行事風景
自分は何者か
雨に打たれる植物を見ると、心から癒される気持ちがします。
荒野の40年
ヨベルの年(7年×7回)
12使徒
聖書には、キーワードとなるこうした数字があります。
1年が12ヶ月なのは、月が地球を1年間にほぼ12回転することから来ています。
このことは、地球から見ると月の満ち欠けが1年間に12回繰り返されることを意味しています。
古代の人々は自然を観察してこのことを理解し、「12」という数字に自然に特別な意識を持つようになったのです。
ギリシア神話には、オリンポス山の山頂に住んでいると伝えられる12神が。
ピアノの鍵盤は、1オクターブはドからシまでに、白が7個と(半音の)黒の5個の合計12個の鍵盤。
アメリカ、イギリスの陪審員は12人で、これはキリストの12使徒からきていると言われています。
星座は12個、日本では干支は12ですし、日本語には「十二分」という言い方があり、これは「十分」を超えてさらに上を強調する意味合いで使用されます。
十二単衣とはたくさんの衣、ということ(実際には12枚着ていない)らしいです。
最近の若い人は「あなた何年生まれ?」とか聞くのでしょうか。
「今年は年男だ」
誰かがそう言ったら、自然と「あら、じゃぁ今年は48歳なのね!」などとわかります。
このように「12」という数字は不思議なもので、わたしたちの生活に根付いているのです。
教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。
こうして、多くの人が主へと導かれた。
それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。
二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。
このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
(使徒言行録11・19~26)
フラ・アンジェリコ『山上の説教』
「使徒たちの中で、自分は誰に近いだろう」と考えたことはありませんか?
GW中に読み返した本の一つに、12使徒をわかりやすく表現したものがありました。
(以下は、わたしの抜粋です。)
⭐︎ペトロ
漁師あがりの一番弟子
岩を意味するペトロというニックネームをイエスに付けられたが、何があっても動じない岩のような人にはなかなかなれなかった。
⭐︎アンデレ
ペトロの弟で、裏方タイプの穏健派
最初の弟子の一人だが、ずっと「ペトロの弟」で過ごした。
穏やかで控えめな男だが、アンデレとは「男らしい」という意味。
主役でないが渋い奴。
⭐︎ヤコブ
魚屋の息子で、怒りっぽいが頼りになる、スペインの守護聖人。
ヤコブとヨハネ兄弟の母はマリアの従姉妹。
怒りっぽいのでイエスは雷の子というあだ名をつけた。
イエスの死後すぐ、地中海をまたにかけて布教に飛び回ったことで、ホタテ貝がシンボル。
⭐︎ヨハネ
イエス“最愛の弟子“はのちに福音書を記す。
実家の魚屋は従業員が何人かいて、裕福な“いいとこのボン“で通っていてプライドの高い若者だった。
イエスの死後、マリアを自分の家に引き取って亡くなるまで実の息子のように世話をした。
拷問を受けても死なず、12使徒の中で殉教しなかったのはヨハネだけ。
⭐︎マタイ
嫌われ者の徴税人から出世、師の教えを書き残したペンの人。
イエスが生きている間は特に目立つ弟子ではなかったが、師の言動を注意深く見守り、記録していた。
⭐︎トマス
“復活“をなかなか信じない厭世家
復活したイエスが最初に弟子たちに現れた時も、聖母マリアが大勢の天使に迎えられて天に昇った時も、トマスはたまたまその場にいなかった。
頑なで疑り深い。
⭐︎フィリポ
優柔不断で慎重な、いちばんの古株
「パンと魚の奇跡」「最後の晩餐」でのエピソードからも、頭の固いリアリストだったことがわかる。
ギリシャ語を話すユダヤ人信徒のリーダー格となり、ギリシャを始め、スキタイ地方や小アジアなどに布教した。
⭐︎バルトロマイ
生皮を剥がれて殉教した学者肌の人格者
ヨハネ福音書のナタナエルと同一人物。フィリポによってイエスを知り、世界の果てとされていたインドにまで布教した。
⭐︎シモン
イエスの弟子になる前は、過激なユダヤ民族主義者集団である「熱心党(ゼロテ)」の一員。
⭐︎小ヤコブ
先輩使徒にスペインの守護聖人になったヤコブがいるので、区別のため「小」ヤコブと呼ぶ。
若かったからか、身体が小さかったからか。
⭐︎タダイ
ルカ福音書には「ヤコブの子ユダ」として登場する。
