カテゴリ:その他

人生を支える言葉との出会い

フランシスコ教皇の紋章のモットー

“Miserando atque eligendo” (憐れみ、そして選ばれた)


選ばれたとはいえ、聖書には「憐れみ、」という言葉はありません。

イエスはさらに進み、マタイという人が収税所に座っているのをご覧になり、呼びかけられた。
「わたしに従いなさい」。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイ9・9

この紋章の言葉は、聖ベーダ・ヴェネラビリスの説教の言葉から取られているそうです。

聖ベーダは、七世紀末から八世紀初めにかけてのイングランドの碩学の司祭で、
ギリシャ・ローマの古典を駆使し、天文学、物理、数学、音楽、哲学、修辞学、医学の文献に通じ、百科全書のような人でした。

聖べーダは聖書解釈の業績でも知られていて、使徒マタイの召命のエピソードについて、イエスがただ「私に従いなさい」とひとこと言ってマタイが職場を離れてついていった、というシーンを、「イエスは徴税人(マタイ)を見つめ、『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについてきなさいと言った」と解釈して表現したのです。

(竹下節子さんのブログより参考)

 

カラバッジョ「マタイの召命」

フランシスコ教皇は17歳の年の聖マタイの祝日にこの言葉に出会ったのだとか。

聖書に限らず、人生において大切に思える言葉との出会いをされたという方は多いのではないでしょうか。

 

第二バチカン公会議の教会憲章11にはこうあります。

「すべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、
各自自分の道において父自身が完全に持っている聖性に達するよう主から招かれている。」

 

使徒的勧告「キリストは生きている」にパパ様が書いていらっしゃいます。

248
「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです。

 

この2つは、今のわたしにとって、暗記して毎日復唱したいくらいの言葉です。

10日の聖書朗読にも、心が揺さぶられました。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、
永遠の励ましと素晴らしい希望を、恵みとして与えてくださったわたしたちの父である神が、
あなた方が善い業に励み、善い言葉を語るときいつも、あなた方の心を励まし、強めてくださいますように。

2テサロニケ2・16~17

 

今月は死者の月です。

各々、身近な大切な方が神様の下で過ごされているでしょう。

わたしは、特に母が、地上のわたしたちと神様とのとりなしをしてくれているので、
こうして素晴らしい言葉や教会の人々との出会いの恵みが与えられている、と信じています。

死者のために祈りましょう。

 

 

守るべきおきて

今月のベトナム語ミサの様子です。

久留米教会のベトナムコミュニティは人数がどんどん増えて、活気が増してきているように思います。

 

 

彼らの日本での労働の実りと教会コミュニティでのお恵みが豊かなものになるよう、祈っています。

 

【教会のおきて】というのをご存じでしょうか。

教会共同体の約束事として、5つのことが決められています。

1.主日と守るべき祭日のミサにあずかり、肉体労働を休むこと

2.毎年少なくとも一度、ゆるしの秘跡を受けること。

3.少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。

4.教会が定めた大斎と小斎の日を守ること

5.各々の分に応じて教会の維持費を負担すること。

 

そう難しいことではない、と思いませんか?

1の「肉体労働を休むこと」というのは、安息日だから、ということです。

わたしたちキリスト教徒にとっての安息日は、この【おきて】によると、

「ミサにあずかり、そのあとは安らかに過ごしなさい」くらいのニュアンスですが、

ユダヤ教徒にとっての安息日は、ヘブライ語でシャバットと言い、とても厳格に決められた日です。

 

安息日は日曜日ではなく、金曜の日没から翌土曜日の日没までを指します。

ですが、実際には、金曜の日没に備えて午後早い時間からお店などが閉まり始めます。

日没までに家に帰り、翌日の分までの食事を用意しなければならないからです。

ホテルの近くにあったマクドナルドまで閉店していました。

ホテルのエレベーターも「シャバットエレベーター」になり、

ボタンを押さなくてもいいように各階停止モードに切り替えられます。

つまり、何も「労働」をしてなならないのが安息日なのです。

 

ある安息日のことであった。
イエスが麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちは道々、穂を摘み始めた。
すると、ファリサイ派の人々がイエスに言った、
「なぜ、安息日に許されていないことをするのか」。
(中略)
イエスはこう仰せになった、
「安息日は人のために設けられたのであって、
人が安息日のためにあるのではない。
それ故、人の子は安息日の主でもある」。

マルコ2・23~28

「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。
廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」

