を振り返り、自分の行いを振り返り、明日をより良く生きたいものです。

と、ここまで書いたところで、日曜日のごミサに行きました。
ミサ後、聖堂では、左側に十字架の道行をする日曜学校の子どもたち、真ん中には女性の会の皆さんの分かち合い、右側には新しい聖歌の練習をする方々の姿が。
さらには、信徒会館では手話の勉強会が行われていました。

皆さんの心を尽くした信仰の姿に触れることができた、小春日和の素敵な日曜日でした。

 

罪の告白

四旬節が始まりました。

昨年の2/24に、ロシアによるウクライナ侵攻が突如始まり全世界を驚かせましたが、あれから1年になるのですね。

この1年の間に起きた世界の経済にもたらされた混乱、特にエネルギー価格の高騰や食糧危機は、アフリカや中東などの途上国、新興国の人々を苦しめていることも忘れてはならない問題です。

ウクライナの方々のために祈り続けていますが、この戦争は世界中が巻き込まれている世界規模の危機でもあります。

誤解を恐れずに書きますが、わたしたち(西側諸国と言われる国々)の価値観が正しく、プーチン大統領の主張が100%間違っていると本当に言い切れるでしょうか。

なぜなら彼は、「祖国を守るために正しいことをしている」と強く信じている様子だからです。

価値観の相違、と簡単に片付けられる問題ではないのですが、あれほどに強固な信念を持った指導者を説得できる術があるとは思えません。

そして同時に、もしかしたら教皇様の言葉になら耳を傾けるかもしれない、とも思うのです。

四旬節の間に、何か良い進展が起きないか、ひとりのキリスト者として心から願い、祈ります。

 

 

「四旬節は、本質に立ち返り、余計なものを脱ぎ捨て、神と和解し、はかない人間の塵の間に隠れて住まわれる聖霊の火を掻き立てる時」と教皇様がおっしゃっていました。

四旬節は、「洗礼の準備」「回心と罪の償い」の時でもあります。

もし、わたしたちには罪はないと言うなら、わたしたちは自分を欺いており、真理はわたしたちの中にありません。
もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、真実で正しい方である神は、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
もし、わたしたちは罪を犯したことがないと言うなら、わたしたちは神を偽り者にすることになり、神の言葉はわたしたちのうちにありません。
(1ヨハネの手紙1・8〜10)

 

先週ご紹介した、前教皇ベネディクト16世の本にはこうあります。

洗礼を受けた者も罪びとであるのですから、罪の告白が必要なのです。
それはわたしたちを全ての不正から浄めてくれるのです。
罪は心の中でそのままに放り置かれ、化膿するにまかせられ、内側から毒を出すままに放置されてはなりません。
罪は告白されなければならないのです。
罪を告白することによって、わたしたちはそれを光の中に置き、浄化の力を持ったキリストの愛のうちにそれを差し出すのです。

「あなた方が癒されるために、互いに罪を告白し、そして祈り合いなさい。
正しい人の祈りは大きな力があり、効果があります。」

この、ヤコブの手紙5・16にあるように、罪の告白はユダヤ教の習慣に由来するものだそうです。

ディダケー(十二使徒の教訓と言われる、1世紀末ごろに書かれた、教会生活の規定などの文書)には、こう書いてあります。

「あなたたちは主の日には、前もってあなたたちの罪を告白したのちに、パンを裂き、感謝するために集まりなさい。」

 

以前、ミサに参列していたベトナム人の信徒の中に、聖体拝領の際にご聖体をいただかない人が何人もいたので「どうして?」と聞いたら、「最近告解をしていないので」という答えに驚いたことがあります。

しばらく教会から遠のいていた方も、久しぶりにごミサで聖体拝領をしたい場合は司祭にその旨を申し出、事前に告解をする必要がある、と最近知りました。

 