シモンと共に、ペルシャにまで布教する。
⭐︎ユダ
裏切り者の代名詞とされるが、弟子の中でも優れて理性的。
遠藤周作は「イエスの生前、彼の真意を理解していたのはユダだけだった」と記す。
久しぶりに読み、思い出した確信がありました。
12人はやはり、「素晴らしい人だったから選ばれた」のではない、ということ。
他の11人よりもユダの方がずっと素直で正直だったのだ、ということ。
心を騒がせるな。
神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい。
(ヨハネ14・1)
自分のことを重ねて使徒たち、弟子たちの逸話を見てみると、わたしにはトマスやフィリポのように頑なな面があり、またマタイのように人の話を注意深く書き留めるところもあり、ユダのように正直すぎるところもあり。。。
バルナバのように、聖霊と信仰に満ちたキリスト者でありたい、と思います。
パウロと激しく議論して、お互いに信念を曲げずに各々宣教に赴いたエピソード(使徒15・36〜40)は、「わたしもそうしそうだわ」と思ったり。
自分とは一体何者なのか、こうして聖書の登場人物になぞらえて考えてみるのも面白いものです。
5月の祈り
5月は聖母の月となっています。
先日、宮﨑神父様とお話ししていた時、「5月は、召命、ウクライナの平和とともに、世界中で迫害されている教会のためにも祈りたい。」とおっしゃっていました。
メディアの規制がなされている影響か、最近はあまり報道されませんが、中国では教会が破壊されるなどの信仰弾圧が起こっています。
アジアは、地球上の面積の約30%を占めています。
約46億人の人々が住んでおり、アジア全域で2,300以上の言語が話されています。
また、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、仏教、ジャイナ教、シーク教、道教、儒教など、主要な世界宗教の発祥地でもあります。
もっとも突出した宗教はイスラム教で、12億人が信仰しており、次いでヒンドゥー教が9億人となっています。
アジアに住む46億人のうち、カトリック信者は全人口の3.31%に過ぎませんが、教育、医療、社会福祉、貧しい人々や社会から疎外された人々への援助の分野で大きな貢献をしています。
(アジア司教協議会連盟 シノダリティに関するアジア大陸総会最終文書(2023年3月16日)より)
文化大革命の終わりに推定300万人いたとされる中国のプロテスタント教徒の数は、2021年の集計で1億人を超えたと言われています。
(中国政府の発表では3,800万人)。
さらに、カトリック教徒は推定1,000万~1,200万人はいるとされているそうです。
カトリック教会で掲げる聖母マリア像に代えて、習近平氏の肖像を掲げるように強制するところも現れている、と以前報道されていました。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。
一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
(使徒言行録8・1~8)
この箇所は、フランシスコ会訳聖書では『教会に対する迫害』『フィリポのサマリア宣教』というタイトルが付けられています。
当時のユダヤ人にとって、サマリアは毛嫌いしていた人々の住む地域でした。
ここでの弟子たち(フィリポたち)はヘレニスト(ギリシャ語を話す人々)を指しているので、よりプライドの高いユダヤ人たちだったであろうと想像できます。
その彼らが、サマリアでまで宣教を行ったのです。
歴史的に見ると、宗教は迫害を受けてさらに強められてきた面もあるかもしれません。
昨年来、いわゆる新興宗教の問題がクローズアップされていますが、信仰体験によって強められた信仰心は、叩かれ、禁止されることでより強まることがあるのではないでしょうか。
聖書に書いてあるとおり三日目に復活した
(1コリント15・4)
ここで大事なのは、「三日目に」ではなく「聖書に書いてあるとおり」だ、とベネディクト16世の本にありました。
「三日目に」を直接に証明する聖書の箇所はなく、神学的に意味のある日付ではないのです。
ホセア書6・1~2には「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」とあり、これが根拠だとする聖書学者もいますが、ベネディクト16世によると、この箇所は、罪を犯したイスラエルの痛悔の祈りであり、死からの復活について書かれてはいない、といいます。