マタイ5・17

 

イエス様は、ユダヤ人でありユダヤ教徒でした。

おそらく、30歳になられるまでは安息日だけではなく、厳格に律法に従った生活をされていたことでしょう。

だからこそ、こうした教えが生まれたのです。

人の子は安息日の主である
律法を廃止するためではなく、成就するために来た

律法のおきてを守ることに執着し、それに縛られて大切なものを見失っていた当時の人々への警告でした。

 

わたしたち(一般的キリスト教徒)の目には、安息日にはエレベーターのボタンを押すことさえ労働であるから禁止する、というのは不思議な気がします。

 

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
わたしたちの主イエス•キリストが現れる時まで、汚れなく、咎められることもなく、この掟を守りなさい。

1テモテ6•11,14

 

【教会共同体のおきて】

ミサにあずかることはもちろん一番大切ですが、

教会維持費を納入し、共同体をわたしたちが守り、将来にわたり維持発展させていくことは、いまのわたしたちの一番重要な責務ではないでしょうか。

 

父と子と聖霊

三位一体の祝日について記事を書こうと考えを巡らせてみましたが、「三位一体」について書くのはとても難しい。

Lex Orandi,Lex Credendi の精神で考えてみました。
三位一体という言葉、教義について噛み砕いて説明しようと試みるのではなく、
「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」と十字を切るとき、どのように感じ、どう考えているか。
ミサに与っている間、心を落ち着かせて集中して三位一体の神に心を寄せているか。
その祈りの在り方についてじっくり考えてみたい、と思ったのです。

 

この祭日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。
神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちであり、全宇宙とあらゆる被造物の源であると同時に目的でもあります。それは神そのものです。

復活したイエスのたまものである聖霊は、神のいのちをわたしたちに伝え、三位一体の力をわたしたちに引き寄せます。
それは、愛、交わり、助け合い、そして分かち合いの力です。
愛する喜びのうちに他者を愛する人は、三位一体の写しです。
互いに愛し合い、助け合っている家族は三位一体の写しです。
人々が互いの幸せを求め、霊的、物的財を分かち合っている小教区は三位一体の写しなのです。

教皇フランシスコの2014年6月15日の「お告げの祈り」のことば 三位一体より抜粋https://www.cbcj.catholic.jp/2014/06/15/8923/

 

「愛、交わり、助け合い、分かち合いの力」
「人々が互いの幸せを求め分かち合っている小教区は三位一体の写し」

ぜひ取材してホームページに紹介してほしい、と、ある信徒の方から紹介されたグループがあります。

久留米教会の『みこころの会』という祈りのグループです。
50年前から続いているそうで、毎月第1金曜日の「初金ミサ」の後、メンバーが20名ほど集まり、祈りを捧げていらっしゃいます。
亡くなられたメンバーもいらっしゃいますが、コンスタントに新しい方が入られ、この50年ずっと20名ほどで祈り続けてこられたそうです。

「何についてお祈りされているのですか?」と質問すると

「煉獄の霊魂のため、先祖の霊の供養のため、また、信者が家族で自分だけだったという故人のため、久留米教会の納骨堂に収められているすべての霊のために祈っています。」

というお答えでした。

50年もの長きにわたり、亡くなられたすべての霊の安息のために祈り続けていらっしゃることに、とても心を揺さぶられました。

先ほどのパパ様のお言葉にあったように、人々が交わり助け合い、互いに祈りのうちに分かち合っている姿、これが三位一体の写しなのだ、と理解できた気がしました。

みこころの会の皆さんの祈りの集まり、来月は参加してみようと思います。

 

”Lex orandi” 祈りの教会

みこころレターvol.9を発行しました。
9号!こうして続けて情報を発信し続けられるのも、信徒の皆さんの協力があってのことです。

 

今回もいろいろな方に寄稿していただきました。
久留米教会を活気づけてくれているフィリピンとベトナムコミュニティの皆さんの様子も、毎号少しはお伝えできるように構成しています。

今回の特集は、信徒の皆様にご協力いただいた「洗礼に関するアンケート」の集計結果です。
詳細は、ぜひ手に取ってご覧いただきたいと思います。

洗礼を受けた時期、信仰を持っていてよかったと感じるとき、ミサ・教会に来てよかったと感じるとき、などについて多くのコメントをいただくことができました。

・静かな(神を想う)時間が持て、日常を忘れることができる。
・神様の前で自分の心を見つめられる機会でもあり、信者の方々との会話が楽しめる。
・困難なことがあった時に必ず支えがあると思える(信じれる)ことで前進できる。
・仕事や人間関係、家族のことなど、祈りながら、大切なことは何かを考えながらやってこれた。