以前もご紹介したことがありますが、プーチン大統領は熱心なロシア正教徒です。

原爆投下の映像を観て拍手するアメリカ大統領と正反対に、十字を切るような方です。

彼の頑なな心を解きほぐす術があるような気がするのです。 

 

 

永遠のいのち

去年の秋に膝の手術をし、今は回復していますが、今度は腰痛に悩まされています。

長年の義足での生活の影響でしょう。

これからは、こうして身体と向き合って生きていくことになりそうです。
そして、これは神様からの徴だと思っています。

神様がわたしを気にかけてくださっているんだ、と思っています。
「身体に不調が出ていて辛いだろうけど、ちゃんと導くから安心しなさい。」そう言ってくださっている気がしています。

 

「去年と今年、膝と腰を悪くしたのは、あなたがこの2年『天中殺』の真っ最中だからだ」と知り合いに言われて驚きました。
占いですから、信じることも惑わされることもありませんが、「運が悪い」と言われるのはやはり残念です。

先日、大きな荷物が届きました。
玄関に「配達物は玄関前に置いて行ってください」と張り紙をしているので、たいていの荷物は置いておかれるのですが、「重い荷物なので中に置いておきますね」と配達の方が玄関の中に運んでくれました。
腰痛に耐えながら食事の用意をしたら、「美味しかった~!」と父が言ってくれました。

こうした些細な事に喜びと幸せを感じることができるのはお恵みで、「信仰を持っているおかげだ、わたしは運がいい!」と思えます。

そんな今週、目に留まったのは詩編の次の箇所でした。

主よ、わたしの声を聞き、わたしが叫び求める時、わたしを憐れみ、答えてください。
わたしの心はあなたの言葉を借りて言います、
「わたしの顔を求めよ」と。
主よ、わたしはあなたの顔を求めます。
わたしの助けとなってください。
わたしの救いの神よ、わたしを見捨てず、見放さないでください。
たとえ、父母が見捨てても、主がわたしを迎え入れてくださる。
主を待ち望め。
心を強くし、雄々しくあれ。
主を待ち望め。
(詩編27・7~10,14)

主よ、わたしを見捨てないでください。
わたしの神よ、わたしから離れないでください。
主よ、わたしの救いよ、急いで助けにきてください。
(詩編38・22~23)

 

キリスト者の信仰は、運勢に惑わされたり、運命に囚われたりはしません。

 

年明けから、この本を読み進めています。
ベネディクト前教皇が学者であったことは知っていましたが、枢機卿になられる以前は長い間大学で教鞭をとられていたことはこの本で初めて知りました。
とても難しい本ですが、ひとつひとつの言葉に重みがあり、丁寧に読みたいと思っています。

 『聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます』

毎週、なんとなく唱えている言葉ですが、次の下りを読んですーっと心に落ちました。

「永遠のいのち」とは、現代の読者がすぐに想像するように、死後のいのちのことではありません。
「永遠のいのち」とはいのちそのもの、本来的ないのち、今この時において生きられ、物理的な死によって何らかの影響を蒙ることのないようないのちなのです。
今、「いのち」を得ること、何ものによっても、何びとによっても奪われ、破壊されることのない真のいのちを得ることが問題なのです。

初期のキリスト教徒たちは、単純に自分たちを「生きるもの」と呼んだのでした。
彼らは、すべての人たちが探し求めているもの、いのちそのもの、完全な、それ故破壊されることのないいのちを見出していたのでした。

「永遠のいのち」は「認識」によって、「知る」ことによって与えられるというものです。
人間は自分の力で、自分のためだけに、永遠のいのちを得るのではありません。
自ら「いのち」である方との関係において、いのちある者となるのです。

死は人間から生命を奪うことができるかもしれません。
しかし、それを超えたいのち、真のいのち、それは残るのです。

わたしたちはイエス様、神との関係のうちに生きているということです。

わたしたちが信仰を得たというのは、神の愛を知り、それが永遠のいのちを生きることであると認識したということです。

こうも書いてあります。

キリスト者はあれやこれやのことを信じるのではありません。
キリスト者は究極的にはただ単純に神を信じるのであり、唯一のまことの神の存在を信じるのです。

朝、「今日の運勢」を気にして一日をスタートさせるよりも、今日も神様に導いてもらえるように祈ることから始めるほうが良いですよね!