十字架の後三日目の日曜日に起きた出来事が、この日に特別な意味を与えているのです。
つまり、空の墓を見つけた日であり、復活した主との初めての出会いに結び付いた日。
さらに言えば、以前ここに書いたように、「弟子たちの」「わたしたちの」復活体験を記念する日が「三日目」なのです。
当時は、ユダヤ教の安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)の掟が聖書を根拠として固く守られていましたが、それに代わるキリスト教の新しい習慣として、1世紀末には日曜日が主の日として定着しています。
空の墓の発見と復活した主との出会い、という並外れた出来事が起きた「三日目」、つまり日曜日が安息日と置き換わったのは、当時の社会にとって革命的な変化であったはずです。
教えを信じ、洗礼を受けたキリスト者は、何かしら個別の復活体験を持っています。
わたしたちは、正しい牧者に導かれ本物の門を通ることで救われた、という経験があります。
建物としての教会を壊されても、その信仰が消えるわけではありません。
聖母の月に、信仰を享受できていることへの感謝とともに、迫害を受けているキリスト者たちのためにお祈りしましょう。
力づける言葉
今週は、初夏を思わせるような陽気でした。
だれか人の役に立つ、というのは本当にうれしく、幸せを感じることが出来ます。
「必要とされること」「それに応えること」は、人間関係の構築においてとても重要な要素だと思っていて、いつも「わたしにできることがあれば」と行動するよう、心がけています。
先日お会いした方が、「人のためになること、人が喜んでくれることをすること、これがわたしのモットーです」とおっしゃっていました。
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。
あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。
それはあなたがたも知っているとおりです。
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
力が世々限りなく神にありますように、アーメン
(1ペトロ5・6~10)
わたしが大好きな聖句のひとつです。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」
思い煩ったことの無い人はいないと思います。
不安や心配事を抱えている人に、自分の経験から「神様にお任せするといいよ」と伝えてあげられるのも、わたし自身がそう言ってもらったことがあるからです。
強め、力づけ、揺らぐことのない気持ちを得ることができた経験があるから、必要としてくださる方にわたしができること、その方が望むことをすることで、また、わたし自身が強められる気がします。
わたしは常に主を思い浮かべる。
主がわたしの右におられるので、わたしは揺らぐことがない。
この故に、わたしの心は喜び、はらわたは楽しみ、わたしの身は安らかに憩う。
あなたはわたしの魂を陰府に捨て置かれず、忠実な者に墓の穴をお見せになりません。
あなたはわたしに命の道を示してくださいます。
あなたの前には溢れる喜び、あなたの右には永遠の楽しみ。
(詩編16・8〜11)
23日のミサで、この聖句が引用された使徒言行録が読まれました。
「主がわたしの右におられるので、わたしは揺らぐことがない」
強められ、力づけられる御言葉です。
宮﨑神父様がお説教でおっしゃったように、「御言葉に勇気をもらい、ご聖体をいただくことで力をいただくのがミサ」ということを、心から実感できた日曜日でした。
久留米教会にはいろいろな活動グループがありますが、そのひとつ、そして一番期待されているのが青年会の存在です。
井上つばさくん、中園ふみやくん、この2人が、新生・久留米教会青年会を率いてくれることになりました。
みんなのはじけるような笑顔、どうですか!?
そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。
彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。
使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
(使徒6・2~7)
自分にできること、自分が周囲の人から求められていること、どうすれば隣にいる人を喜ばせることができるか。
そう考えながら生きることができるのは、最高の幸せではないでしょうか。
赦されること
.