うんうん、なるほど、と皆様のご意見にとても深く気持ちを揺さぶられました。
とても多くのご回答、コメントをいただいたのですが、紙面の都合ですべてを掲載することはできませんでした。
先ほどご紹介したようなご意見をできるだけ多く掲載したつもりです。
ご回答は幅広い年代の信徒の皆様からいただきましたので、集計結果はどなたがお読みになっても共感できる部分が多いかと思います。

 

ラテン語で
Lex orandi,lex credendi

直訳では「祈りの法が信じることの法である」
つまり、教義はそもそも祈りのあり方がまず基盤にあって生まれてくる、祈り方が信じている事柄を決める、ということです。

教会は祈りの場です。
多くの信徒のさまざまな祈りが積み重なり、大きな力となって聖堂のなかいっぱいにみなぎっているのをいつも強く感じます。

日曜の朝、その大きな力をいっぱい吸い込んで、自分の1週間のエネルギー、糧とすることができることを感じるとき、わたしは「信仰を持っていてよかった」と感じます。

 

 

カトリックの教育

新学期が始まり、久留米教会に敷設されている聖母幼稚園も子どもたちの賑やかな遊ぶ声が響き渡っています。
子どもたちの元気なかわいい声にパワーをもらえる気がします。

「しんぷさま~~ぁ!」と駆け寄ってきて宮﨑神父様に抱き着く子どもたち。
神父様も、「子どもたちからエネルギーをもらえる」とおっしゃっています。

カトリック生活、という雑誌があります。定期購読されているという方も多いかもしれません。
今月号の特集「道徳教育と宗教教育」、とても興味深く読みました。

 

編集長であるサレジオ会の関谷神父様が書かれていたのは、

一般的な社会道徳の規範の中で、一番よく聞かれる最低限のルールは、
「人の嫌がることをするな」という禁止である。

ところがイエスは、このルールを前提にしながらさらに先を行く。
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイ7・12
受けるよりも与えるほうが、幸いである。
使徒言行録20・35
「するな」という禁止の最低限のルールを守るだけでなく、
それを飛び越えて積極的に自分から愛を示せと勧め、奨励するのがイエスだ。

このあたりが、道徳と宗教の立ち位置の違いの一つではないだろうか。

 

久留米教会では、信徒のみなさんにご協力いただいて、『洗礼と信仰』についてのアンケートを実施しました。
たくさんのご回答をいただいているので、これから集計するのですが、印象的だった回答の一つが
「カトリックの学校に行っていたので大人になって洗礼を受けた」という回答が多くあったことです。
わたしも、その一人です。

学習指導要領の制度変更により、「道徳」の授業が小中学校では必須科目となりました。
現在は、カトリック学校など宗教系の私立学校では「宗教科」がその代わりとして認められています。
(それも来年度は見直されるかもしれない、とのことですが。)

宗教の授業、わたしは大好きな時間でした。

担任でもあったシスターが宗教の時間によく『ブラザーサン、シスタームーン』などの映画を見せてくださっていました。
聖書の勉強の時間も「わたしはヨハネを研究したから」とヨハネの福音書をとても分かりやすく解説してくださいました。

多感な青春時代に、そのシスターから教えていただいた教育としての宗教の時間があったから、
そして、毎朝、毎夕、聖歌を全校生徒一緒に歌い、
学校のお御堂で祈る時間を自然に受け入れたあの日々があるから、
その後に信仰を自然と育み、洗礼にまで至ったのは間違いありません。

教育について語る知識は持ち合わせていませんが、わたし自身の経験から言えるのは、
カトリックの学校が長い年月をかけて蓄積してきた宗教の教育には、
かけがえのない価値があるということです。

聖母幼稚園、ここを巣立った子どもたちがいつの日か
「教会の横の運動場で鐘の音を聞きながら駆け回った記憶」
「あまりよく覚えていないけれど、神父様が大好きだった記憶」
と心の中で思い出し、洗礼を受けたり、結婚式をあげたりする日がくるのではないでしょうか。

あしたは姪の入学式です。
カトリックの学校に進学しました。
彼女は早くも「たくさん聖書を学びたい」と張り切ってくれていて、叔母としては嬉しいかぎりです。