四旬節を前に、良い気づきを得ることができた気分です。

 

灰の水曜日のミサの準備ができました。

 

人間の弱さ

トルコ・シリアで起きた大地震の被害をニュースで見る度に、心が苦しくなります。
多くの命が犠牲になり、全容が完全に明らかになるには時間がかかるのでしょう。
トルコには各国からの支援が集まっているようですが、内戦状態のシリアには直接手を差し伸べられない現実。

福岡教区でも募金の受付を始めています。
皆様のご協力をお願いいたします。

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2月6~8日に西日本新聞に連載されていた、「プーチンの戦争-侵攻1年-」という記事。

プーチン大統領は大晦日の演説で、「祖国防衛は先人と子孫に対する神聖な義務だ」と言ったそうです。
1月末のインタビューで、ゼレンスキー大統領は「プーチンとの会談には興味がない」と発言したとも。
同じ面には、ウクライナの国防相が軍の食糧調達を巡っての汚職が原因で辞任、とのニュース。

人間とはなんと弱いのでしょうか。

自然の威力の前に、わたしたちは無力です。
今回の戦争で、いったい何人の兵士と市民が犠牲になったのでしょう。
その最中にあっても、自らの私腹を肥やす人間の存在。

 

「わたしが道をそれたのは、主のせいだ」と言うな。
主は決してご自分が憎むことをなさらないのだから。
「主ご自身がわたしを迷わした」と言うな。
主は罪深い者には用がないのだから。

主ご自身が始めに人間を造り、彼の手に判断を任された。
お前が欲するなら、掟を守ることができる。
これを忠実に守ることは、お前の決定するところである。
主は、お前の前に火と水を置かれた。
お前の欲しいものに手を差し伸べよ。
人の前に生と死とが置かれている。
いずれでも、欲するものが彼に与えられる。

主は、誰にも不敬な者になれと命じられず、誰にも罪を犯す許しを与えられたことはない。
(シラ15・11〜12、14〜17、20)

 

主は人間を土から造られ、彼を再び土に帰される。
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
(シラ17・1、6〜7)

 

すべてのことを行う力は人間にはない。
人の子は不死身ではないのだから。
太陽に優って光り輝くものがあろうか。
しかし、太陽ですら欠けることがある。
肉と血からなるものは、悪を思い巡らす。
主は、いと高き天の大軍を見守られる。
しかし、人はみな、塵と灰にすぎない。
(シラ17・30〜32)

 

旧約聖書、大好きです。
紀元前2世紀初頭に書かれたとされるシラ書ですが、その教えは全く色褪せることなく現代のわたしたちの心にも染み透るものがあります。

シラ書は長い間その写本が失われていましたが、19世紀末にカイロの古いユダヤ教会堂で写本が見つかり、その後20世紀になってクムランとマサダの城壁からほぼ全ての写本が発見されたそうです。

 

クムランの洞窟とマサダの城壁です。

 

人間には自由が与えられました。

同時に、知恵もお与えになりました。

わたしたちは、弱いだけではなく、使い分けることのできる知恵と判断力を持ち合わせているはずです。

トルコとシリアへの支援と、ウクライナへの戦闘機の供与。
比べるべきものではないかもしれませんが、今、世界が目を向けるべき、手を差し伸べるべき対象と優先順位を見誤ることがありませんように。

 