さて、ペトロとヨハネは、午後3時の祈りの時間に神殿に上っていった。
すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。
この男は、神殿に入る人々に施しを乞うために、毎日、「麗しの門」と呼ばれる神殿の門の所に置いてもらっていた。
彼はペトロとヨハネとが神殿に入ろうとするのを見て、施しを乞い求めた。
ヨハネとともにいたペトロは、彼を見つめて、「わたしたちを見なさい。わたしには銀も金もない。しかし、わたしの持っているものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
そして、彼の右手を取って立ち上がらせてやると、躍り上がって自分で立ち、歩き出した。
神を賛美しながら、二人とともに神殿に入っていった。
(使徒3・1〜8)
エルサレム神殿の門の一つです。
2000年以上まえに、このあたりに罪の赦し、身体の癒しを求めて座っていた人たちがいたのでしょうか。
支援させてもらうようになって5年になる方がいます。
数日前、その方からお電話がありました。
「選挙の期日前投票に連れて行ってもらえないでしょうか。」
5年前に、ある神父様から紹介されたとき、その方は少し体調の優れない様子でした。
次第に身体が弱り、寂しさもあり、お酒に溺れるようになってしまい、入退院を繰り返すようになりました。
この5年の間に、色々な問題、ハプニング、、、がありました。
時には、掃除に行った時や電話口で、わたしに荒々しく怒鳴ることも。
ただ、どのような時も傍らには聖書があり、口癖は「わたしはなぜ神様に生かされているのでしょうか。」でした。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。
(知恵11・24)
我ながらよく辛抱強くその方に付き合ってきたな、と思いますが、不思議と、お付き合いを止めたいと思ったことは一度もありませんでした。
その方が、数日前の電話で、こうもおっしゃったのです。
「この数年のことを、あなたに会ってゆっくり話して謝りたい。」
わたしにとってその方の存在は、冒頭に紹介した使徒言行録にある、神殿の門にいる人のようです。
神を信じ、イエス様に癒しを乞い求める日々なのです。
イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネ20・19~)
謝ってもらいたいと思ったことは一度もありませんが、その方のお気持ちがとても嬉しく、お会いした時には「これからは、もっと寄り添ってお話を聞けるようにしたいと思っている」とお伝えしたいと思っています。
福音宣教4月号の本田峰子さんの連載に、マタイの「仲間を赦さない家来のたとえ」について、こう書いてありました。
主人は、「わたしがお前を憐れんだように、お前も同僚を憐れむべきではなかったか」と家来を叱責します。
ここで主人は彼に、憐れむという語〈エレエオー〉を用いて語っています。
心情的に「憐れむ」という意味だけではなく、「憐れみで相手を助ける」という、行為を含む意味があることも大切です。
人を憐れむということは、かわいそうだと思うことではなく、助ける行為をすることなのです。
(福音宣教4月号 63ページより)
憐れみや同情の気持ちを持つだけなら、自分サイドだけの満足にとどまるものです。
冒頭のペトロのように、「わたしの持っているものをあげよう」と言えなければ、イエス様の教えを理解して生きているとはいえません。
あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)
自分が神に赦されることと、自分が他の人を赦すことは切り離せないということと同様に、これは、神の子である根本条件なのです。
人のいのち
主のご復活、おめでとうございます。
みなさまにとって、今年2023年の聖週間と御復活祭はどのようなものだったでしょうか。
聖木曜日
聖金曜日
聖土曜日
復活徹夜祭のミサでは、3名の方の洗礼式が行われました。
御復活祭
御復活祭のミサでは、4人の子どもたちの洗礼式が行われました。
坂本龍一さんが天に召されました。
所属事務所が訃報を伝えた文書に、坂本さんが好んだラテン語の一節が添えられていました。
「Ars longa,vita brevis」
(芸術は長く、人生は短し)
「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」ということわざだそうです。
わたしたちの信仰も、同じ価値観を備えています。
この世でのいのちには限りがありますが、御復活くださったイエス様の恩恵を受けるわたしたちは、絶えることのないいのちを授かっています。
宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。
「亡くなられた方々のことを思い起こす時、いつも思います。
この方は、信仰の完成として永遠のいのちに旅立たれたのだろう、と。
人生には、この世のいのちには最期がある。
しかし、わたしたちの信仰は違うのだ。復活の信仰という希望を持っているのだ。」
あなたがたは知らないのですか。
洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちはみな、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。
わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストとともに葬られたのです。
それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです。
(ローマ6・3~4)
まことに、天が地よりも高くあるように、
わたしの道はお前たちの道より、
わたしの思いはお前たちの思いより高い。
まことに、天から雨や雪が降れば、
地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、
わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずに
むなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・9〜11)
神よ、あなたの計らいは何と悟りがたく、
その数は何と多大なことか。
それを数えれば、砂よりもおびただしい。
数え終えても、あなたはわたしとともにおられる。
(詩編139・17〜18)
地上を旅するわたしたちの教会が、これからもますます強められますように。
アイデンティティ
桜と菜の花が同時に美しく咲きほこり、1年で1番日本の素晴らしさを満喫できる時期ですね。
外国からの観光客の姿をあちらこちらで多く見かけるようになりました。
私ごとですが、我が家にもニューヨークから家族と友人が滞在していました。
皆さんは、ご自分のアイデンティティを明確に意識していらっしゃいますか?