わたしはバイオリンの演奏を聴くのがとても好きなのですが、1番好きなのはと聞かれたら、迷わず五嶋みどりさんを挙げます。

彼女は子どもの時から天才と言われ、11歳でデビュー後、10代のうちに世界的な評価を確立させました。
ですが、22歳のときに心身ともに不調をきたし、しばらくの間、表舞台から身を引いていました。
今はまた精力的に演奏活動をされていますが、その時の経験から「みどり教育財団」を立ち上げ、音楽を通して世界の若者のための活動も積極的に行ない、毎年、何千人もの恵まれない子どもたちに音楽教育プログラムを提供されています。
また、2007年に国連のピース・メッセンジャーに任命され、意欲的に世界を駆け巡り、音楽の持つ力で平和へのメッセージを伝える活動もされています。

「神ってる」という感じの言葉は好きではないのですが、彼女の演奏は、音だけでなくその姿、小さな体全体で演奏する様子はまさに「神がかり」です。

同い年の彼女を見ていると、人間は弱くてもいい、立ち上がれるのだ、と背中を押してもらえる気がします。

 

 

 

導きに委ねる

2月になり、立春とはよく言ったもので、春めいた暖かさが続いています。
昔の人は、季節を素晴らしいタイミングで暦に表したものだと感心しますね!

差し込む光も、気分的に柔らかなものに感じます。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、虐げられた人を解放して自由の身にし、軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、家のない貧しい人々に宿を与え、裸を見れば、着物を着せ、お前の同胞に対してみて見ぬ振りをしないこと。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
お前の光は闇の中に輝き出で、お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

(これが本来の「断食」を意味する箇所である、と教わりました。)

わたしは悩みの中から主を呼び求め、主は答えて、わたしを広々とした所に移してくださった。
主はわたしの味方、わたしには恐れがない。
人はわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、わたしの助け。
主に寄り頼むことは、人にすがるよりも善い。
(詩編118・5〜8)

「わたしは決してあなたを見放すことも、見捨てることもない」と神は仰せになりました。
イエス・キリストは、きのうも、今日も、いつまでも変わることはありません。
(ヘブライ13・5、8)

心強い聖句ばかりだと思いませんか?

神様がわたしの問い掛けに答え、祈りに応えてくださるのは、無条件にではありません。
わたしの行動が伴っていれば、です。

神様がわたしを導いてくださると信じるのは、成り行きに任せているのとは違います。
わたしが神様を信頼し、自分に今できることをやったうえで、です。

この2つのことは、わたしが自分に言い聞かせてきたことです。

 

先日、子どもの頃からの友達と会い、いろいろと話をしました。
カトリック信者であり、恵まれた家庭環境で育ち、一見何不自由ない幸せな人生を歩んできたわたしたち。

ですが、それぞれの人生を歩んできた中で、彼女もまた大きな問題を抱えて悩んでいました。

わたしなりの経験からできるアドバイスは、上記の聖句に基づいて、自分にできることは何かを考えて実行しながら、神様のお導きに委ねる、ということです。

悩みや問題を抱えている。

生きていれば当たり前のことですが、それにどう向き合うかが大事なのだと思っています。

5日の主日ミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。

「あなた方は地の塩・世の光である、というのは、地上での生活の中で信者としてどう生きるかが問われているのです。
人生の登り坂、下り坂の場面だけでなく、まさか!という時にそれをどう受け止め、どう対処するか。
さらには、信者として、自分を必要としている人のために希望の光となることが求められているのです。」

 

 

今月のパパ様カレンダーのお言葉です。

イエスは、「見せかけの信心深さ」を望んでおられません。
心からの信仰を望んでおられるのです。

 

受験生が太宰府天満宮にお参りし、お守りを買って「神頼み」をしたとしても、本人が必死に勉強することが大前提です。

それと同じです。

本来の意味の「断食」(犠牲、努力)をすることなく、自分の願いばかりを神様に祈りすがっても、応えてもらえないでしょう。

いつも、このことを肝に銘じるように努めています。

今自分にできることは?
今自分がすべきことは?
そして、神様を信頼しているのであれば、やたらに不安を抱かずに、神様のお導きに委ねよう、と。