わたしは、自分が日本人であるという誇りや愛国心といったものを、あまり感じずに生きているということを思い知った日々でした。
というのも、二人の姪(父親はアメリカ人)はニューヨーク生まれのニューヨーク育ちにも関わらず、「わたしは日本人だ」という明確な意識を持っていることを知ったのです。
そして、うちに滞在していた二人の友人は、共に「わたしはユダヤ人です」と熱く語ってくれたのです。
一人は、イスラエル生まれ育ちで、父親はオランダ人、母親がユダヤ人です。
もう一人はアメリカ生まれ育ちで、父親がユダヤ人、母親はアメリカ人(カトリック教徒)です。
二人とも、ユダヤ人として教育され、ユダヤ民族であることに誇りを持っていました。
ですが、二人とも食事の規定もさほど気にせず(豚肉は食べませんが)、シナゴークに通うこともなく、安息日にも「仕事」をしていて、「わたしはユダヤ教徒ではない」というのです。
外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、また、体に施された外面的な割礼がほんとうの割礼でもありません。
ユダヤ人を真のユダヤ人とするのは、内面的なものであり、また、真の割礼は、文字によらず、霊によって心に施されるものです。
そのようなユダヤ人は、人間からではなく神から誉れを受けます。
(ローマ2・28〜29)
聖書のこの箇所を見つけ、「なぜ?!」と混乱していた気持ちがスーッと落ち着きました。
自分の在り方への確信、自負を強く抱くこと、内面的な価値観を持つことの素晴らしさを、彼ら二人から学びました。
日本では、日本人であることに誇りを持つような教育はあまり行われていないように思います。
外国人の友人たちは口を揃えて、日本の素晴らしさ、日本人のおもてなしの心地良さを褒め称えてくれます。
少なくとも、これからわたしは「キリスト者であることを誇りに思っている」ということをもっと明確に意識しよう、と心に誓いました。
わたしたちの「内なる人間」は日に日に新しくされています。
わたしたちは「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの世限りのものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(2コリント4・16〜18)
あなた方は、信仰を生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい。
それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられることを自覚していないのですか?
(2コリント13・5)
枝の主日を迎えました。
聖週間であるこれからの日々を、わたしたち一人ひとりがどのように過ごすかで、キリスト者としてのアイデンティティへの自負をさらに高めることができるでしょう。
「わたしの全て」
3月30日で叙階60周年を迎えられるジュゼッペ神父様のお祝いをしました。
いつも明るくユーモアがあり、とてもチャーミングなジュゼッペ神父様は、久留米教会の人気者です。
全身全霊の愛で、わたしたち信徒に接してくださいます。
お若い!!
40年ほど前のお写真です。
鳥栖教会にいらした時代に、イタリア語を教わっていたという信徒の方から見せていただきました。
ジュゼッペ・ピアッツィニ神父様は、26歳の時、イタリア・ミラノのドゥオモ(ミラノ大聖堂)で叙階されました。
当時のモンティーニ枢機卿(1ヶ月後に、パウロ6世となられた)の司式で一緒に100名を超す司祭が叙階され、同じミラノ外国宣教会からは21名が共に叙階されたとのこと。
その21名のうち9名の司祭が、今でもご活躍されているそうです。
花束贈呈の後、ご挨拶でこうおっしゃいました。
「これからも、わたしの全てをかけて神を信じます。」
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。
自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。
(マルコ8・34〜35)
「このことばでわたしは悟りを開きました。」
そうおっしゃっていたジュゼッペ神父様です。
教区報3月号では、こうお話されていました。
「出会う人々が笑顔になるように、その人の中に眠っている良さを引き出して周りの人々の恵みとなるように、皆が少しでも今日という日に喜びを味わいながら過ごせるように。これが、小さい頃から今に続く私のささやかな務めです。」
まだまだお元気で、久留米教会の信徒の愛を全身に受け続け、これからもご活躍くださいますように。
正してくださる神
春爛漫!花粉も黄砂も!
見ていたのに見えていなかった。
聞いていたのに聞こえていなかった。
そう気づかされる体験、ありませんか?
助けを求めるシグナルを、分かっていたはずなのに理解してあげることができていなかった。
話しを聞いてほしいという気持ちを、知っていたはずなのに足が向かないままだった。
最近、そう気づかされた出来事があり、気持ちが落ち着かない日々を過ごしました。
自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。
(ルカ18・9~)
そうした思いは無い、と断言できないかもしれない。
もしかすると、わたしは自惚れがすぎたかも。
人を見下した態度をとっていたのかも。
今週は、こういう思いが断ち切れずに、気分が上がらない日々を過ごしました。
主はサムエルに言われた。
「容姿や背丈にとらわれるな。わたしはその者を退けた。
人間が見るようには見ないのだ。
人間は外観を見るが、主は心を見る。」
(サムエル上16・6~7)
確かに、わたしは、人を外観で捉えていることがある。
わたしのことを内面で評価してもらえるように望むのなら、相手のことを判断するときに心をよく見るようにしなければ。
毎日、たくさんのことを考えています。
少し考えすぎているくらい、最近はいろいろなことを思い巡らせています。
そして、立ち止まって聖書を開くのです。
19日のミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。
「四旬節は、自分の在り方を見つめ直す時です。
自分の弱い面を反省し、克服する機会にしてください。」
生活しながら、日々を生きていく中で、ちょっとずつ前に進んでいきたいと思います。
主よ、わたしは知っています。
人間は自分の道を選ぶ者ではなく、
歩む者が自分の足取りを定めるのではないことを。
わたしを正してください、ただ、あなたの怒りによらず、公正によって。
さもなければ、わたしは無に帰してしまうでしょう。
(エレミヤ10・23〜24)
今週も、思い煩いを神様に問いかけて、明け渡し、自分にできることを実行し、一歩前に進むことができた気がします。
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アメリカ・フィラデルフィアの『聖ペテロと聖パウロの大聖堂』という名前のカテドラルを訪れた際に撮影した写真です。
世界中のカトリック教会には、こうした貴重な美術品や文化財が数多くあります。
とても気になるニュースがありました。
教皇庁は、バチカン美術館に2世紀にわたり保管されてきたパルテノン神殿の断片をギリシャ側へ返還することを決意したと発表しました。
近年、文化財返還の問題がクローズアップされていることが気になっていましたので、このニュースは驚きでした。
報道では「返還」、バチカンサイドは「寄贈」、という両方の表現がニュースに混在していました。
戦争中に略奪されたり、(正当に)購入したと主張されている美術品や文化財を元の国へ返還すべきだとの機運が、ここ数年で高まってきています。
ニューヨークのメトロポリタン美術館、パリのルーブル美術館で、古代エジプト・アジアの美術品を見て、確かに「なぜこんなにたくさん、なぜここに?」と思ったことを思い返しました。
ロシアのエルミタージュ美術館に行ったときに、ガイドの方が「地下の保管庫には、山積みになったままの美術品がまだまだたくさんあります。」というようなことをおっしゃっていたことを思い出しました。
ルカ20・20の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」が心に浮かびます。
これはわたしのものだ。
これは我が国の領土・領海である。
人間の歴史は、現在に至るまでいつもこの主張の繰り返しです。
パンダのように、対価を払って期間限定で借りることが合理的で分かり易く思えます。
今、世界中に散らばっている美術品・文化財を元の国に戻すことがスタンダードになれば、混乱、反発、主張、争い、、、が世界にはびこってしまうような気がします。
みなさまは、とう思われますか?
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バチカン美術館からギリシャへの返還について
https://news.yahoo.co.jp/articles/d32704b6969176f899b79ca3b205faf50e9d2a2b
文化財返還問題について
https://www.cnn.co.jp/style/arts/35148855.html
https://www.theheadline.jp/articles/772
真の「主の平和」
12日のミサでは、ご復活祭に洗礼を受ける2名の方の洗礼志願式が行われました。
大人になってから自分の意思で勉強し、受洗を決められたお二人は、今どのような心境でしょうか。
わたしは20歳の時に受洗しましたが、今でもあの時の清々しい気持ちは忘れることがありません。
あれから32年、母が亡くなって12年。
わたしにとっては、この日々は長い長い年月でした。
東日本大震災から12年、コロナの蔓延から3年、ロシアのウクライナ侵攻から1年、トルコ・シリアの地震から1か月。
被災された方がインタビューで「あっという間の12年でした。」と仰っていました。
「もう12年も経ったのか、、、」と感じていらっしゃる方もおられるでしょう。
強い向かい風の中を前進し続けているような、わたしには想像もつかないほどの辛い苦しみの中を生きている人が世界中にいるのだと思うと、胸が締め付けられます。
12年前の5月に、宮城県の亘理町にボランティアに行きました。
一緒に行った友人から「今、追悼式に出てきました。」と3/11の午後、連絡がありました。
海沿いに新しい家が立ち並び、公園もいくつも整備され、見違えるような町になっていた、と知らせてくれました。
ハード面の復興はかなり進んでいるようです。
災害や戦争で被害に遭う方々にとって、それよりも大切なのは心の復興だ、とよく言われるのを耳にします。
9歳の時に被災した佐々木朗希投手がWBCで活躍する姿は、きっと故郷の陸前高田市を始め、被災地の多くの方々にとって心の励みになったのではないでしょうか。
毎年この時期になると考えるのは、神義論についてです。
2021年の一年間、福音宣教において連載された、本多峰子さんの神義論について考察を読み返してみました。
一般的に知られている考え方は、いわゆるアウグスティヌス神義論であり、それは、「悪はそれ自体が存在するのではなく、善の欠乏である。神は人間に自由意思を与え、人間がそれを乱用した結果が悪である。」というものです。
一方で、本多さんが紹介されたプロセス神学の考え方では、「この世になぜ悪があるのかと神の責任を問うのではなく、この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って苦しんでくださっていると考え、そこに大きな意味をみる。」というものだそうです。
カトリックの教義とは相容れない部分が多いプロセス神学ですが、この考え方は頭に入れておきたいと思います。
◆神がわたしたちの苦しみをすべて分かち合ってくれているという確信
◆なぜこの世に悪があるのかだけを考えるのではなく、神はともに苦しんでくださり、善に導こうとしてくださっている。
さらに、本多さんの連載のなかで、わたしなりにこれが結論だと感じたのは、次のような記述でした。
イエスは、「なぜ全能の神が造ったこの世に悪があるのか」「なぜ私たち人間はこのように苦しまなければならないのか」というような問いは、ご自身も問わず、答えもなさっていません。
けれども、そのような問いの答えを模索するより前に、苦しんでいる人たちを救うことに力を尽くしてくださっています。
私たちは、悪のない世界を実現する力を与えられ、そうすることを求められている---これがイエス様の示してくださった悪の問題への答えではないでしょうか。
『You Raise Me Up』という曲の歌詞です。
気持ちが沈んで、心も疲れ果てた時
困難に見舞われ、心に重荷を負った時
わたしは静かに、静寂の中で待つ
あなたが隣に来て一緒に座ってくれるまで
あなたがわたしを力づけてくれる
だから、高い山にも登れる
あなたがわたしを力づけてくれる
だから、嵐の海も歩ける
あなたの肩に身を預けることで
わたしは強められる
あなたがわたしを強め
今以上の自分になれる
「主の平和」「シャローム」とわたしたちは口にしますが、これは、精神的な心の平安だけではなく、心身共に満たされた状態を意味するものです。
旧約聖書には、シャロームに相応する箇所が「元気」「喜び」「繁栄」などの表現で表されています。
災害や戦争で避難生活をされている方々は、寝る場所と温かい食事があっても、精神的には落ち着かない日々を過ごされています。
ミサの際に「主の平和」と挨拶する時、前後左右の方のことではなく、四旬節の間だけでもこうした方々の真の平和のために祈りたいと思います。
心を尽くす
イタリアの画家、ガエターノ・プレヴィアーティの作品をインスタグラムで見て、とても惹きつけられました。
四旬節の間、彼の作品である十字架の道行きの連作が、サンピエトロ寺院で特別に展示されているそうです。
イエス様、(おそらく)マリア様の表情が、わたしたちに語りかけてくるような気がします。
悲壮感というよりも、イエス様の強い意志のようなものを感じます。
こちらは、『ゆりの聖母』というタイトルの作品です。
同じ画家の作品ですが、先ほどの絵とは対照的に、幸せな母子のあたたかな雰囲気が伝わってきます。
マリア様が母親として、全身全霊で愛を注いで育てる覚悟をされていたのだろう、と想像します。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(申命記6・5)
今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。
あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。
(申命記26・16)
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。
(ルカ10・27)
ルカもマルコも、ユダヤ教の伝統で最も重要な戒めであるこの掟を引用しています。
福音宣教3月号の本多峰子さんの記事に、この箇所についての解説がありました。
福音記者が、申命記の「心、魂、力」を「心、精神、力、思い」の4つに増やしたというよりも、ヘブライ語の「心」をより分かり易くギリシャ語にした際に2つに分かれたのだ、ということです。
本来の意味では、ものを感じ取ったりする「心」だけでなく、「意志」「意図」といった意味も含まれている。
「魂」は、「息」の意味もあり、命そのものをも表す。
「力」は、富や資力なども含めた個人の持つあらゆる力を意味する。
つまり、心の中に分裂なく、命を尽くして、資力を尽くして、恐れからではなく愛から、全身全霊で神の律法を守りなさい、という掟なのです。
改めて、ユダヤ教の教えの深さ、厳しさを痛感します。
毎日毎日「心、魂、力」を尽くすことは難しいですが、「志を持ち」「心をこめて」「できる限り」生きるように、とは意識しているつもりです。
人付き合い、家族との生活、仕事への姿勢も、つまるところは「心、魂、力」をどれだけ注ぐかではないでしょうか。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」とは、まさに的を得た言葉です。
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
(レビ記19・18)
神を愛する以前に、まずはこちらの方が大事だと思うのです。
家族や周囲の人へ「志を持ち」「心をこめて」「できる限り」愛を持って接することができなければ、神様を全身全霊で心を尽くして愛することはできないでしょう。
わたしの掟と定めを守れ、人はそれを行うことによって生きる。
(レビ記18・5)
それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。
(ルカ10・28)
「行いが伴わない信仰になってはいないか」日々を振り返り、自分の行いを振り返り、明日をより良く生きたいものです。
と、ここまで書いたところで、日曜日のごミサに行きました。
ミサ後、聖堂では、左側に十字架の道行をする日曜学校の子どもたち、真ん中には女性の会の皆さんの分かち合い、右側には新しい聖歌の練習をする方々の姿が。
さらには、信徒会館では手話の勉強会が行われていました。
皆さんの心を尽くした信仰の姿に触れることができた、小春日和の素敵な日曜日でした。